昼間は暑かったけど、まだ五月、日が沈めばずいぶん涼しくなる。ちょうど夕暮れ時で、商店街の向こう側の空がぼんやり赤く、長くのびる影も闇に溶け込みはじめている。
わたしが来てから初めての外での食事。前を歩く詩織さんがいきなりくるりと振り返った。

「ねえヒトエちゃん。こういう夕暮れの時間を、なんて呼ぶか知ってる?」

もちろん知ってる。由来は高校の古文で習った覚えがある。薄暗くなって人の顔が見分けがつかなくなって『誰ぞ彼』、と会いたい相手を探すからだったはず。

「たそがれどき、ですよね」

「そう。でも、もうひとつの呼び方、知ってるかしら」

「え・・・?」

「逢魔時(おうまがとき)って言うのよ。夜は、妖の時間なの」

それっきり、詩織さんは再び前を向いて歩いていってしまう。その歩みは思ったよりも速くて、私は慌てて後を追いかけた。そうしないと、晩御飯を食べそびれちゃうから。

「いらっしゃい、おや、詩織ちゃん暫らくぶりだねえ」

商店街の駅寄りにある、古い造りの小料理屋さん。昼間、買い物の時に何度も前を通ったことはあったけど、夜しかやっていないみたい。店内は狭いけど、お客さんは大勢入っている。居酒屋みたいなうるさい感じはしないけど、すごく暖かく、落ち着いた雰囲気のお店だ。
美味しそうな料理の匂いに、まず真っ先にわたしのお腹がグゥと鳴った。
お店の主人らしい、声をかけてきた人の良さそうなおじさんがそれに気付いて、声を立てて笑って、わたしたちをカウンターの二人分空いている席に案内した。

「ハハハッ、お嬢ちゃんハラペコか!よしちょっと待っててな!」

目の前に次々に料理が並ぶ。肉じゃがの小鉢、ふろふき大根、ゴボウとレンコンとニンジンの煮物・・・見た目は地味だけど、すごくいい匂い。いつもの夕食のときのように詩織さんと二人で声をあわせて「いただきます」の後、早速箸をつける。口の中で、じんわりと味が広がる。材料もいいのかも知れないけど、気を使って、とてもていねいに作ったんだ、というのがわかる。うす味なのに、ぜんぜん飽きない。

にこにこ笑いながらわたしを見ているおじさんの視線に気付いた。そんなに夢中で食べてたかな。

「すごく美味しいです。いくらでも食べれちゃいます」

「そりゃ良かった。まあ昼やってないぶん、仕込む時間だけはあるからなあ」

かんたんに言うけど、時間だけじゃなくて手間もいっぱいかかってるはず。詩織さんは、と見ると普段はお酒飲まないのに、お燗をつけたお銚子を頼んでいる。わたしの視線に気付いたのか、目の前にお猪口をトン、と置いた。

「ヒトエちゃんも、飲んでみる?」

専門学校時代(その時は未成年だったけど)に何度か飲み会はあったけど、お酒、特に日本酒は好きじゃなかった。でも、とても美味しそうに飲んでいる詩織さんを見て、わたしも飲んでみたい、という気持ちになっていた。

「いただきます」

お猪口をもって、詩織さんに注いでもらう。わたしもお返しで注ぐ。

「わあ、美味しい・・・」

お猪口を唇につけた瞬間に、するりと口の中に入ってくるような感覚。舌の上を通ったお酒は、素敵な香りを残して、いつの間にか消えてしまった。飲み込む、という感覚がなかったけど、お腹やノドがほんのり熱くなってきた。

ゆっくりと、お店の中を見回す。おじさん、おばさんがほとんどだけど、みんな本当にいい顔でお酒や料理を楽しんで、話をし、笑っている。素敵なお店だな、と素直に感じた。そのとき、ガラリと扉が開いて、大柄な男の人が入ってきた。

「あらあ、ガンさん」

「こんばんは、ガンさん」

詩織さんを見つけて嬉しそうな顔をした後、わたしに気付いて顔をしかめる、という分かり易い反応をして、ガンさんはカウンターに近寄ってきた。詩織さんの隣は他のお客さんがいたので、仕方なさそうにわたしの横にドカっと腰をかける。

「コーちゃん、今日はどうする?」

「ビールと、あとなんか適当に」

カウンター越しにおじさんとの短いやり取りのあと、ガンさんはこちらを向いて話しかけてきた。

「よぅ、珍しいじゃねえか。詩織がここ来るなんて」

詩織さんはそれには答えず、にっこり笑ってわたしに目で合図を送ってきた。わたしはなんとなく意味がわかって、カウンターに置かれた冷えたビール瓶を取って、ガンさんに注いであげる。

「お疲れ様です、どうぞ」

「おうなんだ、気が利くじゃねえか」

ぐっと一息でコップが空になったので、再び注いで。そこで詩織さんが口を開いた。

「きのうの晩、杉本さんのところのお仕事が終わったのよ。それでちょっと、ね。たまにはいいでしょ」

「悪いなんて言ってねえさ」

たぶんこのお店の常連のガンさんは、もっと詩織さんに来てもらいたいんだろうな、と思った。またビールを注ぎながら、わたしも話しかける。

「ガンさん、わたし、そのお仕事お手伝いしたんですよ」

「へっ?」

「本業のほうですよ」

「ほう。んで、ウラの看板も見ちまって、このままあの店に居続ける覚悟あるのか?」

急に、厳しい感じの声。わたしは、少し考えてから答えた。

「表も裏もないと思います。お客さんに喜んでもらう、ってことには変わりないですから・・・悩んで暗い顔をしていたら、どんな服を作っても似合わないと思うし」

ガンさんの目をしっかり見ながら、わたしは続けた。

「まだまだわからないこともいっぱいあるけど、詩織さんのお手伝い、もっとしていこうと思います」

その時どすん、と頭の上に何か重いものが落ちてきたのを感じた。それは、ガンさんの大きな手だった。本人からすれば頭に手を置いた、というつもりかも知れなかったけど、目の前に一瞬星が見えたぐらいびっくりした。

「まあ、足手まといにならんように頑張れや」

乱暴な言い方だったけど、励ましてくれてるのがわかって嬉しかった。詩織さんの方を振り返ると、お酒を飲みながらわたしたちのやり取りをずっと見ていたみたい。にこにこ笑って、すごく嬉しそうで、そんな笑顔を見ていると、私もなんだかもっと嬉しくなってきてしまった。
突然、詩織さんがわたしに抱きついてきたのでまたびっくり。

「ヒトエちゃーん」

「わっ、ちょっと、なんですか急に」

「ホント良かったわあ、ヒトエちゃんがお店に来てくれて・・・」

背後でガンさんがビールを噴き出してむせているのがわかった。周りのお客さんたちにも笑われてわたしは恥ずかしくて真っ赤になってしまった。
詩織さんはと言うと、わたしを抱きしめたまま同じ言葉を繰り返している。

「詩織さん、酔ってます?」

(つづく)