道端にじっと立ち尽くし、俯いている男が一人。何をしているのかと思い近づいてみると、どうやら蝉の死骸を観察しているらしい。アスファルトで舗装されているというのに、どこからか行列を成した蟻たちにたかられている。
否、蝉はまだ死んではおらず、しかし既に羽ばたく力ほども残らず、ひっくり返ってその脚で宙をゆっくりと掻いているのだった。
蟻たちはその動きをものともせず、目の前の-彼らにとっては-巨大な”獲物”を巣に持ち帰るために働き続ける。
蟻はよく働き者と喩えられるが、その実巣の中の三割ほどしか実際には働いておらず、こういった行列の中にも、ただうろうろと往復するだけの者もいると聞いたことがある。さて、それは誰に聞いたのだったか。

「蝉はいいですね」

思わず足を止めてしまっていた私に対し、不意に目の前の男が声をかけてきた。そこではじめて、その男が私の大学時代の恩師であることがわかった。

「-先生-」

経済学の教授であったが、一風変わった人物で、昆虫採集をして標本を作るのがライフワークであると明言して憚らず、知識も専門家顔負けであった。研究室でも経済よりも虫の話をしていることが多かったほどである。そうか、『蟻の三割』の話は、この教授から聞いたのだった。彼は、私のことを教え子だと認識していない様子であったが、蝉に関する講釈を続けた。相変わらずの語り口が懐かしかった。

「蝉、特に雄の胴体はほとんど空洞です。鳴き声をできるだけ反響させ、大きく聞かせるためにそう進化したんです」

「そのほうが、交配して子孫を残せる可能性が高いからですよね」

「自分の存在に気付いて欲しい、ちっぽけな虫がただそれだけのために手に入れた力です」

「・・・」

「僕はね、蝉のこの潔さが好きなんですよ。成虫になって、ごく短い地上での時間を、ひたすら生殖のためだけに使う。蟻なんかみたいにややこしくないですしね」

「十七年も地中にいる蝉というのは、本当にいるんですか?」

「米国に、何種類かいますね。バラバラに十七年ずつ、ではなく、十七年ごとに一斉に羽化して大発生するのだそうです」

「それも、繁殖の効率なのでしょうか」

「そうかもしれません。それに、面白いことに、全く同種なのに、十三年というグループもあるのです。お互いが同時に発生してしまうのは」

私は、頭の中で素早く計算した。教授は経済学が専門なのに、暗算が苦手だった。

「二百二十一年に一回、になりますね」

それぞれが素数なのだから、最小公倍数はただ掛け合わせればよいだけだ。彼は頷いて続ける。

「うん、さぞかし、その年は煩いことでしょうね」

そして、再び視線を足元の死にゆく蝉に向ける。

「あまりいい趣味じゃないかも知れないけど、僕はこうして死んでゆく蝉を見るのも好きです。がらんどうの胴体を、こうして道に晒して。この個体は雄だけど、彼は目的を達成できたのでしょうか」

「さあ・・・」

要するに雌と交配できたかということだろうけど、わかるわけがない。

「道路の真ん中で、車に轢かれて潰れている蝉もいます。そういうのも含めて、僕は彼らをすごく近しい存在に感じるのです」

「だから先生は、車に轢かれて亡くなられたのですか?」

そのとき眼下の蝉が、ジュワ、と小さな声を上げた。
(おわり)