翌朝。ここに来てはじめて寝坊をしてしまった。長い夢を見ていたような、昨夜の出来事の記憶があいまいなまま着替える。絹の長襦袢はすっかりしわが出来てしまって、しかも寝汗をたっぷり吸っている。これは専用の業者さんとかに任せて洗ってもらわないとダメかな。軽くたたんでそれを持って廊下に出ると、ちょうど詩織さんも起きてきたところだった。

「あら、ヒトエちゃん、おはよう。今日はおねぼうさんね」

「おはようございます。すみません、それと、長襦袢着たまま寝てしまって・・・」

と、そこで気がついたけど、詩織さんも長襦袢を着たまま。着崩れを通り越して中の肌襦袢ごと今にも肩がはだけそうなほどになっている。女同士なのに、なんとなく赤面してしまう。

「大丈夫よ。商店街によくしてもらってる呉服屋さんあるから後で出しちゃうわ」

着物についての心配はなくなったけど、昨夜のことをだんだん思い出してきて、だけどそのことを詩織さんに聞くにはわたしの頭はまだまだ整理がついていなかった。

「と、とりあえず急いで朝食の支度しますね」

ご飯は炊いていると時間がかかりそうなので、お粥にしてみた。コンブでだしをとって、きざんだ梅を入れて。病人向けじゃないから、硬めに、焦がさないように土鍋でたくさん作ってみたら、詩織さんは美味しそうに三杯もおかわりした。
わたしも同じぐらい食べちゃったけど。

いつもよりだいぶ遅く、朝昼兼用ということになったけど、これは午後お腹すきそうだな。急いでお店の中や外の掃除をして、なんとかいつもと同じ時間に開店することができた。

詩織さんが呉服屋さんに出かけている間に店番をしていると、高峰さんという常連の奥さんが入ってきた。そういえば、昨夜のお客さんは彼女に紹介されたと言っていた気がする。
高峰さんは詩織さんがいないのがわかるとがっかりした様子だったけど、待っている間の退屈しのぎにとわたし相手におしゃべりを始めた。

「杉本さんとこの奥さんと娘さん、昨日来たでしょ?」

「は、はい、いらっしゃいました」

そう、昨夜のお客さんは杉本さんといった。あの出来事については、自分でも信じられない体験だったし、他人に話していいようなことでもない気がして、わたしはあいづちをうつだけにしておいた。だけど、高峰さんは訳知り顔で、

「杉本さんねえ、娘さんの万引きのことでずいぶん悩んでたみたいだったから、アタシが詩織ちゃんに相談したのよ」

「え、そうだったんですか!」

「杉本さんには、ドレスの注文をここにしてみたら、と言っただけだけどね。詩織ちゃんには前もって万引きのことも言っておいたわけ」

どうやら、ただの話好きの奥さま、というわけじゃないみたい。そして、わたしがどうやら蚊帳の外にいたということもわかった。

「杉本さん、娘さんのほうも今朝はいい顔してたわよ。どうやらうまくいったみたいね」

彼女は、どこまで知っているのだろうか。わからないまま、あいまいに頷いた。

「詩織ちゃんのカウンセリングは一流だわね」

「カウンセリング、ですか?」

確かに、昨夜の後半はカウンセリングみたいだったかも。実際のカウンセリングってどんなのか知らないけど。そのとき、詩織さんがお店に帰ってきた。

「あら、高峰さま、いらっしゃいませ。この度はご紹介ありがとうございました」

にっこり笑って頭を下げる詩織さんに、高峰さんは大声で、

「またひとり、詩織ちゃんのファンがふえちゃったわね!」

と楽しそうに笑った。

今日はお客さんが多く、結局日中は昨夜のことを聞くチャンスがなかった。閉店後掃除や片付けをしながら、やっと詩織さんに質問することができた。

「高峰さんは、カウンセリングだって言ってましたけど、あれは結局なんだったんでしょう」

「いきなり答えにくい質問だわね。そうねえ、ヒトエちゃんは祈祷師って知ってるかしら。『拝み屋』、なんていうこともあるわね」

質問を質問で返されてしまった。拝み屋というのはおばあちゃんから前に聞いたことがあったかも。なにかにとり憑かれている症状を呪文?を唱えたりして治す人だったように思う。

「なんか幽霊とか狐憑きとかそういうのを治す人でしょうか」

「幽霊とか狐とか、それをウチでは妖(あやかし)と呼んでいるわ。ウチのもうひとつの顔が、ヒトエちゃん、あなたが昨夜に見た看板なのよ」

「じゃあ、やっぱり、昨夜の、杉本さんはその、妖にとり憑かれていたんですか?」

ちょっと前のわたしなら、その手のオカルト話は笑ってはじめから信じなかったにちがいない。でも、昨夜のあれは確かに、自分の目で見て、経験したことだ。詩織さんは、そんなわたしのほうを見ておかしそうに笑った。

「呼び方がちがうだけよ。たぶん、お医者さんならまた別の病名をつけるでしょうね。それで、お薬なんかの力も使って治す方法も今ならあるわ」

「でも、じっさいに、何か黒いものが」

「そうねえ、ヒトエちゃんにはそれが見えたわね。でもそれは何も特別なことじゃないのよ」

・・・特別なのかも、とちょっと期待しはじめちゃってるところに釘をさされた。

「目がいいひと、味覚がするどい人、いろんな人がいるわよね」

「食べただけで材料当てたり」

「そうね。あと、人の仕草や表情から気持ちを察するのがうまい人もいるわ。ヒトエちゃんも、そういう力があるのよ」

詩織さんは、ここでピンと背筋を伸ばして、ちょっと厳しい顔になった。

「昔の人は、そういう力のことを『見鬼(けんき)』といったの。これも妖の一種ってことね」

「見鬼・・・」

「見鬼の中には、人の気持ちを読むことを利用して、自分の都合のいいように相手を説得したり、騙したりする人もいるわ」

「・・・」

「昨日の昼のヒトエちゃんみたいにね」

「わたし、そんなつもりは」

「誰にでも、心の闇はあるの。それが、ヒトエちゃんみたいにいい子でもね」

「いい子なんかじゃないです・・・」

わたしは思わずうつむいた。

「素直でいい子よ。でも、世の中には、心の闇を素直に外に出せず、溜め込んじゃう人がいるわよね」

「それも妖・・・?」

「杉本さんも、お嬢さんもそうだったから、それを祓(はら)ったの。だからその後は普通にお話ができるようになったでしょ?」

わたしは顔を上げ、うんうんと頷いた。だんだん、昨夜のことがわかってきた気がする。

「妖を祓う方法を、昔の人はたくさん考えたのね。私がやってるのも、その組み合わせなの。服装や道具は意味があるといえばあるし」

「ないといえば、ない?」

詩織さんは満足げににっこり笑って頷いた。

「特別な儀式で、悪いものが身体から出て行って、それが退治された、と思わせればよかったんですね?」

「まあ、そんなところよね。これが妖の字の『真額妖裁堂』の本業というわけ。わかったかしら」

黒い渦を針で突いたときに感じた手応えとか、まだまだ納得いかない部分もあるにはあった。でも、なにより普段自分のことはほとんど喋らない詩織さんがたくさんお話をしてくれたのがうれしかった。
ブティックの店員、というあこがれからなんだか方向が違ってきたような気がするけど、それでもわたしは詩織さんとこの店のことがもっと好きになっていた。

「なんだかおなかすいたわね。ヒトエちゃん、今日は外食しちゃいましょうか」

(つづく)