あの後、詩織さんはすぐに店を閉め、わたしに片付けを言いつけると、ひとり作業室にこもって何かを始めた。いつもよりずいぶん早めの夕食、お風呂。わたしが後から入ろうとして浴槽に手を入れてみたら心臓が止まりそうなほどびっくり。水風呂だった。

「し、詩織さん!」

風呂場の外に気配を感じたので、わたしは大声で叫んだ。

「井戸からくみ上げた、沸かしてないお水よ。それで頭を冷やしなさいな」

そう言われてしまっては仕方ない。諦めて何度か冷水を頭からかぶり、バスタブの中に体を沈める。一度入ってしまえばなんとかなるものだけど、それでもやっぱり冷たくて、身体の芯まで痛くなるような感覚。ふしぎなもので、夕方まであれこれ悩んでいたこと、詩織さんに言われて納得がいかずにモヤモヤしてたことがだんだん薄れ、頭の奥がスッキリとしてきた。
ずいぶん長い時間に感じたけど、実際には数分だったみたい。水風呂から上がって脱衣所で身体を拭いて着替えようとしたら、そこには見慣れない服が置かれていた。外から詩織さんの声がする。

「今夜はそれを着て頂戴」

わけがわからないまま、その服を手にとって見ると、それは和服、というより長襦袢。着物の下の下着として着るようなもの。手触りからして高級な絹のようで、色は純白。じっくり眺めてみたいけど、とにかく一緒に置かれていた綿製らしい肌襦袢から袖を通し、蹴出し(腰から足にかけて巻きつける下着)を巻いて形を整えた。去年、成人式の前に自分で着付けが出来るように覚えよう、と意気込んでおばあちゃんに教わったのがこんなところで役に立つとは思わなかったけど。
長襦袢を羽織ってこれまた真っ白な伊達締めで窮屈じゃない程度に締める。うん、これなら大丈夫。

洗面台の鏡に映った自分の姿は、馬子にも衣装、と言うべきかはっとするほど綺麗に見えたけど、なんとなく浮世離れした、まるで死に装束。

脱衣所から出て台所に入ると、わたしと同じ格好をした詩織さんが待っていた。わたしの姿をみると少し顔をほころばせた。

「ひとりでも上手く着れてるじゃない」

「おばあちゃんに教わりましたから」

それにしても詩織さんは洋服のときも素敵だけど、この真っ白な装いも凛として綺麗。思わず見とれてしまった。
そのとき、お店の扉の鐘が鳴った。ハッとして台所の時計をみると、九時十分前。

「ヒトエちゃんがお風呂に入ってる間に、またお店開けておいたのよ」

「昼間の、お客さんでしょうか」

「それと、もう一人、いるはずよ」

詩織さんには何もかもわかってるのだろうけど、わたしにはさっぱりわけがわからない。そもそもこの格好の意味も。井戸水で身を清め、白装束。これから何が起こるんだろう。

二人でお店のほうに出向くと、落ち着かない様子で立っている二人の女性がいた。ひとりは昼にわたしが対応した気弱なイメージのする婦人、もう一人はわたしと同じぐらいの年齢の女の子。顔立ちから、娘なんだろうと思えたけど、雰囲気がまるで違う。ラフな格好で、髪の毛も染めている。ふて腐れたような表情でそっぽを向き、ガムを噛んでいる。

「いらっしゃいませ、またのお越し、ありがとうございます」

「申し訳ありません、これを、娘が・・・」

そう言って婦人が手に持っていた紙袋を差し出す。どうやら話が見えてきた。詩織さんに目で促されてそれを受け取り、中身を見てみると、予想通りワンピースやスカート、これがお店から万引きされたという品にちがいない。

「それでは、お二人とも、奥のほうにお上がり下さい」

そのことについて責めるようなことを言うでもなく、さも当然の流れのように、詩織さんはその母娘を店の奥、本来ならお客さんは入れない作業場の部屋へと案内する。
わたしは、最後についていく形になり、自然と娘のほうの後ろを歩くことになった。

「盗ったの返したじゃん。これ以上何をさせようってのさあ」

詩織さんの静かな迫力には逆らえないらしく、同年代の私に向かって汚い、あるいみ今どきの女の子らしい口調で話しかけてきた。わたしも答えようがなく、素っ気無く、

「行けばわかります。わたしはまだ見習いですので」

と答えた。彼女は改めてわたしの格好をじろじろと見て、

「けっ、だせえカッコ」

と肩をすくめた。ふしぎと、腹は立たなかった。なんとなく、彼女の周囲に薄黒いもやのようなものが見え始めていた。昼間、彼女の母親に対して感じたのと似たような。いよいよこれは気のせいではなく、何かとても大事なことなのだとわたしの直感が告げていた。

作業場はいつもは製作中の衣服や型紙が散乱してるところが、綺麗に片付けられていた。かわりに奇妙な模様の入ったついたてが立ち、その前にロウソクが並んでいた。板の間の床には籐で編んだ丸い座布団が4つ。ついたてを背に詩織さんが座り、向かい合うような形で母娘、それを横から立ち会うような形でわたしが座ることになった。正直、正座は苦手で長時間だったらきついなあ、と思ってしまったけど、目の前の娘のほうがもっと苦手そうで、はやくも俯いて歯を食いしばっているそぶりが見える。それなのに大人しく正座している姿が奇妙だった。

部屋の明かりはロウソクの頼りない火だけ。数が多いのでそれなりには明るい。

突然、空気がピーンと張りつめるのを感じた。詩織さんの口からふしぎな言葉が漏れ始める。

-ひふみよいむなやこともちろらねしきるー

最初の部分は、一、二、三、という数え歌みたい。あとはわからないけど、聞いているとなんだか頭の奥が揺さぶられるような感じがする。

-ゆゐつわぬそをたはく-

目の錯覚なんかじゃない。今まで母娘の身体の周りをとりまいていた黒っぽいものが、するすると湯気のように立ち上り、二人の頭上でぐるぐると渦を巻き始めた。

-めかうおゑにさりへてのますー

母娘は気絶してしまったかのように正座したままうずくまってしまった。ふたつの黒い渦はいよいよ激しさを増し。

ーあせえ、ほーれーけーんッ!-

最後を力強く締めくくると、詩織さんは脇に置いてあった長い白木の箱を開け、そこから、裁ちばさみを取り出した。一メートルはありそうな、あり得ない大きさだったけど、それは確かにふだん使い慣れた道具と同じ形をしていた。
詩織さんはそれを両手に抱え、

「はっ!」

シャキン、と心地よい音を立てて、母娘の体と黒い渦の間の空間を裁ち切った。そのとたん、ふたつの黒い渦は糸の切れた凧のようにふらふらと動き始める。

「ヒトエちゃんっ!」

反射的に詩織さんのほうに顔を向けると、わたしの方に向かって何かを投げてよこすところだった。慌てて手を伸ばし、受け取る。それははさみと同じく、あまりに長く、太い縫い針だった。詩織さんも同じものを手にしている。

「ヒトエちゃん、見えてるわよね・・・・・・・?ひとつは、任せるわ!」

わけがわからない。現実離れしたことがいっぺんに起きすぎた。でも、自然と身体は動いた。詩織さんの見よう見まねながら、黒い渦を針で突き、水あめをからめ取るように回す。はじめは暴れるような手応えがあったけど、だんだんそれが静まってきて。
最後は、ついたてに針ごと打ち込んで、ようやく手を放した。嫌な汗を背中にびっしりかいていた。

突然、眩しいほどに明るくなった。詩織さんが、部屋の電気を点けたんだ。

目の前の二人が、身体を起こした。文字通りというべきなのか、憑き物が落ちたような、穏やかな顔をしているのが印象的だった。

ついたてに刺さった巨大な二本の針が、さっきまでの出来事が夢ではないことを物語っているけど、黒い渦はどこにも見当たらない。

改めて向かい合って座り、わたしがお茶を入れてくると、二人はまず揃って頭を下げ、

「ほんとにすみませんでした」

と謝罪の言葉を口にした。その後、ぽつりぽつりとそれぞれが抱えていた悩みのようなものを語り始めた。家庭内の不和、受験のストレス、ひとつひとつは良くある話のように思えた。詩織さんはそれを穏やかな顔で頷きながら聞いていた。娘が万引きしてしまったらしいことを知り、それを隠したまま、罪滅ぼしのつもりでドレスの注文をしに来たこと。そして家庭を顧みない夫の会社の式典に出席するのは本当に気が重いこと、などなど。

いつの間にか夜も更けていたらしい。気がつけば、日付が変わろうとしていた。

今ではすっかり晴れやかな顔になった母娘は、改めて深々と頭を下げて長居を詫び、帰宅することになった。呼んだタクシーを待っている間に、詩織さんがいつもの調子で、

「あらあ、お客様、採寸を忘れておりましたわ。昼は不手際がございまして、正しい寸法がとれなかったものですから」

と言ったものだから、私もやっと昼間のやりとりを思い出した。わたしが測った寸法はデタラメだ、というのがなぜだったのか。詩織さんは、夜になればわかると言っていた。これから、正しい採寸の仕方を見せてくれるのだろう、とわたしは思った。ところが。

「お客様、よろしければ、こちらの者にもう一度採寸をさせて頂きたいのです」

予想外の言葉に、お客さんとわたしは思わず顔を見合わせた。詩織さんはいたずらっぽく笑って、

「大丈夫よヒトエちゃん。昼間みたいに好きなようにやればいいわ」

『好きなように』のところを特に強調された。詩織さんでも厭味って言うんだ。

詩織さんの考えがわからないまま、ともかく採寸を始める。わたしは、最初の数箇所で、昼のときとの違いに気付いてしまった。採寸が終わる頃には心の中では白旗、完全敗北宣言。見比べてみれば数字はほとんどが大きく違っていて・・・そしてたぶん、今測ったのが本来の、このお客さんの寸法なんだ。

生地の打ち合わせのために週末にまた来店するという約束をして、お客さんとその娘がタクシーで帰って、戸締りをして。いろんなことがありすぎて、くたくたになったわたしに、詩織さんが今日最後の仕事を言いつけた。

「お店の看板、いま裏返ってるから元に戻しておいて頂戴」

初めてこの店に来たときに見上げた、年季の入った木の看板。わたしが使わせてもらっている部屋の窓の真下にとりつけられていた。窓から落っこちないように身を乗り出して、看板に手をかけて抱え上げる。いつもは隠されていた面にも何か書いてあったなんて、このとき初めて知って、わたしはあっと声を上げてしまった。

「堂裁妖額真」

表面と同じように、右から読めば、一文字だけちがう。でも、あれこれ考えるにはわたしは疲れすぎていた。看板を元の位置に戻し、わたしはそのままの格好で布団に潜り込んで深い眠りに落ちていった。

(つづく)