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魚の大きさ。

 地下鉄に乗った僕は座席に着かず、つり革を持って、ただ黒いばかりの窓の外を見ていた。
 その車両の平均年齢は40~50才くらいか、視界に入るのはくたびれたスーツ姿ばかりだ。
 自宅の最寄り駅まで残り四駅の停車駅で、女が一人で乗車してきた。一見して若く、十代かもしれないと思った。彼女から見れば、僕も周りのスーツ姿と同じく、その車両の空気に溶け込んでいるのだろうな、とそう思ってまた窓の外に向き直る。
 一瞬、視界が塞がって、戻った。目の下、僕の対面50センチに先程の女子が腰掛けていた。
 ダークブラウンのロングヘアーは緩く巻かれていて、所々に艶めいている。ショート丈の白のPコートは、皺のよっている部分があって、そういうところがまた若さを思わせた。黒の膝丈スカートは、着席しているためにやや上がっていて黒のストッキングをかぶった膝小僧が二つ並んで顔を出していた。携帯電話をいじる彼女の親指は躍動していて、液晶を見つめるうつむいた顔は別段、美しいとはいわないまでも、若さを映す透明感があった。
 窓の外を流れる黒に目を戻した僕は、物語を作り出す。
 
 ・・・イメージの中、キャスティングはブラッド・ピットとジェシカ・アルバにお任せしよう。
 電車が最寄り駅に到着すると、男は吊り革から手を離して扉に向かう。どうやら彼女も同じ駅で下車するらしく、座席から立ち上がる。
 グラリ。
 車掌が気を利かせたのか急ブレーキをかけたようで、彼女の体が大きく傾いた。もう少しで倒れるというところで男は彼女の腕を掴み上げ、二人は顔を見合わせる。
 男は軽く笑みを浮かべて聞く。
 「大丈夫?」
 『え、ええ…ありがとう』
 「いや、いいんだ」
 そう言って扉を出ると、後ろから小走りでカツカツとハイヒールを鳴らす彼女の足音が聞こえて、男の隣に彼女が現れる。
 『さっきはどうもありがと…私、足が小さいからバランス悪くて』
 「ハハハハ、そういうの聞いたことあるよ」
 『本当によく転んじゃうの』
 「じゃあさ…、こういうのどうかな?」
 『どんなの?』
 「君の足にぴったり合う靴を探しに行こう」
 『えぇ?それ本気?』
 「もちろん。僕はポーカー以外で嘘は言わないんだ」
 『フフフ、変な人』
 「さあ、はやいとこ行かないと店が閉まっちゃうぜ」
 彼女は時計を見る。
 『そのようね』
 「よし、決まりだ。急ごう!」


 手をつないだ二人は地下鉄の階段を駆け上がり、夜の帳(とばり)に溶けていく。
 如月の終わりに積もった雪が、足跡の平行線を残していた。


 ・・・なんとチープな展開だろう。ダサすぎる自分のイマジンに呆れて我に帰ると、僕の家の最寄り駅が車内アナウンスで繰り返されていた。
 到着するらしい。吊り革から手を離すと、向かいで座る彼女も立ち上がった。僕の家の最寄り駅で下車するのはほとんど中高年だから少し驚いた。
 次の瞬間、電車の重心がずれて彼女がグラリと傾いた。
 さっき頭の中でイメージしいていた景色だ。倒れそうな彼女の腕を掴めとブラピが僕に言うのだけれどそれどころではない、僕も倒れそうだ。
 咄嗟に逆の手で吊り革を掴んで、彼女の腕を掴み上げた。さっきイメージしていたからできた荒技だ。
 一瞬、驚いた風であったけれど、僕の方を向いて「ありがとうございます」と彼女は言った。
 「…いえ」と言って振り返り、下車しようと扉に向かうと、周りの乗客が僕に「ハイハイ」みたいな顔をしている。
 なんなんだ!親切じゃないか!
 これがもしお年寄りに対しての行いだったらば、そんな顔はしないだろうに。
 気にせず扉をくぐってホームに出た。
 後ろからヒールを鳴らす足音が聞こえて、隣に彼女が現れた。
 おいおいおい、マジか。この展開。
 『さっきはありがとうございます』
 「い、いえ、いいです」
 (うあ~、そうじゃないよな。ブラピやったらそんなにおどおどしてないぞ。)
 『転ぶところでした。助かりました』
 「そうですか…、けっこう揺れましたもんね」
 『私、ほんとにドジで…』
 「い、いや、オレもけっこう危うかったから」
 『この辺の方ですか?』
 「うん、今日は買い物の帰りで…」
 少しの間、沈黙のままホームを並んで歩く。
 『学生さんですか?』
 「いやいや、大人です」
 (うあ~、大人です。ってなんだよ…。)
 「そちらは学生さんですか?」
 『はい。大学生です』
 何か話さなくちゃって思うのだけれど、なぜだか心拍が上昇していて、言葉がなかなか出てこない。
 「え、え~と、いくつですか?」
 『19です』
 「ちっちゃ」
 『え?』
 完全にさっきの妄想が入り込んでしまっていた僕は、それが足のサイズだと思ってしまった。
 「い、いや、なんでもないです。…大学は、大学はどこに?」
 『経済大学です』
 「わ!オレ、その大学のすぐ近くの大学に通ってました」
 『へ~、そうなんですか!』
 「うん、上新庄の大学でしょ。そのへんよく遊びに行きました」
 『そうなんですね~、なんかすご~い』
 思いがけず会話が盛り上がってきたところで、改札口に突き当たった。
 彼女が『じゃあ』と言って、片手をあげる。
 (え、改札出ないの?)
 『私、乗り換えですから』
 あららら、急な展開。
 「そ、そうですか、じゃあ」
 おいおいおい~、そこは引き止めろ!せめて連絡先の交換だろーが!
 頭の中でブラピがうるさい。
 「え、あ、え~、じゃ、じゃあ…また…」
 (また?、またなんてない!)
 『ありがとうございました、じゃあ…さようなら』
 「あ、はい、では」


 あ?
 はい?
 では?

 あーー!?違うだろーが!携帯を出せよ!
 鞄の中には紙もペンも、なんだったら財布に名刺も入ってるだろーが!
 ブラピの語気がいっそう荒い。そうだ彼の言うとおりだ。この展開は10年に一度あるかないか、いや、ほとんど出歩かない僕にはこれが最初で最後の一回だろう。
 だけれど、何も言えなかった。何もできなかった。
 たとえブラピでなくともそれなりに心得たボーイズであれば、ここはトライするに値する場面だし、もしかするとそこから物語が始まったかもしれない。
 彼女の背中を暫く目で追って改札を出た。
 ブラピは最後に「お前らしいよ」と言ってどこかに消えた。

 僕は僕だ。仕方がない。それに相手は19才。僕と7つも離れている。7つといったら、僕が中学二年生で包茎を案じている頃、彼女は小学一年生、ともだち100人できるかな。僕が高校三年生で裏ビデオに白熱している頃、彼女は小学五年生、初潮を迎えて家族で赤飯を食べていただろう。
 こんなに差があるんだし、無理だ。実際、僕が19の頃、26才なんて遥かにオヤジと思っていたし…。

 

はぁ、お決まりだ。
 いつも僕は理由をつけて自分の失敗を正当化する。それでちょっと安心するのだ。

 地上に出るための階段を上がっていたら、またブラピが現れて僕に言う。
 「オレとジェシカは幾つ離れてる?」
 確かに10才以上離れている。けど成立する。
 フン!僕はお前じゃない。頭の先から爪先、あるいはチンチンの先まで、そのどれもがブラピ使用とは大きく乖離しているのだ。
 「逃した魚はでかいぞ」
 もうわかったからどこかに消えろ。


 ・・・僕は宝くじを失くしたときの気持ちになった。宝くじをなくしたとき、もしかしたら当たっていたかも、失くしていなければ今頃ハリウッドのパーティーかなにかでブラピとハイタッチしているかも…、とかそんな想像を永遠にしてしまうのだ。実際は当たらずに紙切れとなって可燃ゴミとして処分されるのがオチだろうけれど。ハズレだとわかることが大切なのだ。彼女にしても、僕のようなパッとしない男が言い寄ったところで、本当のところ仲良くなれるかは確率的に厳しいし、仮にそうなれたとしても彼女がいい女とはかぎらない。だけれど、大切なのは確率よりも事実だ。トライしてみて駄目だったら、多少はずかしい思いをしても、ああ、そうか。と、納得できるのだ。何もしないからいつまでも逃した魚が大きいと思ってしまう。
 大きいのではなく、大きく考えてしまうのだ。
 僕は今までそうやって生きてきた。魚を水面から揚げるのを恐れて、気になったままやり過ごす。

 

遠い昔、保健体育の先生が言っていた言葉を思い出した。
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
 先生、そのとおりです。そして僕はまだできていません。


 ・・・階段を上りきって地上に出ると、浅くではあるけれど本当に雪が積もっていた。
 僕は大きく一度だけため息をついて歩き始める。後には一人分の足跡が真っ直ぐ駅へと延びていた。着いた足跡に後から降る雪が重なって、少しずつ消してゆく。今日の出会いの、その意味を消し去るように。
 僕は過ぎ去った道程に感傷する。
 けれども、そうだ。それをつくる次の一歩は何者にも邪魔されない。自分のものだ。重要なのはいつだって、昨日でなく今日。さっきでなく今、これからなんだ。

 

向き直って見渡すと、夜で暗いはずの道路は白く、どこまでも続いているように思えた。