以前、ブログの記事に伏見城に感動の逸話があると書いたが、約400年前の昨日、その逸話の日だったのだ



その逸話を(某HPのコピペ)


関ヶ原直前の上杉攻めへ向かう徳川家康は伏見城へ寄った。

ここは、家康家臣 鳥居元忠が守将であったが、今回はちょっとどころかとんでもなくいつもと異なっていた。

そう、家康が伏見へ立ち寄ったのは…

鳥居元忠へ、死守命令を下すためでたあったのだ。しかも確実に死ぬ命令を


さて、伏見城で鳥居と対面した家康は、命令を下してから鳥居に言った。


家康「伏見の城兵は少ない。必要な兵数と武器弾薬は置いていく、申してみよ。」

鳥居「殿。今はお家にとって兵も武器も弾薬も必要なとき。殿が多くお持ちください。
伏見は現在の手勢で守ります」


こうして、鳥居は少ない手勢で大きな伏見城を守る事になった。家康がしつこく聞いても断ったからである。


その夜、家康と鳥居は夜遅くまで談笑した。
家康人質時代からのつき合いである。
つもる話もあっただろう。

鳥居が下がるとき、家康は小姓に案内をさせるように命じた。これが2人の最後の別れとなった。


上杉征伐中に石田三成挙兵の知らせがきたとき、伏見では籠城戦が始まっていた。


鳥居元忠は家康の命令を忠実に守り、一人でも多く、一分でも長く、西軍を地獄へ引きずり込んだ。


江戸に家康が戻った頃に届いたのは、伏見城落城 鳥居元忠戦死の知らせだったという


その伏見城が落城したのが、約400年前の昨日8月1日なのだ






この鳥居元忠、徳川家康が人質だった少年期からの家臣で、元忠が戦で足が不自由になった時でも、家康の前でも足を延ばして座る事を許していた唯一の家臣だそうだ


そんな苦楽を共にしてきた重臣を、作戦であっても失う事は断腸の思いだったと思う


死守命令を下した後の談笑


想像しただけで・・・