岩手 | 遊佐雅美オフィシャルブログ「LIFE SAVER」Powered by Ameba

岩手

 明日で震災から3カ月が経過します。まだ、行方不明の方も多く復興に向けて時間がかかりボランティアも多く必要としている。遅くなってしまいましたが、4月18日から23日までの短期間でしたが岩手の山田町に行かせて頂いた時の想いを綴らせて頂きます。


 4月17日(日)の夜中に東京駅から復興支援バスで出発し、朝の4時に岩手盛岡駅通過。駅周辺はコンビニが営業しており、日中は多くのお店が営業している感じだった。駅から5分離れた所に市役所があり災害対策本部があるのだろうか自衛隊の車が駐車していた。現地はどうなっているのだろうか・・・不安でいっぱいになる気持ちをおさえた。盛岡から120km先にある山田町までは2時間半ほどかかった。まず、宮古の町に入り自分の目を疑った。海が見えそこには津波が破壊させた町が一面に広がった。今、同じ日本で起こっている現実。津波の威力と恐ろしさ。津波が破壊した街並み。テレビの映像が自分の目の前に現れた時、言葉を失い恐怖を感じた。

周辺には家があったのだろう。コンクリートの基礎だけが残っている。家の外壁には、捜索完了の意味があるのか赤のペイントで○印やOKの文字が書かれていた。そして、何とか形を残こしていた家がいくつかあったが散乱していた。

数分後に山田町に到着。道の駅『やまだ』は、仕事に行く人の車やスクールバスの停留所になっていた。近くに居たおじさんが、「この場所は、津波の影響はなにもないよ!!道路を渡たり下の川を見てごらん・・・・」と・・・・・。川は木がなぎ倒され、鉄くずや木材が散乱していた。私は、迎えの車に乗り換え山田町に到着。山田町にある山田湾は、漁業の盛んな町。牡蠣やホタテの養殖が盛んに行われていた。海辺に面した周辺は全て津波に流され、山田町役場付近は火災があり40日経った今でも燃えた臭いが漂い、錆びてしまった線路も形をとどめず駅の面影もなくなっていた。

道路は、瓦礫が撤去され車が通れるスペースを取り戻していた。山に建てられた家は津波から逃れ今は電気も点灯し生活が出来る環境があるが、1m手前は津波で流された家跡が残った。天と地の差とはこのことを言うのであろうか。【誰もがこんな津波が押し寄せてくるとは想像していなかっただろう・・・】堤防を越えた津波の勢いは船・車・人を全て飲み込み、住民が住む町へとやってきた。3階建てのビルの上には船や車が乗り、車などの鉄・木材・家や布団、畳など生活で使っていたものが山ずみにされていた。発火しやすいのだろうか、山ずみにされた瓦礫から煙がいたる所からわき上がっていた。朝の8時には自衛隊の瓦礫撤去の車やトラックが行ききし少し渋滞が始まる。そこから500m先の海の目の前には老人ホームに献花がされ、現在約60名の方が亡くなられまだ20名の方が行方不明になられている。老人ホームは2回建てで窓ガラスが割れ、車が屋上に乗っかっていた。老人ホームから50m先に、B&G海洋センターがある。ここは、ボランティアセンターの拠点とされ、各地からボランティアが集まり体育館で寝泊まりする人の生活拠点と朝の集合場所となっている。場所によって違いがあるが、2人以上で来たボランティアは体育館で宿泊できるが、1人でのボランティアは山を登ったキャンプ場でのテント生活となっている。なぜならば、どのような人がボランティアに訪れているか分からないので安全や防犯防止の意味もあるようだ。食材や寝袋は持参。ボランティア内容は、家の泥出しや畑のゴミ収集。避難所での炊き出しが主な仕事であり現地までは、ボランティアによる送迎車が行き帰りも、迎えに来てくれるので車がなくても移動が出来た。

【山田町のボランティアの流れ】

●ボランティア拠点の体育館に8時半に集合。

初めての人はボランティア保険に加入。加入金は無料で期間中は保障される。

派遣先を自分で選ぶ。炊き出しは12人 泥出しは団体 畑掃除は2人などその日によって内容や人数の変更あり。

派遣先がきまったら、登録用紙に名前と自分の電話番号を記載する

配車手続きを行う。

必要な備品のレンタル(エプロン・ホウキなど)

送迎車に乗車(レンタカーのハイエース)

1日目 418日(月)】震災から38日目

 午前、午後は海での捜索に加わった。水が入らないドライスーツに着替え船に乗って沖合へ。海には丸ごと一軒家の家が浮いていたり船が沈んでおり、牡蠣・ホタテ養殖が盛んな港なので海の中にはいくつもの筏があり潮流によって木・布団・たんすなどの家財道具が多くたまっていた。潮の流れを読み、流れてたまってしまたた家財や様々な物を分散させ行方不明者の捜索にあたる。北海道新聞社も船に同行し、ご遺体も一体発見し警察に引き渡した。同船している2人の漁師さんもそれぞれ息子が行方不明になっている。船長さんは、密漁の取り締まりを普段から行っていて、震災当日は地震直後に山の中にある家を離れ船に向かったそうだ。海岸沿いの道路は片方が渋滞になりとなかなか進まない状態だったので、反対車線を逆走し船に向かった。海の変化に気が付き急いで沖に向かって船を走らせた。全速力で沖に向かい、初めて海が恐ろしいと思ったそうだ。いくつかのうねりを越え、出遅れてしまった船は津波と共に流されてしまった。辺りは暗くなり、至る所に火の気があがっていて恐ろしい光景だったそうだ。船長は言わなかったが、命よりも大切な船を守る為に船と共に海に出たのだろう・・・。

私は、夜になり心に余裕がなくなったのだろうか恐怖で睡眠もとれなかった。

2日目 419日(火)】震災から39日目

 今日はボランティアのダイバーとの合同捜索が行われた。6名のダイバー組は、酸素量を考え約20分の潜水。筏の下に人がいないか捜索。水深15m 視界は56m。

午後は低気圧の影響で海もシケ始め、みぞれに変わり手袋をしている手も感覚がなくなり極寒だった。捜索は、堤防付近の捜索でダイバーのみ。私たちは、ご遺体発見に備えダイバーと陸からの捜索開始。堤防周辺は屋根つきの家が沈み、転覆した船や堤防に乗り上げた船が数船あった。堤防の下は、沈んでる物や砂が以前からあったものばかりだった。

『1日でも早く家族の元に!!』と言う気持ちで作業に取り組んだ。

夜は山田小学校に子供達にお菓子を渡しに行った。初めて山田町の避難所を訪れたが、体育館に畳を引きつめ隣の方との間隔や仕切りもない状態だった。テレビ1台が真ん中に置かれ情報を共有していた。全体的に高齢者が三分の一を占めていた。

3日目420日(水)】震災から40日目

 朝から冷たい雨。今日は海がしけている為に捜索は中止。午前中にNPO北海道リバーネットの代表で今回岩手災害対策本部ボランティアセンター担当/捜索担当/物資センター担当主幹の岡田様と一緒に町役場に訪問。役場のすぐ下は焼けた町が一面に広がり役所人の3分の1の人が震災でお亡くなりになったとのこと。東祥三内閣府副大臣(防災担当)も、山田町を訪問されたとのこと。訪れる前に東先生からお話を伺っていましたので、沼崎町長・佐藤福町長にご挨拶をさせて頂いた。役所の皆さんは疲労困憊と言った様子で仲間や家族がお亡くなりになり悲しみに浸る時間もなく、町民の1日も早い復興を第一に考えている姿を垣間見た。

物流の会議にも参加させて頂き、今まで自衛隊が物資の運搬を行っていたが、420日以降は自衛隊が瓦礫の撤去に専念出来るように、今後は某物流会社に委託し震災で職を失った町民にも雇用出来るように、山田町の行政も協力する方向で話が進んだ。山田町の物資が全て揃っている倉庫に連れて行ってもらった。そこには全国から集められた物資が所狭しと仕分けされている。避難所にいる人達全員が平等なので、なるべく個数が多く揃う食品が必要のようです。

夕方から山田町から下にある釜石地区を訪れた。釜石は堤防も破壊し広範囲で津波が押し寄せていた。まだ様々な撤去がほとんどされていない状態で、商店街もあった華やかな花巻は津波と共に明かりまで失っていた。帰り道の車中では、言葉を失い無言状態となった。

4日目421日(水)】震災から41日目

 今日は炊き出しの作業を実施した。場所は、山田町から89km先にある被災地になっている豊間根中学校へ。約130人が避難されている近くにはローソンがあり、営業していた。秋田県からの職員や社協の方が中心となり物資の管理、ボランティアの看護師さんが4名ほど常駐。炊き出しの責任者は、避難されている方が行っていた。午前中は、水道のトラブルで炊き出しの準備が出来ず物資の整理を行った。男性職員中心なので、女性用の下着の仕分け(サイズや年齢層による下着のデザインなど)わからず、困っていたのでお手伝いした。お昼は、調理室の水道が出なかったので食事の用意が出来ず、避難所の皆様にはカップラーメンが配られた。食材は十分ではないが、レトルトの食材やお菓子、お米、水が貯蓄されている。食材は、毎日12回自衛隊の方が避難所に配布。パンや野菜(人参・大根・白菜・キャベツなど)が届き、肉、魚などの食材はまだまだのようだ。入口に洗濯機が2台設置され、体育館にはテレビ1台、空気清浄機が数台、炊飯器が数個あった。

避難所にもなっている学校は始業式も始まり、音楽の時間だろうか、元気よく歌う中学生の歌声が流れていて少し癒された空気が流れた。

4日目422日(木)】震災から42日目

 最終日は違う避難所の炊き出しへ。ボランティアセンターから近い織笠幼稚園。

この付近は、奥にある山の方まで広範囲に被害があった場所。海沿いの道路から30m入った山の上に幼稚園があった。この付近に幼稚園があるのだろうかと疑う場所だ。幼稚園は機能し、8人ほどの幼児が別の部屋で遊んでいた。ちょうど、自衛隊の配給時間で子供達は玄関まで出迎え支援物資を運び始めた。大人でも重いと感じる物資を一生懸命運ぶ園児。震災からの日課なのだろう。けなげな姿に涙しそうになったがぐっとこらえた。

幼稚園業務を行いながら、約30名ほどの避難場にもなっている。
保育園の先生方も炊き出し等あるので幼稚園に一緒に生活をしているようだ。地震が来て1週間は水・電気も通らず、近くのおじいちゃんが重たいわき水を何度も運んできてくれて過ごしていたそうです。
食材もあまり運ばれず、生きる為に精一杯だったと語る。
ガスはプロパンだったので震災時から付いたが、数日後には、毎日大量のベーコンが届き食をしのぎ、少量の水で飲み水と食器を洗っていた為、飲み水が少なく喉が乾いた状態が続き、口が乾燥していたそうです。

幼稚園でお昼を薦められたが丁重にお断りするとた園長先生が誰でも『幼稚園に来てくれた、消防士、警察、役場の方、ボランティアの皆さんに・・・・部屋に上がって暖かいものを食べて飲んで行って欲しいのです。それぐらいしか出来ないから・・』と温かく言葉をかけてくれた。初めて逢った気がしない園長先生の顔は笑顔で満ちており、まるで天使のようである。心の穏やかな方がいる場所は避難所も明るくさせていた。

午後から、海の捜索。夜のバスで一度戻るのでお世話になった船長、漁師のお二人に挨拶も兼ねて乗船した。二人の漁師さんは、お互いまだ息子さんが見つかっていないので、ても複雑な気持ちで船に乗っているのが伝わってくる。女性の私が海の捜索に加わった事に漁師さんを始めビックリしていたそうだ。そんな漁師さんが、山田町に引っ越しておいで、と言ってくれた一言が嬉しかった。風や雨にも負けず、船首に乗り水中にロープや瓦礫が船に当たらないか確認しながら外海まで出て定置網や筏がどこにあるのか調査をした。筏の下や定置網にもまだ数体のご遺体があるらしい。自衛隊や漁師さん、ボランティア捜索隊とダイバー達と協力しながら早く家族の元に帰れるように・・・・。

捜索活動を終え、午前中に行った幼稚園に顔を出した。園長先生の知人であるおじいさんの話であるが、津波が来た時町中に放送が流れ孫達を家の二階に避難させた。おじいさんは外に出て近所の人達を高台に避難させていた瞬間、一階から瓦の屋根が一軒まるごと橋の下を通り海へと流されてしまったという。想像を絶する光景にあったに違いない。園長先生が『初めて逢ったボランティアの人にこんな話をしてしまってごめんなさい。』と言われた瞬間、私の目から涙が溢れ園長先生の手を力強く握っていた。

 今回のボランティアを通じ自分に出来るのかと不安と疑問が交差していた。自分の目で見て体験した事を伝え、1日でも早い復興に向けて引き続き自分が出来る事を継続して行動する事が課題だと思う。被災地を訪れて、懸命に生きている姿や人の温かさに触れ優しさを頂き心から感謝しています。

  『けっぱれ!!岩手県!!』