明治維新以降、日本は近代化が進み発展していきました。これを進めたのは明治政府・・・なのはもちろんですが、本当に彼らの力だけで近代化が進んだのでしょうか?実は徳川幕府側にも、勝海舟(麟太郎)だけでなく近代化を進めた人物がいました。名は「小栗忠順」。今回は明治政府ではなく幕府側の人間、いわゆる幕臣である小栗忠順について考察していきます!

 

①「明治国家の父」、その名も小栗忠順!

 幕臣なのに「明治国家の父」?と疑問を持つ方も多いかと思います。詳しくは後ほど記載致しますが、かの有名な作家である司馬遼太郎さんが彼の事を「明治国家の父の一人」と評価しております。近代化に向けて彼がどのような功績を残したのか、ざっくり述べると・・・

・横須賀製鉄所の建設

・兵庫商社の創設

・築地ホテルの構想

・洋式軍隊の整備

などなど、わずかこれだけでも近代を感じますよね!では、そもそも小栗忠順とはどのような人物だったのでしょうか?

 

②名門・小栗家に生誕!ただ、自己主張が強すぎて・・・

 彼が生まれた小栗家は、代々徳川家に仕えておりました。戦国時代、徳川家康の小姓でもあった小栗忠政は、槍働きで活躍し「又もや一番槍」と評価され、「又一」の通称が受け継がれてきました。1827年、旗本の小栗忠高の子として生まれた忠順、幼名は剛太郎。彼は若くから塾の同門から開国論を聞かされたり、外国事情に詳しい安積艮斎から学んでいた為、この事が後に大きく影響していきました。

 17歳になると江戸城に登城し出仕します。しかし、幼名の剛太郎という名前に負けず、どのような相手にも物怖じせず率直に意見を言う性格だった為、事あるごとに揉め事を起こし役職を変えさせられました。何度も揉め事を起こしているのに役職を都度与えられるというのは、それだけ彼の才能を認められていたから・・・でしょうか?

 

③いざ、アメリカへ!そこで大きな出会いが

 そんな彼でしたが、1849年に結婚し1855年に父が亡くなると、家督を相続しさらに邁進していきます。時は幕末、アメリカと日米和親条約や日米修好通商条約を締結すると、通貨の交換比率の見直しの交渉が必要となりました。そこで遣米使節目付として選ばれのが小栗忠順。指名したのはなんと「大老・井伊直弼!!」と、言われております。彼の物怖じしない性格や、名門出身という評価で選ばれたのかもしれませんね。

 アメリカに着いて早々、目付として交換比率の見直しを求めましたが、残念ながら改定には至らず。しかしそれで終わりではありません。交渉が終わりワシントン海軍工廠を見学し、製鉄の技術に衝撃を受け、そこで作られた「ネジ」を持って帰りました。

 ただでは済まさない小栗忠順、ここでの経験を活かし帰国の途へつきました。しかし、この時すでに大老・井伊直弼は「桜田門外ノ変」で討たれていました。

 

④外国奉行・勘定奉行、そして製鉄所へ

 帰国した忠順は、目付としての評価で外国奉行へ就任しました。が、早速事件は勃発。ロシア軍艦が対馬を占領したのです!!忠順は現地調査し幕府へ、

・対馬の直轄領化

・外交形式での交渉

を進言しましたが、結局は受け入れられず。忠順は外国奉行を辞任致しました。

 次に就任したのは勘定奉行、財政立て直しに尽力します。その最中、安積艮斎の塾からの友である栗本鋤雲の紹介で駐日フランス公使のロッシュと出会います。そこでアメリカで学んだ製鉄の提案し、幕府で建設案を提出しました。

 もちろん最初は多くの反発を受けましたが、既にフランスに機材を発注していた(行動が早過ぎる・・・)、14代将軍徳川家茂からも承認を得たため、無事に建設が始まりました。

 

⑤革新的な製鉄所

 さて、いざこざもありながら無事に着工が始まった横須賀製鉄所。ここでは何が行われていたのでしょうか?

 まず最初に注目すべきは、「人事制度」。雇用規則・残業手当・月給制など、今では企業では当たり前に行われている制度を導入しました。そして同時にフランス語の学校も設立。物を作るだけでなく、これからの社会の役に立つ人材も育成していたのですね。まさに「人財」。

 

⑥近代化へまっしぐら!

 先に述べた通り、彼の功績は製鉄所だけではありません。同時に進めていたのが、フランス軍人に指導させる洋式軍隊、火薬工場の建設、フランスとの経済面での関係強化へ貿易の流通管理を目的とした「兵庫商会」の設立、そして、日本初のホテルである築地ホテルの着工・・・

幕府の強化だけでなく、日本全体で経済面でも防衛面でも力を注いでいたのが分かります。

 

⑦脅威は目の前に・・・

 幕府を中心とした近代化に向けて尽力していた小栗忠順。彼に衝撃的なニュースが飛び込んできました。大政奉還、そして戊辰戦争です。

 15代将軍徳川慶喜が江戸に帰還すると、次の軍備に向けて協議が始まりました。洋式軍隊を整備してた忠順はもちろん徹底抗戦を主張。箱根での迎撃と同時に海軍からの砲撃で挟み撃ちを進言。しかし慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れたショックからなのか、勝麟太郎が勧める恭順論を採用しました。

 これにより、忠順は御役御免。上野国権田村(今の群馬県高崎市)へ隠居することになりました。

 

⑧最後まで幕臣の意地は捨てず!

 権田村へ到着した忠順は早速絶体絶命のピンチに遭います。世直し勢と言われる賊が、忠順の滞在している寺を囲みました。そこで洋式軍隊の整備が活かされたのか、見事に撃退。しかしこれが命取りに・・・

 隠居生活では大きな企みなどはせず、村の水路の整備や村の子たちに塾を開いたり、これまでの経験を還元して穏やかに過ごしておりました。

 ですが、先の賊の撃退により、忠順は多くの武器を持っているという噂が広まってしまい、明治政府軍に捕らえられます。

 そして、ロクな取り調べもないまま、家臣と共に斬首されました。享年42。

 

 以上、小栗忠順の経歴を簡単ではありますがまとめてみました。製鉄所のみならず、多くの事業を推し進めていく小栗忠順。知名度で言えば同じ幕臣の勝海舟などのように高くはありませんが、知れば知るほど日本の近代化には欠かせなかった人物ではないかと思います。

 それ故、明治政府軍としては「徳川幕府は時代遅れ」というイメージのために、取り調べせずに斬首して闇に葬った可能性も・・・

 しかし、最初に述べた司馬遼太郎さんだけでなく、明治政府側の大隈重信や東郷平八郎も彼を大いに評価しています。もちろん、徳川幕府側には小栗忠順や勝海舟だけでなく、多くの近代化に進めた幕臣がいました。

 この記事で、少しでも「小栗忠順」をはじめとした幕臣について興味を持っていただき、ファンが増えていただければ幸いです。