「日本人は何をめざしてきたのか」を見て | まさこんの写真雑館

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昨夜(16日)、NHK Eテレで放送された「日本人は何をめざしてきたのか」の「第6回 障害者福祉 共に暮らせる社会を求めて」を見た。番組を見ている間中、涙が止まらなかった。

この番組を見た感想を私の文章力では十分に語ることはできないが、二つのことを感じた。

一つ目の感想は、自分も障害者ではあるが、より症状の重い障害者に対してできることはないのか、ということ。

ただ、この3月までは会社や健康保険組合からの収入があり、生活に困ってはいないが、4月以降どうなるか分からない私に他の人のことを考える余裕があるかという問題はある。実際のところ、今のクリニックに通い始めた頃、主治医から「今は他人のことより自分のことを考えなさい」と言われた。

しかし、そういう中ででも何かできることがあるのではないか、と思ってしまう。小さなことでもいい。自分も含めた障害者が住み易い社会の実現に向けて何かできないだろうか。

そして、二つ目は今続けているボランティアについての思い。
この番組では、障害者が社会からのけ者にされ、隔離されてき、長い苦しみと闘いの結果、ようやく「地域移行」や「ノーマライゼーション」という考えが社会に芽生えてきた過程を紹介していた。しかし、このような考え方は未だ「芽生えた」に過ぎない。

私はごく近しい人がこう言うのを聞いて強い衝撃を受けたことがある。「車いすの連中はそこにいるだけで迷惑なんだ」と。
このような考えを持つ人はまだまだ多くいるということだろう。

私が通っているボランティア先の利用者たちのことを思うと「どうしたら良いのだろう」と思ってしまう。その施設では重度・最重度の知的障害児・者が生活をしている。中には重症心身障害者もいる。

毎日、決められた時間に朝食を食べ、できる人は決められた時間にデイ活動に行き、決められた時間に昼食を食べ、午後も作業をし、入浴・夕食を済ませて、各自の部屋に入れられる。

現在私がボランティアとしておこなっているのは、軽作業ができる利用者の日中活動の支援である。私がいつも担当している方はなかなか作業をやろうとせず、席に着くなり背もたれに寄りかかって眠ろうとする。自ら進んで作業を始めたことは一度もない。暫く様子を見て、起こし、「無理やり」体を正面に向けて作業を「やらせる」。

他にも作業をやろうとせず、職員の制止を振り切って自分が見たい雑誌に手を伸ばす利用者もいる。しかし、それは許されない。

このようなことができない利用者は終日何をするともなく、施錠された棟の中で生活をしている。

果たしてこれが適切な支援なのかどうか。私には結論が出せない。

いくら「地域移行」「ノーマライゼーション」と言っても、この施設に入所している利用者にそれが適用できるだろうか。

自傷をしたり、他人に害を与えたりする人もいる。食事や排泄を自分ではできない人もいる。
放っておけば、施設の外へ出て、行方知れずになったり、踏切などの非常ボタンを押したりしてしまう人もいる。止めどなく水を飲んでしまう人もいる。だから、利用者が使うトイレや洗面所の水道の取っ手は外してある。

成人になれば体も大きくなり、力も強くなる。そうなると自宅に帰ることもできない。保護者から見放されたも同然の利用者もいる。

このような人たちにとって「「ノーマライゼーション」とは何か。私には答えがない。


何故このボランティアをしているのか、と聞かれることがよくある。分からない。

何故、ボランティアをしようと思ったのか、そして、何故この施設を選んだのか。これにも答えはない。

ただ一つ言えることは、私はあの利用者たちを「哀れ」とも「可哀そう」とも思っていない。憐みの心を以ってこのボランティアをしている訳ではないということだけだ。