ある高座で柳家小三治さんがこんなことをおっしゃっていたことがあります。

 

小三治さんはたまに舞台で歌を披露することがあったのですが、そのときのこと。

「ああいう舞台ってのはいろんなものがあるんですよね。

照明だってスポットだったり、広く照らしたり、明るかったり暗かったり。

後ろにはバンドやオーケストラでしょ。

そこいくと落語は、金がねぇってこともあるけど、な〜んにもありませんからね〜」

 

また、歌舞伎について、舞台装置や衣装が派手だったりといったことを話されていたことがあります。

「バタバタバタバタって歩く音を鳴らすものがあったりね」

など。

 

この話を聞いて、思い浮かんだのが、その小三治さんの「芝浜」でした。

 

飲んだくれて裏長屋に住んでいたときの勝五郎。

暗く荒んだ表情に薄暗い住まい。

顔にも影が差しています。

 

そして、早く着きすぎてまだ真っ暗な河岸。

芝の浜で一服していると水平線の向こうに昇ってくる真っ赤な朝陽。

そこへ入ってくる漁船を見て「こりゃ大漁だぜ!」といきいきとした腕の良い魚売りの表情に変わる。

しかし、それも束の間。

波間に揺れる皮財布を見た途端にまた暗い飲んだくれの顔に戻ってしまう。

 

それから3年後の大晦日。

晴れ晴れとして明るい勝五郎の表情。

なんと清々しい笑顔でしょう。

そして、張り替えたばかりの畳に真っ白な障子。

畳の香りがしてきそうです。

 

まるでその度に照明の明るさを変えたのではないかと思えるほどの違いでした。

 

高座には「な〜んにもない」けど、このような光景がはっきりと見えます。

どんなに手のこんだ舞台装置でも表現できないうらぶれた裏長屋、美しい浜、明るい座敷。

目の前にいるのは勝五郎でありおかみさんであり、そこに小三治さんはいないのです。

 

また、私は「吉原」に行ったことはありませんが、その風景を思い浮かべることができます。

大門、まっすぐ伸びる大通り、その両側に並ぶ引手茶屋、妓楼。

格子越しに見える遊女たちや客を引く若い衆、中の広い階段。

などなど。

「吉原炎上」という映画を観たとき、それまで落語だけでしか知らなかった「吉原」とまったく同じだったことに驚いたことがあります。

 

同じことは「長屋」にも言えます。

 

今では見ることができない時代を超えた風景をありありと見せてくれる噺を聴くと落語好きであることの喜びを感じるのです。

 

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