演奏会[ナポリの栄華を辿って]
京都で演奏会とマスタークラス ヴィオラ・ダ・ガンバとハープで綴る音楽紀行
宮崎、コンサート「メランコリーの森」
昨日、宮崎芸術劇場の演劇ホールで、「メランコリーの森」と題した演奏会に出演しました。
チェンバロの大塚直哉さんが進行役で、17世紀ドイツ文学を研究なさっている森下勇矢さんとのトークを交えながら、17世紀のメランコリーにまつわる音楽を特集したコンサートでした。
私はマレのサント・コロンブ氏およびリュリ氏のトンボー(追悼曲)、プラント(嘆き)、バッハのヨハネ受難曲のEs ist vollbracht およびマタイ受難曲のKomm, süßes Kreuzのアリアの冒頭などを演奏しました。アンコールはマレの人の声。
一年以上前から決まっていた演奏会ですが、夫が逝ってしまって最初の本番でこれらを弾くことになるとは…… 一生忘れられないコンサート
でも、大塚さんや森下さん、宮崎のスタッフの方々がとても優しくして下さり、乗り切ることができました。夕食でいただいたタコ揚げ、なんこつ煮、新玉ねぎ揚げ、佐土原ナス焼き、キンカン、フルーツトマトときゅうりのサラダ、最後のシメは暖かいご飯にかけた冷汁、どれも宮崎ならではの絶品でとても美味しかったです。みんなで食べると食いしん坊に戻る私!
ちょうどWBCや他の野球チームのキャンプと時期が重なり、飛行機は満席、ホテルもいっぱいでした。すごく緊張したし、久しぶりにガンバ担いで地方での演奏会でちょっと疲れましたが、音楽には救われています。
2月24日記
フェイスブックの今村泰典さんの投稿(写真入り)
バーゼル時代の旧友、今村泰典さんがフェイスブックに掲載してくださった文章と写真です。
よくこんなに昔の写真が見つかったものです。
本当に懐かしい……
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山岡重治さんを偲んで
山岡重治さんが、この1月25日に亡くなられたと知り、深い悲しみを覚えています。
私が初めて重治さんにお会いしたのは、1976年9月初旬のことです。バーゼル・スコラ・カントルムの入学試験を受けるためにバーゼルを訪れ、試験を終えた直後だったと思います。少し控えめで、とても誠実な方だという印象が強く心に残っています。「バーゼルに来られるなら、何か一緒にできるといいですね」と、穏やかな笑顔で話してくださったことを、今でもはっきりと覚えています。
その後、私がバーゼルに移り住んでからは、山岡重治さんと平尾雅子さんが学生として滞在していた、学生寮のような共同の住まいに何度も足を運びました。当時、私は通奏低音を学び始めたばかりで、重治さんと雅子さんには初見演奏の練習に何度も付き合っていただきました。雅子さんが「彼は本当に上手で、どんな曲でも初見で弾いてしまう」と話していたとおり、重治さんの読譜力と音楽への理解力は抜きん出たものでした。
最初の頃は、リコーダーという楽器は初見演奏が比較的容易なのだろうと思っていました。しかし、スコラ・カントルムの学生たちと重ねて初見演奏をするようになるにつれ、その差は次第にはっきりと感じられるようになり、雅子さんの言葉がそのまま真実であったことを実感するようになりました。私は何度も演奏の足を引っ張ってしまいましたが、重治さんが嫌な顔をされることは一度もなく、いつも辛抱強く付き合ってくださいました。あの経験の積み重ねが、私の音楽人生にとって大きな糧となっていることは、間違いありません。
やがて私たちは一緒にコンサートを行うようになり、私にとって初めてのレコード録音も、重治さん、雅子さん、そしてスイス人リコーダー奏者アンドレアス・キュンク氏との四人によるものでした。フォンタナやカステッロ、デュパールのトリオ・ソナタを録音するという貴重な機会を与えてくださったのも、重治さんでした。その後もスイスや日本で、何度となく共演する機会がありました。
実はその十数年後、私の結婚式に重治さん、雅子さんご夫妻が来てくださった際、雅子さんがスピーチで次のようなお話をされました。「今村君は学生の頃、いつもご飯時になると『アンサンブルしませんか』と言って、ふらりとやって来るのです。そしてアンサンブルの後に夕食を食べていくのです。しかし、彼が私たちをまったく食事に招待しなかったわけではないですよ。ただ、彼の作れるメニューはいつも決まって同じで、私はそれを『イマムライス』と呼んでいました。その作り方は……」と笑いながら言っていました。しかし皮肉なことに、当の私はその「イマムライス」の作り方をすっかり忘れてしまい、もう四十年以上口にしていません。今では、あの味を思い出すには雅子さんに教えていただくしかありませんが、重治さんがもうおられない事を考えると、寂寞の思いです。
また、1995年の夏、重治さんご家族が久しぶりにスイスを訪れられた際、重治さん、雅子さん、私の家内、そして私の四人でダボスで演奏したことも、今なお心に残る大切な思い出です。
私は主にリコーダー奏者としての重治さんを知っていましたが、友人のミハエル・シュナイダー氏やモーリス・シュテーガー氏が、製作家としての重治さんを深く敬愛し、自ら楽器を注文して愛用している姿を目にして、その技量が世界的に高く評価されていたことを実感しました。
重治さんのように、音楽家であり、また製作家でもあった存在を失ったことは、日本だけでなく、世界の音楽界にとっても大きな損失であると思います。
心から、重治さんの冥福をお祈りいたします。
今村泰典
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追記
イマムライスの作り方
ズッキーニを切って炒め、熱いご飯と混ぜて、その上にスイスのチーズを大盛りに削ってかき回した一皿。日替わりでご飯がスパゲッティに代わることもありました。美味しかった!
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2月11日記
追悼文 今村泰典さんより
バーゼル時代の友人、リュート奏者の今村泰典さんからの文章です。あの頃のこと蘇ります。
山岡重治さんの想い出
山岡重治さんがこの1月25日にご逝去されたとの報に接し、深い悲しみを覚えています。
私が初めて重治さんにお会いしたのは、1976年9月初旬のことでした。バーゼル・スコラ・カントルムの入学試験を受けるためにバーゼルを訪れ、試験を終えた直後だったと思います。少し控えめで、とても誠実な人だという印象が強く残っています。「バーゼルに来られるなら、何か一緒にできるといいですね」と、穏やかな笑顔で話してくれたことを、今でもはっきり覚えています。
その後、私がバーゼルに移り住んでからは、平尾雅子さんと重治さんが学生として滞在していた、学生寮のような共同の住まいに何度も足を運びました。当時、私は通奏低音を学び始めたばかりで、重治さんと雅子さんには初見演奏の練習に何度も付き合ってもらいました。雅子さんが「本当に上手で、どんな曲でも初見で弾いてしまう」と話していた通り、重治さんの読譜力と音楽への理解力は抜きん出たものでした。
最初の頃は、リコーダーという楽器は初見が比較的容易なのだろうと思っていました。しかし、スコラ・カントルムの学生たちと重ねて初見演奏をするようになるにつれ、その差ははっきりと感じられるようになり、雅子さんの言葉がそのまま真実だったことを実感しました。私は何度も演奏の足を引っ張ってしまいましたが、重治さんが嫌な顔をすることは一度もなく、いつも辛抱強く付き合ってくれました。あの経験の積み重ねが、私の音楽人生にとって大きな糧になっていることは間違いありません。
やがて私たちは一緒にコンサートを行うようになり、私にとって初めてのレコード録音も、重治さん、雅子さん、そしてスイス人リコーダー奏者アンドレアス・キュンク氏との四人によるものでした。フォンタナやカステッロ、デュパールのトリオ・ソナタを録音するという貴重な機会を与えてくれたのも、重治さんでした。その後もスイスや日本で、何度となく共演する機会がありました。
また、1995年の夏、重治さんご家族が久しぶりにスイスを訪れた際、重治さん、雅子さん、私の家内、そして私の四人でダボスで演奏したことも、今なお心に残る大切な思い出です。
私は主にリコーダー奏者としての重治さんを知っていましたが、友人のミハエル・シュナイダー氏やモーリス・シュテーガー氏が、製作家としての重治さんを深く敬愛し、自ら楽器を注文して愛用している姿を見て、その技量が世界的に高く評価されていたことを実感しました。
重治さんのような音楽家であり、製作家でもあった存在を失ったことは、日本だけでなく、世界の音楽界にとっても大きな損失だと思います。
心から、重治さんの冥福を祈ります。
今村泰典
2026年1月29日





















