次いで、出雲大社の東京分祠に詣でた。六本木に来て、行かないという選択肢は無い。
前回「櫻田神社が無ければ六本木には来なかった」と書いた。
もし、出雲大社の東京分祠の存在をもっと早く知っていれば「櫻田神社と出雲大社が無ければ」になっていたんだろう。
まさか出雲大社が東京にあるとは思ってなかったから、知った時には驚いた。それが数年前のことだ。その時に一度行ったんだが、なぜか見つけられなかった。
それで、ふと思いついて行ってみようと思ったのが、引っ越しを決めた後だったんだ。
その日は引っ越しを控えての「お世話になりました詣り」で、櫻田神社~出雲大社・東京分祠~大観音寺(人形町)~水天宮、とスタジオグラッドに行く前にご挨拶して回った。
出雲大社の東京分祠はこの時が初めてということだ。
初めてなのに「お世話になりました」はおかしいが、私は出雲大社と同一と考えて、「これまで来られずごめんなさい」と謝った。
出雲大社は島根県にある。日本人なら(たぶん)誰もが知る有名な神社だ。
が、行きづらい。
それで、分祀・分院などが全国にあるらしい。今調べたら、浜松にもあった。
知ってしまったからには行かないわけにはいかない。
これは「来なさい」ってことかしら。
浜松では、産土神社、菩提寺以外、ご縁が見つからずいる。
調べてもピンと来ない。
秋葉原の由来らしい秋葉神社に行ってみたけど、あまりに遠すぎて、行けて年に一回という感じだった。
さて、浜松分院はどうだろう。
早速、近々に行ってみよう。
さて、東京は分祀ということで、規模は小さいながら、祓社、手水舎、拝殿、御守り所がそろっていて、巫女さんが常駐している。
こちらでは、神在月の御朱印を賜った。
なんと、よく考えたら、今は11月、島根県以外は神無月で、櫻田神社は神様留守だったんじゃないか?
こちらは出雲の窓口だから、神様に通じている。
おみくじは「徐々に良くなる」ということらしい。
初めて島根の出雲大社へ詣れたのは、2015年6月だった。
鳥取で中学の同窓会があったんだ。1965年生まれの同窓生が50才になる年で、35周年記念ということで、父の転勤で2年途中で転校した私は36年ぶりだったが、奇跡的に呼んでもらえた。
連絡先を、ただ一人、当時の友達が知っていてくれて、連絡をくれたんだ。
今みたいに、メールも携帯電話もなかった時代だ。家の電話は引っ越せば変わってしまう。私のような転勤族は行方不明になってそれきりが普通だろう。
彼女には感謝してもしきれない。いつかちゃんとお返ししなければ気が済まない友の一人だ。
同窓会の前後には、車であちこち連れて行ってくれ、畑の真ん中などあちこちにある温泉にも毎日つきあってくれた。さらに実家に泊めて、お母様の手料理までふるまっていただいた。
またすぐ行けると思ってたけど、そう簡単ではなかった。
お礼に、まだ「冷凍たこ焼きセット」しか贈れていない。いろいろ考えていたら、時間が過ぎてしまった。すまない友よ~
飛行機がANAなら鳥取市街に程近い鳥取空港に飛んでいる。
この同窓会のついで、と言ってはなんだが、この時は、その鳥取空港ではなくJALの出雲空港(出雲縁結び空港)にして、出雲大社に詣らせてもらった。
ずっと出雲に行きたかった。出雲大社に詣らなければ、他へは行けないような気がしていた。
36年ぶりに呼ばれるなんて、きっかけだって思うよね。
島根の出雲大社は、ピリッとした空気が漂い、キビシイ感じだった。
鳩もなんとなく神々しい
そして何より、島根に入った時のおみくじと、出る前のおみくじが、全くの同一だったことには鳥肌が立った。
自慢しません。恨みません。慎み努力します。自戒します。
と、一つをおみくじ結ぶところに結び、改めて気を引き締めた。
ところで余談だが、鳥取空港は、別名「鳥取砂丘コナン空港」なんだけど、私には、砂丘と空港に思い出深いエピソードがある。
小学6年の時、飼育委員で、ある日、飼育小屋にピンポン球のような白いまん丸の卵が数個あって驚いて、女子2男子1の小学生3人で歩いて卵のプロ(鶏舎)を訊ねたんだ。
往きは教えられた通り市街の道路を行ったんだけど、けっこう遠かったので、帰りは近道しようと、浜を砂丘方面に向かってまっすぐ横切ることにした。
直線距離にすれば近いと思ったのだが、さすが小学生の早計で、砂の道は重かった。
やがて日が暮れてきて、辺りは真っ暗になってしまって、出口が見つからない。
ついに男子が泣き出してしまった。
しょうがないので、その辺りで砂丘から出ることにした。辺りは真っ暗だったが、方向的に、左手が海、右手が人里だ。
右に折れて少し行くと、木が生い茂っていたので、その木々を抜ければきっと畑か田んぼか人んちの庭かどっかに出るに違いない。
入る時、有刺鉄線があったかどうか覚えてないが、木々が終わる出口は有刺鉄線が張られ、その向こうは開けていて、有刺鉄線を楽々抜けると、アスファルトで舗装された広い場所に出た。
なんだここは?と思っていたら、大きな光が上から右往左往していた。
サーチライトだ!
近くに、ちょうど隠れられる大きな数字が書いてある四角い物体があったので、その陰に身を隠して、辺りをよく見回した。
なんと鳥取空港だったんだ。
私たちは、夜の滑走路に迷い出てしまったのだった。
管制塔までは距離があった。
サーチライトは、1本か2本か覚えてないが、とにかく管制塔から出て、行ったり来たりしている。
私たちは震え上がった。ここで捕まったら、きっと牢屋行きに違いない。
男子はもう泣きじゃくっている。当てにならない。
女子二人で相談して、ここは何が何でも逃げ切ろうとうなずき合った。
そこが鳥取空港だとわかったので、だいたい地理関係はつかめている。
入ってきた方とは逆の方に行けば、間違いなく人里だ。(というか知ってる町だ)
そちら側も、有刺鉄線が張られ木々に囲まれていた。
サーチライトが管制塔の方に戻った隙にダッシュして走れば、たぶん大丈夫。
もうここは、ダメ元で一か八か、乗り切るしか無い。
私たちは、「どん!」で走った。
泣いている男子が転んで捕まってしまえば、私たちも危ういので、二人で男子を両側から支え叱咤激励しながら、茂みを目指して走った。
有刺鉄線の間に飛び込む。
間一髪、なんてことは無かったが、サーチライトに照らされること無く、木々の暗闇に逃げ込めた。
砂丘から入った時と同じように暗い木々を抜けると、今度はちゃんと畑があって、街灯に明るく照らされた見慣れた人里が広がっていた。
変わりない日常がそこにあって、本当にホッとしたことを覚えている。
その後、誰も捕まえには来てないので、うまく逃げおおせたってことだろう。
いや、実はよく覚えてないので、もしかしたら保護されたのかもしれないが、ホント全くそこからの記憶が無い。歩ける距離だったのは間違いないので、しれ~っと何事も無かった顔して帰ったのかな。
今なら熱センサーとかで簡単に見つかってしまうだろうけど、当時はそんな技術も使われてなかったんだろう。なんせ1日に1往復だったか2往復だったか、YSプロペラ機が大阪に行って帰ってくるだけの空港だ。(たぶんその後すぐ、東京便が1便追加された)
人生において、サーチライトから逃げる、なんて経験をすることは、そうは無いだろう。
ルパン三世とかキューティハニーとかアニメで見たシーンが現実のものとなって、小学生にとっては恐怖のどん底、絶体絶命だったんだ。
無事生還できたことは、人生なんとかなる、っていう勇気を与えてくれた。
今となっては、微笑ましい冒険譚だ。
今はそんなに簡単に入れないと思うので、もうこんな冒険はしたくてもできないと思う。当時は子どもが大冒険できる異次元への入り口があちこちに開いていて、私たちはいい時代にいたのかもしれないな。
ちなみにピンポン卵は、鶏が何かに驚いて、早く産んでしまったせいだった。
たいした理由じゃなかったことが、早道しようという、とっとと帰ろう精神に繋がってしまったんだろうなあ。
鳥取砂丘 海側 砂山を越えると海だ
鳥取砂丘 陸側 後ろにいるのはラクダ
(迷子になったのは、白兎海岸寄りの浜で、もっと幅が狭いトコ)
出雲大社 御朱印