百二年健康に生きたアイヌの呪術師の子孫の祖母の孫の死生観を書いています。特殊な異能をもつ祖母、母、私。何でも習わずにできてしまいすぐに飽きてしまう私。生きるのに飽きてしまいます。人生は長い暇つぶしだときづいてしまい暇をもてあましていると呼ばれる感じがして沢山の旅をします。そして不思議な体験をたくさんします。目に見えない不思議な力がある事に疑問はもちません。目にみえる世界や力以外がある事を感じます。産まれてきたら死んで終わり。死産であっても百二歳までいきても本人には差がありません。遺された人の気持ちだけが違います。しかし祖母や母や私の異能や旅でおこる不思議な出来事でそんなに単純なのか?と考えます。死の向こう側にも何かがあるのかもしれないと。身の回りで死人が異常にでます。それを経験して天涯孤独になりやっと楽になり自由になります。するとやる事がなくなります。家族という歯車がなくなり負荷がなくなると自由ではあるがとてつもなく暇になり飽きるを通り越して何をするのもめんどくさくなります。生きる気力を失い旅にもいけなくなります。そこからなんとか遺されたわんこの狆の為に気力を振り絞る。まだ死ぬわけにはいかないと。そこで死について深く考えます。自然死安楽死尊厳死。どんな死に方をしなければいけないのか?。切腹をする民族としてどんな死に方が理想的なのかと。祖母は老衰で元気に毎日明るく楽しく我がままに自己中で頑固を通してぴんぴんころりと寝て起きたら死んでいました。母は抗がん剤で脳が麻痺して意識が急になくなりしにました。ボケるというのは最高の死に方でわけがわからないうちに死ねます。要するに死際に無念や心残り恐怖痛み苦しみ悩み事などがあると無い手足が痛むのと同じでエンドレスに死んでからも苦しむ事に気づきます。
 死ぬ時はボケてわけわからなくなるか。納得して悩み事一つなく眠るように気持ちよく死なねば死んでからも生前の痛み悩み苦しみはエンドレスに続く。
 産まれて死んで完成だからこそ納得して心残りなく安らかにしなないといけないと気づく。
 そんな死生観のドキュメントです。