読書会:The king's animals and the king's books | Masahito-Hiraiのブログ

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今回は次の論文を読みました。

Anita Guerrini, "The king's animals and the king's books: the illustrations for the Paris Academy's Histoire des animaux" Annals of Science 67 (2010): 383-404.
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 1670年代、フランス王立印刷所(the French royal printing house)は、パリ科学アカデミーの出版物という形で6巻の挿絵入り二つ折り本(folio volume)を刊行した。そのうちの5巻はエレファント・フォリオ(elephant folio)で、その大きさは55センチに及ぶものである。そのうちの一つは、1671年初版、および1676年第二版の『動物の自然誌に資するための覚書』(Mémoires pour servir à l’histoire naturelle des animaux)〔以下『動物誌』(Histoire des animaux)とする〕である。これらはいずれも、当時フランスで一流の彫刻家たちの手による版画技術を大いに施されたものである。本稿は、ルイ14世の治世下における文化政策の中で、『動物誌』に焦点を当てて検討している。その分析を通して、『動物誌』がいかなる点で新しかったのか、テクストとイメージとはどのように相互に作用しているか、エグゾチック・アニマルの描写の信憑性はどのようにして得られたのか、比較解剖学と自然誌との関係、そして人体解剖学と動物解剖学との関係はどうだったのかといった問題を考察している。

 1661年、ラ・フォンテーヌやモリエールをはじめとする文人や画家の保護者として手腕をふるった財務卿ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)が、国費乱用のかどで失脚した。1665年、財務総監として後がまにすわったコルベール(Jean-Baptiste Colbert)は、フーケが失脚してから停滞していた文化庇護政策に取り組む体勢をとった。とりわけコルベールが注力したのが、王立科学アカデミー(The Paris Academy of Sciences)をはじめとする諸アカデミーに対する積極的な支援である。王立科学アカデミーは出版事業に力を入れ、1667年の初回会合からいくつかの小冊子(pamphlet)を刊行している。それらには、クロード・ペロー(Claude Perrault)の手に成るオナガザメ(thresher shark)やライオンの版画や、国王の「専属印刷工」のフレデリック・レオナール(Frédéric Léonard)による版画が印刷が施されていた。とはいえ、こうした小冊子よりもずっと大規模な出版計画も進行しつつあった。その計画の一つが、ヴィヴィエンヌ通りに転居した王立印刷所(1640年に宰相リシュリューによって創設された)で、1667年から銅板印刷(engraving)の全権を委任されたコルベールの指導の下、希少な動植物や天体観測の成果を印刷するというものである。

 1670年までに、王立印刷所は数百点もの銅板印刷を完成させていた。コルベールは、1670年2月に書かれたクロード・ペローおよびピエール・カルカヴィ(Pierre Carcavi)宛の書簡の中で、完成した銅板印刷をどのように出版すべきかについて議論している。議論に立ち入ってみると、コルベールは常に挿絵に対する強い「こだわり」を持っていたことがうかがえる。最終的に、この議論は『動物誌』の出版として結実することになる。まず、完成された『動物誌』は芸術作品としても十分な価値を持っていたが、市場に流通するには高価すぎるほど豪奢な装飾が施されていた。また、それは内容的に見ても、王立科学アカデミーが追求していた自然哲学の新しいスタンダードを確立し、普及させる上で大きな役割を果たした。すなわち、王立科学アカデミーに所属する熟練した自然哲学者(科学者)たちによって集団的に行われる、観察(observation)を基礎とした自然哲学である。

 クロード・ペローたちが『動物誌』の中で描いた動物たちは、ヴェルサイユとヴィンセンヌに設立された動物園に外国からやってきた。その多くは外交によって他国から贈呈されたものであったり、探検家たちによってヨーロッパに連れてこられたものである。外国からもたらされた珍奇な動物たちは、国王の植民地政策が成功していることの目に見える証拠になると同時に、古代ローマ帝国で行われていた慣習、すなわちコロセウムで凶暴な動物どうしを闘わせる慣習を復活させることで、国王の権力を象徴的に示す道具ともなった。とはいえ、「動物園」という人工的な環境に押し込まれた動物たちは、パリの厳しい冬を乗り越えることはできず、絶命することは避けられなかった。そのとき、クロード・ペローは絶命した動物たちを解剖し、自然哲学の研究に役立てるという着想を得たのである。そうして解剖された動物たちは銅板印刷の形で描写され、『動物誌』をはじめとする数多くの出版物として刊行された。そうした出版物は、珍奇であると同時に凶暴な動物たちを手中に収める国王ルイ14世の権力を世に知らしめる上で、すなわちルイ14世の「強力な国王」というイメージを構築する上で大きな役割を果たしたといえる。

 1660年代の小冊子は叙事的であったのに対して、ルイ14世をアレクサンダー大王に喩えて賛美するクロード・ペローの序文が添えられていたり、ユリの花などの王家の象徴をふんだんに用いた扉絵に百獣の王ライオンが描かれていたりと、1670年代に刊行された二つ折り本の内容は国王の権威を高める象徴的な効果をはっきりと狙ったものであった。同時に、ペローは序文の中で、『自然誌』が観察に基づく自然哲学に依拠していることを述べつつ、デカルトが打ち立てた思弁だけによって構築された体系(sysmem)や因果理論(causal theories)を明確に退けている点も特徴的である。しかしながら、『自然誌』は桁違いに高価であったため、それもごく一部の限定された人々に配布されただけで、広く流通するようになるためには1733年に再版されるのを待たねばならなかった。

 ペローの『動物誌』には先行する類書が存在していたが、それまでに存在していた比較解剖学にも自然誌のいかなる研究にも見られない新規性をペローの『動物誌』は持っていた。まず、それまでの博物学者とは異なり、ペローは動物たちをある体系だった基準に従って分類することよりも、それらを緻密に解剖して調査することに力を注いだ。それゆえ、国王の権威を象徴的に讃えるためにライオンが最初に描かれていることを除けば、『動物誌』で描写されている動物の並びには決まった規則は存在しない。また、大部分の比較解剖学者とは異なり、一種類だけの動物やその一つひとつの臓器だけに焦点を絞らず、多種多様な動物を描いていることも注目に値する。

 ペローの『動物誌』に描かれた動物たちは外来の希少動物であったため、そこに描写された内容が読者に対して信憑性を持つための方策が必要であった。どうすれば、書物の中に描かれているだけの動物たちがその通りに実在することを証明できるだろうか。ペローは、王立科学アカデミーの理念となる、会員たちによる相互承認という方法を援用した。すなわち、ある個人だけの証言では信憑性が得られなくとも、王立科学アカデミーに所属する熟達した、「哲学的精神」(esprit de philosophie)を兼ね備えた自然哲学者たちが「全員で見る」というものである。ペローのこのような学問的な立場はDastonとGalisonのObjectivityで提示された枠組みには簡単には当てはまらないが、見方によっては17世紀から18世紀へと移行する過渡的なケースとしてペローをとらえることができるだろう。

 ペローの『動物誌』が採用した描写の方法は、自然な状態で生きている動物を描くと同時に、「騙し絵」(trompe l’œil)のようなスタイルで、解剖された描写が載せられた用紙がピンで留められた状態で描かれている。このようなやり方は当時ほとんど行われたことがなく、ペローが意識的に自然誌(natural history)と自然哲学(natural philosophy)とを結びつけようとしたものであるといえる。それと同時に、デカルトが思弁的に事物の因果関係を演繹したのに対して、ペローは臓器を観察した結果から因果関係について説明した。 また、ルネッサンス時代にGessnerが制作したHistoria animaliumに比べて、『動物誌』は自然背景の中に動物を描いている点も重要である。とはいえ、その背景描写は純粋な自然ではなく、ヴェルサイユといった人の手が加えられた自然、「人間のテリトリー」であった。猿の挿絵がそのような特徴を最もよく示している。また、人間と猿との類似点と相違点が分析され、ペローはデカルトやガレノスとは違った見解を提出している。さらに、アリストテレスや大プリニウスが表面的な類似性に基づいて動物たちをひとまとめにしたのに対して、解剖によって構造的により近いと判断された動物たちをひとまとめに分類している。