そこにかつて球場があった その1藤井寺球場 | What a pandaful world!

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アラカンの専業主夫PANDAがつづる、
サッカー(ギラヴァンツ北九州)と音楽と料理のつれづれ日記。

あわただしかったサッカーシーズンも終わり、意地で書いていた毎試合のプレビュー、レビューからも解放されほっとしています(笑)

 

今回は新シリーズの1回目として私の好きな跡地探訪でかつて野球場があった場所を訪ねてみたいと思います。

 

実際に行ってみて写真を撮ったりしたいところですが、今はパソコン上で場所を時間をも超えていろんなところに行ける時代になりましたのでそれらを使って訪ねてみます。

 

出典は国土地理院ウェブサイト、Googleマップ、今昔マップon webによるものです。

 

今ではプロ野球をさっぱり見なくなり、最近の事情は全く知らないのですが、昔は結構見てました。

 

1977年から7年半大阪に住んでいましたが当時は私はクラウンライター~西武にかけてのライオンズファンで今は無き球場にもよく見に行きました。

 

今回の近鉄バファローズの本拠地、藤井寺球場は住んでいた吹田や豊中からはかなり遠く、1回だけ行ったことがあります。

 

近鉄南大阪線の藤井寺駅を降りて線路沿いに3~4分西に戻れば普通の住宅街の中にいやでも目に入る西洋のお城のような入場口にたどり着きます。

 

 

この球場は近鉄の持ち物でしたが当時は照明設備が無く(1984年になって設置)平日のナイターは大阪市内の日本生命の持ち物の日生球場を借りて行い、藤井寺では土日祝のデーゲームのみ開催されていました。

 

また、住宅街と言うことで照明もそうでしたが、太鼓やトランペットの鳴り物を使っての応援も禁止されていて河内のおっさんの野太い声の面白いヤジが響いていました。

 

歴史はかなり古く1928年(昭和3年)の完成で当時の地図を見てみると

 

1927~1935とあるので少なくともできて数年以内の地図です。

 

「ふぢゐでら」駅の西に「野球場」と書かれています。

 

私が見たのに近い年代だと

かなり開発が進み球場と仲哀天皇陵の前方後円墳以外は住宅地が取り囲んでいます。

 

できた当初は内野席には甲子園のような大屋根(鉄傘)が設置されていたそうですが、戦時中に資材供給でスタンドとともに外され、グラウンドは芋や大豆の畑になったそうです。

 

戦後すぐ昭和21年の航空写真です。

スタンドは無くただの空き地のようで野球場の形では無いですね。

 

球場は建て直されプロ野球近鉄パールス~バファローズが本拠地として使用、しかし前述のように後年まで照明が無く、借り物の日生球場もキャパ3万人以下とオールスターや日本シリーズを行う条件を満たさず、近鉄は大阪球場を借りて日本シリーズを戦ったりしてました。

 

1984年照明設備ができて以降、ナイターも行われ藤井寺での試合数も増えましたが、1998年本拠地を大阪ドームに移行、2005年には球場そのものも廃止されました。

 

今昔マップの右の現在の地図の同じ場所は学校の記号3つがありますね。

 

グーグルマップで見ると

「藤井寺球場跡」「四天王寺東高等学校・四天王寺東中」とあります。

 

球場跡地には私立の小中高の学校が建てられ南側3分の1ほどは大きなマンションが建てられました。

 

日本の球場では珍しい六角形をした球場でしたが、マンションが3棟外野スタンドのような形でレフト側が斜めの道路に沿って建っているのが名残と言えるでしょうか。

 

四天王寺学園をストリートビューで見てみました。

最初の写真の入場口あたりです。

 

右側の電柱の奥になにやら白い砂利の上に茶色の石のようなものが見えますね。

 

アップで見てみましょう。

 

台座には金色のホームベース型のプレートがあり、「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928~2005」と書かれています。

 

上には藤井寺球場の形の建物の上にボールがありそこに帽子をかぶって両手で頬づえをついた少年が座っている「白球の夢」と題されたモニュメントです。

 

河内のおっさんのヤジが響いていた場所は小中高生の嬌声が響くようになりました。