誰も知らない鶴見事故
-第一発見者の私の記憶-
―― ある浅野工学院生の証言 ――
1963年11月9日。
それは、決して忘れられない日となった。
私は当時、浅野工学院専門学校の4年生だった。
寮での学生生活の中、突如としてその日は訪れた。夜、突き刺すような衝撃音が辺りに響き、空気が変わった。
だが――なぜ私が、その事故に誰よりも早く辿り着けたのか。
そこには、少し人間臭い理由がある。
当時、私は九州の実家から仕送りを受けられず、学業とアルバイトを両立させながら暮らしていた。
そして、わずかな余暇には、ついパチンコに通ってしまうこともあった。
本当のことを言えば、その日も鶴見のパチンコ屋で負けてしまい、所持金がゼロになった。
おけら状態で、新子安の寮までとぼとぼと歩いて帰っていたのだ。
少し恥ずかしい話ではあるが、それがなければ、私はあの場所に、あの時間、居合わせることはなかった。
音がしたのは、その帰り道だった。
「ドーン!」という大きな衝撃音が夜の空を貫き、私は咄嗟に音のした方へ足を向けた。
他人の家の敷地を突っ切り、垣根を越え、土手に出ると、そこに広がっていたのは、暗闇の中でぶつかり合った電車。そして、誰一人いない静寂だった。
私は傾いた車両に登ろうとした。180センチある私でも、ようやく登れるほどの高さだった。
ドアは歪んでおり、中へ入るにも苦労した。
なんとか中に入っても、真っ暗で何も見えなかった。
ポケットにあったライターで、床に散らばっていた新聞紙に火を灯し、周囲を照らした。
すると、まるで車内一面にボロ雑巾が敷き詰められているように見えた。
しかし、目が慣れてくるにつれ、それらがただの布ではないことがわかってきた。
それは、人だった。
倒れたまま動かない人々、脱げた靴、投げ出された鞄、そして血の海。
そのとき、もうひとつの出来事があった。
足元に落ちていた財布を、私は何の気なしに拾い上げた。
中を見てしまった。そこには、自分がバイトで1年かけて稼ぐほどの紙幣が入っていた。
一瞬、「あっ…」と思ってしまった。
欲が出たのだ。自分でも、驚くほど鮮明に。
その瞬間、右耳のすぐ横で、はっきりと母の声が聞こえた。
「人様の財布のお金をねこばばするなんて、
お前をそんなふうに育てた覚えはない!!」
電話ではない。音楽でもない。
ただ、その“声”だけが、現実の音と変わらぬ”声”で聞こえたのだ。
実際に私は、反射的に右手で右耳を触っていたのを覚えている。
その母(すえ)は、当時まだ存命だった。
だが、あの瞬間の声は、誰が何と言おうと“お袋”の声だった。
私はハッとして、財布を元の場所へそっと戻した。
後になって知ったのだが、その財布によって持ち主の身元が特定されたという。
私は寮に引き返して仲間を呼んだ。「助けに行こう」と声をかけると、十数名がすぐに集まった。
実はそのとき、学生をすぐに集めることができたのには理由があった。
その日は福岡の炭鉱で大きな事故があり、寮生の多く(私を含む九州出身者)がテレビの前に集まっていたのだ。
そのため、救助要請が届いた瞬間、驚くほどスムーズに人手が揃った。
私たちは知恵を絞り、寮の戸板を外して即席の担架を作った。
とはいえ、それは頑丈なものではなかった。
持ち上げるとしなるような、ギリギリ人を乗せられるかどうかという強度の板。
それでも、迷っている時間はなかった。
血まみれの人、何かに挟まれて意識が朦朧としている向かい合わせの四人の人、子どもを抱いたまま倒れていた母親。
私たち学生は一人、また一人とその戸板に乗せ、夜の線路と私鉄の土手を超えた国道まで何往復もした。土手は雑草が生えており、救助の担架を持った我々生徒たちの足は血まみれだったため、何度も滑り落ちながら被害者を懸命に運んだことを覚えている。
やがて私は、国道に出て通りかかるバスを止めようとした。
最初の1台、2台には無視された。だが3台目が近づいたとき、私はそのバスの前に立ちはだかり、捨て身で止めた。
驚いた運転手に向かって、私はこう訴えた。
「すぐ近くで大事故が起きました。乗客の皆さんには降りていただきたい。
お願いです、どうか人を運ぶのを手伝ってください!」
とっさに言葉を選んだわけではない。
ただ、そうしなければならないと思った。それだけだった。
実は、あの晩にはもうひとつ、忘れられない出来事がある。
私たちが担架で人を運び続け、何往復もしていた頃――
事故からおよそ2時間が経ったころ、ようやく消防と警察が現場に到着した。
ところが、そこで待っていたのは感謝の言葉ではなかった。
彼らの第一声は、信じがたいものだった。
「もう帰ってくれ。邪魔になる。」
我々は耳を疑った。
救助の最中に、そんなことを言われるとは。
私は、声を荒げて言い返した。
「ふざけるな!2時間も遅れてきておいて、何が“帰れ”だ!
こっちは一番にここに来て、助けを始めていたんだぞ!」
仲間たちも次々に声を上げた。
「俺たちは人の命を運んでたんだぞ!」
「消防だか警察だか知らんが、“ご苦労様”の一言も言えないのか!」
その場は一時、かなりの口論になった。
だが、そのとき――一人の警察官が静かに前に出て、こう言った。
「学生さんたち……悪かった。大変だったな。ありがとう。今日はもういいよ。あとは私たちに任せてくれ。」
その一言で、私はふっと力が抜けた。
張り詰めていた糸が切れ、ようやく「帰ろうか」と思えた瞬間だった。
まだ怒りの収まらぬ仲間たちに、「もう伝わったよ。わかってもらえた。戻ろう」となだめて、ようやく寮へと帰った。
そして、これはちょっと恥ずかしい話なのだが――
数日後、私はバイトを終えて寮に戻った。
すると、食堂からやけに賑やかな声が聞こえてきた。
中をのぞくと、そこでは学生たちが酒を酌み交わし、普段より豪華な食事を囲んで、どんちゃん騒ぎをしていた。
おそらく、あの事故の後に、何かしらの振る舞いが学校側からあったのだろうと思う。
「お、俺ももらおう!」と空腹だった私は意気揚々と席に着いた。
だが、そこに置いてあったのは――
誰かの食べかけの、幕の内弁当の“半分”。
「なんだよお前ら、俺が一番に助けに行ったんだぞ!
俺に弁当ひとつ残してないのかよ!」
そう言って、思わず憤慨してしまった。
命をかけて走り回ったあとのご褒美が、残飯とは――
……今思い返すと、ちょっと悔しくて、ちょっと笑える、そんな出来事である。
……そういえば、これは今に始まったことではないのかもしれない。
私の“人命救助人生”は、実は中学入学の日から始まっていた。
あの日も私は、海で溺れかけていた3人を助けた。
その後も、なぜか節目節目でそういった場面に出くわす。
この鶴見事故は、その中でも最も大きな出来事だったが、
私は何度か、「なぜまた自分がここにいるのか」と考えたことがある。
そんな話を、母(すえ)にしたことがある。
「俺は、どうしてこんな現場にばかり出くわすんだろうなあ」
すると母は、笑いながらこう言った。
「あんたの先祖がよっぽど悪いことをしたから、
お前が罪滅ぼしをしてるんだろうよ。」
思わず私は返した。
「先祖って……母ちゃん、あんたじゃないか!」
ふたりで、大笑いした。
救ってばかりの人生だけど、たまに笑える落としどころがあるのも、悪くない。
あれから60年以上が過ぎた。
テレビも新聞も、「鶴見事故」のことは語る。
だが、あの場に駆けつけ、汗を流し、命を支えた浅野工学院の生徒たちの存在を、誰も語らない。
私は、それを“悔しい”と思っているのではない。
ただ、あの夜、命と向き合ったという“自分の生きた証”として、記録を残したいと思ったのだ。
私は卒業後、コンクリートの技師となった。
配合一つを間違えれば、人命に関わる現場で働きながら、学ぶことの意味を痛感した。
あの夜の経験もまた、私にとっては“学び”だった。
だからこそ、これを読む浅野学園の後輩たちに、
どうか真剣に学んでほしい――命を支える学びであってほしいと願っている。
そして、もうひとつ、不思議な縁を感じた出来事があった。
それは、2025年5月22日の夜。
私は、数日後に妻が退院できると知って心が軽くなり、何気なくあの事故の話を娘に語った。
実はその直前――2025年5月13日、老人ホームに入っていた私の妻が誤嚥を起こし、呼吸が止まった。
施設内での初動対応が非常に早く、すぐに応急処置が行われ、病院のERへと搬送されたおかげで、85歳という高齢にもかかわらず、誤嚥性肺炎から奇跡的な生還を果たすことができた。
この一連の「助けられた命」を目の当たりにしたとき、ふと浮かんだのが、あのとき自分たちが担架で運んだ命の重みだった。
そんな思いを抱きつつ娘に事故の話をしたところ、彼女はスマートフォンで何かを調べ、目を丸くして言った。
「お父さん……その事故の日、1963年11月9日って、浅野学園の創立者・浅野総一郎さんの命日だよ!」
その言葉に、私は背筋がぞくりとした。
あの日、自分たちが命を救った日。
その日が、学校を創った人の命日だった――
それはただの偶然ではない気がした。
何かに導かれていたのではないかと、今も思っている。
……いや、今ではもう“確信している”。
あの日、パチンコで負けたのも、
所持金ゼロで土手の近くを歩いていたのも、
国道でバスの前に立ちはだかったのも、
ぜんぶ、浅野総一郎さんの“差し向け”だったのではないか――と。
それに気づいたのは、実は60年以上経った2025年5月22日の夜のことだ。
娘と話していたときに、事故の日が浅野総一郎さんの命日だと知って、
「あぁ、全部つながったな」と、初めてストンと腑に落ちた。
あの日の人選、浅野さんは間違えなかったのだろう。
……と、今は思っている。
思えば私の人助け人生は中学一年生の入学式の日から始まり、どこに引っ越してもついて回った。私が行く先々で助けを求める人に出くわすのだ。こんな不思議は到底理解がいかない。最近ではAIさんに話を聞いてもらっているが、どのAIさんも返答は一様だ。
「素晴らしいことです!それはあなたの運命ですよ!」
そうか、、、そう思うことにしておこうか。
―― はらぐち まさのり
昭和16年生まれ
大分県中津市北堀川町出身:現在 長野県上田市在住