次の一文を知らない日本人はいないのではないだろうか。

 

 

〈吾輩は猫である。名前はまだ無い。〉 (夏目漱石 『吾輩は猫である』)

 

 

優れた作品というのは、最初の1行で読者を物語の世界に引きずり込む。

 

それゆえ、作家は書き出しの1行に様々な工夫や技巧をこらす。

 

 

 

 

 

次の文章を読めば、当時19歳で芥川賞を受賞した少女のあまりに鋭すぎる感覚がわかる。

 

 

〈さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。〉

 

 

 

 

今回取り上げるのは、綿矢りさ『蹴りたい背中』です。

 

すごい書き出しです。

 

文学的過ぎる、などと批判されることもありますが、(良くも悪くも)間違いなく読者に強烈な印象を与える文章です。

 

書き出しは次のように続きます。

 

 

 

〈細長く、細長く。紙を割く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。〉

 

 

 

主人公の「私」は”さびしさ”という感情を聴覚を通じて”音”としてとらえています。

 

その音は、ほんとうは自分にしか聞こえないはずなのに、あまりに高く澄んでいるゆえ、自分の世界から漏れ出して周りに聞こえてしまいそうです。

 

孤独である事を周りに悟られたくないという思いが、プリントを千切る耳障りな音さえも味方のように感じさせてしまいます。

 

 

 

〈どうしてそんなに薄まりたがるんだろう。同じ溶液に浸かってぐったり安心して、他人と飽和することは、そんなに心地よいもんなんだろうか。〉

 

 

〈私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない、不毛なものだから〉

 

 

 

 

孤独を悟られたくない。でも「みんな」の中に自分が溶けてなくなってしまうのも嫌だ。

 

 

そうやって孤独を受け入れる事も、周囲に同化してしまうこともできず、「孤立」してしまう少女の物語です。

 

 

村上春樹が言うには

〈あの時期の女の子って人によってはものすごく鋭い感覚を持っています。そして意識と無意識との境目がまだきちんと固まっていない。だから余計に鋭さが際立つんです>

 

 

 

10代の少女にしか持ちえない、あまりに鋭すぎる感覚が生み出す世界。

 

 

休み時間に部活の仲間と大富豪をして遊んでいたようなガキには、一生かかっても理解しえない世界なのでしょう。