都内のとある学校で現在使用されている国語の教科書を読んだ。
今回読んだのは中学国語だけれど、日本語母語話者に教える国語文法と、日本語を外国語として学ぶ学習者に教える日本語文法の差に改めて気づかされたり(仕事柄…)、文学の根幹や、文構成の基本的な部分を再認識したり、なんだか色々と気づかされる部分があったように思った。知らなかったこともあった…。
また、時代の変化と共に教科書も変化していることも興味深かった。SNSに関すること、また日本に住む外国人が増えているせいか、日本語学に関すること(音声学とか対照言語学とかも)も易しく載っていた。
自分が中学生の頃は、教科書を楽しんで読むなんてことはまずなかったけれど、今読んでみると、短篇集のような感覚で興味ひかれる物語なんかもあったりして、わりと楽しんで読むことができた。
学生当時は他にも色々とやるべき勉強がたくさんあったし、そもそも勉強は試験でいい点をとるためだとかそういう考えが強くて、勉強を楽しむという気持ちがよく分からなかったから(もったいない気がするけど余裕がなかったのよ)、しょうがないのかな~。
義務ではなくなった今は余裕があるせいか、わざわざ読む必要もない教科書をすすんで読んだりしている(国語限定だけど)。
例えていうなら、おじいちゃんおばあちゃんが孫を見る気持ち。我が子なら育てるのに必死だけれど、孫となれば責任はないし余裕をもって接することができる。どうにもこうにも泣き止まずに困ったら、ママにバトンタッチしちゃうし。もちろん孫がいるわけじゃないし、さすがにまだそんな年齢じゃないけど、なんとなくそう思った。
しかし、仕事で必要なお勉強はなかなかやる気が起きないのはなんでかな…
教科書には、昔読んだ作品や有名だけれど読んだことのない作品、懐かしくもあるが新鮮でもあった。せっかくなので、いくつかピックアップしてメモ程度に所感を書いてみる。
▶『夏の葬列』山川方夫
これはきつい話だなぁ…。幼いからこそしてしまう残酷さというのがあり、その後悔の傷は鎖となり一生涯捉えられる。一度救いが見え、捉えられた鎖から解放されるかと思いきや、それは偽りであり再度奈落に突き落とされる感じだ。逃げ場所はないのだろうか。
▶『銀のしずく降る降る』藤本英夫
アイヌの女性、知里幸恵について記されている。19歳の短い生涯の中で彼女が残した『アイヌ神謡集』を読んでみたいと思った。彼女は金田一京助にその才能を見いださたけれど、誰の縁に恵まれず埋もれて消えていった才能の人も(文学に限らず)いたんだろうなと思う。そんなの世界中に無数あるか。
アイヌ語は現在消滅危機言語とされているけれど、最近はアイヌ関連のマンガが流行ったり、こういう本を読んで人々の記憶に残っていくのはいいことだと思う。
▶『あのころにはフリードリヒがいた』より「ベンチ」ハンス=ペーター=リヒター
ユダヤ人が政策により差別されていた時代、ユダヤ人には様々な制約があった。例えばベンチ。ユダヤ人は黄色のベンチにしか座ることはできない。それ以外のベンチに座っているところが知られたらきっと連れて行かれちゃう。
そんな中、主人公の思いを察して黄色いベンチにみずから腰掛けた彼女。それは彼女にとって危険な行為だけど、こうして偏見をもたずに味方してくれる人だっているのだよ。
▶『オツベルと象』宮沢賢治
資本の世界では資本家は強い。弱い労働者は従うしかない。弱者は色々なことをハナからあきらめていて厄介事は見て見ぬふりする風潮。そんな中で立ち上がり一致団結した労働者たち、勢いだけで資本家を消したところで何かが変わるのだろうか。世間を風刺している作品。
▶『少年の日の思い出』ヘルマン=ヘッセ
自分は本を読んでいるだけなのに、なんか自分が責められたような後味になる、何とも言えず苦しくなる作品…。それは大人になった今も同じ…。
▶『走れメロス』太宰治
何度も読んだ作品。作中、三人称から突然一人称に変わってすぐに三人称に戻る部分が出てくるけれど、その効果でより緊迫感が感じられるし、メロスの意志が強調されるように感じる。
最後は、赤い映像で統一されている。なお、シリアスな場面もずーっと全裸であり、やっぱりどこかにユーモアがある気がする。そして今や自分は邪知暴虐な王の気持ちに一番共感できる気が。
以上、教科書読書でした~。
お読みいただきありがとうございました