世界中で知られる名作、『はてしない物語』を最初から最後まで読んだのは、実は今回が初めてだったりする。

 

本書は緑と赤の文字で印字されていて、
現実と非現実(という表現をすべきか迷うけど)
二つの世界によって色分けされていた。

 

 

この本の中には、無数のはてしない物語が入っている。一つの軸になった物語からいくつもの話が生まれ、枝分かれをしたかたちで独立した話になる。そして、その一つ一つの話は、それぞれはてしなく続いていく(それらは本書では話されず、また別の話となる)。

もちろん、基軸である物語もはてしなく続いていくのだ。

 

ここでは、ファンタージエンという国を舞台として、少年バスチアンの物語が描かれていた。ファンタージエンに入ったときはまだ精神的に幼かった少年だが、この国を出るとき彼は成長していた。

バスチアンが去った後は他の誰かがファンタージエンに入り(その時、国名は変わっているかもしれないが)、この物語を進んでいくだろう。

バスチアン以前にも、古書店主であるコリアンダー氏が少年時代に同じような体験をしているという。もちろん、コリアンダー氏以前にもまた同様の物語があったはずだ。

 

もしかしたら今ここに生きる私たちも、その軸から枝分かれした物語の中のひとつなのかもしれない。そして主人公になった自分は新たな基軸となり、自分の物語を進んでいく。そして、そこからまた枝分かれして無数の話ができていく。それらはずっと繰り返し、終わらない。

 

ちなみに、わたしの物語は常に鬩ぎ合っている気がする。鬩ぎ合いの結実で物語が描かれているのだ、きっと。

生と死、二極間の鬩ぎ合いの結実が今の自分だとすれば、それらは同じ重要性を帯びている。真と虚の二極間も同様であり、このブログでは時に虚の自分が登場しているようだが、それは鬩ぎ合った末の真の自分でもあるのだ。逆も然り。

そして、二項対立し合うそれらは帳消しし合っているとも言える。どうせ全部消えてしまうのだ。しかしまた性懲りもなく生まれてくる。。

遠い昔に作られたどこかの物語から何度も枝分かれをして主人公となってしまった今のわたしは、本来は暗く陰鬱な病であり、何度も虚無に襲われ、虚無パンケーキを作ったりする。蜂蜜をたっぷりかけても虚無の味。毎日毎日刹那の死を反復をしながら今、わりと穏やかに生きている。

 

※精神疾患と言っているのではなく私は文学少女ということです。少女?というツッコミは受け付けません。

 

・・・・

話がそれたけど、ファンタージエンでこんなことを言う謎な生物が出てきた。

 

大事なことなどもう何もない。何もかも永遠に繰り返されるのじゃ。昼と夜、夏と冬。世界は空虚で無意味なのだ。何もかも、環になってぐるぐるめぐっておる。生じたものはまた消えうせ、生まれたものは死なねばならぬ。善と悪、愚と賢、美と醜、すべてはたがいに帳消ししあっておる。むなしいのじゃ、すべては。ほんとうのものは一つもない。大事なことは一つもない。

 

この世界は同じことが繰り返し繰り返し続いていくという「永劫回帰」の考えが含まれていて、重要な役割を果たすアイテム「アウリン」の形にその意味が含まれていると感じた。だから、単行本の表紙にはアウリンが刻印されており、『はてしない物語』の根幹があらかじめ明示されているような気がする。

 

「アウリン」は、明と暗の二匹の蛇がたがいに相手の尾を咬み、楕円につながっている宝のメダルだ。もし二匹が相手を離すようなことがあれば、世界は滅びるのだ。この環の形には意味があったのだなと思う。

 

単行本の表紙。※画像はこちらから。

分かりづらいけど白黒の蛇がお互いの尾を咬んで環を作っている。

 

 

 

ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。

ファンタージエンの入口はいくらもあるんだよ、きみ。

そういう魔法の本は、もっともっとある。

それに気が付かない人が多いんだ。

つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。

 

 

 
挿絵も夢膨らむ。
 

 

ところで、ファンタージエンに入ったことがある人っている?

少年じゃなくても中年でも入れるんでしょう?

 

 

 

‥‥……‥中年でも