2023年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの(劇)作家であり詩人である、ヨン・フォッセの作品を読んだ!
日本では今回の受賞以前は馴染みない作家だったようで、『だれか、来る』が、はじめての邦訳だとか。
いやーー、、
これは異風の体って感じの作品だった……。
一筋縄ではいかない(よく分からない)凄味が。。。
初っ端から、なにやら「妙な含み」を感じる不穏な空気が漂っているものの、劇的なドラマは何も起こらない。さらに、ストーリーはほとんど進展しない。
‥‥‥。
しかし終始拭い去らない妙な感覚。少なくとも、この書に不安は存在する。これは、もしかしたら心理戦のような仕掛けが含まれているのか……!? と期待するも虚しく、面白い展開はとくにない。
‥‥‥。
『だれか、来る』は戯曲であるから、ちょっとした場面状況が書かれている他は、すべてセリフだ。
セリフは非常に短く断片的。
「だれか いる」「だれか 来る」など、同じような表現が何度も繰り返されているんだけど、もう分かったよ~ってくらい反復する。
しかし、そこには必ず「間」が存在している。もちろん「間」は文字に出来ないから、読者の目には見えない。文字と文字の間、行間。単に何もない余白。これは「沈黙」とも言えるのかも。
あれ、この作品、セリフよりも沈黙のほうがはるかに多く存在しているんじゃないか!?
ほとんど余白で、白い部分多いよ。
だから、パッと通読したら「・・で?」とか「・・何が言いたいの?」ってなるかも。
じゃあ、凄味は何かといえば、、、、、、
なんだろ。。。?
・・たぶん、この「なにもなさ」だったり、「あるがまま」だったり、そんな感じのセリフを読み、そして、その「間」を読者自身の力で感じなければいけないという点かもしれない。
そもそも人と会話する時って、ずーっと喋っているわけではない。所々で沈黙が起こる時ってあるわけで。必ず「間」が存在している。
しかも、この戯曲は徹底的に余計な言葉をそぎ落としているので、読む…というよりは、やっぱり感じなければならないのかもしれない。
もはや、句読点すらもそぎ落としているぞ。
そもそも、「何が言いたいの?」って言われても、「何も言う必要がない」のかも。
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読者の感じ方次第によって、この作品が完成される気がするので、ある意味深すぎるし、難解でもあると思った。
(作品自体は、数時間で読み終わるんだけどね。「感じる」となると一筋縄ではいかない……のかな?)
と言っても、いまいちピンと来ないかもしれないので(私自身も来ていないし…)、ヨン・フォッセと親しい関係である訳者、河合純枝氏の解説を引用する。
フォッセの意図するところは、もっと複雑である。彼は、個々の人間の心理や劇のストーリーには、興味がない。日常我々は、会話では、長い確立した文章を交わし合うわけではない、と彼は言う。短い言葉の断片を発しながら、「間」をとり、言葉に表れない心の動きを感知し、相手の心を無意識的に理解しようとする。人は、どうやってコミュニケーションをとるのか。一人の人間が放つ言葉の発信音が、話し相手にどのように響くのか。言葉と言葉、言葉が途切れて沈黙と沈黙がぶつかり交叉する「中間の場」としての「間」。それは、人間間のコミュニケーションにどう作用するのか。このコミュニケーションの磁場の力学が、フォッセが探る領域なのだ。
フォッセの邦訳、もっと読んでみたいと思ったりもするけれど、日本語に訳するのは大変そう。
解説にあったんだけれど、例えばこれ。
↓
Alone together
Alone with each other
Alone in each other
なんて訳すんだろう。
ふたりきり?
それぞれのニュアンスの違いとかよく分からない。
(原書は英語ではなくノルウェー(ニーノシュク)語)
こう考えると、やっぱり「戯曲」というよりは「詩」なのかもなぁ。。
(色々書いてみたけれど、結局あまりピンと来てないわたし…)