久しぶりに室生犀星を読んでみたキラキラ

もしかしたら詩より小説の方が好きかもしれない。やさしい感じとさびしい感じが交錯していて、切なくも癒される気がするから。

 


『或る少女の死まで』は、犀星の自伝的小説で、他に『幼年時代』『性に目覚める頃』の三編が収められている。

主人公は「私」となっていて、「室生くん」とか「照ちゃん」とか呼ばれていた(本名室生照道)。

 


 

 

◆幼年時代

「私」7歳頃から13歳頃。繊細な少年時代の様子が描かれている。

室生犀星は、犀川が流れる石川県金沢市出身とのことで、その地の様子が豊かに描かれてあり、こんな四季折々の風景が彼の詩の原点なのかもしれないと思った。

 

昔のことと考えれば、境遇の変化はさして珍しいことでもないのか…よく分からないけれど、「私」は生みの親からよその家へもらわれ、さらには寺へと引き取られ、親が点々と変わる環境で育っている。

心の拠り所は、やはり生みの母親のようで、生母と離れてからは日常の中でのさびしげな様子が随所に現れていた。でも、別のうちの子になり、生母に甘えられなくなってからは、そのうちにいた姉に甘えることができたようだ。

幼年時代、心を許せるひとの存在があったことはよかったと思う。

 

そんな優しかった姉もやがて嫁ぎ先が決まり、去ることになる。

ときどき姉がいた部屋に入ったり、姉からの手紙を読み返したり、懐かしさや恋しさを募らせている「私」がいた。

 

その室には、いつも姉のそばへよると一種のにおいがしたように、何かしらなつかしいあたたかい姉のからだからしみでるようなにおいが、姉のいなくなったこのごろでも、室の中にふわりと花の香のように漂うていた。

 

 

◆性に目覚める頃

「私」17歳、思春期の頃が描かれている。

次に引き取られた先の寺の父は、とても優しく愛の深い人だったようだ。「私」は落第ばかりで結局学校をやめてしまったが、家で勉強したって同じだと言ってくれる。

その頃から詩を投書し始め、父は、詩作も励ましてくれていた。

 

同じく詩をかく齢も同じくらいの青年「表棹影」と出会うことになり、彼と付き合うようになってから異性への興味がより具体的になってきたように見える。

生母や可愛がってくれた姉に対する感覚とはまた別のもので、それは悩ましくもあるみたい。

 

朝朝の目ざめはいつもぽおっとした熱のようなものが、まぶたの上に重く蜘蛛の巣のようにかかっていて、払おうとしてもとりのけられない霞のようなものが、そこらじゅうに張りつめられているようで、ものうい毎日がつづいた。

性の目覚めというよりは、結膜炎のような。。

 

 

◆或る少女の死まで

前二作は金沢が舞台であったが、「私」はすでに詩人となって上京している。といっても、収入は微々たるもので日々困窮しているのがうかがわれる。

 

東京の引越し先の家で出会った少女「ふじ子」、九歳で品のある少女だ。

 

私はその小さな花のような顔を見た。敏り深い聡明な清いひとみを見た。まるでいなごのようにはしこくデリケートな足や手や、それらが絶えずめまぐるしいほどよく運動しているのを見ると、この地上において、何者にも恐れることをしらない自由な、山岳のなかに咲いたひとむれの花のようにさえ思われるのであった。

 

「私」は、ふじ子と仲良くなる。彼女と過ごす時間は、かけがえのないものであると同時に温かみを感じていたようだ。

「私」にとってのふじ子は、すぐ近くにいてもどんなに仲良しでも決して手の届かない存在で、どんよりと曇った「私」の心にひとときお日さまを与えてくれるような、そんな風に見えた。

 

「余りに清浄なものと、余に瀆れたものの相違は、ときとすると人間の隔離を遠くするね。」


読んでいる限りでは、そんな言うほど「私」はけがれていない気もするけれど、「私」の中では暗い時代だったのだろう。少女とは世界が違う、そんな遠い隔たりを感じていたんだろう。

 

 

特に好きだったのは、「私」とふじ子が動物園へ行った時の描写。

鶴、猿、魚、象、豹、白熊‥‥‥、やっぱり詩的に描いている。その所々に入る、少女と「私」の会話がまたよかった。

 

「おじさんはどうしてきらいなの。」

「あんまりぴかぴか光るでしょう。あんなおさかなより黒い鯉のほうがすきなんです。」