まず、この著者のアーザル・ナフィーシーについて。

テヘランで生まれた彼女は英文学者であり、イランの比較的恵まれた家庭に育ち、アメリカへ留学、欧米教育を受けた。いわゆる西洋風のエリートだ。

帰国後は大学で英文学の教鞭を執るが、抑圧された環境に抗議し辞職。

 

『テヘランでロリータを読む』は、イラン(イスラム)革命、戦争に遭遇した著者が、その時に経験した激動の日々を文学を通して語った作品。登場人物においては配慮されてはいるものの、ありのままの出来事で、真実が語られている。

 

 

 

気付くことや考えさせられることがたくさんあって、付箋の量が凄いことになってしまいました!『ロリータ』多めですが読んでいただければ幸いです。長いですが…。

 

 

この本を読んで、文学の立ち位置や、本を読むことの意味を改めて考えさせられた。

読書は孤独な作業だけれど、私はどうして本を読み続けるのだろう。

 

まず、タイトルにもある『ロリータ』、作者はウラジーミル・ナボコフ。ナボコフはこう言う。

「すべての優れた小説はおとぎ話だ」

このことばについて、著者ナフィーシーはこう述べていた。

あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。

あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。

著者が直面しているのは目まぐるしく変化するイランの日常。現実は理不尽で残酷な状況だからこそ、現実にない自由や理想を強く感じるだろう。

 

 

 

イラン革命と女性の位置 

 

イランは、西洋化を目指し近代化が進んでいた国であったが、1979年に起きたイラン(イスラム)革命により全てが否定されてしまう。

伝統的なイスラム教の回帰を目指したものだが、西洋の文化を拒絶、アメリカとの関係悪化、女性は男性の半分の価値になる。

ヴェール(ヒジャブ)をかぶることはもちろん、時に美人というだけで罪になるし、声を出して笑う、メイクやマニキュアが見えたら鞭打ちや石打ち、下手すればレイプ後殺害(処女で死ぬと天国へ行くとされているから汚してから)、街には女を取り締まる男たちが常に監視の目を光らせている。例え罪がなくても、罪を問われれば、問うた男の体裁を保つため、女はありもしない罪を告白することもある。

ただ、イスラムの教えを厳密に守っていれば女性の自立、社会進出が認められていったのも事実だ。

 

現在のイランはどうなのだろう。ヴェールはファッション化し、流行があったり、つけない姿も見られるらしいが、ヴェール指導された女性の死亡による抗議のニュースは記憶に新しい。

現在女性差別が最も過酷なのは、おそらくアフガニスタンだと思う。

本書とは離れるが、現在のアフガニスタンでは、女性の教育が制限されてるし、ヴェール(ブルカとか)の下の靴にヒールを履いてはいけない。コツコツとした足音が男を欲情させる一因となるから。だから足音を立てれば鞭打ち。これは一例だけど。

女から生まれるのに女であることが罪のようにも思えてくる。

革命時のイランもそうだが、男は女を恐れているとしか思えないし、それが逆に女性の立場を上昇させることにもなりそうだ。

 

そのような中で著者ナフィーシーは、教え子数人と共に、大学外(ナフィーシーの自宅)で様々な文学作品を読む。今のことばで言えば「読書会」。メンバーは全員女性だ。

 

 

 

ロリータ 

 

タイトルにも挙げられている『ロリータ』。彼女たちは『ロリータ』をどう読むだろう。

ロリータと言えば、オッサンが少女を愛するという、よく知られている話である。オッサンの名はハンバート、少女の名はロリータ(通称)。彼らは39歳と14歳。

多くの人が、ハンバートを変態的に見るだろうし、まだ「子供」である14歳との関係を常識的とは感じないだろう。

しかし、ハンバート風に語れば、イスラムの世界ではこうだ。

 

陪審員のみなさん、忘れないでいただきたい。「子供」とあるが、この子がイスラム共和国にいたら、もっと年下のときから、ハンバートより年長の男性と結婚するのに何の支障もないのである。

*革命後女性の結婚が18歳から9歳に引き下げられた。

 

『ロリータ』は、ハンバート視点で語られている。

私がそうだったのだが、どうしてもハンバート側に立って読んでいってしまい、始めは変態、最悪、最低、とか思いながらも、ナボコフの圧(?)で時に笑ってしまうし、最後の方でなんか心揺さぶられる。オッサンがロリータという少女を心から愛してしまった。オッサンが熱い涙なんて流さないでほしい。

さらに映画を観ると(ナボコフ脚本の方)、話しが綺麗すぎて(規制があったせいだけど)、ハンバートの純愛ぶりが浮き出て見えてきて憎めなくなる。。

しかし、ロリータ視点で読めばかなりの悲劇的な作品となるわけで、テヘラン読書会の彼女たちはロリータ視点で読んでいるのだ。

 

 

よく考えてみると、ロリータがいかにハンバートの所有物として描かれているか。

ロリータは過去がすべて奪い去られている。父を亡くし、弟を亡くし、最後に母親を亡くしている。孤児だ。最後の母親の死は事故ではあるが、ハンバートが間接的に殺したようなものとも言えそうだ。とにかくロリータが帰る場所は、保護責任者であるハンバートしかいなかったわけで、もうどうしようもない。

 

本書ではこのように述べられていた。

私はロリータのことを考えるとき、あの生きながら壁にピンで留められた蝶を思う。この蝶はあからさまな象徴ではないが、ハンバートが蝶のようにロリータを押さえつけて動けなくすることを表してる。

彼の願いは、彼女を、生きた人間を静物にすること、彼女に自身の生をあきらめさせ、代わりにあたえられる静止した生を受け入れさせることにある。

ロリータのイメージは、読者の心の中で永遠に彼女を軟禁する看守のイメージと結びつけられる。彼女は牢獄の格子を通して初めて人の興味を惹く存在になる。

 

ハンバートの元から逃げたロリータが、彼と再会した時に発した「あなたにわたしの人生をめちゃめちゃにされた」とのことばが印象に残っている。

ロリータは天性の「ニンフェット」だけど理不尽な大人に振り回された。イランの女性たちの悲しみが『ロリータ』に反映されているようだった。

 

だれか気づいてほしい。あの子の無力さが憐み深く描かれていることを、非道なハンバートに頼るしかない哀れな立場を、その中でもずっと持ち続けた悲痛な勇気と、それが実を結んで、みすぼらしいながらも本質的には純粋で健全な結婚に至ったことを、彼女の手紙を、彼女の犬を。

 

テヘランでロリータを読む意味を感じたと同時に、『ロリータ』は読者によってその姿が様々に変化するスゴ本だと思う。

時に言葉の遊戯もあり、構造も緻密だし、筆力すごいし、ナボコフすごい!他の作品も少しずつ読んでいこう。

 

 

 

ギャツビーを裁く 

 

詳しくはこちらに。

↓↓

 

『グレート・ギャツビー』を改めて読んでみて、ふと思ったのが、ギャツビーと『ボヴァリー夫人』(エンマ)との共通点!

夢と理想の現実化と崩壊、、、ギャツビーとエンマはどこか似ている気がした。

 

 

 

まとめ的な 

 

大学や大学外の読書会で、ジェイムズ『デイジー・ミラー』や、オースティン『傲慢と偏見』はじめ、様々な文学作品を取り上げているが、実際はイラン戦争(1980年~)の日々が主に語られている。

メンバーの環境の変化や著者自身の変化も訪れ、本書は読書会の終焉まで書かれる。

 

全体を通して、ナフィーシーは文学について、想像力と、想像力で作られた世界の大切さを語っている。そして、彼女たちにとって、文学はあまりに哀しい現実を飛び越えたもう一つの世界であり、避難所でもあっただろうとも思う。

 

で、積読がやたら増えた。

 

 

朝起きてメイクをして家を出たら、私は現実の一部となるけれど、家に帰ってきたらもうひとりの私が出てくる。人と話せばまた現実の一部となるし、そうしたくない時は話さなければいい。

ギャツビーのように「緑の灯火」を目指すことはもうできない気がするけれど、妄想や想像は自由だし、もう一つの世界と自分のために、これからも本を読むんだと思う。

 

 

長々と最後まで読んでいただき、ありがとうございました_(._.)_