すべてが、なんて退屈だろう…。
坂口安吾の短編、先月読んだものですが、書きそびれていたので書いてみました。
こちらを読みました。
収録作品は、
- 風博士
- 傲慢な眼
- 姦淫に寄す
- 不可解な失恋に就いて
- 南風譜
- 白痴
- 女体
- 恋をしに行く
- 戦争と一人の女
- 続戦争と一人の女
- 桜の森の満開の下
- 青鬼の褌を洗う女
- アンゴウ
- 夜長姫と耳男
と、モリモリでした。
今回は、藤色作品だけ感想書きました。
なお、ピンク作品(←この響きはあながち間違いではない気も…)は、以前書いた記事があります。
↑人間関係の「肉体」を描いている!
今回読んだ短編は、どれもが女性をめぐる話となっています。
坂口安吾の作品を読んでいると、恋愛は切り離せない…というか人生においてなくてはならないものとしている印象も受けたりしますが、どうなんでしょう。
なお、「風博士」「白痴」「女体」「恋をしに行く」「桜の森の満開の下」は再読。
■姦淫に寄す
今の自分に特にズンときたのは、「姦淫に寄す」だった。
このプラトニックな感じは経験した者にしか書けないのかなぁなんて思い、矢田津世子が真っ先に思い浮かんだ。解説によると、やはり矢田がモデルということだ。
確かにお互い好意を持っていたはずだが、適度な距離を持ったまま、何もないままに、いつのまにか終わりになる感じ。
以前、矢田への思いが書かれてあるエッセイを読んだけれど、かなり切なくなってしまった。
これこそ究極の恋なのかもしれない。でも幸せにはなれないよな…。そんなことを思い出しながら読んだら、これまた切なくなった。
印象的だった場面は、ふたりが別れる時の場面。
二人の間の静かで心優しい空気感。しかし、男の方から「余儀ない用のために帰る」と言い出す。女は引き止め、「残念ですわ」と言うが、彼女の顔から微かな安堵の吐息が感じられる。その安堵の真偽は定かではないが、そうなのだろう。
彼女と別れた後の汽車の中で男は哀愁を感じるが、それは彼女を対象とした哀愁ではなく、最も漠然とした一つの気分としてのものだ。しかし、やみがたい悲しさ、懐かしく心暖かい悲しさを感じつつ、その後二人が会うことはない。
こういう恋愛はとても切なくて心がぽっかりして辛いけれど、どこか美しい。しかしとても孤独だ。
↑矢田津世子のこと少し書いた記事
■青鬼の褌を洗う女
こちらも印象強かった。
この作品にもう少し早く出会えていたら、いつかあの時シクシク悩まないですんだのかも、とも思った。
以前、坂口美千代(安吾妻)と門井光男って人の対談を読んだ時に、この作品のモデルは美千代だということを知った。
女性の一人称で語られる作品だ。ちなみに、安吾の女性の一人称作品は「青鬼の褌を洗う女」「続戦争と一人の女」の二作のみらしい。
戦争中の女性がきれいごと無しに正直に生きている姿が見える。
戦争を原因とした世の中の不条理さ、家族との関係、良いも悪いもなく、彼女はありのままの現実を受け入れることができている。いつだって自分のペースを崩さずに。こんな環境になってしまったんだから仕方ない。どうにもならないんだから、受け入れて遊ぶのだ。遊ぶのだ。
受け入れて、ニッコリして男に腕をさしだすのだ。"私は貧乏と無知は嫌いだ。"
私はたぶん自由をもとめているのだが、それは今では地獄に見える。
暗いのだ。
私がもはや無一物ではないためかしら。
私は誰かを今よりも愛することができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。
燃える火の涯もないこう野の中で、私は私の姿を孤独、ひどく冷めたい切なさに見た。
人間は、なんてまアくだらなく悲しいものだろう、バカげた悲しさだとわたしはいつもそんな時に思いついた。
解説によると、エゴイズムを持たない天性の娼婦を書いてみたい、という思っていた際に妻美千代と出会い、この作品の女性ができあがったらしい。天性の娼婦にはエゴイズムがない、と安吾は述べている。なぜならば、自分を犠牲にして相手の喜びのみに奉仕する者だから、ということだ。
…すべてが、なんて退屈だろう。
そんな中で、彼女は退屈を受け入れ楽しんでいるようだ。
■アンゴウ
これはミステリーでもある。
本に挟まれた数字が書かれた謎のメモを見つける。
「34 14 14」のように数字3つのセットがたくさん並んでいる。
「34 14 14」→本の34頁14行14字目。このようにことばをたどっていくと語を成し、ある文が出来上がる。
これを夫は、妻と友人の不貞の暗号だと思う。友人はすでに戦争で死んでいる。妻は戦争の爆撃により失明している。自分の妻の不貞を疑っている夫。
例えば、本の貸し借りの際などにメモを挟んで渡す感じなのかなぁ。こんな面倒な手紙でやり取りするなんて、今でこそ粋に感じちゃうなぁ。いいな。
しかし、その暗号の謎がとけたときには、なんとも言えない気持ちになってしまった。爽快であり、深く満たされる気持ちでもある。
安吾作品の登場人物は、人生のすべてに退屈しているようだ。その要因は戦争によるものかもしれない。世相かもしれない。家族などとの人間関係によるものかもしれない。男女関係によるものなのかもしれない。貧困だろうか。別に世の中をすべてを見たわけじゃないから、分からないこと沢山だが、どこかで気づいてしまい、人生をある程度知ってしまったような感覚なのだろうか。私にも分かるような…。いや、そんな気がするだけ。
退屈な人生を諦めて生きている者、退屈に耐えられず虚無を憎む者、退屈を受け入れて楽しむ者。色々なタイプの退屈との接し方が見えた気がした。
都会の朝はつらい。
おつき合いいただき、ありがとうございました(* .ˬ.))