三浦綾子の「塩狩峠」は有名な話です。ひとのためにいのちを捨ててでも、何かができれば・・・。そんな思いにさせる本書の結末・・・。
 
 たしかに美しい。宮澤賢治の銀河鉄道の夜でも、さそりのエピソードのくだりで、やはりいのちとひきかえにしてでも・・・というくだりがある。
 
 わたしも、親には、「あなたの子供は死んだと思ってあきらめてください。この環境で育った私は、社会のために命を捨てるつもりで生きます」と言っている。
 
 だから、いわゆる絵に描いたような幸せは、もうとっくの昔にあきらめている。どんなにつらくさびしく、傍からは、さびしい人生といわれようと、私は人生をその思いで遂げるつもりでいる。
 
 松下政経塾をうけたときに、「あなたにとって楽しいことはなんですか」と聞かれて、はたと返答に詰まったことがあった。私は、私の境遇や社会を憎んでいただけなのだろうか。人生を楽しんでいないのだろうか・・・。いや、楽しいことはいっぱいある。みんなの笑顔をみたとき、自分の仕事が充実しているとき・・・。などなど・・・。
 
 
 誰かのために死んでもいい、という美学は、ときとして悲劇への誘導もうみだす。戦争のため、お国のために死ぬこと、世界平和という名のもとに、安全保障という名のもとに命を落とすことも肯定してしまうのかもしれない。それは、徴兵や傭兵へと若者を導いてしまうのではないか。そんな恐怖もある。
 
 だから、私には「塩狩峠」は大切な本だけれど、人にはあまりすすめていない。でも、大好きな本だ。何度も何度も読み返したりはしないけれど、本棚にいつもおいている。この答えのでない気持ちは、きっと棺桶に入るまで続くのだろう。
 
 
 おなじくして三浦綾子の「銃口」は、治安維持法のもと、綴り方運動によって逮捕されてしまう教師の話。師弟関係にある教師たちが、命がけでその信頼を守ろうとする。 
  
 自分であり続けることをまもること、思想・信条の自由をまもること。
 
 命がけで守らなければいけない自由もあること。
 
 私が、判断を迫られるときは、いつもこの話を思い出す。
 
 出処進退に潔く、そして権力に屈しないこと、人間にとって大切なものは命がけでまもり続けること。他人の命でも、命がけでまもり続けること。
  
 駅のプラットフォームで、いつも思う。ここで誰かが飛び込んだときに、私は潔く飛び込んで助けてあげることができるだろうか。ほんとうに私にできるのだろうか。