生活 | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

生活

 

 

ゆっくりと生きる。

それは誰にでもできることではないように思えますが、誰にでもできます。今、仕事をスローダウンさせて、今、やらなければならない義務を中途半端にすればいいんです。

 

生きている人は全て生活しています。家事や身づくろいは、生活に最も近い仕事です。それをまず、ゆっくりやります。そうすると、仕事の時間が無くなります。付き合いや、遊ぶ時間も無くなります。

 

十分な睡眠は上質な幸福感に不可欠です。一日9時間寝ます。

これまた、起きている時間が短くなって、やろうとしていたことが殆ど完成できなくなります。

 

家事、仕事、食事、運動、趣味、全てゆっくりと味わいながら生きます。計画の10分の1も終わらないうちに、一日が終わってしまうでしょう。

 

それでも、ゆっくり生きる価値があるのでしょうか。あります。なぜなら、人間は人間である必要がないからです。人間はアメーバであってもいいのです。人間は砂や水であっても構いません。人間は思想や空間でもいいのです。

 

幸福はバランスです。アメーバでは幸福に思えない人は、ゆっくり生きる必要はないでしょう。忙しいのが幸福なのですから。幸福が生きる目的であるとした時の話ですが。

 

ところで今話題のアドラーの言う、「世界が困難なのではなく、あなたが世界を困難にしている。」というのは、心理学の分野でとどまるんでしょうか。それを現実の法則としてしまうと、宗教の分野になってしまうのでしょうか。現実が人の作り出した妄想だとすれば、テロリストに家族を皆殺しにされた人も、妄想を見ているにすぎないのでしょうか。そう言って、その人を慰めることが、あなたにはできますか。

 

現実が変わらなくても、自分の見方を変えれば、全てが変わります。現実がとんでもなく悲惨で醜くても、それに目をつぶって、狂人のように笑えば、少なくとも、気が狂っているその人にとっては幸福です。人間がアメーバになれば、どんなに過酷で汚い環境でも、病気になるかどうかは別として快適に暮らしていけるでしょう。人間が人間である必要はないのです。だから人は極悪人にも、冷血な殺人鬼にもなれます。

 

ということは、誰が犯罪者になってもおかしくないということです。それは、犯罪が犯罪ではなく、病気かもしれないということです。メタボリズムの異常、ホルモンや脳内物質の異常、生まれつきの性癖などで、反社会的な行動を幸福と感じてしまうのかもしれません。犯罪者は罰するのではなく、手当をしなければなりません。それよりも、病気の発生を防ぐ手だてをしなければなりません。

 

人の幸福が善であるとすれば、ゆっくり生きることによってそれを持つに至る人は犯罪を犯しません。幸福はバランスであり、それが善であれば、反社会的なアンバランスを避けるからです。

 

ゆっくり生活することで、仕事、義務、目標、社会性の多くが、広域で失われますが、狭域では非常に充足します。

 

これを積極的に、意識して行っているのが、ミニマリストです。物を持たず、生活を簡素化することで、ゆっくり暮らしてもだらしなくなりません。彼らは現代的な原始人と言えるかもしれません。

 

家事をする人も、現代の原始人です。生活に必要なことを全て自分でできれば、環境が変わっても生きていけます。一人荒野に残されても生きていけます。

 

ミニマリストが、少ないにせよ物に頼っている以上、普通の家事をする人と大差ありません。イルカもクモもビーバーもみんな生き物です。聖人もお金に頼っている限り、凡人と同じです。誰も真のスーパースターにはなれません。そういうラベルを貼られて、ある限られた時間、そういうふりをしているだけです。

 

雑草に囲まれた家に住んでいても、何もない部屋に住んでいても、ゆっくり生きることが、人生の時間を味わい尽くすための唯一の方法です。

 

例えばワニは、エサを捕まえようとする時以外はあまり動きませんが、あのじっとしている時間が楽しいのでしょうか。例えば、病院で2時間待たされている患者さんは、グレーの椅子にじっと座っている時間が苦痛なのでしょうか。ワニや患者さんの気持ち次第です。

 

私は先月息子と10日間でカリフォルニアのワイナリーを16か所、クラフトビール醸造所を6か所回ってきました。レンタカーで2,500km走り、5軒の友人宅と観光地や美術館、有名なレストランを訪れました。それでも時間はゆっくり流れ、まるで1か月過ごしてきたように思えます。アドラーの言うように、忙しいと思うのは、自分が忙しくなりたいからなのです。今考えても、忙しかったと無理やり思えば、あっと言う間に過ぎてしまったとも思えます。しかし私の感覚では、時間が限りなくゆったり流れたのです。

 

生活はゆっくり流れるべきです。そのためには全てを犠牲にしても構いません。生きている意味はそこにあるのですから。生きている意味がそこにあるなら、犠牲にされたものは必ず贖われるのです。