筑前勤皇党 掃苔記 保存版 | OH!江戸パパ

OH!江戸パパ

隠された史実にズームイン!歴史ハンター「大江戸おやG!」のブログです。

すす乙丑の獄より、来年は160年と言う節目を迎えまして、筑前勤皇党メンバーのお墓について場所とお参りができるかの一覧を作りました。掃苔(そうたい)とは墓を巡りコケをはらうことで、碑文などを読んで先人の遺徳を忍ぶことです。福岡市中央区に集中していて、だいたい明治通り沿いにあるのでサイクリングでいけば主要なメンバーが揃います。親不孝通りの若者が集まるような街にもひっそりと幕末に活躍された志士達が眠っています。

 

福岡市中央区 少林寺
こちらは黒田家の菩提寺の一つなのですが筑前勤皇党の首領格の『月形洗蔵』の墓があります。月形洗蔵親子三代の墓は山門入ってすぐ左に並んでいますので許可無しでお参り可です。黒田長政の正室・栄姫や福岡藩三代藩主黒田光之に廃嫡された綱之も墓があります。こちらは本堂の中の中庭にあり、許可がいります。
 

一族の墓(洗蔵・祖父・父)が並んでて、どれも月形先生なのですぐにわかりませんでしたが、一番左が月形洗蔵のお墓です格菴月形先生。
 

月形洗蔵 詳(つばら・諱) 贈正四位 靖国
慶応元年年10月23日 38歳
桝木屋獄で斬
福岡藩士100石 馬廻 大島定番等
福岡市中央区 少林寺 
業績・藩政改革・薩長和解
※お参り可・山門くぐって左手にあります。
 

 
後ろから見ますと、洗蔵・亡くなった日・年齢が彫ってあります。これで月形洗蔵の墓と確定しました。
 

安国寺には衣非茂記と建部武彦の墓があります。これも分かりにくい場所にありまして本堂を左側に回り込んで奥の奥です。
 

衣非茂記 直正 贈従四位 靖国
慶応元年10月25日 35歳
安国寺にて切腹 
1180石 大観察
福岡市中央区 安国寺 
業績・征長解兵に尽力
※お参り可・本堂より左手に回り一番奥の方にあります。
 

建部武彦 自強 贈従四位 靖国
慶応元年10月25日 48歳
安国寺にて切腹
700石 大組頭
福岡市中央区 安国寺 
業績・藩勤王党の領袖 幕長戦争正使として山口行き、帰藩後に禁錮
※お参り可・同じく本堂を左手に奥のまた奥の方にある
 

裏は建部建彦が乙丑の獄で亡くなられた日付です。

 

 

浄満寺には江上栄之進、左座謙三郎の墓があります。また有名なのは、金印を鑑定した亀井南冥やその息子の昭陽の墓があります。お墓の位置は山門入って左奥に墓地があります。
 
江上栄之進 武要 贈正五位 靖国
慶応元年10月23日 25歳
桝木屋獄で斬
100石
福岡藩士 脱藩
福岡市中央区 浄満寺
業績・長州にて三条実美に謁見
※お参り可・一番奥の亀井家の墓の右隣にあります。
 
左座謙三郎 義直 贈正五位 靖国
慶応元年10月23日26歳
桝小屋獄で斬
業績 中村円太の脱獄に協力
福岡市中央区 浄萬寺
お参り可 亀井家墓地の右隣、江上栄之進の墓の並び
 
正光寺(福岡市中央区)

中村家の墓の区画に中村兄弟も合祀されています。写真右側、恒次郎、円太、用六の三人です。
 

中村円太 無二 贈従四位 
元治2年1月26日
同士討ちで暗殺される。
 福岡藩士 脱藩
業績・高杉晋作に九州連合を提案し福岡に潜伏させる。三条実美に追従 五卿の大宰府動座に尽力
福岡市中央区 正光寺
※お参り可・真ん中あたり、比較的新しく合祀されてます。
 
中村恒次郎 贈正五位 靖国
元治元年7月19日 24歳
禁門の変で戦死
福岡藩士 脱藩
業績 三条実美公に随従 円太を桝小屋より救出 禁門の変に参加
正光寺(福岡市中央区)
※お参り可・中村円太・中村用六と合祀
 
中村用六 南谿 贈従五位
明治6年22日 49歳
筑前竹槍一揆の責任で切腹
福岡藩士・権大参事
正光寺(福岡市中央区)
※お参り可 合祀
 
 
裏面に碑文あり

 中村円太は脱藩して、藩の枠をこえて志士に交わり活躍しました。五卿が筑前に移動しても、脱藩した上に脱獄した円太は福岡藩には到底戻れないはずなのですが、芸妓を連れて福岡に戻り、筑前勤皇党に惨殺される悲劇的な最後を遂げるました。
①参勤交代を阻止しようとして辛酉の獄で流刑→許されて帰藩→②藩命無視で桝木屋獄に投獄→③脱獄→五卿動座後に芸妓を連れて筑前に入り暗殺される。
 
博多区奈良屋町の報光寺に拉致され暗殺される。
 

中村哲蔵 敬信 贈正五位 靖国
慶応元年10月23日
桝木屋獄にて斬
福岡藩士 十二石三人扶持 
京都勤務 尊攘派
福岡市中央区 正光寺
※お参り可・真ん中辺り、中村円太の墓そば
 
 

 裏面の碑文
 
 
 今中作兵衛 守忠 贈正五位 靖国
慶応元年10月23日 30歳
桝小屋獄で斬
業績 広島で征長解兵に尽力
大通寺(福岡市中央区)
※お参りは不明ですが、本堂横のフェンス越しに見えます。
 
今中祐十郎 守直 贈正五位 靖国
慶応元年10月23日 31歳
桝木屋獄で斬
業績 福岡で尊王運動
今中作兵衛と同じ
 

西新の老舗ラーメン店、40年ぶりに食べたが味は変わらす。美味しかったです。
 

進撃の巨人の色紙も観賞できます。鑑定団に出したら高額査定まちがいなし!
 

平野神社 昭和27年に生誕地近くに建てられました。
 

平野国臣 贈正四位
元治元年7月20日 37歳
六角獄舎で処分未決のまま斬(禁門の変の火事により)
福岡藩士
業績・月照を薩摩に逃すも西郷・月照は入水、西郷を救う。生野の変
福岡市中央区 平野神社
墓ではなく「平野国臣君追慕碑」になっています。
※参拝可
 

「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」1860年、伊集院で足止めになり、薩摩の対応をみて温度差があると感じた平野国臣はこの句を残しました。
 

節信院
加藤家墓地へは山門から入らず、左回りに行った場所にあります。略歴等の紹介したパネルもあります。駐車場の奥にありますので、車が停まっていると墓所への入口が見えにくくなっています。
 

加藤司書 徳成 贈正五位 靖国
元治元年 12月25日
天福寺で切腹
2800石 家老
業績 征長解兵
節信院(博多区)お参りは可
お墓の場所は本堂には入らず裏手に、加藤家の墓地あり。
 
天福寺跡
大博通りに面して櫛田神社の参道の鳥居の右横(櫛田神社に向かって)に天福寺跡に加藤司書公の歌碑が建立されてます。幕末史にその名を刻むのは、1853年にロシアのプチャーチンが長崎に来航した時に、長﨑警備に500人の兵を率いていき、ロシアには水のみを与えた。(当時は幕府の方針として薪水給与令が出されていて、薪と水だけは与える事は許されていた。)
 
第一次長州征伐では、黒田長溥の指示で内戦回避の為、征長軍の解兵に尽力して成功させました。この頃からしばらくは筑前勤皇党の絶頂期でした。

なぜ藩の方針通りに征長解兵に成功したのに、乙丑の獄が起こったのかと言いますと、高杉晋作が筑前潜伏後に挙兵して、長州藩の藩論が武備恭順の『待敵』に変わります。その結果、征長解兵は意味をなさなくなり、幕府からは長州同気の嫌疑をかけられます。
 
妙楽寺、佐幕派の久野将監と筑前勤皇党の主要なメンバー、鷹取養巴のお墓が一つの敷地内にあります、この2つの墓はお参り不可です。檀家さん以外は入れません。
 
以前、公開されてた時の写真です。
鷹取養巴 惟寅 贈従四位 靖国
慶応元年10月23日
桝木屋獄で斬
370石 藩医
業績 周旋方
妙楽寺(博多区)お参り不可、檀家さん以外は入れない区画にあり。
 
幕末研究の第一人者の一坂太郎さんのHPに鷹取養巴・伊丹真一郎・森勤作の貴重な墓碑の解説がありましたので
URLを貼っておきます。
 
同じ妙楽寺ですが、こちらはお参り可
伊丹真一郎 重本 贈正五位 靖国
慶応元年 10月23日
140石
業績  征長解兵 五卿の筑前亡命に尽力
妙楽寺(博多区)お参り可、場所は案内板を確認してください。本堂左手より回り込んだ場所。
 
森勤作 通寧 贈正五位 靖国
福岡藩士 10石3人扶持
慶応元年10月23日
桝木屋獄で斬
業績 対馬藩で内訌調停中に福岡藩が佐幕に一変して帰国とともに捕縛される。
妙楽寺(博多) お参り可 場所は案内板で確認。本堂左手から回り込んだ場所。  

 

 

妙楽寺案内図です。伊藤小左衛門や神屋宗湛の有名な博多商人や、乙丑の獄で断罪した側の久野将監と筑前勤皇党の鷹取養巴が一緒の区画にあります。
 
萬行寺 福岡市博多区

 

 こちらは萬行寺にある石蔵卯平のお墓です、高杉晋作が中村円太の手引きで筑前へ亡命した時に対馬藩御用商人・石蔵卯平の邸宅に潜伏しました。明治26年の江島茂逸の高杉晋作略伝入筑始末によりますと、海路博多に着いた高杉晋作は、石蔵の邸宅に2~3日潜伏します。それから対馬藩代官所のある田代(鳥栖)に行き、佐賀藩・福岡藩・長州藩の尊攘派の大同団結を目指します。

 



頼みの対馬藩家老、平田大江は藩内の内紛でそれどころではなく、高杉は空しく鍋島直正に決起を促す歌を贈り博多に戻ります。再び石蔵邸に戻り、協議の末に野村望東尼の山荘で潜伏します。月日が経ち石蔵は京都より西郷の返書を月形に届ける途中に乙丑の獄で帰れなくなり、長州で奇兵隊にはいります。

 

石蔵卯平 贈 従五位

対馬藩御用商人・奇兵隊

慶応4年3月4日 天草で暗殺

業績 高杉晋作潜伏・密談の場所を提供

萬行寺(博多区) お参り可

本堂左手の墓地に入り右側すぐ(本堂左横の墓地に入ってすぐ右側の壁沿い)

 

 その他の筑前勤皇党の志士

お参り不可(非公開)

斎藤五六郎 

筑紫衛   

林元武