どうする信長! 信長包囲網と足利義昭 | OH!江戸パパ

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               この写真は九州国立博物館から許可受けています。

どうする家康が本能寺の変が来週ということで信長関連の再録しています。2019年8月に記入したブログの再録です。

 

足利義昭、織田信長に推挙され上洛し15代将軍となった。徳川幕府も15代徳川慶喜で終わりましたが、足利幕府も15代義昭で終焉しました。また同じように滅亡はせずある程度の地位は残したまま生涯を終えました。

 

本能寺の変では首謀者は明智光秀にまちがいありませんが、いまだに判明していないのは黒幕の存在はいたのか?それは誰か?と言うことです。

 

13代将軍、足利義輝は三好三人衆に討たれる(永禄の変)。義輝の弟である覚慶(義昭)は興福寺に幽閉されるが義輝の側近であった細川藤孝に救出される。藤孝は義昭の将軍擁立に腐心する。

 

その過程で朝倉義景の家臣である明智光秀と懇意になり、急速に勢力を伸ばしつつある織田信長に取りなし、ついには義昭の京都上洛を成功させ15代将軍に就任する。

 

信長包囲網は武田信玄・勝頼・上杉謙信・景勝・荒木村重・三好三人衆・松永久秀・浅井長政朝倉義景・一向宗・比叡山・本願寺・その他

 

足利義昭も1573年槇島城の戦いで信長に敗れ京都から追放されている。

 

 

                        管理人所蔵 歌川芳幾作 本応寺大合戦之図

本能寺の変、足利義昭黒幕説

 

義昭は京都を追放された後に備後国鞆に隠遁していました。将軍職は放棄したわけではなく以前として一定の権威は保っていました。織田包囲網の一角をになっていました。

 

明智光秀は足利義昭と織田信長の取り持ち役になった関係から発展して織田軍団の筆頭格に昇りつめました。織田家家臣の中では新参者で出世するほど、古参の重臣からは当然嫌われていたと思います。

 

信長が三職推任問題で征夷大将軍につく可能性が出て、明智光秀に信長殺害を指示し、光秀が覇権を奪った後に上洛して将軍として復活しようとしていたかもしれません。

 

明智光秀は本能寺の変後は秀吉が駆けつける前に勢力を固めようとしますが、盟友の細川藤孝までも従わず結果的に予想外の速さでかけつけた秀吉に山崎の戦いで敗れます。

 

足利義昭黒幕説以外にも

 

☆朝廷黒幕説

 

朝廷にとって代わる勢いの信長を危惧して光秀に信長殺害の密勅を出した。金銭的な援助を受けている内はいいが、冷酷な信長がいつ野望を持ち朝廷を廃すかわからない。

 

☆秀吉黒幕説

 

秀吉は毛利攻めの応援を信長に請うことで京都に少人数でいる信長・堺見物の家康をターゲットに応援部隊の光秀に陽動作戦を仕掛けた。光秀が幹部に打ち明けた時には内通者から早めに情報を仕入れていた。内通者は細川藤孝が一番怪しく、本能寺の変後に一早く態度を表明して光秀を孤立させた。細川藤孝については歴史上稀にみる立ち回りのうまさで幕末まで大大名として細川家を存続させた。

 

☆家康暗殺計画説

 

光秀は毛利攻めの秀吉の応援と称して、信長より家康暗殺を命じられた。重臣の中で信長の不興をかっていた光秀は家康を襲うより信長を討つ起死回生の道を選んだ。ちなみに家康は織田信長の家臣ではなく、家康が桶狭間の戦い以降に今川から離反して独立後に同盟関係を

結んだ(清州同盟)、但し100%対等とは考えられず、今のアメリカと日本のような関係かもしれない。

 

☆光秀下克上説

 

そもそも天下をねらっていた。足利義昭や織田信長の実態を見て自分が政権を奪取してよりよい国を作ろうと思った為。光秀は斎藤道山に仕えるも親子の争い長良川の戦いで敗北、その後、朝倉義景に仕える。ここで足利義昭・細川藤孝と将軍擁立問題で接触して、義景を見限った後に信長に義昭の将軍擁立を働きかけ成功する。力の強い者が領地や権力を奪取する様を見続けてきた光秀は、いつしか信長を天下人としてふさわしくないと思い始めていた。

 

☆イエズス会黒幕説

 

仏教勢力を敵に回し、カトリックの布教を許可していた信長でしたが、あるときより自分が神であるかのような傲慢な態度が見られた為。

 

☆キングメーカー細川藤孝黒幕説

 

だんだんKJ法みたいになってきました、どれが自分の新説か誰かの既存の説かも分からなくなってきました。

とにかく時代のキングである足利義輝・義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を補佐し、大事な局面で助けている。朝廷とも昵懇であり、古今和歌集を伝授している。人脈が広く情報通であり、有力武将の動向には精通していて、黒幕の黒幕的な役割を担っていたと思います。

 

たとえば秀吉にライバルである光秀の情報を流していて、光秀に信長暗殺を打ち明けられたとして、光秀には協力するふりをして、いち早く黒田官兵衛を通じて密告した。そうすれば秀吉の高速中国大返しや本能寺の変の後の態度表明で筒井順慶とともに光秀に味方をしなかった説明がつきます。

 

☆宗教勢力

 

顕如・教如については信長相手に石山本願寺で戦った。朝廷とも足利義昭とも連携していた。

 

☆秘密の抜け穴説

 

秀吉に作らせた本能寺に秘密の抜け穴があり、入口を爆破したら誰にもわからない地下室になっていてそこで数か月は隠れ住めるようになっていた、そこで一部の従者と暮らしていたが助けに来たはずの秀吉に殺された。秀吉が信長様は生きていると言ったのは確信があったのかもしれません。

 

☆弥助、信長の首持ち去り説

 

信長が宣教師からもらい受けた黒人の弥助は信長の首を持ち去り、デスマスクを作らせた。実際にちょくちょくわすれた頃にテレビでも現物が紹介されます。但し信ぴょう性は定かではなくネタ的な扱いとなっています。

 

 

 

今回のブログ記事は九州国立博物館特別展「室町将軍戦乱と美の足利15代」から着想をしました。等持院では狭いお堂の中でケース越しに見る形ですが、今回は広いスペースに一同に並べられカメラ撮影もOKと言うことで大迫力で見ることができ感動しました。

 

 

https://ameblo.jp/masaatsutomishima/entry-12510879493.html

 

「本能寺大合戦」↑こちらは関連記事です。本能寺の変の黒幕を独自の視点でとらえています。