即宗院~薩摩藩寺田屋事件~ | OH!江戸パパ

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隠された史実にズームイン!歴史ハンター「大江戸おやG!」のブログです。

 

2010年7月記事の再録です。京都は東福寺(JR東福寺駅、京阪東福寺駅より徒歩すぐ)

の塔頭、即宗院の特別公開に行ってきました、見た目は寺というより昭和初期の民家のようでした、島津氏久の菩提のため創建されて以来、薩摩の厚い庇護をうけました、西郷隆盛との縁も深く、明治維新で戦死した霊を供養するために東征戦亡の碑を自筆し建立しました。

 

 

あの大河ドラマの篤姫も江戸に行く前に7日京都に滞在しそのうちの一日はこちらで過ごしこの火鉢を使ったとか・・

丸に十の字の島津家家紋入りです。

 

 

西郷隆盛書 東征戦亡の碑

 

西郷と清水寺の勤王僧月照はここ即宗院の採薪亭で王政復古の策をめぐらした。明治になり鳥羽伏見の戦い・会津戦争の戦死者524名を弔うためにこの碑文をしたためました。

 

月照とは薩摩の刑罰、東目送りで錦江湾に入水したものの西郷だけが生き残りました。東目送りは死罪ではないものの、送られた先で殺されるのが通例で、西郷はそれを知っていた。西郷は月照を殺す事はできないので入水したとされるが、なぜ大男の西郷が助かったのでしょうか・・高名な勤王僧を西郷が殺したとなると今後精忠組が非難を浴び活動がしにくくなる為、だれかが西郷だけ助かるように仕組んだのではないでしょうか。

 

ここには面白い歴史上の人物のお墓があります、人斬り新兵衛や寺田屋事件(騒動)で有馬新七と道連れの道島五郎兵衛等の不本意な形で亡くなった方々です・・・・・・

 

1862年に島津久光(藩主島津忠義の父)は千名の共を引きつれて京、江戸に上ります、これがまさに珍道中で思っても見ない事件を2度起こします。道中の成果は尊王派の期待を裏切り公武合体を推進します。

 

伏見の寺田屋での尊攘急進派の精忠組の粛清では奈良原や道島らが鎮撫士として上意打ちを決行しますが、有馬は組み付いた道島をおいごと刺せ!と道連れにします。

 

 

道島五郎兵衛の墓(生年不詳~1862)

 

有馬新七はここには葬られてはいません。有馬の尊王攘夷の夢は寺田屋で潰えました。島津久光の上京の際に関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を暗殺し久光を巻き込み挙兵させる算段でした。島津久光は倒幕は考えておらずこの時点では公武合体を推し進めるつもりでした。

 

寺田屋に潜伏する有馬達は久光が放った鎮撫使に制圧されます。有馬新七は有能な人物で孝明天皇の戊午の密勅の写しを土佐・宇和島・福井に伝達したり井伊直弼の暗殺を画策したりしました。

 

久光は急進派を制圧し朝廷に信頼され政治に介入できるようになりました。その後勅使と共に江戸に上り、幕府にたいしても存在感を十分にしめしました。

 

ここから運命的な筋書きになっていきます、帰途、横浜は生麦村でイギリス人の一行が久光の行列に出くわし、一行は馬から降りずに突っ切ろうとして無礼打ちされます、奈良原や有村(海江田)がその内の一人チャールズ・レノックス・リチャードソンを殺害してしまいます、寺田屋で鎮撫に当たった奈良原が江戸からの帰りに生麦事件を起こし、図らずも攘夷を実行し薩英戦争が起き、イギリスと提携ししだいに倒幕に向かうきっかけを作ったのは有馬の執念がなせる業でしょうか

 

薩英戦争はなんと、死傷者の数で見ると薩摩の勝利(人的被害)、物的被害から見ると、英国の勝利、で互角以上に戦っています、奈良原もスイカ売りにばけてイギリス艦に乗船しようとしますが失敗します。

 

これで逆に薩摩と英国はおたがいに認め合い、ウィンウィンのパートナーになっていきます・・・英国の支援を得て薩摩は維新の中心に躍り出ます。ちなみに生麦事件の有村俊斎の弟(三男)は井伊直弼の首をとった有村次左衛門です・・・・

 

 

 

奈良原喜左衛門の墓(1831~1865)

 

精忠組は島津斉彬の遺志を受け継ぐ薩摩藩士48人からなる政治団体です。メンバーには西郷・大久保や先の有馬・奈良原が所属していて島津久光も公認していました。精忠組メンバーは久光を擁して幕末の世に躍り出ます。

 

 

 

 

via 大江戸お墓巡り図鑑
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