もはや「いじめ」? 禅語「道得三十棒」の真意とは。 | 牧之瀬雅明/禅語オラクル・ブログ

本日の禅語は「道得三十棒」。

かなり難解な言葉で、理解に苦しむ方も多いかと思われますが心して聞いてください。

 

禅においては臨済の「喝」徳山の「棒」といわれるほどに、厳しい教え方があります。

 

臨済義玄禅師は修行者との禅問答において「一喝」を飛ばして導き、徳山宣鑑

 

(とくさんせんかん)和尚は来る修行者には棒を打ち据えて荒っぽく導いたといいます。

 

きちんと答ええても三十棒を食らわせ、答えがなければまた三十棒を打つ。

 

まるで「いじめ」を見るような、一般的感覚では理解できないことですが、

 

禅の世界では、「これが悟りだ、これが正解だ」と思ったら、それはもう「迷い以外の何物でもない」という考えがあります。

 

答えが何であろうと、明確な正解ではありえない。それを表現するため、徳山は弟子たちを殴ったのだとか。

 

ある夜の説法の時、徳山和尚は「今夜は何も言うまい、何か聞きたいことが事あれば言うがよい。三十棒を以って応えよう」と。その時一人の僧が問答をせんと進み出て礼拝したところ、徳山はすかさず一棒を食らわす。

 

僧はびっくり「和尚私はまだ何の問いかけもしてはおらぬのに、なぜ打つ

のか」と聞くと、徳山は「お前さんは何処の出身の人かな」、僧が「新羅から来ました」と答えると、徳山云く「さようか、汝がまだ新羅を出る船の船板を渡らぬ前に三十棒を食らわせておくべきだったよ」と言います。

 

僧はそこで始めて徳山の真意を解して悟った。禅問答では理屈はいらない、

 

きちんと応えても、また応え切れなければ勿論、棒が飛ぶ。なぜどうしてと

 

言う理解を超えた処の心証の見解(けんげ)でなければならないのだ。

 

右でもなければ左でもない、有でもなければ無でもない。

 

あらゆるものを否定し否定し否定し尽くした絶対的境涯を引き出すための「三十棒」なのです。

 

同じく禅語に「青天也須喫棒」があります。

これも解説書によれば「悟りの境地に安住してしまったら、それはもう迷い。そのような気持ちは棒で打ってしまえです」といった考えが根底にあるのです。