私が家に帰ると、母はいつも居なかった。

 
ランドセルを放り投げたまま、冷えた台所で一人カップ麺をすすっていた。

テレビの音だけが、やけに大きく聞こえた。


画面の中では、知らない人たちが楽しそうに笑っていた。

 
母が帰ってくるのは、私が眠るころだった。

 
ある夜は機嫌が悪く、ドアや物に当たり、私の話も面倒くさそうに、うんうんと相槌を打ちながら、怖い顔のままお酒の入ったグラスを握っていた。


ある夜は、少し高価なお菓子を土産に、ちゃんとお留守番ありがとうね、と笑顔で私を褒めてくれた。

 
当時の私は、ただ「今日はそういう日なんだ」とだけ理解していた。

 
学校で宿題や持ち物を忘れるたび、「お母さんは?」と聞かれると、私は曖昧に笑ってやり過ごした。説明する気にはなれなかった。

 
———

 
大人になって、私はスマホを持ち、言葉を覚えた。
怒りを言葉にできる場所があることを知った。

 
「パチンコがなければ、壊れなかった家庭がある」

 
それは事実だったし、何より正しかった。

 
同じような境遇の人が集まり、私の言葉は広がっていった。

数字が増えるたび、誰かに見つけてもらえた気がした。
知らない誰かが、代弁者のように私を持ち上げてくれた。

 
その言葉が、思っていたより遠くまで届いていたと知った夜、

私は少しだけ泣いた。

やっと、無駄じゃなかったと思えたから。

 
———

 その街に、母が通っていた場所はもう残っていなかった。

夜になっても、街は妙に暗いままだった。

でも、人は消えなかった。

 怒鳴り声やサイレンの音が絶えなかった。

街は前より落ち着かなくなっていた。

 
母は、あの店に行かなくなった。

代わりに、スマホを握ったまま画面を眺めている時間が増えた。

 
何を見ているのか、私は聞かない。

 
私もまた、スマホを手放せずにいる。

いくら言葉を投げても、以前ほど数字は増えない。

次の言葉を探す手だけが、止まらなかった。

 
次は、何を悪者にしようか。

 
画面上の数字が更新されるのを待ちながら、

私はまだ、そこに目を落としたままだった。