さて天橋立を離れ南下しながら

帰り道に寄り道しながらの("⌒∇⌒")

ながら抹茶で行きましょうかぁ~

 

今回は以前の由良川から西舞鶴へ

抜けるコースではなく宮津市から

南下していきます

 

商家や医院や銀行等

かつての町の賑わいを伝える建物が

多く残されてい与謝野町と言う町が

あります

 

旧加悦にあります通称ちりめん街道

江戸から明治 大正 昭和初期にかけて

高級織物丹後ちりめんが隆盛を

極めた場所なのです

一角に古い旧家が点在していて

街道筋の面影が残っている場所が

ありました

平成17年に

重要伝統的建造物群保存地区に指定

された街道には ちりめん産業により

町を近代化した建造物たちが今も

静かに佇んでいます

街道は今や住民たちの生活の場

ですが多くの貴重な建造物が今でも

住宅として利用されていました

ちりめん街道の起点に位置する

旧加悦町役場庁舎

2010年7月この歴史建造物内に

与謝野町観光協会もあります

建物は大正15年から昭和60年まで

約60年間にわたって丹後与謝を走り

つづけた加悦鉄道の資料があったり

丹後ちりめんの道具を利用した

民芸品の紹介や丹後与謝野地域の

観光情報を発信しています

商家や医院そして銀行など

かつての町の賑わいを伝える建物が

多く残されています

 

複雑な現代を生きていると時に

そういった思いが込み上げてくる

ことがありますよね

そこには絶え間なく続く喧噪や

現実社会の重圧はありません

あるのはかすかに聞こえる鳥や木々

のざわめきと土地で暮らす人達の

ゆったりとした会話

 

この静かな場所では季節ごとに移り

変わる空気の音が聞こえてきます

旧尾藤家住宅

中世の尾藤氏は武士で江戸時代前期

には加悦に定住し丹波屋善右衛門と

して代々大庄屋などを務めました

 

代々 庄蔵を名乗るようになったのは

江戸時代中期頃からで後期には生糸

ちりめん問屋として活躍しています

 

江戸時代の1863年に建築された

丹後ちりめん商家です

旧川嶋酒造の酒蔵

 

昭和9年頃に建築された街道筋の

中で一際目立つ大きな建物です

 

酒造りは戦後まで行われ蔵の中には

酒樽や精米の施設があり奥の蔵に

ある井戸より水を汲んで酒を造って

いたそうです

 

銘柄は大山正宗と言い

戦後の酒の統制で造り酒屋としての

営業を終えました  建物の外観は大きな建物の割に窓が

小さくて少ない酒蔵の特徴を良く

残していました

 

この地区内で現存する唯一の酒蔵で

角地に建つ大規模な土蔵として目を

引き酒造という生業と生活空間を

組み合わせた昭和初期の建築として

注目されているそうです  杉本家住宅

 

主屋は嘉永元年に建てられた建物で

この地区内で屈指の古い建物です

 

旧尾藤家住宅と同様に建物群の中に

中庭のある構造をしていて明治43年

当主の利右衛門は電気事業の必要性

を痛感し丹後電気株式会社を設立し

現在の加悦小学校グランドの南側の

地に発電所を建設し明治44年に

天満神社に初めて電灯の明かりが

点りました

 

この建物は地区内で2番目の郵便局

その後杉本医院として医者をされて

いた場所でもあり各時代で地域に

貢献されていました 下村家住宅

 

1804年に建てられた街道筋で最も

古い建物です

街道表側には機屋窓【ハタヤマド】

と呼ばれる格子付き中敷居窓があり

ます

下村家の一画にある加悦郵便局舎

明治20年に建物が建てられ電信や

電報 外国為替 小包郵便の扱いを

開始しました

 

電信事業は価格の動きが激しい生糸

相場の情報をいち早く知る事が

できる手段として多いに活用された

そうです  明治23年創業の老舗旅館

 

昔ながらの街道の雰囲気を存分に

残して今も現役で営業を続けて

いました

 

ちりめん街道で現存する唯一の旅館  昭和8年に再建された総2階平入りの

建物で旅館建築の玄関として堂々と

した構えでした

ちりめん街道に面している旧館部分

は改装当時の昭和初期には結婚式場

として多く利用されてきたそうです 

丹後ちりめんの製造で培った撚糸の

技術を現代に継承し時代の変化に

合わせて独自の手法を確立した

シルクニットメーカー

コウジュササキの店舗です

 

この前蔵工房は多くの場合主屋の

裏側にある蔵が前に突出している

事から前蔵と呼ばれており現在は

この前蔵部分が改装され店舗として

利用されています 大正9年に宮津を本店として設立

された丹後産業銀行の加悦営業所が

おかれた場所に今もこの蔵が佇んで

います

 

当時この丹後産業銀行をはじめ

郵便局 電信電話など連動して一角に

様々な施設が集まっていました

 

丹後の金融機関は融資の担保に

ちりめんや反物を取ることから蔵が

大きくつくられています

この蔵の側面にはロゴマークを

想像させる丹後産業銀行の産の

文字が刻まれています 松村家住宅  明治21年建築

 

明治20年の下之町大火で消失

その後福知山市雲原の民家を解体し

移築したものだそうです

 

屋号を丹波屋と言い明治期から昭和

17年頃まで主屋西側の離れで旅館を

営なんでいて明治期の宿帳には中国

やロシアの方々の名前も記されて

いるそうです

濱見家住宅  明治21年建築 

 

明治20年2月の下之町の大火で住宅

八棟が全焼し濱見家住宅も消失

翌年に再建され今に至ります

柱には栗材が使われ土間上の屋根

には煙出しの越屋根が残りクドを

構える吹き抜けの空間であった明治

中期の姿をとどめています

独特の風情を醸すこの橋は昭和9年

に架けられ街道北端のクランクが

解消されました

 

過ぎた年月が丸味を帯びた独特の

風情を作っていたそうです

現在は新しくなり静かな加悦奥川に

かかる小さな橋という印象です

当時はかなりの水かさがあった

そうで船着き場としての役割と

担っていた場所でもあります

 

昔から架けてあったのが新しい橋の

川沿いに置かれていました 

旧加悦鉄道加悦駅舎

 

1925年に設立された加悦鉄道は

丹後ちりめんの輸送をはじめ住民の

交通手段として太平洋戦争期には

大江山から採掘されたニッケル鉱土

の搬出路線として活躍しました

加悦鉄道は加悦に国鉄宮津線が

通らなかったことから1925年に

全長5.3キロの私鉄として住民主導で

敷設されたものです

地域に根付いた鉄道は廃線までの

約60年間多くの人に愛されました

 

この建物は実際に使われていた

旧加悦駅舎を移築したもので

洋風の木造2階建ての駅舎前は

珍しいですね

懐かしい腕木式信号機もありました

複雑な現代を生きていると時に

自分に問いかける思いが込み上げて

くる事があります


そこには絶え間なく続く縛られた

時間や人の裏切りや罵倒や現実社会

の重圧は無いかも知れません


あるのはかすかに聞こえる鳥や木々

のざわめき

その土地で暮らす人達のゆったりと

流れる時間や会話かなと

長々ダラダラ話しになりましたが

これにて城崎温泉のm(__)mお話しは

明日で終わらせて頂きますね

m(__)m


【今日で終わるんと違うんかいな

長いなぁ~~(¬_¬)】

 

こんな感じで左ルートから始まり

右回りで帰ってきました

 

最終章へつづく