さてここで今日の投稿の趣旨からは離れますが、私は保育園での「0歳児クラスを廃止にしなさい」としました。


この事については説明しなければなりません。


実は私がこの保育園で営む間(11年)に6人の孫を授かりました。


私は乳幼児、障害児教育者としてのみならず、6人もの孫を持つ爺さんにもなった訳です。


そして、一人一人の成長していく姿を私はつぶさに観察していくのですが、この神秘なる成長の過程は“保育する”という概念にはほど遠く、正に人として護り、育んでいく段階にあって母親の胸に抱かれ“心と身体”の健やかな発達が当然の様に、絶対保障されなければいけない期間だと実感した訳です。


 私の長男と次男の嫁または実の娘が赤ちゃんを愛おしく育てるあの様子をつぶさに観察して、彼女達が私の娘というだけではなく偉大な母親の姿に映ったのです。


母親の絶対的な愛を受けるべく期間に保育施設に預けるべきではありません。


私は数年前に認可保育園の0歳児に対する保護単価を覗いたことがあります。


正直いって唖然としました。



唖然とした私の理由はその保護単価(15万円~20万円*地域によって異なる)の多さです。


保護単価とは、保育園に対して子供○人で補助金がおりると書いたらわかりやすいでしょうか。



その金額が保育施設にではなく、その母親に直接養育費として支給されることができれば保育施設に赤ちゃんを託す事はないのではないか。



つまり、それだけの十分な手当として活用できるのではないかと。




 保育施設で職員一人につき、3人の園児という事が守られているにしても


その赤ちゃんが主たる存在として、受け入れられるはずは絶対にあり得ない。


主たる存在として絶対に必要な母親から切り離してはだめなんです。


乳幼児教育の最も基本的養育は母親の肌の温もりから始まり、絶対的愛情という“大船”の中での安心が、赤ちゃんに保障されなければならない。私は強くそう思うのです。


私の孫6人が健やかに成長しているのは正に偉大なる母親の存在があったればこそ、なのではないでしょうか。



 故七田眞先生は「どんな子だって必ずのびる」の著書の中で、


“乾いた愛”と“湿った愛”という表現をしていますが、


正に肌の温もりから始まるスキンシップの重要性を特に“湿った愛”という表現をしていて、名言だし格言だと思います。


職員一人に対して3人の赤ちゃんを“湿った愛”で接することなど決してできるはずはありません。


“乾いた愛”で育つということの心の発達を思うと辛くないですか。



私は娘達が母親として赤ちゃんに接するその自然な行為の一部始終を見ていて、「赤ちゃんにとっては母以外になし」と確信に至るのです。



 どうしてもやむを得ず、託さなければならない事情の場合は午前保育とか、5時間以内(根拠はありません)にして母親との繋がりが保障されるべきであるのではないだろうか。


できうる限り保育園という器の中に0歳児は受け入れるべきではないというのが、私の想いなのです。



 さて、今日の投稿は主題からいささか逸れてしまいましたが、子供を育てる為の“小規模保育”の必要を感じて頂けたと思います。


この投稿を受けて共感なさる方がいましたらうれしいのですが、ぜひご連絡下さい。


今日はここまで!失礼します。