大晦日まで仕事をし、元日は休み、そして二日からまた通常運転。
プロジェクト現場は元日も完全には止まらず、通常の三割ほどの稼働ながら、それでも前に進んでいる。そんな仲間たちの存在に、年の初めから背筋が伸びる思いがした。
ジャカルタの宿舎で、紅白を流しながらすき焼きを囲み、「ゆく年くる年」を見て年越し蕎麦を食べる。
元日の夜は、会社が用意してくれたお節料理パック。
日本から遠く離れていても、年を越す所作があるだけで、気持ちはきちんと正月になる。人はやはり、節目によって自分の立ち位置を確認する生き物なのだと思う。
このプロジェクトを終え、次の新たなステージへ。
そう言い切れるだけの疲労と覚悟が、いまは同時にある。
一方で、正月の挨拶という大きなきっかけがなければ、疎遠になっていた人たちに連絡できていなかった自分にも気づく。
連絡できないのは性格の問題なのかもしれない、と少し自嘲気味に考えていた。
けれど、お節と一緒にいただいた赤霧島の力も借りて、踏ん切れなかった知り合いにも新年の挨拶を送ることができた。
たった一言。
それだけで、止まっていた時間がふっと動き出す感覚があった。
仕事も人間関係も、振り返ると本当に似ている。
ちょっとしたきっかけで、簡単に悪循環に入り込んでしまう。
タイミングを逃す、声をかけそびれる、考えすぎて動けなくなる。
その小さなズレが積み重なり、気づけば泥沼のような状況にハマっていく。
不思議なのは、悪い状況を回避できる分岐点が、実は何度も用意されていることだ。
それでも人は、その分岐点であえて悪循環の方向へ身を投じてしまうことがある。
経験上、その可能性は決して小さくない。
人は、好循環と悪循環の「中立的な状態」にいるとき、どちらの方向にも魅力を感じてしまうのかもしれない。
悪循環には、独特の居心地の良さがある。
努力しなくていい理由が揃い、立ち止まることが正当化される。
苦しいが、考えなくて済む安心感も同時に与えてくれる。
一方で、好循環は静かだ。
最初の一歩は地味で、即効性もない。
しかも必ず、自分の側の気持ちを切り替えることが求められる。
だからこそ、人は意識しないと自然に良い方向へは流れない。
中立の場所に立っているつもりでも、何もしなければ重力に従って下り坂へ向かっていく。
これは意思の弱さというより、人間の構造なのだと思う。
意識して好循環を目指す自分でいないと、悪循環に甘んじてしまう。
逆に言えば、完璧な覚悟や強い意志がなくてもいい。
赤霧島に背中を押されて送った一通の挨拶のように、
ほんの小さなきっかけが、流れを変えることもある。
今年は、そんな分岐点に何度も立つ一年になるだろう。
そのたびに、ほんの一段だけ上る選択を重ねていきたい。
突っ走りながらも、流れを自分で切り替えられる人間でありたいと思う。