三年前の今日も、9年前に書いた「戦争を知らない子どもたちへ」という記事を再掲していた。

すでに、多くの方から「いいね」を頂き、「コメント」のみならず「リブログ」までしていた過去記事でもある。

が、今日6月23日は沖縄の慰霊の日

今年も、そして来年もまたその記事を再掲できたらと想う。

そんな想いもあって過去記事シリーズには加えない。

ただし、最後に添付したYouTubeは今年のもの。

 

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戦争を知らない子どもたちへ

2015年12月02日付

 

「戦争を知らない子どもたちへ」といっても、1970年にヒットした「戦争を知らない子どもたち」という歌の話じゃない。
11月28日に第一部と第二部に分けられて放映されたNHKのB1スペシャルのこと。
サブタイトルは「元少年兵の告白」
ぼくはそれをビデオにとって視聴した。
それぞれが50分、計100分の長番組なので、とてもじゃないが全てを紹介することなどできない。
ネット上のどこかにその映像がないものかと探した。
が、見つからなかった。
せめてのこととして、己の無知を思い知らされた箇所の文字起こしを試(こころ)みる。
知らないということは、時として罪になる。

         護郷隊員となった少年たち。


番組は、次のようなナレーションで始まっていた。
日本軍とアメリカ軍が激突した沖縄戦。およそ20万人が地上戦によって命を落としました。
その沖縄戦の中でもこれまで語られなかった悲劇があります。
10代半ばの少年たちが兵士となり、凄惨な戦いを繰り広げたのです。部隊の名前は護郷隊。存在を隠して戦うゲリラ部隊であったためその詳しい実態は分かっていません。
少年たちは戦場で何を見たのか。元少年兵たちが重い口を開きました。


護教隊という言葉を耳にしたのは初めて。
己の不明を恥じるしかない。
召集されたのは10代半ばの少年たちだったという。
日本軍は沖縄において武器を持って戦うことを子どもたちに強いていたのだ。
子どもを兵士へと変えることを異常と感じない戦争の狂気
果たして、ヤマト(日本本土)の子どもなら、さらには自分の子どもならゲリラ戦士に仕立て上げようなどという発想は生まれただろうか。
 


番組は30人あまりの護郷隊だった元少年兵を取材している。
そして戦後70年を経て、やっと重い口を開いた元少年兵(現87歳)の証言にまず驚かされる。
10名殺したら死んでもいい。
10名殺したら日本が勝つから。

そう上官(大人)に叩き込まれたという。
苛酷な軍事訓練の下、少年たちはゲリラ戦士へと教育され、戦場に駆りだされた。
そして、戦場では「目の前で幼なじみが撃たれ倒れても、友を見捨てて戦い続けるま」でに。
人を殺し殺されることに、怖くもなんとも思わなかったという。
何も考えられない考えておられない、とも。
護郷隊はおよそ1,000人14歳から17歳までの少年たちが中心。
ぼくが学習指導に出向いている中学校の3年生は15歳
おもわず、彼らの幼い顔と重なる。

また別の元少年兵(現86歳)は言う。
自殺用の手榴弾を持たされるのです、斥候兵(偵察役)には。
捕虜に捕まったときには、すぐに
手榴弾で(爆発させて)自殺しなさいって。
だからぼくはやろうと思って手榴弾のヒモ(信管)は抜いて地面に当てようとしていた。

命よりも秘密を守れと訓練されていたからだ。
 


訓練の情景も語られる。
前列、後列で交代で打ち方(殴り合い)を始め、弱くたたく人には模範を示す。
体の大きい分隊長(大人)が殴る、大変よ。
頭も何も考えられなくなる。

そして、死は鴻毛(こうもう)よりも軽し、と叩き込まれる。
その結果、
(当時は)いつ死んでもいいという気持ち、全然怖いという気持ちがなかった。
死ぬということ、死んだら神宮(靖国)に送るからと、喜ぶ教育をされていた。

ぼくが靖国神社を認めない最大の理由がここにある。
なにもA級戦犯が合祀されているからといって反対をしているだけじゃない。
人を殺し、殺される戦争を美化・正当化し、それを遂行するための思想教育のシンボルが靖国神社だからだ。
その事情は、現在においても変わらない。
国のために犠牲となった戦没者を弔うためなら、千鳥ヶ淵戦没者墓苑という立派な国立墓苑がある。

なのになぜ、千鳥ヶ淵戦没者墓苑ではなく靖国神社なのか。

          千鳥ヶ淵戦没者墓苑
 

 

護教隊1944年の10月に設立されている。
が、軍が兵力不足を補うため沖縄や一部の地域で17歳未満を召集できるように省令を定めたのは1994年の12月
つまり、子どもたちが召集されたのは省令が出される約2ヶ月前
召集には何らの法的根拠もなかったことになる。
また、省令にわざわざ沖縄や一部の地域という表記をしたことは、事実上沖縄を狙い撃ちしたものだったと言えないだろうか。
法律ではなく、陸軍省の省令だったことにも驚かされる。
当時にあってすら、内務省兵役法の改正によってなされるべきであるとし、憲法違反の疑いを指摘してる。
憲法を無視して、力によって既成事実を積み上げていくやり方は、今の政治状況に似ていないか。

しかも、志願という形式をとってはいるものの実際は、上官からの命令。
逃亡してもいい、逃げてもいい。
ハガキ一枚で呼び出して死刑にする。
命令だから、志願ではない。

と、脅され逃れられなかったと、当時15歳だった元少年兵は証言する。
今の自衛隊員も、タテマエ上は自由に退職できることになっている。
が、上官が任務遂行に支障をもたらすと考えたときは、「自衛隊の任務を遂行するため最小限度必要とされる期間、その退職を承認しないことができるという規定が自衛隊法(第40条)にある。

つまり、戦地に赴くことを拒否できない。


  番組はアニメとドキュメントで構成されていた


護郷隊の編成には、陸軍中野学校が深く係わっていたことなど、まだまだ記したいことは多々ある。
が、最後に元少年兵の話を転記して今日のブログを閉じる。
敵の戦車30台集まっているという情報が入ったので、そこに“切り込み隊”として行った。
生き抜けるということは恐らくない。
突っ込んだらそのまま
戦車と一緒に吹き飛ぶという戦法
石を割るための工事用の黄色火薬10キロを木箱に詰める、それに導火線をつけて火を点ける。
1センチで1秒燃える。
その距離を決めておいて火を点けて吹っ飛ぶ。
戦車と一緒に人間も吹き飛ぶ

自分が爆雷、弾になる、まったく特攻隊です。
弾にあたって苦しんで死ぬわけではないと思っていた。
いっぺんに吹き飛ぶから、あっという間に自分が分からないうちに亡くなる。
別に苦しむわけではないから、ただ“生まれなかった”と思えばこれでいいんじゃないか、と。

幸運にも、この部隊の戦車への攻撃は直前で中止になった。
が、この元少年兵は、敗戦後2~3年たって“いくさ”のことを思い起こしてしまって、戦争恐怖症のような精神異常になって(病院の)独房に入れられたという。
心に負った傷がそれほど深かったということだろう。
いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされている。

           護郷隊鎮魂の碑


約1,000名の護郷隊員のうち、162人が戦死したとされる。
ぼく(たち)は沖縄の何を知っていたというのだろうか。
そして、今も沖縄に米軍基地を押し付けたまま平気な顔をして暮らしている。

 

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この動画は今年(2024年6月21日)のもの。

具志堅隆松さんは戦没者の遺骨を守る活動をしている方。

6月23日の慰霊の日には、毎年平和の礎にて遺族と遺骨を繋ぐDNA鑑定を呼びかけてこられている。

が、今年は・・・。

今年の沖縄県庁の対応は、玉城知事を支持しない県政野党が多数派になったことと関係があるのだろうか。