前回の“京都大学のタテカン”のブログ記事に対して、数名の方からコメントを頂いた。
それらに目を通させていただいているうちに、ぼく自身の原点でもある学生時代のことを今一度振り返ってみたいと思った。
とはいえ、それは55年以上も昔の話。
今の若い人にどこまでその時代の雰囲気が伝わるものかははなはだ怪しい。
所詮は年寄りの“昔は良かった”などという自己満足のものにしかなりはしないのではとは想う。
それでも・・・・。
まずはそのとっかかりとして“サークル村”という言葉をキーワードに自ブログを検索してみた。
と、9年前の過去記事がヒットした。
その記事を過去記事シリーズに加えようかとも考えたが、少し手を加えたくなったので(改)とした。
もちろん、基本となる趣旨は変えていない。
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ブログ記事として「『70年代』のぼくは」をテーマとして取り上げるに際して、その少し前のことも書いておかなければと想えた。
義憤だけはあったものの、それを裏打ちする思想的な中身などまったくなかった無知で未熟だった時代のことを。
今、振り返ってみると冷や汗ものだが、己の恥も記しておかなければ自分史にはならない。
さて、ぼくが1浪をして大学に入学できたのは1968年。
家からの仕送りがなかったぼくは、入学すると同時に大学寮に入り、生活のためのバイト先として寮内にあった生協の売店を見つけた。
そこがある政党の学生団体が運営する売店だということも知らずに。
というか、露天商の息子だったぼくはその存在そのものすら知らなかった。
そこで、誘われるままに機関紙の読書会にも顔を出し、東京で開催されたその全学連大会にも参加した。
が、ぼくにとってはその会場の雰囲気は釈然としないものだった。
すっきりとしない気持ちのままでの東京からの帰り道、立ち寄った実家のある大阪で偶然「べ平連」のデモと出会った。
ギターを弾き、歌を歌い、各自が勝手気ままに歩いている。
その光景を見た瞬間、ぼくのいるべき場所はたちまち「こっちや、こっちの方やで」という気持ちに傾いた。
そのころ学内では授業料値上げ反対運動が起っていた。
今から考えると信じられないだろうが、当時のぼくたちの授業料は月額1,000円。
それが月額3,000円と、いっきに3倍になるという。
大学から各親もとへ授業料の督促状が送られることを契機に、ぼくたちは10名足らずの人数で学生課の封鎖を決行した。
今のぼくなら、無謀・短慮の一言で片づけられる浅はかな行動。
ところが、あろうことかその深夜に差し入れを持って侵入して来た人たちがいた。
新聞記事を見て、ぼくたちが苦労をしてお腹もすかしているだろうと真夜中に食べ物を持ってきたのだという。
ところが、いざバリケードの中に入っていってみると「君たちはのん気にマンガの本を読んでいた」と呆れられた。
彼らがサークル村運動に関わっていた人たちだということを知ったのは、その後のこと。
谷川雁氏と上野英信ご夫妻は既に中間市の炭住からは去っておられたが、森崎和江さんは大正行動隊のメンバーと共に当時はまだ住んでおられた。
普通に考えてみれば、授業料の値上げは文部省の通達で全国一斉に行われる。
地方の一大学の学生課を封鎖したところで、そんなものは何の役にも立つはずがない。
まさしくマヌケだとしか言いようがない。
封鎖では誰も傷つけることはなかったが、独りよがりの行動で多くの人に迷惑をおかけしたことには違いない。
どのように批判されようと返す言葉はない。
が、何故かぼくたちの行動に対する大学からのお咎めはまったくなかった。
ぼくが東大構内にいたのは、機動隊導入の1~2日前。
話は少し前後する。
九州に戻ってからの「べ平連」活動に参加してきたメンバーの中には新左翼の党派と係わりのある人もいた。
これまたその人に誘われるままに、東大安田講堂前や、神田カルチェラタンそして三里塚へも足を伸ばしている。
そして神田の道路上では、東北から来たという学生にヘルメットに書かれている「ML」という言葉の意味を問うと、よく知らんという。
じゃあ、お前の「反帝反スタ」って何だと聞かれて、こちらもよくわからんとしか答えられなかった。
なんともまあ締まらない話だが、ぼくたちは所詮は「枯れ木も山の・・・」程度の員数合わせだったのだろう。
言ってみれば、新左翼諸党派主催の東京観光ツアー旅行御一行様みたいなものだったのだろうか。
その東京観光ツアーに関しては、主任教授のもとにカンパに行くと「お前たちの主張に対してではなくお前個人に出してやる」といってカンパをしてくれたりもした。
その主任教授は後に学長にまでなっている。
そして、数学の教授は「君たちの意見に賛成は出来ない」と言いながらも授業時間を討論会として使うことを認めてくれていた。
さらには、物理学の教授は「ベトナム反戦デモに参加をするための欠席なら、単位は出」すと公言していた。
北九州という地方都市の大学では、まだそんな牧歌的な雰囲気が残っていたのだろう。
大学構内には全学生の3分の1を収容できる学生寮があり、運動場を挟んだ向かい側には教授や助教授が住まう官舎があった。
内ゲバなどで殺気ばっていた東京や関西とはずいぶんと様相が違う。
だからだろうか、思想的に「奥手」だったぼくは己の皮膚感覚だけでだけでその時々の道を選んでいたのだと思う。
まったく、今思い返してもあらゆることが赤面の至りとしか言いようがない。
55年前と今の北九州市の海と空
当時も今も、ぼくの原点はベトナム反戦運動と反公害運動であり続けている。
沖縄・南西諸島の軍事基地化や原発問題は、まさしくその延長上にある。