前回で、

「なぜ敗戦後の日本にそれほどの朝鮮人がいたのかということについては、1910年の日韓併合から日本の敗戦の1945年にいたるまでの35年間もの間、朝鮮半島と日本列島の間に国境はなく、どちらに住んでいる人も国籍上は等しく日本人だったということを想起しなければならない。

もちろん権利上の差別はあったが、それについては後に触れる」

と予告していた。

 

 

まずは、植民地時代の戸籍について。

植民地時代、戸籍は統治する者と統治される者を分ける目印だった。戦前・戦中の朝鮮・台湾の植民地臣民は、国際法上は日本国籍を有していたが、帝国内では、戸籍が“内地”ではなく“外地”にあるために“日本民族”からは未来永劫峻別されていた。

当然のことながら、“内地”戸籍の者と“外地”戸籍の者との間には就職差別や給料格差が生じていたことは想像に難くない。

 

さらには、

植民地時代に日本人の女が朝鮮人の男と結婚すれば、妻は夫の“外地”戸籍に入るのがふつうだった。しかし戦後になって朝鮮が独立すると、このような戸籍の移動は不可能になった。美代(筆者注:著者が直接話を聴いた日本人女性)の除籍謄本には戸籍を「朝鮮、に送付」と書かれていたが、実際に移されることはなかった。こうして美代は結婚によって戸籍を完全に失うことになる。

在日朝鮮人戸籍はその後も多くの問題を抱えたまま紆余曲折を経て現在に至っている。

が、その戸籍の問題は日本韓国朝鮮国、さらには連合国占領軍国際赤十字との関係も複雑に絡んでおり、そのことに深入りすることは本ブログでは避けたいと思う。

関心のある方は、是非とも本書にあたっていただきたい。

 

【在日朝鮮人の本音】元反社「ポンチ」と元ボクシング世界チャンプ「徳山昌守」朝鮮学校を語るというYouTubeを3本掲載していま。

ですが、今回の「北朝鮮へのエクソダス」とは直接の関係のないものなので、できでればこのブログを読み上げたあとで、ご覧になってください。

 

敗戦後の日本において、在日朝鮮人が置かれていた福祉を受ける権利の状況に目を移す。

サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日に、

在日朝鮮人は、公営住宅入居の権利を含む主要な社会福祉を受ける権利を失った。

(中略)1959年に国民健康保険国民年金の制度が発足したが、日本在住の外国人は排除する、と明確に規定されていた。

さらに、在日朝鮮人は外国籍のゆえに医療などの専門職から排除され、公務ーーエリート官僚としての仕事から、国有鉄道の運転手地方自治体の清掃職員の仕事までーーからも締め出された。

また、在日朝鮮人には20年ものあいだ、海外に出たあと日本に自動的に再入国する権利がなかったし、太平洋戦争終結時とその後の混乱の中で朝鮮半島にとり残された在日朝鮮人の配偶者や子には、たとえ家族を訪ねるためでも、日本に入国する権利がなかった。

 

 

福祉を受ける権利の喪失だけじゃない。

植民地時代には、大企業の多くが日本人よりはるかに低い賃金で朝鮮人労働者を雇っていた。戦後になるとこうした賃金差別は違法であるとされ、大企業は低賃金労働力でなくなった朝鮮人を雇用する気をなくした。(中略)1950年代初頭、就労年齢にある在日朝鮮人の4分の3が、失業中か、あるいは臨時仕事でごくわずかな収入を得ているかの、どちらかだった。

 

 

1952年(中略)厚生省が特別な「慈悲」を施した。日本在留の朝鮮人と台湾人は、あらゆる社会的権利を失ったのだから、極貧層のための最低限の扶助である生活保護だけは今後も申請していい、と表明したのである。

しかしながら、

権力による恣意的な慈悲は諸刃の剣だ。与えたものは、同じように恣意的に取り上げることもできる。なによりも、その取り上げる力を、朝鮮人社会全体を懲らしめ、行動を規制し、動きを操作するための道具として使うことができる

この歴史的な事実のどこに「在日特権」などという妄想が紛れ込む余地があるというのだろうか。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

ぼくのブログは画像を多用することが多い。

その理由は、己の筆力の未熟さを画像で補うため。

今回も本書に関連のある画像を探そうとしたが、残念ながら見つけることができななかった。

が、たまたま【在日朝鮮人の本音】元反社「ポンチ」と元ボクシング世界チャンプ「徳山昌守」朝鮮学校を語る~その1,2,3~というYouTube を見つけた。

もとより、この動画は「北朝鮮へのエクソダス」という本とは何の関係もない。

だがこの動画を見ていて、なぜかぼくはなぐさめられ、さらに勇気づけられたたような気持になることができた。