高校時代、僕は器械体操部に属していた。
僕の高校時代というのは、1964年4月から1967年4月までの期間にあたる。
その1964年10月には東京オリンピックが開催されている。
そう、僕はテレビで放映されていた器械体操の影響を受けて入部した。
つまり、入部したのは二学期の途中から。

僕が通っていた高校というのは、一応進学(を目指した)高校ではあったが、極めて牧歌的な校風を持っていた。
部活においても体育会的な雰囲気は希薄で、大会等で好成績を上げることよりも部活そのものを楽しもうといういい加減さを持っていた。
器械体操の採点というのは、10点満点から演技のミスを見逃さずに減点をしていくという方法を採っている。
審判団の最上位と最下位の点数を切り捨て、切り捨てられた残りの平均点が選手の得点となる。
ただし、後者のほうは今もその方法が採られているのか確かめていない。
だが、僕たち程度の演技を減点法で採点していくと0点以下のマイナス点になってしまう。
ということで、大会では「2部」に属する僕たちの演技には加点法が採用された。
それでも、4点だとか5点といったレベル。

山下飛び。


東京オリンピックでは、ウルトラCと呼ばれる難度の高い演技に多くの人が熱狂した。
体操の演技はその難易度に応じてA~Cに区分されていた。
つまり、C以上の上の難度の高い演技が
ウルトラCと呼ばれ日本の男子チームが生み出した新技だった。
だが、今やその難度はA~Gまである。
ただただ、驚くばかり。
体操の技は、50年ほどの間に信じられないほど難度の高いものになっていた。
ひるがえって、こちとらは前転をしただけでも目が回るほどに歳を喰ってしまっている。


冒頭、器械体操に影響されて入部したと言った。
が、影響を受けたのは日本の金メダリストである遠藤幸雄でもなければ山下治広でもない。
何といってもチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ
まだ17歳だった彼女は、単に可愛かっただけではなく、その動きはまるで子リスが飛び跳ねているようだった。

だが彼女がその後、1968年のチェコスロバキアの民主化運動プラハの春を支持して「二千語宣言」に署名をしいていたこと。
また、1989年ビロード革命によって共産主義体制が崩壊するまで、試合に出場することすらままならない困難な状況に置かれ続けたことまでは知らなかった。
信念の人でもあった、ということ。

中央がベラ・チャスラフスカ。


続けて7年後の東京オリンピックに話しを持っていこうと考えていたのだが、息切れをしてきた。
結論だけを述べる。
僕はオリンピックそのものには、反対ではない。
が、日本政府が取り組むべき課題の優先順位としては無条件にフクシマ救済の側にあるだろうと思っている。
なによりも、東京オリンピックがフクシマを「終わったこと」「無かったこと」にしようとする手段とされていることに怒りを覚える。
人間はどれほど面(つら)の皮を厚くすれば、国際的な席上で「汚染水は完全にコントロールできている」などというウソを平気でつけるようになるのだろう。

マスコミもオリンピックの狂騒に便乗した放送を垂れ流すことによって、結果としてフクシマの現状を覆い隠す役割を演じている。
「おもてなし」などというパフォーマンスをしたフリーのアナウンサ-を含め誘致活動をした政治家、アスリートなどを今後一切信用しないし、応援することもない。
ベラ・チャスラフスカを見習えとまでは言わない。
だが、権威や権力におもねるだけの輩(やから)の存在など百害あって一利なし
アスリートといえども、一人の社会人としての認識を持つべき。
いわんや、アナウンサーを職業としている人間ならば。