オウム真理教の元教団幹部、遠藤誠一被告の死刑判決が最高裁判所で出た。
これでオウムに関する事件の全公判は終結するすることになる。
オウムが引き起こした一連の事件の動機に対する解明が不十分だと指摘する識者も多い。
が、浅原(松本智津夫)が何を考え何を目論んでいたかということは、わたしには関心がない。

わたしには、オウムの報道に接する度に考えさせられることが3つある。

そのひとつは、既存宗教に関すること。

オウムが活動を活発化させた1980年代後半の日本はバブル経済に浮かれていた。
あり余るお金で、世界中の名画やニューヨークの有名なビルなどを買いあさっている。
都会では、まるで旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの町のような光景が繰り広げられていた。
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他方、東西冷戦構造が収束に向かうなど既成の価値観は崩壊しつつあった。
そんな時代背景にあって、自分の生き様や社会への関わり方に関して、真面目な若者であればあるほど新しい価値観を求めて呻吟していた。
そんな社会に対して既存宗教、なかんずく仏教各派は何ら手を差し伸べることなく葬式仏教と非課税特権の経済活動の中に安住し腐臭を放っていた。
悩み苦しんでいる真面目な若者たちの精神的な受け皿は、オウム真理教などではなく仏教を初めとする既存宗教こそがその役割を担わなければならなかったはずだ。
既存宗教の罪は深く、重い。

ふたつめは、組織内論理

組織の中に属していると、組織の中の論理を通してしか物事の善悪の判断が出来なくなってしまう。
その組織とは、宗教のみに限らない。
政治集団、会社組織、その他あらゆる組織・団体や国家をも組織内論理は支配する。
そして、その組織内論理は時に手のつけられないような暴走をする。
オウムの起こした犯罪は、一部の特殊な人間が起こした悪意に基づく犯罪などでは決してない。

組織内論理の暴走は日常的に起こっている。
大王製紙の会長に子会社の社長は背任とわかっていても逆らえない。
オリンパスの社長に代々引き継がれてきた「飛ばし」に取締役が監査役が不正を指摘できない。
九電の「やらせメール」問題や「第三者委員会」への対応などは企業内の論理が100%であり社会一般からの目線などまったく眼中にない。
これらの企業内で起こっていることは組織内論理そのものだ。
企業に勤めている人間で、例えその方針に疑問を感じていても、社長の意向に逆らえるものなどほとんどいない。

いや、人のことは笑えない。
企業の中で38年間生きてきたわたしも組織の論理から自由であったとは言えない。
常に、属する企業に利する行動は善であり、その企業の利益に反する行動は悪だという規範にしばられていた。

つまり、オウムの起こした犯罪は、普通の人間が起こした組織内論理の正義に基づく犯罪だということだ。
組織内において組織の論理に囚われずに行動するためには複眼の思考を身につけておくことが必要だが、ことはそう簡単ではない。

みっつめは、無関心社会ということ。

現代社会は個人に分断されており、向こう三軒両隣りの世界はすでにもうない。
他人に無関心でいることが唯一の処世術になってしまっているようだ。
「地下鉄サリン事件」での他者と関わることを極端にまで避けようとする今の日本人の姿は、辺見庸さんと村上春樹さんの文を引用しながら既に、触れたことがあるので再録しておくに留める(こちら

いろんな意味において、オウムはわたしたち及び現代の社会を映す鏡だった。
確かに、規模は大きく異常に見える出来事ではあった。
が、規模こそ違えこれから先も繰り返しておこり得る普通の出来事だという事実の方に恐怖しよう。
加害者として、あるいは被害者としてわたしたち自身が振る舞わなければならない可能性は常にある。
わたしたちはそういう社会に生きている。