行政庁の窓口で語られる法律もどき

 

生活保護法を読んで気づいたことがある。それは、生活保護法を含む多くの行政法は、行政が守らなければならない法律ではないかということである。しかし、多くの行政は、国民や市民を統制あるいは支配の道具としてみているのではないかと、私は、しばしば考えてしまうのである。

役人がそのようなことを意識しながら仕事をするのであれば、行政の歪みを指摘して行政の歪みを糾すこともやりやすい。厄介なのは、役人がそれを意識していない場合である。

彼らの遵法意識が高いとどのようなことが起きるか想像してみよう。市民は、法律の拘束をうける。役人も市民を拘束するのと同じ法律の拘束をうける。法律の効力である。公務員だからといってその拘束力から逃れられるわけではない。

ところが、公務員は、一般的には市民が知るところではない法律もどきに拘束される。上級官庁からの通知である。もっとも、この通知を逆用して私は行政庁に対して通知を守れ、と主張することがある。このようなやりかをすることは稀であることをつけくわておきたい。

このようなことは、法律に書かれていないところで出現する。彼らは言う。法律の条文の隙間を規則、通達や要領で埋めるのだ、と。彼らのこのような考え方から生ずる陥穽は、その多くが勘違いか勉強不足である。彼らに染み付き、絡みついた悪習である。このような悪習は、彼らが入職してから、自ら勉強し自分の頭で考える良き慣習を捨ててしまうからである。

すぐに身近な同僚、上司に答えを求める。意見を求めるのではない。答えを求めるのである。自ら考え、自分なりの答えを用意して意見を求めることはしないのである。ここで気をつけられなければならないことは、細部を求めるあまり全体ーー行政法や憲法、条理や原則が蔑ろにされる危険性が、彼らの身近かに常在するのだ。この陥穽はすぐそこに、今存在するのである。

彼らに、法律と通達との、どちらが優先するのかと問うてみるがいい。この問いは、彼らにとっては残酷だろう。このジレンマが彼らを苦しめる。だが、彼らにはこの問いに答える責任と義務がある。そして、このようなことは行政の最前線である窓口で生起するのである。