はじめに、令和8年熊本地震によって今なお過酷な避難生活を強いられている全ての方々に、心からのお見舞いを申し上げます。そして、この未曾有の災害によって尊い命を落とされた方々、また劣悪な避難環境のなかで力尽き、無念にも災害関連死で亡くなられた方々に、深い哀悼の意を捧げます。
我々が今すべきことは、この悲劇をただの「自然の脅威」として涙を流して終わらせることではない。被災された方々の苦しみを真に和らげ、亡くなられた方々の無念に報いるためには、なぜこれほどまでに避難生活が混乱に陥り、被災者が命の危険に晒され続けなければならないのか、その根本にある「人災」の構造を冷徹に暴き、二度と繰り返さない社会を作ることである。大地震などの激甚災害が発生するたびに、日本の被災地では目を覆いたくなるような惨状が繰り返される。避難所となった学校の体育館はプライバシーもなく混雑し、冷房もない灼熱の地獄と化している。その結果、多くの被災者が避難所を敬遠し、狭い車内でのエコノミークラス症候群や熱中症のリスクを承知で「車中泊」を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。
これらを「突発的な天災による致し方ない混乱」と片付けるのは、完全な間違いであり、思考停止である。これは天災の皮をかぶった、政治と行政による明白な「人災」だ。
過去の震災において、避難所の生活環境の劣悪さが原因で多くの「災害関連死」が出るという血の教訓があったにもかかわらず、なぜ事前に全国の避難所に十分な空調設備(エアコン)や水、食料の備蓄、電源といった装備が充実してこなかったのか。その理由はただ一つ。平成から令和の日本を呪いのように縛り続けている「緊縮財政(予算の出し渋り)」と、それに伴う「コストカット至上主義」の因果応報に他ならない。
1. 歪んだ財政観が作った「命の格差」と財源論の嘘
学校の体育館に空調を設置し、まともに機能させるためには、単に機械を取り付けるだけでなく、建物全体の断熱リフォーム工事が不可欠となる。これには1校あたり数千万円規模の巨額の費用がかかる。人口減少と税収不足に悩む地方の自治体にとって、いつ起こるか分からない災害のために、平時から全ての学校にこの予算を回すことは極めて困難であった。
さらに、国(文部科学省)の補助金制度もまた緊縮的であり、「完璧な断熱工事の同時実施」を必須条件とするなどの厳しい縛りを設け、なおかつ「費用の半分は地元自治体の自腹」という冷酷なルールを課してきた。その結果、財政に余裕がある東京都の体育館エアコン設置率は9割を超えているのに対し、地方では2割から3割程度、ひどい地域ではほぼゼロという、「住む場所によって命の安全が差別される」という最悪の格差が平然と放置されてきた。
財政運営の舵取りを担う主流派経済学者や財務省は、決まって「限られた財源の有効活用」「将来の財政破綻という憂いへの備え」を大義名分にする。しかし、日本は自国通貨(円)建ての国債のみを発行しているため、いわゆるデフォルト(債務不履行)という意味での財政破綻は絶対に起きない。
政府の財政運営において、唯一かつ真の制約になるのは財政赤字の額や国債の発行残高ではなく、世の中のモノやサービスの供給能力を超えてお金を出しすぎたときに起きる「インフレ率」だけである。デフレに苦しみ、需要不足にあえいできたこの30年間、日本政府には国債を発行して全国の避難所インフラを完璧に強靱化する財政的余力が完全に存在していた。それにもかかわらず、「国の借金が大変だ」という大嘘のプロパガンダを流し、将来への付け回しを防ぐという綺麗事の裏で防災投資をサボり続けた結果が、現在の避難所の地獄絵図に繋がっている。
2. 「過疎地だからインフラはいらない」という行政の論理破綻と地方切り捨ての歴史
地方の震災における復興の驚くべき遅れを見れば、国の「地方切り捨て」の姿勢はもはや隠しようもない事実である。象徴的なのは、例えば能登半島沖地震において、財務省が震災後わずか数ヶ月の段階で、「将来の維持管理コストを念頭に置き、住民を集約した(コンパクトな)まちづくりを検討すべきだ」という提言を公式に叩きつけたことだ。これは「人口が減っている過疎地域に、元の通りに水道や道路を直すのはコストパフォーマンスが悪くて無駄だから、被災者は一箇所に集まるか、いっそ都市部に出ていけ」と言っているに等しい。スターリンもびっくりの強制移住計画だ。
断言する。「インフラを整備しないから過疎化や格差が進む」のであって、「格差が進んでいるからインフラを整備しなくていい」ということではない。この因果のすり替えは、地方を意図的に衰退させる「人災としての地域消滅」である。国家や行政の本質は、市場経済やビジネスの論理では救われない部分を「公助」によって支えることにある。それにもかかわらず、民間企業のような「黒字・赤字」「費用対効果」の論理を災害復旧に持ち込むこと自体が、行政としての存在意義の完全な放棄である。行政が意図的にインフラ投資を渋ることで住民を追い出し、「人が減ったからこれ以上の投資は無駄だ」と結論づけるのは、倫理的にも人道主義的にも完全に歪んでいる。格差を埋め、国民の生存権を守るために、むしろ過疎地域にこそ積極的に財政出動をしてインフラを強靱化することこそが、国家の果たすべき義務ではないだろうか。
3. 「身を切る改革」の化けの皮が剥がれたコロナ惨劇と供給能力の破壊
この緊縮マインド、コストカット至上主義を最も極端に、かつ最悪の形で推し推めてきたのが、地方政治における「身を切る改革」である。「公務員を減らします」「人件費や施設をカットして無駄を省きます」というパフォーマンスは、デフレで生活が苦しい有権者にとって「自分たちと同じ痛みを政治家や役人も味わっている」というカタルシス(憂さ晴らし)を与えやすく、熱狂的な支持を集める。しかし、その本質は「有事(災害や感染症)のために蓄えておくべき国家・自治体の体力(余剰の人員や物資、施設)」を、平時の数字上の黒字や実績アピールのために削ぎ落とす行為に他ならない。
その恐ろしい答え合わせは、コロナ禍において最悪の形で結実した。大阪市は、平時から「全国一スリムな自治体」を目指し、市内の保健所を24箇所からたった1箇所に統合・削減し、公立病院の病床や医療人員をコストカットで削ぎ落とした。その結果、大阪は感染爆発の局面で文字通りの医療崩壊を起こした。そのあおりを受けて、大阪府は、人口あたりの新型コロナ死亡者数で全国ワーストワンという、あまりにも悲惨な記録を叩き出したのである。
いくらお金(予算)を供給することができても、平時に緊縮財政で追い出してしまった「生身の医師、看護師、保健師」や、水道・道路を直す「熟練の土木作業員」、物資をピストン輸送する「トラック運転手」といった実体的な供給能力を、有事に魔法のように目の前に生み出すことは絶対にできない。「平時の効率化」は、「有事の自殺行為」なのである。この人員削減のツケにより、震災などの有事が起こるたびに、わずかな自治体職員が過労死ラインを遥かに超える殺人的な業務量を押し付けられ、精神的崩壊や自死の危機に晒されるのである。
4. 高市政権の欺瞞――「デフレ対策」を「物価高対策」にすり替える政治のバカバカしさ
高市政権の誕生により「責任ある積極財政」へ大きく舵が切られると期待された分、実際の減税規模の小ささや、平時と変わらない「財源論」への逆戻りを目の当たりにして、私はこの国に対する絶望や虚しさを深めた。「財政破綻のリスクではなくインフレ率こそが制約である」という事実に基づけば、今回の食料品限定での1%減税、しかも2年限りのつなぎ措置という方針は、国民が本当に求めていた抜本的な生活救済やデフレマインドの払拭には到底及ばない、妥協の産物と言わざるを得ない。そもそも、「物価高対策として消費税を下げる」というのは経済のメカニズムとして完全に間違っており、本来、消費税減税は「デフレ(需要不足)から脱却するための強力な一手」として使われるべきものだ。
今起きている物価高は、国内の需要が旺盛で景気が良すぎるから起きているのではなく、円安や原材料費・エネルギー価格の高騰という海外発のコスト上昇、及びデフレによる供給能力の毀損が原因である。国内がデフレマインドから抜け出せず、実質賃金が上がらない中でコストだけが上がっている状態に対して、「2年限定で食料品だけ1%下げる」といった小手先の物価高対策をやっても、生活苦の根本的な解決にはなり得ないのではないか。
政府は一方で「物価高で大変だ」と言いながら、もう一方で「減税の財源(お金)がないから国債を発行しなければならない、でもインフレが…」と、自分たちが作った矛盾したロジックの罠にはまり、身動きが取れなくなっている。
5. 現代の緊縮財政脳は、第二次世界大戦時の「大本営発表」と驚くほど似ている
最も恐ろしく、そして絶望的なのは、現在進行形で避難所で大変な目に遭われている被災者の多くが、この惨状の根本原因が「緊縮財政」にあることを理解していないという点だ。財務省の意のままにメディアが何十年も流し続けてきた「国の借金は○兆円を超え、国民1人あたり○万円の借金」「このままでは財政が破綻する」という大嘘を本気で信じ込み、「国の財政が大変だから、私たちは我慢するしかない」「将来の子供たちに借金を残さないために耐えよう」と、自ら進んで不条理を受け入れ、思考停止に陥っている。
この構図は、第二次世界大戦時の日本国民の姿と完全に一致している。当時、大日本帝国の指導者層はレーダーや無線、兵站といった実体的な物量をコストとしてケチり、「大和魂」や「1億総特攻」という精神論で兵士を地獄の戦場に送り出し、大量の戦死者及び餓死者を生み出した。そして国民は「欲しがりません勝つまでは」と自発的に服従し、耐え忍ぶことを美徳として互いを監視し合った。
現代も何一つ変わっていない。政府は自国通貨を発行できる圧倒的な財政力がありながら予算削減を掲げ、設備が貧弱な避難所に国民を押し込め、「我慢の美徳」という精神論で熱中症やエコノミークラス症候群という人災を量産している。
さらに不条理なのは、これほどの悲惨な結果が出ているにもかかわらず、財政規律を説いてきた主流派経済学者や政治家が、テレビに出ていい顔をし、巧みなパフォーマンスで「やってる感」を演出し続けていることだ。彼らは「将来世代への負担」や「国債の信認低下」といった中身のないフレーズを盾に、緊縮マインドを社会に固定化させ、防災や福祉といった命に関わる基礎インフラを削り続ける原因を作ってきた。不都合な事実の検証が始まりそうになると、すぐに別の新しい構想やイベントをぶち上げてニュースを上書きし、責任追及から逃れ続ける。これこそが、現代の「大本営発表」であり「劇場型政治」の正体だ。だまされていることにすら気づかず、自ら進んで苦難を受け入れる国民の姿こそ、この国がボロボロになっても変われない最大の原因であり、最も絶望的な部分なのだ。
結論:第2の敗戦という「リセット」を待つな、怒りの矛先を正しく政治に向けよ
自ら省みる能力を完全に失った今の日本の政治や財務省、主流派経済学者は、本当に国が致命的な大打撃(首都直下地震や南海トラフ巨大地震による一斉的な崩壊=第2の敗戦)を受けるまで、自らの過ちを認めることはないだろう。
しかし、本当に国が完全に壊滅してしまっては、実体経済(供給能力)そのものが物理的に破壊され、いくらお金を供給してもモノが作れず直せない、二度と立ち上がれないレベルの永久的な衰退が待っているだけだ。東京一極集中のツケが回り、避難所にも入れない数百万人という規模の弱者から真っ先に死んでいく社会を、「リセットされてお灸を据えられた方がいい」などと歓迎してはならない。
真面目に働き、高い税金や社会保険料を毟り取られている国民が、有事の際には冷房もない床に雑魚寝させられ、自己責任で生き延びろと突き放される。この歪みきった「国民を救わない国」のシステムを内側から変えるためには、表面的な発信力の強さや「減税の財源はどうする」というバカげた財務省の罠に騙されないことだ。
今の不条理に対する怒りを、決して一時的な愚痴で終わらせてはならない。防災や生活救済を「コスト(費用)」ではなく「国民が生存するための絶対的な投資」へと意識を大転換させるために、おかしいものはおかしいと、ファクトと経済の仕組みに基づいて声を上げ続けること。だまされていることにすら気づかない周囲の呪縛を解き、怒りの矛先を正しく政治に向けることが、この国が自滅へと向かう救いようのない連鎖を断ち切る唯一の道である。