東京北区・飛鳥山公園内にある渋沢史料館を見て回っています(2022年6月26日に訪れました)。
 
 
 
 
 
 
 
 
大蔵官僚を辞した渋沢栄一は自ら設立した国立第一銀行(現在のみずほ銀行)の総監役に就任し、銀行業の発展とともに様々な産業の育成のために多くの会社を設立・出資します。
 
 
この時期が渋沢栄一の一番脂ののった時期と言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
大蔵官僚時代の上司・同僚である井上馨や伊藤博文といった政治家とも昵懇の間柄で民間外交にも積極的でした。
 
 
アメリカ前大統領のグラントを日本に招き、接待委員長として栄一邸でもてなしたりもしました。
 
 
これも「青天を衝け」で描かれたエピソードですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして渋沢栄一を抜擢した徳川慶喜へは終生恩義を持ち、たびたび静岡で隠居している慶喜のもとを訪れたそうです。
 
 
 
 
 
 
 
栄一は渋る徳川慶喜を説得して、徳川慶喜の自伝の発行に尽力します。
 
 
これは徳川慶喜が旧幕臣を集めて自らの人生を振り返って語った内容をまとめた昔夢会筆記。
 
 
慶喜は自伝の発行を許可するに当たり、自らの死後に発行することを条件にしたそうです。徳川最後の将軍として、自伝を発行することによって影響力を与えてはならないという慎重な意見からでした。
 
 
 
 
 
 
 
そして徳川慶喜死後に発行された徳川慶喜公傳。
 
 
 
男爵渋沢栄一著とありますね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして渋沢史料館のそばには旧渋沢栄一邸があります。
 
 
建物のほとんどは東京大空襲で焼失してしましましたが2つの建物が残っています。
 
 
 
この建物は青淵文庫
 
 
渋沢栄一が80歳になった祝いと子爵昇格の祝いとして1925(大正14年)たてられました。
 
 
文字通り渋沢栄一の書庫としてや接客の場として使われました。
 
 
青淵とは渋沢栄一の雅号に当たります。
 
 
 
 
 
 
ステンドグラスがあるり、当時としてもモダンな建物だったでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
室内も豪華です。
 
 
 
 
 
 
 
渋沢栄一の所蔵していた書物は東京都立中央図書館へ寄贈されたそうです。
 
 
 
 
 
 
 
これは栄一が愛用していた硯。
 
 
 
 
 
 
 
渋沢栄一の日常も触れられていました。
 
 
 
夜は12時に寝て6時に起き朝風呂に入るのが日課だったようです。
 
 
新聞に目を通し、手紙を読んでいると来客が2.3人ほどは毎日来ていて必ずあって話をしていたという律義さでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
こちらは晩香盧
 
 
1917年に建てられた賓客を迎えるレセプションルームでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
立派な暖炉もあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すぐ近くには紙の博物館があります。
 
 
ここも渋沢栄一とはゆかりがあって
 
 
渋沢栄一が日本で初めての製紙会社を設立した場所なのでした。
 
 
ここの地名は「王子」。そう、後の王子製紙の発祥はここだったのです。
 
 
 
 
 
 
 
ここはさらりと。
 
 
 
 
 
 
 
 
紙を作る機械や
 
 
 
 

 
 
 
古代エジプトのパピルスや
 
 
 
 
 
 
 
中国の古紙などが展示してありました。
 
 
 
 
 
 
 
 
飛鳥山公園内の自販機にも渋沢栄一が。
 
 
キリンの自販機ですが、実はキリンビールの前身の会社にも渋沢栄一は出資していて、一時は重役に任命されていたとか。それどころでなくサッポロビールにもエビスビールにも渋沢栄一は関わっているとか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
という事で王子駅まで歩き帰りました。
 
 
 
渋沢栄一の功績を学ぶことができて興味深かったです。