白山のお菊さんもソクラテスも「わたしは何も知らない」
カントを語りながら、「わたしは何でも知っている」
ご飯を食べに行って、「ご飯をいただいた」と耳障りなことば、
誰がこの人に、ご飯をたべさせたのか?
・・・だ・・・である、・・・です・・・しました
この調子は、混在より統一のほうが、耳に心地よい、
しかし、ここでの耳障りの原因は、別の理由による。
「敬語の使い方」ブックを手に取っても良いが、
せっかく、哲学云々なら「敬語の哲学的分析」だろう。
行為と対象、主体と客体、記述と発話、
同じ行為であっても、対象が誰かによって違ってくる、
カレーライスを食べた、食べました・・・
作ってくれた人が記述・発話の対象なら、いただいた、いただきました、
それを第三者につたえるなら、食べた、食べました、に戻ってくる、
自分を中心とした、人間関係によって、変わる、
分類のABCは三角形となり、
1つの項は、さらに分類され立体化する、
日本語は不思議な言語である。
哲学者の詐称は困ったもの、弁明するなら、
もう一度ご飯を食べて、正しい敬語をつかうべきだ。