皆様、こんにちは。

今日で長いお休み終わり。

好きな時に寝て、起きて、ブログ書いたり…っていうのが出来なくなるのは

ちょっと、残念。

今日は朝から、市の乳腺検診で、マンモを受けてきて、まだ少し乳が痛いシャンプーです。

女性の健康管理も色々大変ね、、、

寄り道してるとまた終わらなくなるので、早速。


  ********** 


息子の中学の同級生の父兄で、キリスト教の神父さん?牧師さん?で

宗派も、プロテスタント? (詳しい事はわからないが)

とにかく教会を運営している方がいる。


夫が亡くなって、割と早い時期に偶然お会いして、

その神父さんから、こう言われた。

「神があなたの大切な人を連れて行かれた。でもきっと神はあなたに再び大切な人を連れて来ることでしょう」


死別から日も浅い時に、このような事を普通の他人に言われたら、

「え?」って一瞬固まるかもしれないが、

職業がキリスト教の神父さんという事もあったのか、

私は、「この人さすが、気の利いた事言うなー」って感じたのを覚えている。


日本には『故人をいつまでも偲んで、絶対に生きている異性に心奪われる事無く、

ただひたすらに故人を思って、余生を生きていく事こそが、美徳であり、正しい道である』

と言うような、前世紀的な考えが、未だ根強く残っている気がする時がある。


価値観、死生感、考え方は人それぞれ。

強制するつもりも、同調するつもりも無い。

ただ、ここは、私の思いを自由に書く私のブログスペース。

なのでハッキリ言わせてもらおう、

その日本人にありがちな発想。


おぇーーーー、気持ち悪いわ。


美徳クソ喰らえ。なに、その押し付け。


亡くなった故人の夫や妻をいつまでもいつまでも想い続け

愛し続ける。

これは、とても素敵な事だと思います。

私だって、四半世紀近く運命共同体で苦楽を共にした夫の事

忘れるはずもないし、いつも大切な人として胸の中にしっかりと居る。

夫の事を思わない日は、まだ1日たりとて無い。

それを口にするか、しないかだけ。


だからと言って、死ぬまで、亡くなった夫や妻以外には、

よそ見しないし、愛せないの、、、なんて言うつもりは全くない。


だって、私は生きていて、死んでいないから。



私は蠍座で、自分でも思うが、洞察力に優れている。

なので、他人の本音と建前が透けて見えてしまう時がある。

「私には、亡くなった夫しか、考えられないの、、、」

「僕は亡くなった嫁しか、絶対愛せない、、、」


ええ。 おっしゃる事と、行動が、伴っていらっしゃる方もたくさんいます。

そういう方々は、そういう方々で、

私とは、全然違うけど、素敵だなって思います。


でも、私が、ええ年こいてブリッ子すな!

見え見えなんじゃ、気持ち悪いな、、、と思うのは、

「亡くなった夫または妻しか、、、、、、」 とか言いながら、キョロキョロ、キョロキョロ、

出会いを探している人達。これも一定数居ると感じます。

法律用語で言うと、『心裡留保』している人達。


あのね、こちらも経験豊富な大人でっせ、バレバレでんがな…

って思っちゃう。笑

思春期の子供じゃあるまいし、本心を隠さなくても良くない?

言葉と行動が伴わない大人を見ると、みっともなくて白々しくて冷めてしまいます。


だったら男性でも女性でも、正直にストレートに、

今はその気にはなれなくても、いつか素敵な異性と出会いたいとか、

もう充分時間は経ちました、素敵なパートナーが欲しいですとか、

潔く表明できる人の方が、シャンプーはカッコいいと思うし、素敵だと思う。

(何度も言いますが、そんなの必要ないと仰る方は、この話では除外です、ご退出を〜👋)


以前、ある男性ブロガーさんが、

「死別の寂しさを埋める為ではなくて、余生を楽しく生きていく為にパートナーが欲しいと思うのは、

 ありではないか」と言ったことを書かれた記事を拝読したのですが、

私、シャンプーも全く同意見。

全くもって、同意見。


死別後、新たな恋をする事は、

故人を蔑ろにしてるとか、大切にしていないとか、

そんな単純で幼稚な話じゃない。


私が年甲斐もなく恋をしたとする。

私の夫は「おお〜ママ、モテるなー、頑張れよー」って

喜んでくれると思う。

お腹の中の胎児が、ママが嬉しいと嬉しいし、

悲しいと悲しい、と感じるのと同じで、

私の胸の中に同化した私の夫は、私が嬉しいと嬉しいし、悲しいと悲しい。

私がさみしいと、さみしい、、、そう感じると思う。


私は故人である、神に近い存在になった夫に、

今では、現世での恋愛相談をする時がある。

夫と私は、そんな素敵な関係になった。 5年の歳月をかけて。

なので、私には夫に対して、後ろ暗いとか、何か引け目を感じるとか、一切無い。

私が自分でよく考えて選ぶ生き方を、いつも応援してくれていると、

心の底から信じている。


この何というか、確信に近い自信が持てるようになってから、

霊界にいるかもしれない夫と会いたい、話したい、などと

思うことが無くなった。

感謝は伝えたいけれども。

でも、それはいつも伝えている。


夫と繋がりたくて、恐山のイタコに会いに行こうとさえ

思った私が、今はもう、いい。

夫はもう半分、私と同化して、私の胸の中に居る。


確かに、死別者の恋愛だとか、再婚だとか、パートナー作りには、

他にも、いろいろもろもろ、たくさんの障害が伴う。

センシティブでデリケートな様々な問題。

でも、それはあくまでも当事者間だけのこと。


中年期を過ぎて、

他人のそんな話に、ズカズカ介入して来て、横槍を入れたり批判したり、

せこい足の引っ張り方をするのは、100%現在、不幸せな人に多い。

しかも、だいたいモテない、見た目も心の醜さに比例して美しくない場合が多い。


すごい事書いているが、

でも真理と思う。


あ〜〜、めっちゃスッキリした。

(シャンプーもブログを始めて、そろそろ一年が経とうとしています。

 一部の人達を敵に回しても、本音を書くこんな私が好きって

 言って下さる方々だけが読んで下さればいいって、思うようになりました。)


ああ、書きたい本音を書いてると、段々話がズレていくので

元に戻しますね。


結婚前の若い頃、仕事が楽しくて楽しくて、29歳の晩婚になるくらい

あまり、恋愛体質じゃなかった私。

死別後も、最初の2年間くらいは、どんなに淋しくても

夫以外の異性と出会いたいとか、新たな関係を作りたいとか、

そういう事が、考えられなかった。


まず、とにかくそんな事に費やすエネルギーが一滴も残っていなかった。

でも、だんだんと気持ちが変わって行った。

「あれ? 私、恋愛体質だった?」っていうくらいに。


でも、よくよく考えたら、人は人と寄り添いたいと思うのが自然な事じゃないかと。

誰でもいいわけではなく、この人のここが好きだな〜って思える人がもしも目の前に

現れたら、何歳であろうと、死別していようと、素直に気持ちに従うのが

自然だと思うのですが。


この気持ちの表出に、なぜ罪悪感を感じたり、

気恥ずかしさを感じたりしなくちゃいかん?

その自然に発露する感情を、二枚舌で押し隠し、

真逆の言動をすることの方が、意識過剰で恥ずかしくないか?


自分が幸せじゃないからって、他人の足を引っ張ったり、

同調圧力と相互監視で、そんな素直な気持ちを表明させない

雰囲気を作ってしまう世界の方が、

私には、稚拙で歪んだ世界に感じる。


昨年の5回目の祥月命日の時、

夫の親友のDさん(過去記事、『夫の友人2』にも登場)

が焼香に来てくれた時、私はDさんに「実は好きな人が出来たかも」と話した。

すると、一瞬驚きの表情を浮かべたDさんが、

しばらく夫の遺影に手を合わせた後、私の方を振り返って、こう言った。


「あいつ(夫の事)、いいよってさ。 あいつももう天国で彼女が出来たから、いいよって言ってるよ」と。

さすがだなって思った。

相変わらず、粋なこと言う人だなって思った。

余裕のある、大人の気の利いた対応。

これこそ、私の幸せを願っての言動ではないか。

つくづく、夫はいい友達を持っていたんだなって、そう思った。


愛する伴侶と引き離されて間もない頃は、そりゃ伴侶の事しか

考えられないでしょう。

物事には、段階とプロセスがある。

40代、50代、60代、70代にさしかかる、、、、、、年齢によっても全然違うと思うし。

環境と性格によっても。

こんな考え方は、ともするとシャンプー1人だけのものかも知れない。


でも何百、何千という夜を過ごして、

泣いても喚いても、伴侶は生き返らない。

魂は近くにいるよと言われても、それは魂でしかない。


いろんなことを経験して、またいろんなことを考えて

たくさんの日々を乗り越えて来た。

そして、行き着いた自分なりの答え。

個々が選択する道を、否定することなく、尊重し合う。

そんな当たり前の、大人の品格を忘れたくはないものです。


好きな人ができて、さらに私は普通に近付けた気がしました。

死別のサバイバル…なんて意識がいつの間にか消えていたことに気づきました。

そして、大切な人がいるということは、私にとっては、生きる糧となる

と、ハッキリと自覚しました。


ただ、生きる糧の定義は、年齢や環境で少しずつ変わっていくのかも知れない。

今、私が『糧』として感じているのは、

50代半ばの私自身の感覚なのかも知れない。

それ以上でも、それ以下でもない、今の私の感性。


以前、過去記事で書いた覚えのある、

心理学者フロイトの言葉。

『愛と仕事、仕事と愛、それがすべてだ』


これは、あながち間違いではないと思う。


最後に。

3年くらい前に、ブログで見つけた詩。

どなたが書かれたか、何かの引用か、

細かい言葉尻すら忘れてしまいましたが、

私の心にずっと留まっていた詩を、シャンプー流に思い起こして。




僕が死んだら、しばらくの間は泣いて。


泣いて、悲しんでね。


でも、ずっとじゃなくていい。


少し涙が乾いたら、君の人生を歩いて欲しい。


その方が、僕もうれしい。


僕はずっと見守っているよ、ずっとずっと応援しているよ。


それを、忘れないで。




長々と、私の呟きにお付き合い下さり、ありがとうございます。

樹齢千年を超える御神木。

人間の何倍も生きて世の徒然を見ている樹。

ほんとうは心や精神が宿っているのでは?

と、思う時がある。









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