あれからどれくらいの間、口付けを交わしていただろうか。
めぐみが視線を泳がせると、窓から差し込む夕陽が目に入った。
未だ寄せ合ったまま、めぐみの唇は律子を離そうとはしない。
それは律子も同じで、ただひたすらに求め合い与え合った。
絡まる舌が吐息を荒くさせ、身体と心を火照らせる。
―りっちゃん
意を決したようにめぐみから唇を離すと
二人の間を名残惜しそうに細い糸が引き、そして落ちた。
力なくもたれかかるその身体を抱きしめて顔を上げさせると
頬を赤く染め、うつろな瞳でめぐみを見つめる律子がそこにいた。
そんな律子に、めぐみは自分の中で高まる鼓動と衝動を抑えきれなくなった。


「んっ…」
もう一度唇を重ねる。
今度は奪ったと言った方が相応しいかもしれない。
先刻までとは違って、激情に任せ熱く深く
めぐみは律子の中に押し入ろうとした。
律子は戸惑いながらも、めぐみの想いを受け入れていく。
「めぐちゃ…」
めぐみの右手は自然に律子の胸へとあてがわれていた。
触れたそこから、律子の鼓動が直接伝わってくる。
密着させるほど、更にそれが高まっていくのがわかった。
ずっと、憧れていた辿り付きたかったその場所へめぐみは手を進める。
「…いや?」
その問いに律子は困ったように頬を上気させる。
一度は瞳を伏せたが、しばらくして首を小さく横に揺らすと
めぐみはそれを合図に、あてがう手指を少しずつ動かし始めた。
「…ん…ん…」
細く小柄な身体には少し目立つ、形の良い律子の胸。
思い描いていたよりずっと、温かく柔らかな感触にめぐみは驚いた。
それを撫でるように優しく、ゆっくりと揉みしだいていくと
律子はめぐみの手に合わせて小さく身体をひくつかせた。
「ふぁっ…ん…」
塞がれた唇から律子の喘ぎがくぐもって響く。
それを耳にすると、めぐみは更に大胆になって律子を求めていくのだった。
胸にあてがう右手と平行して、くびれた腰に左手を回し、誘うように撫で回す。
たったそれだけで律子の理性と自由は利かなくなり
もう立っていられない、というばかりに足をがくがくと震わせた。
手の内で撫で回す律子の胸から
下着とブラウス越しでもわかる、先端のとがった感触に気付く。
めぐみは中指をそこへ至らせると、執拗に擦り付けた。
「あっ…ぁ…」
唇を離すと、自由になった口から律子のか細く澄んだ声が響く。
「ずっと、こうしたかった…りっちゃんに触れたかった…」
めぐみがそう耳元で囁くと
その言葉と、かかる吐息に律子は肩を震わせる。
そして恥ずかしそうにめぐみの胸に顔をうずめると、律子は呟いた。
「私も…触れてほしかった…」
その言葉は、めぐみの炎に油を注ぐようなものだった。


「りっちゃん…」
めぐみはその手で律子の身体をまさぐったまま、耳元へ唇を落とす。
それは段々と降りていき、唇が何度も首筋をなぞっていった。
「ん…」
雪のように白い素肌に、紅い軌跡がいくつも印されていく。
律子は首元へ愛おしそうに口付けを繰り返すめぐみを見つめながら
愛され、触れられる喜びに胸がいっぱいになった。
そしてそれを伝えるにはめぐみの身体を抱きしめ返すだけで十分で
わかってると、律子の耳にはめぐみのその呟きが聴こえた気がした。


「…あっ…めぐちゃ…まって…」
めぐみが先を急ぐように、口付けたままブラウスのボタンをいくつか外すと
律子はめぐみの肩に手を当て、小さく声を上げて制止する。
「これ…以上は…ベッドで…」
二人が気付いた頃には夕陽はとうに暮れていた。



律子の肩を抱きながら、薄暗い寝室へとめぐみは足を進める。
めぐみが手探りに電気を付けようとすると、だめと律子は呟いた。
「つけ…ないで……カーテンも、しめて…」
そう、頬を染めながら消え入りそうに言う律子の声が響く。
少女のように戸惑う律子を前にして
更なる鼓動の高まりをめぐみは感じていた。
めぐみが空色のカーテンを全て閉じていくと
二人だけの世界は更に闇深くなる。
「これで…いい?」
振り向いてベッドに腰掛ける律子に声をかけた。
めぐみには律子の姿をはっきりと捉える事が出来た。
律子しか見えなかった、という方が正しいかもしれない。
闇が二人以外のものを全て消し去り、愛する者だけを映し出した。


「うん…」
律子の瞳がめぐみを見つめ返すと、合図が取れたように
めぐみは律子の身体に覆いかぶさった。
「りっちゃんっ…」
海のように青いシーツの上に押し倒され、律子は
溺れてしまいそうなほど、自身の欲情が高まっていくがわかった。
先刻までの余韻など、とうに越していた。
四つんばいの体制でいるめぐみに手を伸ばし、その頬へ触れると
律子の目には、めぐみの瞳で燃える情熱が確かに映った。
欲しい、と律子は心の底から思った。
そしてその想いはめぐみも変わらなかった。


もはや二人を隔てるものは何もない。
先刻までの情事をなぞるように、めぐみは唇を合わせる。
「んっ…ふぁ…」
仰向けに両手を伸ばし、自分を抱きしめてくれる律子の身体を
めぐみは熱情を込めて触れていった。
ブラウスのボタンが全て外され、腕を通って剥がされると
律子の上半身は胸を包み隠す下着だけになる。
めぐみは手を律子の背中へと回し、下着のホックに手をかけた。
「っ…」
胸元の開放感を感じて、律子は反射的に自分の腕でそこを隠してしまう。
「見せて…りっちゃんの身体…」
耳元でそう優しく囁くと、めぐみは律子の細い腕を枕元へ誘い
カップを上にずらしていった。
「…っ」
恥ずかしさから、律子は思わず瞳を閉じてしまう。
そんな律子を前に、めぐみの熱い視線が止む事はなかった。
「キレイだよ…すごく」
めぐみのその声と同時に、熱い手指が乳房を包み込む。
「んっ…」
再び愛しい唇を塞いで舌を絡ませると
律子はもう、めぐみのなすがままになっていった。
首元よりも更に白く、滑らかな律子の胸を
めぐみは先程までより更に大胆になって揉みしだく。
手の平にあたる、先端のとがった感触に誘われて
中指と親指とで、固く起き上がったそこをめぐみは弄んだ。
「んっ…んん…」
めぐみの一つ一つの動きに
律子は身体を震わせ、腰を浮かせるほど反応した。
めぐみは一旦舌を引き抜き、律子の唇を開放する。
「もっと聞かせて、りっちゃんの声…」
そう言うと、めぐみの唇は律子の素肌へ降りていく。
先程つけた紅い印をなぞっては
また新たに律子を愛した軌跡を残すめぐみ。
「あっ…ぁ…」
素肌を掠めるめぐみの前髪さえも、律子を敏感に追い立てて
唇からは淡い吐息がひっきりなく漏れてしまう。
恥ずかしさに閉じていた瞳を、潤ませながら見開くと
そこには切なげに律子の身体を愛するめぐみの姿があった。


「あ…んんっ…」
唇で胸をなぞると、めぐみの愛撫を待ちきれないように
淡い桜色をした頂が、更に固く起き上がっていく。
めぐみも自ら求めるまま、先端を味わうように舐め上げた。
「あぁっ…」
めぐみの舌を感じた瞬間、一際甲高い声を上げる律子。
それに気を良くして、めぐみは欲情のままに
小さく敏感なそこを舌でこね回し、音を立てては吸い付いた。
「や…そんな…吸ったら…」
強い刺激に頭を振りながら、律子は思わずめぐみの頭に手を伸ばす。
しかしその手がめぐみを拒絶する事はなく、まるでもっととせがむように
自らの胸に押し付けているかにも捉れた。
―もっと感じさせたい
  もっとりっちゃんを感じたい
そう心で呟き、その胸は高ぶる。
めぐみはわかっていながらも
自らの荒く激しくなっていく呼吸を、抑えようとはしなかった。


唇で乳房への愛撫を続けながら、めぐみの手は律子の足先へと彷徨う。
視線をずらすと、律子自身も無意識らしく
耐え切れないように、落ち着きなく揺れるひざが目に入った。
そんな小さな動きも、今のめぐみを駆り立てるには十分だった。
「あっ…」
スカートの中に手を差し込まれ、律子の足が反射的に閉じられる。
愛しい人が見せる不安げな表情を察すると
めぐみは穏やかな視線で律子と瞳を交わした。
すぐに枷が外れたように、律子の足の力が解けていく。
それがわかると、めぐみの手は更に奥へと進んでいった。
「ん…ん…」
内股をさすられ、敏感な律子はそれすらも感じたように声を上げる。
首や胸、他の素肌と同じく、なめらかにすべる律子の感触に
めぐみは焦らすように、手指をその場所で往復させた。
「めぐちゃ…」
もの欲しげに名前を呼ばれ、めぐみも自制が効かなくなる。
既に感じている湿った空気に誘われて、めぐみの指はついに
律子の身体で一番敏感な場所へと至った。
「あッ…!」
めぐみに触れられた瞬間、例え下着越しでも
律子の身体に仰け反るほどの衝撃が走ってしまう。
もう十分湿りきった布地の上から、めぐみが更に指を進めていくと
指先も、シーツも、律子の蜜で帯びていった。
「すごい濡れてるよ…りっちゃん」
律子が確かに感じていてくれるという
何より正直なその証が、めぐみにはとても嬉しかった。
「…いや…あッ…はずかしい…」
めぐみの囁きを耳にすると、律子は恥ずかしさのあまり
自らの手で顔を覆い隠す。
「あっ…あ…」
右手は秘所に這わせたまま、めぐみは左手で律子の手を退ける。
真っ赤に染めた頬へ手を添えると、涙で瞳を潤ませた律子が
めぐみには愛しくて仕方かった。
「可愛い…」
そう、囁きながらめぐみが唇を合わせると、弄ぶ右手に
律子は更に高まって刺激を覚えた。
しばらくして、めぐみが手の動きを止める。
「もっと…触ってもいい…?」
その問いに律子は恥ずかしそうに視線を逸らすが
小さく頷くと、めぐみの手はスカートのホックへと至った。
それを外しファスナーを下ろしてから裾に手をかけると
手伝うように腰を浮かせた律子に合わせて脱がせていく。


ついに最後の一枚になって、それも同じようにめぐみが手をかけると
今度は律子に自ら身体を浮かせる余裕はなかった。
それでも薄い布地はすぐにも律子の身体を通り抜け
濡れたそこから糸を引いて離れていく。
「こっち向いて…」
両手両足を固く閉じ、うつむいていた律子に声をかけると
めぐみはその両手に自分の両手を絡め、枕元で押さえつける。
そして律子の細く白い身体を舐めるように見下ろした。
「りっちゃんの身体…すごくキレイだね…」
そう囁いて、生まれたままの姿になった律子を抱きすくめる。
「全部、キスしたい」
そう言って再び口付けようとしためぐみの服のすそを
律子はひっぱると、訴えかけるような眼差しを見せた。
「あ…」
律子は何も言わなかったが、それが何を伝えたかったのか
めぐみにはすぐに察する事で出来た。
「うん」
神妙に頷くと、めぐみは少し照れくさそうにしながら
自ら着ていたTシャツに手をかける。
律子が伝えたかったのは「自分だけでは恥ずかしい」という事ではなく
「直接めぐみの素肌と体温を感じたい」という気持ちだった。
そんな真意を、めぐみは律子の目を見ただけで理解する事が出来た。
程なくして、めぐみも律子と同じ一糸纏わぬ姿になると
改めて愛しい身体に手を伸ばし、想いをぶつけるかのように抱きしめる。
「めぐちゃんっ…」
律子は、初めて感じるめぐみの柔らかく暖かな感触に
たったそれだけで果ててしまいそうになった。
愛する身体を抱きしめ合い、唇を寄せ合うと
二人は互いの想いと温もりに溺れていく。
そして再びめぐみの手指と唇は律子を求めていった。


「んっ…ん…」
めぐみの手が内股を擦り、少しずつ秘所へと近づいていく。
唇で素肌への口付けを繰り返しながら
めぐみは律子の身体を、愛をもって支配した。
「あァッ!」
辿り着いた、熱く濡れきったその場所でめぐみの指は戯れる。
それと平行して唇は律子の乳首を貪り
溶けてしまうほどに舌で散々に舐めまわした。
「あッあっ…!」
敏感な場所の全てをめぐみに触れられ、弄られると
律子は、与えられる快感にひたすら喘ぎ返す事しか出来なくなる。
めぐみは構わず指の動きを早め、更に溢れかえる蜜を感じていた。
「りっちゃん…りっちゃんっ…」
息のかかった声で何度も名前を囁かれ
律子にはそれすらも、自らの鼓動と興奮を高めるものに変わっていく。
同じようにめぐみの欲情も、自我すら忘れるほどに達していた。
「めぐちゃんっ…あぁっ…」
律子の喘ぎが激しくなるほど、それに合わせてめぐみも大胆になる。
指先は快楽の証を求めるように、更に淫猥な動きを見せ
一番敏感な突起へ見つけると、断続的にさすっていく。
「そ…こは…あっ…あんっ…!」
指での愛撫を続けながら、見上げるように恋人の顔を覗き込むと
シーツを握り締め、苦しいほどの快楽に瞳を潤ませる律子がいた。
好きだと打ち明けた先刻までよりずっと、律子への愛しさは募っていて
めぐみの中に身を切るほどの幸せが走っていた。
―もっと気持ちよくしてあげたい
熱い想いがめぐみを駆り立て、それを止める理由は見つからなかった。
「ツメ、立てていいからね」
頬を濡らす涙をそっと舐めとりながら囁くと
めぐみは律子の手を自らの背中へ回させた。


「ぁ…ん…」
めぐみの唇が律子の素肌をなぞっては少しずつ降りていき
その鼓動は、期待と不安におおいにかき乱される。
いくら自制を効かせようとしても、めぐみの背中へ回す手に
段々力がこもっていってしまうのがわかった。
「めっ…めぐちゃん…!」
反駁する律子に構わず、両手で強引にふとももを開いていくめぐみ。
快楽の証で溢れ返ったその場所へ、ごく自然に顔を寄せていった。
「だめ…!あっ…あぁぁッ…」
めぐみの柔らかな舌が秘唇へ至り、粘膜の間を執拗に上下する。
思いもよらない刺激に、律子は拒絶すら思考から消えて
苛むほどの快感に耐える事しか出来なかった。
最初はぎこちなかった舌の動きが、慣れていくほどに
律子を敏感に攻め立て、めぐみの中では恍惚感が募っていく。
初めて味わう律子の味に、めぐみは我を忘れて酔いしれた。
「あっあっ…めぐちゃ…そんな…に…」
唇付けた律子の秘所から、悦びの粘液が休みなく溢れ出し
めぐみが吸い付きながら舌で弄ぶと、再び溢れかえる。
何度も繰り返し、固く起き上がった頂を
手指も合わせて重点的に責めさいなんでいった。
「はぁんッ…あッ…あンッ…!」
めぐみの立てる、淫らな水音が律子の耳に響いては残り
今まで積み上げられた刺激と快楽で、その身体の限界は近かった。
無意識に立ててしまった律子の爪で、めぐみの背中には
キスマークのような、いくつかの紅い印が刻まれていく。
めぐみにはそれが何よりもの快感にとってかわった。
「あッめぐちゃんっ…わたし…もう…」
律子が限界を告げるように、更に忙しない声を上げる。
めぐみがいくら飲み切ろうとしても
律子の蜜はきりがなく溢れ出し、シーツを更に湿らせていく。
めぐみは構わず、律子を促すように弄ぶ舌と手指の動きを速めた。
「あぁッ!めぐちゃんっ…めぐちゃんッ!」
ただ求めるように喘ぎ入り、愛しい者の名を呼ぶ律子。
そんな律子の視界には、めぐみしか映らず
瞳を閉じてもめぐみが消える事はなかった。
与えられる愛情と快楽に身を任せ、その心と身体からは
めぐみへの想いが溢れ返っていた。
「好きだよ、りっちゃん…」
身体がこれ以上ないほどに強張り、仰け反りながらも
伸ばされた愛しい左手を握り返し、律子は絶頂を迎えた。
「めぐちゃ…ッ…す…きッ…あっあッあぁぁぁんッ!!」


枷が外れたように、律子の細い身体がシーツへ沈んでいく。
「はぁ…はぁ…ぁぁ…」
不規則な吐息を繰り返し、律子は酸素を求める。
やがてそれも治まると、視界では今まで見た中で一番
穏やかで優しい瞳をしためぐみを、捉える事が出来た。
それは律子がずっと求めていた、世界でたった一人の人だった。
「めぐちゃん…」
確かめるように律子が力ない腕をそっと伸ばしていくと
めぐみの方から律子の身体を抱きしめてきた。
「りっちゃんっ…」
未だ虚ろな余韻が律子を支配し
抱きしめられる心地良さにただ身を任せていた。
そして二人はごく自然に口付けを交わす。


「…やっと…」
「え?」
何度目かのキスの後、ふいにめぐみが口を開く。
「やっと一つになれた気がする…あたしの“愛しいかけら”と…」
はにかむようにそう言っためぐみは、律子にとっても
何よりかけがえのない“愛しいかけら”だった。
「あたし、もぅ離れないからね、もぅずっとりっちゃんを離さないから!」
おもちゃを独り占めにした子供のように強い口調で言ってみせるめぐみ。
それがめぐみの精一杯の誓いだとわかった律子は
繋いだ手を噛み締めるように、ただ強く握り返した。
「めぐちゃん…ほんとうに好き、愛してる…」
再び口付けようと、めぐみが顔を寄せた時
今度は律子が懇願するように口を開いた。
「あたしも、愛してる…」
照れくさそうに耳元で小さく言っためぐみの言葉は
律子の胸で確かに響き渡る。
いくら言葉を重ねても、二人には伝え切れない想いがあった。
それでも、相手から受ける愛の言葉が、心の全てを満たしていた。
今確かに感じているしあわせを1mmも零さないように
互いを抱きしめ合う腕に力をこめる二人。
愛しい温もりに包まれて、やがて結ばれた欠片はまどろんでいった。

真野がこの土地に越して、斉藤と出逢ってから数ヶ月もの月日が経った。
「じゃあね、行ってらっしゃい」
斉藤と真野は今朝も一緒に、幼稚園の送り迎えに来ていた。
「行こっか?」
教室へと向かう子供を見送ると、真野は斉藤に声をかけ、二人は共に門へと向かう。
出逢いから日も浅いが、斉藤と真野は確かな信頼を重ねた友達同士だった。
真野が斉藤を敬遠したり、斉藤が真野を叱り付けたり
衝突や涙もあった二人だが、それは二人を結ぶ強い絆へと変わった。
何より、真野には斉藤がかけがえのない恩人で、ただの友人以上に大切な存在だった。
「寒いね…」
「うん、寒い」
何でもない言葉を交わすだけの時間だが
真野にとって斉藤と二人で帰るこの時間が毎朝の楽しみなのであった。


しかし今日の真野は、二人きりで過ごす時間に満たされ
幸せに浸るわけにはいかなかった。
1週間後に迫った、大事な日について、尋ねなければならない。
真野は二月に入ってからずっと、そればかりが頭に浮かび落ち着かない様子でいた。
「あの…斉藤さん?」
「ん?」
やっとの思いで、真野は言葉に乗せてみる。
「バレンタイン…ううん!14日って、なにか予定ある!?」
「14?別に、いつもと変わらないけど」
斉藤の言葉に、真野は深呼吸して、次の言葉に繋げる。
「あの、あのね!一緒にお茶に行けたらなぁって!
 …あ、ほら、知ってる?商店街とこのカフェ、バレンタイン限定のスイーツだって!
 それが食べたくて!食べたいから!だから、一緒に…」
「この日を一緒に過ごしたいから」という気持ちだけは決して悟られないように
真野は思いつきで口実を並べ立てた。
「真野はほんと、そーゆーのが好きだね」
あきれたような声が、斉藤の口から漏れる。
「いいよ、何時から?せっかくだしお昼も一緒でいいよね」
不安そうに斉藤の返事を待っていた真野の表情が、一気に満面の笑みへと変わる。
「うん!!じゃあ11時に!」
「そんなに嬉しいか…」
真野の笑顔とはしゃいだ声に、斉藤も釣られて笑顔になる。
(やった~~~バレンタインデートだ~~~~~!!)
乙女心を知らない斉藤は、陽気な真野を不思議そうに眺めるのだった。



そしてバレンタイン当日、朝の幼稚園までの見送りを済ませた真野は
お粧しとチョコ作りに一人奮闘していた。
「斉藤さん美味しいって言ってくれるかな?ううん、その前に食べてくれるか…
 バレンタインに誘った上に、手作りチョコ渡すなんて変に思われるだけかなぁ
あー…やっぱりハート型はやめとこう…」
そうぼやいていた真野だったが結局ハート型のチョコレートケーキを
斉藤への想いを込めながら、丁寧に包むのだった。


「おーそーーいっ!」
大急ぎで着替えと化粧を済ませた真野が玄関を出たのは
11時5分で、ドアを開けた途端斉藤の声が響いた。
「ご、ごめんね!!」
鍵を閉めながら真野が謝る。
「15分も待ったよ」
「早く来てくれたの…?」
真野が駆け寄ると斉藤の鼻は寒さに赤く染まっていた。
「別に?私も楽しみと言えば楽しみだったし」
「そ、それって…」
(私と一緒に出かける事が楽しみだったって事?)
真野は斉藤の言葉の真意を勝手に期待し、胸を高鳴らせた。
「なによ」
「ううん!待たせてごめんね!行こう!」


その日はウィンドウショッピングから始まって
行きつけの店で昼食を取り、そしてまた店をめぐったりして時間が流れていった。
たまに二人で買い物に行く日と変わりない、そんな一日だった。
「斉藤さんは今日の夜なににする?」
「うーん、トンカツかな」
「じゃあうちはカレーにしよう♪」
「なんでよ」
「カツカレーが好きだから」
「…言っとくけどカツはやらないわよ」
そんな他愛もない会話をいくつも繋ぐばかりだったが、真野は楽しくて仕方なかった。

「今度は、私の家で一緒にお昼食べない?」
弾んだ会話の中、いつもはなかなか言い出せずにいる事も真野は口にしてみる。
「何作ってくれるの?」
「斉藤さんの好きなもの………ハンバーグとか?」
「それじゃあ子供じゃない」
「だって得意だから…だめかな?」
「じゃあうちに来た時はパスタを作ってやるわ」
「うん!!」
(やった!約束が二つ増えた…!)
子供のように、真野は斉藤との約束を数えていた。
そしてその全てを、絶対に叶えたいと願うのだった。


はしゃぐ真野と、それに応える斉藤、二人の時間は和やかに過ぎていったが
最後に向かったカフェをも出る時間になると、段々と真野の表情が曇ってきてしまう。
(どうしよう…いつ渡そう)
「そろそろ帰って、迎えに行かないとね」
そう言って足早に前を歩く斉藤に、真野は追いつこうとするが
その心中に焦りは募るばかりだ。

「………あのっ!」
家まであと少しのところになって、真野はやっと切り出そうとする。
「ん?」
「あのね、これ作ったの、斉藤さんに食べてほしくて…
あ、その良かったら潤一君と、二人でね!」
言いながら包みを袋から出すと、斉藤の前に差し出した。
「もしかしてチョコレート?わざわざ私の為に?」
包みを受け取る斉藤の手が触れて、真野は思わず顔を赤らめる。
「斉藤さんの為にっていうか斉藤さんの為だけど、わざわざじゃなくて…」
赤らめた顔を隠しながら話す真野を見て、斉藤は笑った。
「開けてもいい?」
真野が頷くと、斉藤は真野の腕を掴んで公園へ向かった。

「時間、大丈夫?」
腕を引かれたまま、真野が弱気な声で聞く。
「潤一達には、少しだけ待っててもらおう」
その言葉に真野は、斉藤が今の時間だけは子供より自分を優先してくれたのだと
不覚にも嬉しくなってしまう。
今の真野は、目の前の斉藤に恋焦がれる、一人の乙女でしかなかった。


二人ベンチに座り、斉藤は包みをひざの上に乗せるとそれを丁寧に開ける。
真野は、隣りでその姿を熱心に見つめるのだった。
「これはこれは…」
中のケーキを見るなり、斉藤は照れたように笑う。
ハート型のケーキの上には生クリームで「サイトーさんへ」と書いてあった。
真野の方を向くと、真野は不安げに斉藤の反応を窺っていた。
「毒味していいかな」
「ど、毒なんか入ってないよ!」
ふふ、と笑いながら、斉藤はケーキの端を指ですくうと、口に含む。
真野は息をのんで、その動作を見つめていた。
「甘いね」
「甘すぎ!?まずい!?」
「そんな事言ってないわよ」
今にも泣きそうな顔で聞く真野に斉藤は冷たい口調で否定した。
「味見しなかったの?」
斉藤はもう一度指でケーキをすくい、真野の口元に差し出す。
「え…あ…」
一瞬戸惑った真野だが、思い切って斉藤の指に口付けた。
「美味しいでしょ」
「…うん」
何度も味見をしたが、真野にはこの一口が何十倍も美味しく感じられた。
(間接キス…ていうか指…)
これ以上なく顔を赤らめている真野に気づかず、斉藤はその指で二口目を口にする。
「相変わらず、女の子らしい事するなぁ…」
あきれたように言って見せるが、その顔は嬉しそうに微笑むばかりだった。


箱をもう一度丁寧に包むと、斉藤はそれを胸に抱え、立ち上がる。
「行こうか」
「うん!」
毎日のように二人で歩く道程で
いつも斉藤を追いかけて、少しだけ斜め後ろを歩いていた真野だが
今はちゃんと並んで歩けているように思えた。
「あ…」
ふいに手がぶつかり、二人は同時に反応する。
真野は、斉藤の視線から目を離せなかった。
数秒でしかないが、こんなふうに見つめ合ったのは初めてのように感じる。
「……チョコ、ありがとうね」
そう言って、斉藤は視線を離す。
そしていつものように先に歩き出すが、その手は真野の手を握りしめていた。
手を引かれるように、真野も歩き出す。
「え…あ…うん、ううん、私こそ…いつもありがとう」
手を繋がれたまま、真野はまた斉藤の斜め後ろを歩くしかなかった。
(こんな顔、見せられないよ)
それは斉藤も同じで、二人は手を繋いだ間ずっと、お互いの顔を見る事が出来なかった。
(このまま時間が止まっちゃえばいいのに…)
それは真野の、その瞬間の本心だった。


一旦家に寄ってから、二人はまた幼稚園に向かう。
到着すると、笑顔で駆けて来た子供の姿に真野は胸の痛みを覚えた。
「今日はどうだった?」
いつもと同じように、前を歩く子供の話を聞きながら、四人で歩く夕暮れの帰り道。
そしていつもと同じように、別れの時間が近づいて来る。

「それじゃあね、真野」
真野の家の前に着くと、斉藤から挨拶する。
「うん、じゃあね斉藤さん」
少しだけ寂しそうに、答える真野。
そんな真野の声を聞いて、斉藤自身もこの場を去り難く思った。
「また明日ね!」
そう、もう一度手を振って言った斉藤の言葉に、真野は気付かされる。
「うん!また明日!」
元気を取り戻した真野の声に安心して、斉藤は背中を向け、今度こそ歩き出した。
真野は、その姿が見えなくなるまで斉藤から視線を外す事が出来なかった。
「ママ、どうしたの?」
子供の声に、真野は笑顔で応える。
「…ううん!帰ったら一緒にチョコレート、食べよっか!」
「やったあ!」
(時間は止められなくても、また明日、斉藤さんに逢える…!)
玄関の鍵を開けながら、真野の心は幸せでいっぱいだった。

―斉藤さんの手の温もりが、忘れられない


リビングのソファーにもたれ、この冬一番の寒空を眺めながら真野はため息をつく。
毎朝の送り迎えを済ませて、もう一時間もここでこうしてぼんやりとしていた。
「斉藤さん、何してるかな…」
たった一時間前に別れたばかりだというのに、真野の心中には斉藤の事ばかり。
バレンタインのあの日から1週間も経っていたが
真野はその日の斉藤の事を、毎日のように思い返していた。
(斉藤さんの手があんなに熱いなんて…)
考えただけで、真野の手には斉藤の手の感触が蘇るようだった。
「斉藤さん…」
あの時握られた左手を、自分の頬に寄せてみる。
真野は自分の鼓動が段々と早くなっていくのがわかった。

―今、こうして家で一人きりでいるのが寂しい
どうして、斉藤の事を考えるとこんなふうになるのか、真野はわかっているつもりでいた。
(斉藤さんは、私の恩人で、誰より素敵な人で、大切で大事で、大好きで、憧れの…)
今まで感じていた幸せが、斉藤によって塗り替えられている事に気付いていながらも
真野は、この気持ちが彼女と初めて出会った時から感じていた
憧れの延長なのだと、思い込んでいた。


最近の真野は、幼稚園までの見送りの後、いつでも一緒に過ごせるようにと
毎日早起きして、朝食より前に家の事を片付けてしまうようにしていた。
それは、まだ小さな子供を持つ専業主婦としては決して容易な事ではなかったが
斉藤と少しでも長く過ごしたいという気持ちが、真野を動かしていた。
だが、真野が毎朝努力を重ねても、そう毎日誘えるわけもなく
整理整頓された広い部屋で何もない時間を過ごす寂しさを
今日も一人かみ締めるしかなかった。
「今日は、一日家にいるって言ってたよね」
何かしなくてはと思っても、斉藤のいないジムに行く気にもなれない。
そうして、今日何度目かの深いため息をついた時
窓を覗く真野の眼前に、白い結晶が舞った。
「あ…」
突然振り出した雪に真野は驚いて窓を開ける。
確かに今朝の予報には雪マークが流れていたが
大急ぎで家事を片付ける真野の目には留まっていなかった。
「主婦失格だぁ…」
こんな自分に、一人の母親として呵責を感じる。
それでも、窓の外の雪を眺めながら
真野の心は斉藤への想いに傾斜が深まるばかりだった。
「……っ」
傍らに置いてあったマフラーだけ巻いて、真野は玄関を飛び出した。
行き先は、一つしかありえなかった。


「斉藤さんっ…!」
白い息を弾ませながら、斉藤の家のインターフォンを鳴らす。
真野は自分でも気付かずに斉藤の名を呼んでいた。
その声が聞こえたのか、玄関の扉はすぐに開かれた。
「真野?」
突然の訪問に、驚いた様子の斉藤の姿がそこにはあった。
「どうしたの、上着も着ないで…」
あっ、と真野は言われてから気付く。
「その、ごめんなさい、急に…その…」
斉藤は、何も言えずにいる真野の肩を寄せ、とりあえず玄関の中まで迎え入れた。
「何か、あった?」
下を向く真野の顔を覗き込み、心配したような声で斉藤は聞く。
真野は、近づけられた顔に赤面し、更に下を向くしかなかった。
「な、なんでもないの……ただ…」
「ただ…?」
斉藤に促され、真野は息を飲む。
「雪が降っていたから……」
「子供じゃないんだから」
心配して損した、と言わんばかりに斉藤は背を向けてしまう。
(やっぱり、あきれられた…)
落胆した真野が肩まで落とすと、斉藤の声が響いた。
「上がりなよ」
真野が顔を上げると、振り向いた斉藤の顔は笑っていた。
「う…うん!」
大急ぎで脱いだ靴を揃えると、真野は斉藤の背中を追いかけた。


「寒かったでしょ」
そう言って、斉藤は真野をリビングに通し、こたつに入るように言う。
そして自分は台所に向かい、真野の為にココアを淹れるのだった。
「ほんとごめんね、急に」
「謝るこたないでしょ」
ぶっきらぼうに言いながら、斉藤は真野にマグカップを渡す。
「うん…ありがとう斉藤さん」
両手に抱えたココアを飲みながら、真野は斉藤の温もりをかみ締めていた。
ココアの熱さも、こたつの暖かさも、加湿器の蒸気も、窓の外の雪も
真野にとっては全て、斉藤の与えてくれる心地いい空気と時間で
心から幸せだと、思った。

「昼ごはんは?」
時計の針はまだ、11時を指そうとしているところだったが斉藤は尋ねてきた。
「ううん、まだ」
「急だし、今日はシチューでいいよね、パスタはまた今度」
真野の笑顔は一層煌いた。
「うん!もちろん!シチューも好き!」
今日訪ねた事で、叶えられてしまうと思っていた約束だったが
それが先延ばされるという事は、またここへ来れる事なのだと
真野にとっては喜びの方が大きかった。


「あ、しまった」
12時になる前に作ってしまおうと、台所に向かった斉藤だったが
材料が足りない事に気付く。
「どうしたの?」
「白味噌が切れてる…」
「白味噌??シチューに?…初めて聞いた」
「うちの隠し味なのよ」
うーん、と考え込んでいる斉藤を見て真野は提案した。
「斉藤さん先に作ってて、私買ってくるから」
「いや、いいよ、そこまで、無くても作れるし」
「でも斉藤さんの拘りがあるんでしょう?私も食べてみたいし」
そう言われると、斉藤は頷くしかなかった。

「ちょっと待って、真野」
玄関で靴を履く真野を、斉藤は呼び止める。
「行くなら私も行く」
「え、大丈夫だって」
「行くったら行くの」
「ちゃんと言われたもの買ってくるよ」
「そーじゃなくて!」
斉藤は上着も着ずに出かけようとした真野の腕に
自分のコートの袖を通しながら言った。
「雪降ってるし…さ、危ないじゃない」
「斉藤さんてば」
これじゃあ完全に子供扱いだ、と思った真野だったが
斉藤のそんな思いやりがとても嬉しかった。


外へ出ると、雪は更に強く降りしきっていた。
徒歩数分のスーパーに買いに行くだけだというのに
積もりかけた足場と視界の悪さに、思ったより時間がかかってしまっていた。
「尊達が帰って来る頃には一面真っ白ね」
「はしゃぐ顔が目に浮かぶわ」
そう、あきれるように答えた斉藤だったが、その顔は優しく微笑んでいた。
(潤一君が少し、羨ましいな…)
そう、斉藤の横顔に見取れながら真野は思った。
(送り迎えだけじゃなくて、こんなふうに毎日斉藤さんと過ごせたら…そしたら…)
「きゃっ」
「うわっっと」
足元も見ずにぼんやり考えていた真野のバランスは
凍った路面によってすぐにも崩れた。
「ほぉらね、言ったでしょ?」
滑って後ろに転倒しそうになった真野の身体を、斉藤は見事に片腕で支えてみせた。
「あ、ありがとう」
両手で斉藤の肩を掴みながら、真野は自分の足元を確認する。
「危なっかしいったらありゃしない」
「あ…」
斉藤は真野の手を引いて、また歩き始めた。
(熱い…)
この前より少し近い距離で、二人は歩く。
あの時の真野には見れなかった、照れくさそうにしている斉藤の表情が
今度は真っ直ぐに見る事が出来た。
(こんなふうに、毎日手を繋いで歩けたら…)
再びぼんやりし始めた真野は、家までの帰路でもう一度転びそうになるのだった。


「いただきまーす!」
買い物から帰って来た二人は、すぐさま調理にかかり
真野が手伝った事もあって、昼過ぎにはシチューにありつく事が出来た。
「美味しい!」
「でしょ?白味噌さまさまでしょう」
「ビーフシチューには赤味噌がいいのかな?」
「それはやった事ないな」
斉藤がそこにいる事、手料理を食べられる事、話が出来る事
真野はその全てが嬉しくて、笑顔が止まらなかった。
「ほんと、子供みたい」
斉藤は、そんな真野を見ながら今のこの時間をかけがえなく思ったが
口から出るのはそっけない言葉ばかりだった。
「…斉藤さんの前だからだよ」
「なんじゃそりゃ」
「楽しいと、なんか、子供になっちゃうじゃない」
照れながら言う真野を見て、斉藤は少し言葉に詰まる。
「…あたしははしゃがなくても、楽しいもんは楽しいと思ってるけどね」
―それは今自分といる時間が楽しいという意味だろうか
真野はそう疑問に思ったが、そっぽ向いてしまった斉藤の
瞳の奥にある真意など掴めようもなかった。


「全然、やまないね」
「東京にこんな雪降るなんて、今年で最後かね」
食器を片し終わった斉藤は呟く。
手伝っていた真野も、同じように窓の外を眺めていた。
「……また、次の冬も」
「ん?」
―こんなふうに一緒に過ごせるだろうか
  雪の道を、一緒に手を繋いで歩けるだろうか
真野の心中は、そんな疑問で渦巻いてしまっていた。
「真野?」
「ううん、ごめん…なんでもない!ちょっと外出てていい?」
「外って…」

真野は斉藤の視線から逃れるように、縁側へ出た。
サンダルを履いて、浅く積もった雪の庭を進んだ。
(どうして、こんな、怖くなるんだろう)
真野の心は、ふいに思い至った
「この先斉藤と一緒にいられなくなる事があったら」という不安に揺れていた。
斉藤がいつか、家族揃って暮らす為に外国へ旅立ってしまう事だって
ありえない事ではない。
この先、二人ずっと一緒にいられる保証も確証もありはしない。
二人で交わした、いくつかの小さな約束では、二人をずっと繋ぐ事は出来ない。

―友達じゃ、ずっと一緒にいてほしいなんて、言えない
  友達のままじゃ…


「まーのっ!」
雪の中、肩を抱いてうつむく真野の名を、斉藤が呼ぶ。
真野が振り向くと、ストールを巻いた斉藤が困ったような表情をして縁側に立っていた。
「どーしたの?風邪ひくって!」
「大丈夫…」
頼りなく答えて、真野はまた斉藤の視線から逃れる。

―ずっと一緒にいられないのなら、いっそ
  これ以上、斉藤さんへの気持ちが強くなる前に、自分から
離れてしまえば…そう真野が心で思った時、後ろから乱暴な足音がした。
「真野!」
再び呼ばれた声に振り向く間もなく、真野の身体を温もりが襲った。
「え…」
斉藤は、真野の身体に自分のかけたストールを被せ、そのまま後ろから抱き寄せた。
「さい…と…さん?」
真野は、一瞬何が起こったのかわからなくなった。
「子供みたいにはしゃぐのもいいけど、母親が風邪ひいたらどうすんの?」
諭すような声が、真野の耳元で響く。
その声に顔を向けると、これ以上ないほど近くに、斉藤の顔があった。
(斉藤さんが…こんな近くにいる…)
真野は、自分の鼓動が今までになく強く、速くなっているのがわかった。
(斉藤さんに聞こえちゃう…)
思っても、真野は自分からその身体を引き離す事など出来やしなかった。


「斉藤さん……」
「…なに?」
斉藤は、抱き寄せた腕を離す事なく、聞き返した。
その声は、真野が聞いてきた中で一番優しい声をしていた。
肩を抱く斉藤の腕に、しがみつきながら真野は雪の舞う空を見上げる。
世界で、二人きりのような気がした。
「わたし…私ね……」
真野は懸命に声を振り絞ったが、これ以上、言葉になる事はなかった。
「真野!?」
声の代わりに溢れ出た涙は、真野の頬を伝って流れ落ちる。
斉藤は慌てたように抱き寄せていた腕をほどくと
真野に向き合って、その顔を覗きこんだ。
どうしたの、と心配する斉藤の声に真野は答える事が出来なかった。
気付いてしまった想いに、涙を流す事しか出来なかった。

―斉藤さんの事が、好き
  好きで好きで、もう、どうしようもない

出逢った時には思いもしなかった恋心が、真野の胸の内で溢れ返り
その心をきつく苦しめるのだった。

「真野っ!おはよう!」
真野が玄関を開けると、冷たい空気と共に強い声が響いた。
「斉藤さん…」
雪の積もった舗道で子供の手を引いた斉藤の姿がそこにはあった。
「…おはよう」
いつもと変わらない、斉藤の少し強い口調の挨拶に、真野は遠慮がちに答えた。
斉藤は、そんな真野を見て訝しむような目をしたが
二人のやり取りも、顔を合わせたお互いの子供達に寄って掻き消されてしまう。
「昨日作った雪だるま、残ってるかな!」
「上からもっとつもって、なくなっちゃってたりして」
「じゃあ今日はもっと大きいの作ろうぜ!」
昨日までと同じ、幼稚園に着くまで止まらない子供達の会話。
違うのはその後ろを歩く母親達二人の様子だった。
「真野」
「…ん?」
「昨日はさ…」
昨日、と聞いて真野の表情が一瞬強張ったのが斉藤にはわかった。
斉藤も、口にしてみたそこで、つい言葉を詰まらせてしまう。
「……ちゃんと、寝た?」
「…うん」
そう答えた真野の目は赤く腫れていて、とても「よく寝た」ようではなかった。
「そっか…なら、良かった」
斉藤はわかっていても、それ以上何も言う事が出来なかった。


昨日はあれから、泣き出してしまった真野の手を取り、斉藤は部屋に連れ戻した。
ただひたすら涙を流す真野のそばで、斉藤は何も聞く事が出来ずにいたが
ようやく泣き止んだ頃には子供達を迎えに行く時間になってしまったのだった。
そうして二人はその日そのまま別れて
今朝からお互いの間に淀んだ空気が流れていた。

「じゃーね!お母さん!」
子供達の声に斉藤と真野は同時に我に返る。
二人はまともに口を聞く事ないまま、園の門まで辿りついていた。
そんな二人に構わず、子供達は教室まで駆けて行ってしまう。
見送る景色から子供達の姿が消えても、二人は目を合わす事が出来なかった。
「…行こう」
そう言って、交わせない視線の代わりに、斉藤は真野の手に少しだけ触れた。
真野は何も答えず、斉藤の後に続いた。

斉藤には、真野の心中がわかるはずもなかった。
―あの時、自分が何か傷付けてしまったのか
そう思い巡らせてみたりもしたが、覚えのある事など一つも当てはまりやしなかった。
「真野」
今日何度目かの、斉藤が真野を呼ぶ声。
いつもは真野から呼ぶ事の方が多いのに、と斉藤は思った。
「あのさ…昨日の事なんだけど」
「斉藤さん!!」
斉藤が今度こそと切り出そうとした時、真野は血相を変えたような声でそれを遮った。
「斉藤さん…ごめん、私このまま買い物に行くから、それじゃあね」
引き止める間もなく、真野は斉藤の横をすり抜けてしまった。
―避けられてる?
斉藤はそう思った。



その日の夕方、自分の予感が的中した事に斉藤は気付く。
いつもの迎えに行く時間に真野の家へ行っても真野が出て来る事はなく
一人幼稚園に向かうと、真野はずっと早くに迎えに来ていたという事だった。
そして次の朝も、真野は斉藤より早くに子供を送り出してしまっていた。
「なんだっていうのよ!」
それが二日も続くと、斉藤の気がかりも
理解の及ばない行動を取る真野への苛立ちへと変わっていた。
自分に非のあるところがあれば、誠意を持って謝罪し、関係の修復に努められる斉藤だが
覚えもないところに距離を置かれて、それを自分から縮める事など出来やしなかった。
余計なプライドだが、これこそ斉藤が斉藤である為に今日まで守ってきたものなのだ。

「尊くんは?」
「あー…最近ね、忙しいみたい」
子供の質問にも何事もないように答えてみせた。
今度ね、と言っても今度はいつだと聞いてくる子供だったが
斉藤自身こそ、それを早く知りたい思いだった。
『新着メールはありません』
もう何度もうんざりした画面だったが
それでも斉藤は一日に何度も携帯を確認せずにはいられなかった。
そしてそんな日々が、更に何日も続いてしまう。


「私が泣かせたとでも言うの?」
何をしていても、ずっと顔を合わせていない真野の事ばかりが頭に浮かんだ。
いつも一緒に過ごした朝夕の送り迎えも、ジムへ行く時間も
そのどこにも真野の姿はなく、斉藤は一日の退屈さを持て余した。
―これじゃあまるで今まで真野に会えるのが楽しみだったみたいじゃない
そんな自分に気付きつつも、素直に認められず、斉藤は更に苛立ちを募らせた。


「何も悪い事はしてないんだし」
真野に避けられるようになってから、一人で行く何度目かのジムで
斉藤はいつにも増してトレーニングに励んでいた。
「何かあればまた、向こうから声かけて来るに決まってる」
独り言のように言いながら、斉藤はショルダープレスを引く。
回数を数えながら、ふと目の前のベンチに目がいった。
いつも激しい筋トレに挑む斉藤、それに追いつけない真野は
自分のノルマが終わったら斉藤のそばで応援するのが常だった。
「がんばってー斉藤さん!」
そう言って笑顔で手を振る真野の姿が思い出されてしまう。
そんな彼女に、いつも微笑み返していた自分自身の事も。
「別にあいつを待ってるわけじゃないっ!!」
斉藤は、乱暴にバーを離すと、つい周りに聞こえる程度の声をあげてしまった。
「ちょっと、どうしたのー」
息を荒げてただならぬ様子の斉藤に、ジムのコーチである泉が声をかける。
「…ちょうどよかった、ちょっとスカッシュの相手してよね、コーチ」
泉の質問に答えないまま、斉藤は黙ってコートへと向かった。


―真野がどうかなんて関係ない、あたしはあたしだ
目の前の壁を見つめながら斉藤は思った。
真野の事ばかりを気にしてしまう自分自身を打ち壊す気持ちで
力いっぱいゴムの球を床へと打ちつけた。
「やっぱり変よ」
心配した声を出しながら、泉が球を追う。
加減を熟知している泉の球を、斉藤は何度も力いっぱい打ち返すのだった。
これ以上ないほど気を入れてラケットを振っているというのに
斉藤の脳裏にはやはり真野の事が思い出されていた。
こんなふうに一緒にスカッシュをした事。
テニスの経験がある真野だったがスカッシュは初めてで
最初は斉藤に惨敗して悔しそうな顔をしていた。
だが段々と慣れてきて、3回に1回は勝つようになると
その度に本当に嬉しそうな顔をして笑うのだった。
斉藤は負ける度に、してやられた気分になったが
真野の屈託のない笑顔を見れるという楽しみもあった。
―別に、真野がいなくたって
あの雪の日の事が思い出される。
雪の中、上着も着ずに突然家に押しかけてきた事。
斉藤の作った料理を、美味しいと笑った顔。
雪降る庭で、立ちすくんでいた後姿。
―どうしてあの時、抱きしめたりしたんだ
抱きしめていなければ、今も普通に過ごせていたのだろうか、と斉藤は思う。


どうして、どうして、と斉藤の頭の中で疑問が渦巻いた。
堂々巡りの心中を抱えながら、斉藤は何十回目かの球を再び打ち返したが
球は思いもかけず、斉藤自身に向かってきた。
いつもならそれぐらい平気で打ち交わせる斉藤だったろうが
球は斉藤のグリップに当たり、反動を失うと所在なく床を転がっていった。
「力みすぎ」
球を拾いに行く斉藤の後ろ姿に泉は声をかける。
「今日はもう帰った方がいいわ、これ以上やったら怪我しちゃうわよ」
そう言って、泉は斉藤の手から球とラケットを取り上げた。
「……うん」
さすがの斉藤も、その通りだと思い、素直に頷いてロッカーへと向かった。

シャワーブースに入り、頭から流水を浴びても
斉藤は一つの疑問から逃れられそうになかった。
―どうしてあの時真野の事を…
あの瞬間の事を、斉藤は思い返す。
何度思い返しても、答えなんて見つけられそうになかった。
真野が風邪をひかないか心配で、などただの言い訳にすぎない。
心のままに、斉藤はその身体を抱き寄せたのだ。
答えなんて、「ただ抱きしめたかっただけ」以外ありえるはずはなかった。
―なんなんだあたし…
シャワーブースの中、斉藤は孤独に葛藤していた。



ジムから出ると、斉藤は商店街を通って家路を目指す。
みっともないとわかっていながらも、辺りを落ち着きなく見回していた。
―偶然でも、会えたら…
斉藤のその期待は報われた。
「……ッ」
ちょうど目の前を歩いていたスーパーから、真野が出てきたのだ。
お互いにすぐに気付き、目が合うと、同時に息を飲んだ。
「……ま」
久々に見る顔に、斉藤はうまく名前を呼ぶ事も出来ずにいた。
真野自身は、斉藤の姿を見て声も出せずに動揺している様子だった。
「…真野」
ようやく斉藤がその名を口にすると、真野は困惑させた表情を俯かせてしまう。
そんな態度の真野を見て、斉藤は自分の頭の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。
「…ッ…ちょっと来て!」
「えっ…ちょっと…斉藤さん!?」
斉藤は真野の腕を取り、その場を駆け出した。
戸惑っている真野に構う余裕などなかった。
商店街を突っ切っていき、いつもの公園通りを駆け抜ける。
―結局あたしから歩み寄らないといけないなんて
斉藤は悔しく思ったが、その足を止める事も、その手を離す事も、今更出来なかった。
ようやく斉藤の足が止まり、息上がらせる真野が顔を上げると
そこは斉藤の家の前だった。
「上がって」
斉藤は、掴んでいた真野の腕を離すと、今度はその手を握り
何も言えずに息を整える真野を迎え入れた。
真野は、逃げる手を取れなかった。


斉藤は、こないだと同じように真野をリビングに通すと、同じ場所に座らせた。
おじゃまします、の一言も言えずにいる不躾な真野に、お茶を淹れ
一応の礼節を持ってそこは接した。
「真野」
湯のみを置きながら斉藤は真野の隣りに座った。
二人の距離は、いくらもない。
斉藤は深呼吸して、何日も抱えてた疑問をようやく舌に乗せる。
「どうして私のこと避けるの?」
「…避けてなんか」
「いやどう考えても避けてるでしょ」
この期に及んで否定する真野に、斉藤は冷たい口調で即答した。
真野自身も、今日までの自分の態度があからさまであった事を理解しており
これ以上、言い訳を見つけられるはずもなかった。
そんな真野を見て、斉藤も次の言葉に迷うのだった。
「…潤一が、尊と遊べなくて寂しがってるんだよ」
斉藤は敢えて自分の心情ではなく、子供の話を出して真野を説得しようと試みる。
だが、その言葉に真野の表情が一瞬強張った。
「子供の、為…?」
ふいに言葉にしてしまい、真野は自分の口元を手で押さえる。
「ごめん…なんでも」
「じゃあ何の為なら聞いてくれるの!?どうしたら私と目を合わせてくれるの!」
斉藤は思わず声を荒げてしまう。
真野は、このままでは斉藤を更に苛立たせてしまうだけだとわかっていたが
それでも他に何と言うべきか、どうするべきか、わからずにいた。
斉藤はもう、我慢の限界だった。


「ねぇ、私が悪いの?私が真野を傷つけたの?
 私があの時…真野を抱きしめたりしたから…」
斉藤の言葉に、真野はこれ以上ないほど顔を上気させる。
斉藤は自分が核心をついたように思った。
「ちがう…斉藤さんは悪くない…何も悪くないの」
そう言って、真野はあの日と同じように瞳を潤ませた。
「なんで…泣くのよ」
うんざりしたような口調で斉藤は言ってしまう。
そんな真野の姿を見て、誰より胸が痛いのは斉藤だった。
だが斉藤の気持ちも知らない真野は、また顔を伏せてしまう。
「お願いだから訳を話してよ」
真野の震えた肩を掴み、斉藤は言う。
「私がっ…私の心が、苦しいだけなの…」
「苦しいって何が」
その答えを、真野は口にするわけにはいかなかった。
口にして、全て失ってしまう事を恐れていた。
涙は更に溢れ、斉藤の腕にこぼれ落ちた。
「こっち向いて」
斉藤の言葉に、真野は顔を手で押さえたまま動こうとしない。
「向いてってば!」
強い口調で言う斉藤に、真野は顔を覆ったまま首を大きく横に振った。
「真野っ!」
「…やっ」
斉藤は耐え切れなくなり、力ずくで真野の手を掴むと
片手でその顔を自分の方へ向かせた。
そしてそのまま、真野の唇に自分の唇を重ねた。
「……!」
真野の潤んだ瞳がこれ以上ない程に見開く。
何故、こんな一番近い距離に斉藤がいるのか、真野はわからなかった。
斉藤は真野の唇に触れたまま、その身体に手を回した。


永遠のような十数秒が経ち、斉藤がその唇を自由にすると
ただ戸惑いに揺れるだけの真野と、視線を交わした。
「やっと、目を合わせてくれた」
斉藤は真野が驚くほどの穏やかな瞳をして、少しだけ笑った。
「さいと…さん」
かろうじてその名を真野が口にすると
斉藤は口付けていた時より強く、その身体を抱きしめる。
抱きしめながら、ようやく自分の気持ちを口にした。
「真野と会えないとさ、なんか変なんだ
 自分に何か足りなくなるみたいな…
 いつもの自分でいられなくなるような
 …それが、寂しいと思うのよ」
こんなに素直になったのは初めてかもしれない、と斉藤は自分で思った。
真野は抱きしめられたまま、ただ黙って斉藤の言葉を聞くだけだった。
「だから、避けないでほしい…また一緒にいてほしい」
息を飲んで、斉藤は懇願するように言った。
「真野が、必要なの」
再び、真野の瞳から涙が溢れ出る。
今度はその涙を優しく受け止める斉藤だった。
「わかった……?」
声も出せず、小さく頷くだけの真野を、斉藤は離したくないと思った。
やがて、真野の腕が斉藤の背中に回されると
お互いの心臓の音がそれぞれの耳に響く。


二人は、ただひたすら抱きしめ合い、鼓動と体温を共有した。
そうしているうちに陽が傾くと、子供を迎えに行く時間になり
人目のつかない場所まで手を繋いで幼稚園へ向かった。
数日ぶりに並んで歩く景色に、斉藤の心は春が来たように晴れやかだった。

―斉藤さんと、キス、した


その日の夜、家事を全て片付けた真野は
子供を寝かしつけたまま、その傍らで横たわっていた。
その頭は、今日の出来事の反芻と斉藤の事で
もう一杯になっていた。
「さいとう…さん」
自分にしか聞こえないぐらいの、とても小さな声で真野はその名を呟く。
真野にとってそれは、特別な、誰より大切で恋しい者の名前だった。
―あの人の唇が触れたなんて
  あの人に必要とされるなんて
思い返しただけで涙が出てくるようだった。
「夢みたい…」
いくら回想してみても、それが現実に起こった事とは
とても信じられない思いの真野だったが
その唇には、斉藤の唇の感触が確かに残っていた。
―斉藤さん
自らの唇をなぞりながら、真野は心の中でその名を呟いた。
瞳を閉じると、瞼の裏に現れた彼女の姿に向かって、何度も呼び続けた。
―おやすみなさい、斉藤さん
昨日まで眠れぬ夜を繰り返していたが
その日は、思いもかけない幸福が訪れた一日の終わりのように
真野は安らかな眠りについた。



「斉藤さん!」
翌朝、真野は子供を連れて自分から斉藤の家へ訪れた。
朝の送り迎えを誘いに来たのだった。
「おはよ、真野、尊も」
「お、おはよう!」
「おはよー」
玄関から出てきた斉藤の姿を見るなり、真野は思わず顔を赤くしてしまう。
斉藤の方は、真野からの訪問に少し驚いたような表情をしていたが
久々に見る二人の朝の姿に、自然と頬が緩んでいた。
「こっちから行こうと思ってたのに」
「う、うん、なんか早起きしちゃったから
 それに、早く斉藤さんにあいた…あぁぁぁっ!なんでもない!」
会いたかったから、と言いそうになった言葉を真野は慌てて飲み込む。
斉藤はそれに気付いたのか少しだけ照れたような顔をして笑った。
「すぐ支度してくるから、ちょっと待ってて」
「うん!」
(落ち着け、落ち着いて、今まで通り、斉藤さんと接するんだ)
斉藤が離れると、真野は深呼吸して、そう自分に言い聞かせた。
―明日から、また前と同じ二人でいること
昨日の別れ際、斉藤にそう言われた真野は
斉藤の前で取り乱さないようにと必死になっていたが
あんな事があった昨日の今日で、平然としていられるはずもなかった。


「真野」
「えっ」
登園の途中、前を歩く子供を見守りながら、斉藤は真野の手に触れた。
「今日は、来てくれてありがとう」
「えっあっうん、ううん、そんな、なんにも」
「でも明日からは前みたいに私から行くから、帰りもね」
「う、うん」
頷く真野を見て、斉藤は手を離す。
真野は斉藤の気遣いが嬉しかったが
昨日も言われた「前みたいに」という言葉が心に引っかかった。
―前と同じになんか、出来るの?
幼稚園に着くまで、真野の頭はその疑問でいっぱいになる。
途中、横目で斉藤の唇が視界に入ると
やはり真野は顔を上気させ、その戸惑いぶりは明らかだった。

「じゃーねーママ!」
「行ってきます!」
門まで辿りつくと、斉藤と真野は駆けていく自分の子供に手を振る。
同時に引き返そうとした二人の視線が重なった。
「お茶…してく?その、うちで…」
真野からの誘いの言葉に、斉藤は笑った。
「喜んで」
そう言って真野の手を取る。
幼稚園の前にはまだ母親達の姿で溢れていたが
斉藤は嬉しそうな顔をしてその波を突っ切っていった。
手を引かれながら、真野は昨日まで自分が置いた二人の距離を思った。
そして今度こそ、苦しくてもこの手を離したくないと願うのだった。



二人は、今までのように接しようと心がけながら
今まで以上に多くの時間を共有した。
朝夕の送り迎えも、ジムへ行く時も、それ以外の時間も
主婦として許される限りの時間を、毎日二人で過ごすようになった。
そのうちに真野の中で斉藤の存在はより大きなものへと変わっていったが
今、斉藤と過ごせる時間を精一杯楽しもうとしていた。


「これで、いいんだよね…」
二人で過ごす時間が増えれば増えるほど
真野は一人でいる時に斉藤の事ばかりを考えるようになった。
この日も、夜中に目が覚めると、真野は寝室を抜け出し
誰もいないリビングで斉藤の事を想っていた。
自分の気持ちに気付いて、泣いた日の事を真野は思い返す。
あの日から、真野が斉藤と距離を置いたのは
その瞳を見ればこの気持ちを抑えられなくなるとわかったからで
決して届けない者への想いから、真野は逃げようとしていた。
だが、それでも今こうして一緒に過ごす事が出来るのは
斉藤が心から伝えてくれた「真野が必要」という言葉の為だった。
―斉藤さんが必要としてくれるなら、何があっても側にいたい
真野はそう心に決めていた。
だが、一つだけ真野の中で解せない事があるとすれば
あの時の、斉藤の口付けだった。
「斉藤さんの気持ちがわからない…」
真野は、自分の斉藤への想いが、誰より特別で
憧れなんて言葉では片付けられないものだとわかっている。
だが斉藤はどうだろうか、どんなふうに自分を必要としているのだろうかと
真野は何度も考え、期待と落胆とを、交互に繰り返した。



「斉藤さん!真野さん!」
ある日の朝、いつものように子供の後姿を見送っていると
二人を呼ぶ小倉の姿があった。
「あ、小倉さん」
「あの、良かったらこの後、3人でお茶でも行かない?」
「これから?んー…私はいいけど、真野は?」
「あっ、うん、いいよ、いいよいいよ行こう」
真野は、斉藤と二人きりになれない事を残念に感じてしまったが
そんな自分をなかった事にするように、小倉の誘いに笑顔で応じた。

程なくして三人は、馴染みの喫茶へ向かう事にする。

「わたし、今から小学校に上がるのが不安で…」
しばらくは他愛もない世間話をしていた三人だったが
ふと小倉が漏らした悩みに、斉藤と真野は耳を留めた。
「不安って?」
聞き返しながら斉藤は
小倉が今日二人を誘った理由がそれにあたるのだろうと悟った。
「先生とかたくさんの親御さんとか…きっと今まで以上に複雑なんだろうなって」
「そんなの、子供産んだ時点で小学校行くのは決まってるんだから
今更不安になってもしょうがないでしょ」
斉藤らしい、少し突き放すような強い言葉がその口から出る。
「そ、それはそうなんだけど、でも…」
「私も、不安はあるよ、多分みんな小倉さんと同じ事考えてると思う」
肩をすくめてしまった小倉の言葉を促すように、真野は言った。
「そ、そうだよね…
小学校はいくつもクラスがあるし、みんなと別れたらとか
情けないけど、親の私の方が人見知りだから…やっぱりすごく不安で」
そう言ってうつむく小倉の肩を、斉藤は叩いた。

「別にクラス違ったって、またこうして声かけてくれればいいじゃない
 私だって潤一のクラスだけ何事もなければいいって考えてるわけじゃないし
 何かあれば相談に乗るし、協力もするよ」
斉藤の頼もしい言葉に、小倉の表情は輝いた。
「斉藤さん…」
小倉の、斉藤を見つめる熱心な視線を横に
真野は一人、並々ならぬ感情を抱いていた。
「ね?真野もそう思うでしょ?」
「あっ、う、うん大丈夫、心配いらないよ、小倉さん」
突然話を振られたように真野は狼狽えたが、満面の笑みで応える。
「うん…ありがとう、二人とも」
小倉はずっとその事で頭がいっぱいだったようで
二人の言葉に、心から安堵の表情を浮かべた。
「二人と同じ幼稚園になれてよかったー」
そう言って小倉は二人の手を同時に握った。
そんな小倉に笑顔を浮かべる斉藤の横で
真野は、そうした事考えてはいけないと思いつつも
小倉が触れている斉藤の手にばかり気がいってしまった。


―私、やな女だ
真野は、自分の内で独占欲が生まれてきてしまっている事に気付く。
友人である斉藤が、周りの皆に頼られていて誇らしくも感じるのも確かだ。
だが、真野にとって斉藤は友人である以上に特別な存在でもあった。
―彼女にとって、自分も特別でありたい
そんな事ばかりが頭に浮かび、その後に続いた三人の時間も
真野は取り繕った笑顔を見せるので精一杯だった。


「それじゃあね」
「またね、小倉さん」
「うん、今日は本当にありがとう」
昼前になり喫茶を出ると、二人は小倉と別れた。
二人きりになった斉藤と真野は、家路を辿っていく。
「お昼、一緒に食べる?」
昨日までほぼ毎日のようにそうしていたが、斉藤は少しだけ遠慮がちに尋ねてきた。
「うん、じゃあ今日はうちで食べよ」
そう言った真野のぎこちない笑顔が、斉藤の心に留まった。


その日は前日から仕込んでいたビーフシチューが用意されており
真野宅に帰ってきた二人は、すぐにも昼食にありついた。
「こないだ話してた、赤味噌入れてみたの」
「へぇ、いいじゃん、美味しいよこれ」
「ふふっ…よかった」
和やかに食事の時間は過ぎていったが
その間、斉藤は真野の様子をずっと気にしていた。
食事が終わって、真野が片づけを始めても、その気がかりが消える事はなかった。
そして食器を洗う後姿に、斉藤はようやく真意を質してみる事にする。

「真野」
「うん?」
「もうずっと元気ない気がするけど、気のせい?」
気のせいだ、と言い返す事さえ真野には出来なかった。
「やっぱ、気のせいじゃない、か」
そう解釈した斉藤は、頭をかきながら次の言葉を探した。
「あのさ、何か思うとこがあるなら、黙ってないですぐに言って?
困った事でも、例えば私に対する不満でも…友達なんだし、さ」
友達、という言葉を耳にして真野は胸の痛みを覚える。
ほんの少し前まで、その言葉が何より喜ばしかったのに
人の気持ちの移ろい易さを、真野は悲しく思った。


身に着けたエプロンで手を拭きながら、真野は斉藤の方に向き直る。
「私は…小倉さんと同じ…
ううん、それよりちょっと仲がいいくらいなのかな」
「え?」
「私は、斉藤さんにとって…
ちょっと親しい友達程度の存在でしかない…?」
「友達程度って…」
友人という関係を軽視した言い方をしたいわけではない。
だが真野にはもう、斉藤と友人でいられる資格などなかった。
真野は既に「友達でいたい」と思っていないのだから
その心の事態は、明白だった。
「どうしてそんな事言うの?」
逆に斉藤が聞き返すと、真野は耐え切れなくなったように声を荒げた。
「だって斉藤さん、キスしたっ…!」
その言葉に、斉藤は驚いたように目を見開く。
思いもしない言葉だったのが、視線を泳がせ、まるで狼狽えているようだった。
真野も、斉藤の予想外の反応を見て更に動揺してしまう。
「イヤ…だった?」
斉藤が辛うじて口にした言葉に、そんな言い方はずるい、と真野は思った。
真野の戸惑いは、斉藤を嫌だという気持ちからではないからだ。


―今、本当の気持ちを言えば
そう思って言葉に乗せようとしても、唇は震え、まともに動いてはくれなかった。
「ごめん」
斉藤は、何を言うべきかわからなくなったように、そう一言だけ呟いて黙る。
「あ…謝られても…」
―この気持ちが失くなるわけじゃない
  触れられた唇の記憶が消えるわけじゃない
真野は、斉藤にこの気持ちを伝える以外、手段はないのだと悟った。
「わ…私は…」
だが、それ以上言葉を続けようとすると、息が出来なくなるのがわかる。
たった一言さえ真野は言えなかった。
自分はこんなにも弱かっただろうかと真野は思う。
元々気弱だった真野は、斉藤の影響でいくらか度胸が座ったというくらいだ。
だが今、真野を何より弱い存在にしてしまっている原因は、紛れもなく斉藤だった。

「どうして、キスしたの」
言えない言葉の代わりに、真野は疑問をぶつける。
斉藤は、なんでそんな事聞いてくるんだ、とでも言いたげな表情をした。
それでも、はっきりとした声で何事もないかのように答えてみせた。
「したいと、思ったから」
勝手だと、真野は心から思った。
止める術のない想いの責任を、斉藤に取ってもらう他なかった。
(勝手に好きにさせたんだから…)
その時、真野の心は動いた。
目の前の斉藤の身体によりかかると、少しだけ背伸びをして
自分より高い位置にある唇に、自らのそれを重ねた。

「…ま」
触れていたのは一瞬だけだったが
斉藤が驚いたように目を丸くした瞬間を、真野は見逃さなかった。
そして、斉藤にしがみついたまま、想いを口にする。
「私にとって、斉藤さんは…特別な人なの
 誰よりも特別で…大切で…
 わたしは、そんな斉藤さんの、一番近くにいたいのっ…」
それが今の真野に言える、精一杯の告白だった。
言い終えて、堪え切れなかったようにその瞳から涙が溢れる。
「真野…」
斉藤は真野の頬に手をやると、その顔を自分の方へ向けさせた。
親指で、そっと涙を拭ってやる。
涙でぼやけた視界の中でも、穏やかに微笑む斉藤の瞳を
真野はしっかりと捉える事が出来た。
「そんなの、私も同じだよ」
そう答えた斉藤の言葉を、真野が理解するより先に、その唇は塞がれた。
熱い口付けに、何も考えられなくなるような感覚が真野の頭に走ったが
唇から伝わる全てに、斉藤の想いを感じ取る事が出来た。


二人は、陽が傾くまでの長い間、そこでそうしていた。
「ほら、泣き止んで」
斉藤が何度そう言っても、真野の涙が止まる事はなかった。
真野はその身体にしがみつく事しか出来なかった。
「泣き止むまで、離さないから」
斉藤がそう口にすると、その涙を拭っては真野の身体を抱き寄せ
何度も唇を重ねた。

「なんか最近…」
「ん?」
朝の幼稚園までの見送りを済ませた二人は
住宅街を抜けてジムまでの道を歩いていた。
「どしたの」
隣を歩く真野の表情が暗い事に、斉藤はそこで初めて気付く。
「ふとった、かも…」
真野がそう口にすると、更に淀んだ空気が周りに漂う。
「…別に、それぐらい大丈夫じゃない?」
「それぐらいって!やっぱり斉藤さんも太ったと思う!?」
真野は大きな声を上げながら驚いたように斉藤の方を向く。
「いや、そういう意味じゃ…」
「正直に言って!」
懇願するような顔をした真野を見て、斉藤は気まずく思ったが
一息置くと、視線をずらしながら真野の望み通りの正直な言葉を口にした。
「まぁ…ほんのちょっと?」
その言葉を耳にした途端、真野は愕然とした顔をしてしゃがみ込む。
「だから気にするほどじゃないって」
「気にする…もう斉藤さんの顔見れない」
「なんじゃそりゃ」
斉藤はあきれながら真野の腕を引っ張り、立ち上がらせた。
「今こんな道の真ん中で落ち込むより1秒でも早くジムに着く方が解決するわよ」
「ジムに通ってるのに太るなんて…」
「もーーーいいから来な」
真野のぼやく声に頭を抱えながら、斉藤はその手を引いて先を急いだ。


「真野はどこが気になるのよ」
ジムに着き、着替えた二人はのトレーニングマシンの前で話をしていた。
「お腹が…たるんだような…気がする…」
「…たるんだってほどでもないでしょ」
「ひゃっ!!」
斉藤の手が真野の腹部に伸びると、その瞬間真野は声をあげた。
「なっ!なにするの!」
「なにって、ちょっと触っただけじゃない」
顔を真っ赤にさせ、あとずさる真野を見て、斉藤は首を傾げる。
「気にしてるところを触っちゃだめ!」
乙女心がわからない斉藤は、真野の前で頭を掻くしかなかった。

「あ、泉ちゃん!」
斉藤は、コーチである泉の姿を目に留めると、声をかける。
「ね、真野みたいなひ弱な人でも出来る究極の腹筋法ってない?」
「ひ弱って…」
「それは難しい注文ねぇ」
斉藤の言葉に、真野は不満げな顔をし、泉は悩ましげな反応を見せた。
「ひ弱じゃないよ、なんでもやるよ」
「なんでも?」
「懸垂でもいいよ」
「懸垂どうやるかわかってるの?」
こうやって、と拳を胸の前で前後させる動作をみせた真野に斉藤は頭を抱えた。
「ちょっと違う」
「えー」
「あ、じゃあ懸垂とはちょっと違うけど」
泉に連れられて二人は場所を移動した。


「これにぶら下がって、太ももを持ち上げれば
 二の腕と腹筋と太ももみんな引き締まって一石三鳥よ!」
「そんなの真野に出来るわけないでしょ」
「やってみる!」
引き止める斉藤と対称に、真野はやる気を見せていた。
心配する斉藤に笑いかけて、ぶら下がり器具の棒に手を伸ばすのだった。
「じゃあ、行くね、斉藤さん見ててあげて」
「しょうがないなぁ」
スタジオに向かう泉に手を振りながら
斉藤は今日一日自分のノルマは果たせないだろうと覚悟した。
「ふんぬーーーーーーー」
「腕と足じゃなくて、お腹に力入れるんだよ」
「ぬぬぬぬぬぬ」
真野は歯を食いしばって斉藤の言う通りにしてみたが、その足が上がる事はない。
「無理だってのに」
バタバタと宙を蹴るだけの真野の足を見て、斉藤はため息をつく。
「ここで!頑張らなきゃ!もっと太っちゃう!」
「最近お菓子食べ過ぎてるだけじゃないの?」
「斉藤さんの為に作ってるのに!斉藤さんは変わらない、し!」
「ふむ」
「ぬぁーーーーーっ!」
棒に掴まっていた手が解け、真野は床にへたり込んでしまった。
「幸せ太りかなぁ…」
「いいじゃないの、幸せなら」
「太ったら幸せじゃなくなる!」
そう、耐え切れないように言うと、再び立ち上がり真野はぶら下がるのだった。
「この子は全く…」
斉藤は目の前にあるマシンだけでトレーニングに勤しみ
無茶をする真野をあきれながらも見守っていた。


「もう、やめな」
あれから何度挑戦したのか、それでも足が持ち上がるまでやると
真野は聞かなかったが、その根性と体力も限界にきていた。
「だめだ~」
情けない声を上げながら真野の身体は再び床に崩れ落ちる。
今度こそ自分の力では立ち上がれない様子だった。
「だから無理するなって言ってんのに」
斉藤は真野の腰に腕を伸ばすと立ち上がらせ、ベンチまで連れて行った。
ベンチに座った真野は、斉藤の身体に寄りかかりながらひたすら酸素を貪る。
「なんでそんな無茶するのよ」
「だって、毎日会ってる斉藤さんでも気付くぐらい太ったなんて…今すぐ痩せなきゃ」
体力は限界に来ていても、真野の口調は強かった。
斉藤はそんな真野を笑いながら、その手を少しきつく握る。
「私が真野の事、他の人よりよく見てるだけだよ」
「え?」
耳にした言葉に真野は、斉藤の肩に埋めていた顔を上げ、その顔を覗き込んだ。
「それって…」
「……」
斉藤は何も言わずに見つめ返す。
斉藤の瞳に映る自分の姿を見て、真野は息を飲んだ。


「どうしたの二人とも」
ベンチで寄り添う二人の前に、小倉が立っていた。
「おっおおおおぐらさん!」
真野は大袈裟なほど顔を上気させ、声を上げながら斉藤と距離を置いた。
「小倉さんこんにちは、今来たとこ?」
「うん、今上がって来て
 奥で二人が恋人同士みたいに見つめ合ってたからどうしたのかなーって」
「こっこいびと!!!??」
小倉の言葉にきょとんとしていた斉藤だが
その隣りにいる真野は、とても平然となどしていられなかった。
「な、なななに、い、言っちゃってるのー、あーもー、小倉さんてば」
顔を引きつらせながら喋る真野の動揺は、誰の目から見ても明らかだった。
「真野、今日はもう疲れたでしょ、シャワー行って着替えてきたら?」
混乱を収拾出来ないでいる真野に、斉藤は助け舟を出す。
「あっ、うん、シャワーね、シャワーだね、そうだね、行ってきまーす」
先ほどまでへたり込んでいた真野は、その場を逃げ出すように全速力で駆けて行った。
「どうしたんだろ、真野さん」
心から不思議そうに首を傾げている小倉を見て、斉藤は可笑しそうに笑った。
「大丈夫、気にしないであげて」
それじゃあね、と小倉に言って斉藤は真野の後を追うようにシャワールームへと向かった。


「真野」
ロッカーでタオル一枚に着替えた斉藤は、真野のいるシャワールームまで辿り着く。
ちょうど午前中の空いている時間帯で、そこには二人の姿しかなかった。
「身体、平気?」
「うん」
真野もタオル一枚という格好で、シャワーブースに入ろうとしているところだった。
「のぼせないでよ?」
「うん大丈夫、ありがとう」
心配する斉藤に笑いかけながら、真野が個室の扉を閉めようとすると
入り口の向こうから足音が響いた。
「真野さーん?」
呼び声と入り口の引き戸が開く音に、二人は敏感に反応した。
斉藤は条件反射で、真野の入っていたシャワーブースに駆け込み個室の扉を閉める。
(なにしてるのっ)
(いや、つい)
お互いにしか聞こえない程度の小声で話すが、足音が近づくにつれ、息を潜める。
「小倉さん?」
落ち着いた声で、斉藤が壁の向こうの人影に応対する。
「あ、斉藤さん、真野さんは?」
「奥のトイレ行ったけど」
これで小倉がトイレまで向かったら終わりだと、真野は思った。
「そっか、さっき真野さんベンチにタオル忘れてたみたいだから持ってきたんだけど」
「じゃ、そこにかけといて、後で渡すから」
「うん、お願い」
小倉はそう言って斉藤と真野がいるブースの扉にタオルをかけた。
小倉が壁に近づいた瞬間、二人は息を飲む。
「それじゃあね」
その言葉を最後に、小倉の足音は遠くなっていった。
引き戸の閉められる音がすると、二人は同時にため息をつく。
そして段々とこみ上げてきた可笑しさに耐え切れなくなって、一緒に笑い合うのだった。


程なくして笑いが収まると、真野は斉藤の視線を感じる。
そこで初めてお互いにタオル一枚だったという事に気付くのだった。
「なに見てるのっ」
「いや、やっぱり気にするほどじゃないと思って」
「そんなふうに見られたら余計気にする!」
真野は顔を真っ赤にさせ、身を竦めながら腕を抱いた。
「なんでそんな気にするのよ」
斉藤が、その腕を掴みながら聞くと
素肌に触れられた感触に真野は余計顔を上気させてしまう。
「だって……斉藤さんに嫌われたくない…」
「そんな事で、嫌うわけないでしょ」
真野の言葉を可笑しく思い、斉藤は下を向いて笑いを堪えながら言った。
「私がぶよぶよになっても?」
斉藤の顔を覗きこみながら、真野は聞き返す。
「その時は真野の健康の為に毎朝のジョギングに誘ってあげる」
真面目に言った斉藤の言葉に、真野はその日初めての心からの笑顔を浮かべた。
斉藤の決して甘くはないその言葉から、本当の愛情を感じられたのだ。
微笑む真野の頬に斉藤は手を添える。
斉藤がしようとしている事に気づき、真野は身体を硬直させた。
「ひ、人が…来ちゃうよ」
「だから来る前にするんじゃない」
そう言って、少し強引に塞いだ唇を真野は受け入れた。
―こんなトコで、タオル一枚になって口付けてるなんて
真野は脳裏でそう思考したが、それすら胸を熱くするものへと変わった。
唇を離すと、真野の身体に回していた腕を解いて
斉藤は誰も来ないうちに隣りのシャワーブースへと移った。
一人きりになり、巻いていたタオルを取りさると真野はシャワーを頭から浴びる。
隣りにいる斉藤も同じ動作をしているはずだった。
―斉藤さん
シャワーから上がり、鏡に向かって化粧を直しても
真野の胸の高鳴りは収まりそうもなかった。


ジムを後にした二人は、商店街を通って行く。
疲れた真野の身体には、昼前の人通りの多い道が少し辛かった。
「今日の昼、うちでいい?」
「いいの?」
「いいかって私が聞いてるの」
強引に聞く斉藤に、真野は少し照れたように頷く。
寄ってこ、と斉藤が言うといつもの小さなスーパーへ二人で入っていった。
「おー斉藤さん、真野っちも」
店に入ってきた二人の姿を見るなり、手伝いをしていた桜井が声をかける。
「桜井!どしたのこんな時間に、学校は?」
「サボリじゃないよ~~!もう卒業したからね」
「あ、そっか、高3だったか、高校の卒業式早いなぁ」
「遅くなったけど、卒業おめでと~」
「へへ、ありがとー」
穏やかに言った真野に、桜井は照れたように笑う。
そして真野は大事な事を思い出したような顔をして話題を移した。
「そだ、ヘルシーな食材探してるんだけど…」
まだ言ってるのかと言う斉藤をよそに、桜井は興味深げに笑う。
「なに真野っちダイエット?色気づいちゃって…さては男でも出来た?」
「人妻になんて事言ってんの」
あきれる斉藤は真野の代わりに否定する。
「あ、じゃあ斉藤さんのためか」
「な、ななななななに言ってるの!?」
男でも、という桜井の冗談には笑っていた真野だったが
そこで斉藤の名前が出てくると、途端にあからさまな動揺を見せる。
「だって真野っちの相手といえばー斉藤さんじゃない、いつも夫婦みたいに一緒にいるし」
「ふ、ふ、ふうふ!?」
「もーーーー大人をからかわないの、ほらレジ待ちしてるよ」
「はーい、それじゃあね!それからダイエットにはやっぱ魚かな!」
桜井が駆けていくと、真野は斉藤のコートの裾を掴み小声で呟いた。
「今度は夫婦だって…」
「取り乱しすぎ、こんなの山本さんに見られたら明日には街中の人にからかわれるよ」
諭されるように言われて、真野はため息に似た深呼吸をした。


斉藤宅に辿りついた二人は
アドバイス通りに買ってきた魚と、いくつかの食材を使って昼食の支度を始める。
何を作るか散々討議した二人だが、斉藤は観念したように
一番カロリーが低いらしい魚と野菜のスープの仕込みにかかった。
「斉藤さん家で作るのに、ワガママ言ってごめんね」
「ワガママだとは思うけど、人の家がどうとかいう気は使わなくていいよ」
不本意なメニューだったが、斉藤はこれ以上ないぐらい絶品に完成させた。


斉藤と真野があっというまに完食する頃、時計の針は1時を指していて
それは二人の、無為な時間の始まりだった。
「隣り、行ってもいい?」
食器を片し終え、再びコタツに入ろうとした真野は、斉藤に尋ねる。
「どうぞ」
斉藤は頷きながら、少し腰をずらして二人で座れるようにする。
真野は斉藤の隣りに滑り込むと、その腕に手を回した。
「くっつきすぎ」
「だって、こうしてるのが一番落ち着くの」
斉藤は、真野の甘えた声に何も答えず、その身体を引き離す事もなかった。
「ダイエット、ほんとに始めるの?」
「…筋トレ、全然出来なかったから、せめて食生活だけでもって」
「お菓子作りも辞めるんだ」
「お菓子は作るけど…食べないようにする
 あ、いや…斉藤さんに食べてもらう前に味見はしなくちゃかな」
「味見しなくてもうまいとは思うけど」
斉藤の言葉が褒め言葉だとわかる真野は嬉しかったが、その心境は複雑だった。
「…甘いものは全部敵って事にする」
「敵ねぇ…」
真野の決意の言葉に、斉藤は無意味に相槌を打った。

「それじゃあ、これは真野の敵かな」
斉藤は座ったまま、真野の死角になるよう置いておいた箱に手を延ばす。
「ガラにもなく、ケーキ、焼いたんだけど」
「……え?」
目の前に差し出された箱を、真野は不思議そうに見つめる。
「わたしに、くれるの?」
どういう事かと、理解出来ない様子でいる真野に

斉藤は、まさかと思い尋ねてみる。
「ねぇ真野、今日何月何日?」
「3月14日…金曜日」
「…それって何の日?」
「………あっ!!」
その日の意味を思い出すと、真野は声を上げ目を丸くした。
斉藤はそんな真野を見て吹き出すように笑う。
「真野ってさ、誰かに何かしてあげようってそればっかで
 人から何かもらおうとか、あまり考えないよね」
「そ、そっかな…」
真野は、恥ずかしさに頬を赤らめる。
「そういうトコ、いいと思うよ」
笑いながら言う斉藤の言葉に、真野は胸が温かくなるのを感じた。
誰かにそんな事を言われたのは初めてで
言葉では言い表せないような気持ちがその心に走った。

「そんなの、斉藤さんに、だからだよ」
真野の言葉に今度は斉藤が照れるように笑う。
それを誤魔化すように、斉藤は尋問を続けた。

「で、これはどうすんの?ダイエット中の真野さん」
「食べる!食べなきゃ!絶対!」
強い口調で真野は言うが、斉藤は腕を天高く伸ばしケーキを持ち上げてしまう。
「言っとくけど真野が焼くケーキよか全然美味しくないよ、つーか不味いよ」
「私には誰が作るものより美味しいものだよ!」
「まだ食べてもないのに…」
「わかるの!」
真野は言いながら、必死になってケーキへ腕を伸ばす。
二人の腕の長さを比較しても真野に勝ち目はなかったが
斉藤が仕方ないとでも言うように、コタツのテーブルに箱を置いた。
「開けて、いい?」
目を輝かせて尋ねる真野を止めれば、涙目で懇願する彼女の顔が想像出来たが
斉藤はその笑顔が更に輝く方を選んだ。
「包丁と皿、持ってくる」
恥ずかしさから、気を利かせるように台所へ向かう斉藤。
箱を開けながら黄色い声を上げる真野を背中に感じて
斉藤の恥ずかしさは更に募るのだった。


「うん!ビターだ!美味しい!」
少し濃い色をしたチョコレートケーキを頬張りながら、真野は笑顔で言う。
「そうだよ一応ビターだよ焦げてるわけじゃないよ」
「美味しいよ?」
「…信じ難い」
斉藤の言葉とは対称的に、真野は本当に美味しそうに二口目を口にした。

「で、ダイエットはどうするの?」
「今日は、やめる」
「それじゃだめだね」
斉藤は、真野が次の一口を取るより先に、ケーキの皿をフォークから遠ざける。
「斉藤さんのいじわる…」
「真野の為に言ってんの」
「そんなにダイエットしてほしくないの?」
「だって真野、やり方が極端じゃない」
その通りの事を言われ、真野は次の言葉を見つけられなかった。
「よしわかった」
「…いいの?」
「とんでもない」
真野の期待の眼差しに、斉藤は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「へ?」
真野の自由を奪う為の両手がその下半身に伸びる。
「わっわっわーだめっだめっやだっあはははっ」
「はい、降参してー」
真野のわき腹をくすぐりながら、斉藤は勝ち誇ったような顔をして言う。
「やっあはっだめだってっこんなのっ…ひゃっずるいっ」
「正しい方の言う事、聞いてもらわないと」
そういう言い方もずるい、と真野は思ったが
くすぐられるもどかしさで、とても言葉には出来なかった。
斉藤の攻撃に真野はバランスを崩し、その身体は床に転がったが
そんな真野に覆いかぶさってまで斉藤の手の動きは続いた。
「あっあはっわっわかったっ!ダイエットなんてしませんっ!約束しますっ!」
「……よし」
さすがに観念した真野の言葉に、斉藤はすぐさま手を止めた。
そして、覆いかぶさっていた身体をそのままにして、真野の髪に顔を埋めるのだった。


しばらくはくすぐられていた余韻に、呼吸を貪っていた真野だったが
自分を押し倒すような形で斉藤の身体が密着している事に気づくと
息が止まるような緊張が走った。
「斉藤、さん…」
呼ばれた声に、斉藤は上半身だけ起こすと、真野の瞳と視線を交わす。
「一人で無茶はしない事…これも約束ね」
「…うん」
頷きながら、今日一日で何度心臓が高鳴っただろうと、真野は思う。
でも、思い返せば斉藤と出逢った時からずっと
胸の高鳴る毎日は続いていたようにも思えるのだった。
それは嬉しくもあり、苦しくもあるもので、幸せと呼べるものには違いなかった。
そんな想いに胸を浸すと、真野は瞳を閉じ、斉藤の口付けを待つ。
斉藤は真野に応えるように、ゆっくりとその唇を塞いだ。


長く、甘い口付けのその後に、斉藤はバツが悪そうな顔をして口を開く。
「…ごめん、苦かったね、やっぱ失敗だ」
申し訳なさそうに言う斉藤を見て、真野は笑った。
「ううん、作ってくれた事が嬉しいからいいの」
「…やっぱり失敗だって思ってんじゃない」
問い詰めるように言った斉藤の言葉に、真野は笑顔のまま小声で答える。
「……少しだけね」
正直に言った真野に、斉藤も微笑むのだった。
失敗に思った事も、それを貰って喜んでくれているという気持ちも
真野の心からのものだとわかったからだ。
「今度、一緒に作ろ」
「うん」
母親ならケーキの一つくらい作れるようにならないと、という気持ちと
来年のこの日こそ、失敗じゃないプレゼントを返せるように、という決意を
胸に秘めながら、斉藤は真野の頬に手を伸ばして頷いた。

「全く…」
14日の深夜、真野は斉藤宅を訪れていた。
「ハンカチ忘れたぐらいでこんな時間に来るなんて」
丁寧に畳まれた白い布地を、呆れたような顔をして斉藤が持ってくる。
既に眠ろうとしていたところなのか、斉藤は寝巻き姿で
押しかけてきた真野も、パジャマの上にコートという格好だった。
「迷惑だったよね…」
「迷惑なんて言ってないでしょ」
ここへ来た目的だったはずのそれを、真野は力なく受け取る。
そんな真野の動作が、忘れ物など口実でしかない事を物語っていた。
「ごめん…だって、明日から土日だから…」
「土日に必要?」
斉藤は意地の悪い顔をして問い詰める。
「そうじゃなくって…土日会えないから、だから…」
会いたくて、そう続けようとした真野だったが
口にする以上にその気持ちは強く、うまく言葉にかえる事が出来なかった。
そして、そんな強い気持ちに斉藤が気付かないはずもない。
「いくら近いからって、夜遅くに一人で、危ないでしょ」
言いながら、真野の髪を撫でる斉藤の指は、口調とは反対に優しいものだった。
「うん、ごめんね、ありがとう」
「いいけど…」
斉藤の優しさに、心からの笑顔を浮かべる真野。
そんな真野を見て、斉藤も胸を満たすような思いだった。


「送ってくよ」
それから少し経って、時計の針は12時を指そうというところまで来ていた。
近所とはいえ、主婦がこんな時間まで家に帰らないのは不謹慎な事だろう。
「いいの、平気」
「でも心配だし」
遠慮する真野に構わず、斉藤は玄関に降りて靴を履く。
近くなった目線で、困ったような表情をする真野が斉藤の目に留まった。
「だめだってば」
「なんでよ」
問い詰められた真野は、顔を俯かせてしまう。
「…だって、名残惜しくなっちゃう」
真野は、言いながら斉藤の身体に腕を回し、しがみつく。
「真野?」
腰に回された手が、服のすそを握り締めているのを、斉藤は感じた。
戸惑う斉藤の身体に顔を埋めたまま、真野は声を搾り出す。
「帰りたくないの…本当は、このままずっと一緒にいたい…」
しがみついて懇願する真野の言葉に
斉藤は、これまで感じた事ないような胸の動悸を覚えた。
―なに…これ
胸の動悸が、まるで何かに纏わりついたように全身に広がっていく。
「真野…」
乾いた唇で、斉藤はかろうじてその名を呼んでみせるが
抱きしめ返そうとした指先の感覚は、既になかった。
程なくして、真野は斉藤の身体に回していた腕を解く。
「…なんてね、言ってみただけ」
顔を上げた真野は、柔らかく微笑んでみせるが
その笑顔が心からのものではない事など、斉藤には容易く理解できた。
「じゃあね、斉藤さん…おやすみなさい」
そっと掠めるだけの口付けをして、真野はその場を後にした。
斉藤は、真野を追いかけてでも送っていかなくてはと思ったが
今度こそ自分が名残惜しくなってしまうと感じ、その足は玄関に留まった。
―真野…
その夜斉藤は、一晩中真野の残した動悸に悩まされる事となる。


自宅に帰り着いた真野は、子供部屋で眠る息子の顔を確認すると
リビングへ行き、コートを着たままソファーで横になった。
褪める事のない胸の高鳴りに、大人しく眠りにつく気持ちにはなれなかったのだ。
その脳裏に、今日一日の斉藤の表情が自然と浮かび上がって来る。
別れ際、ワガママを言った真野に、困り果てたような顔をした斉藤。
子供みたいな事を言ってしまったと、少しの罪悪感が真野の胸を痛ませる。
―本当は、もっとずっと一緒にいたい
そう願う事すら許されない事であると、真野にもわかっていた。
そしてそれが決して叶えられない願いだという事も。
だがそれをわかっていても、この恋を選んでしまったのは真野自身だった。
「斉藤さん…」
小さな声で、愛しい人の名を呟く。
―大好き、本当に好き
今日この日まで真野は、何度そう思った事だろう。
斉藤といる時も、一人きりで過ごす時も、それ以外の時でさえ
真野は何度も何度も心の中でその気持ちを唱え続けていた。
しかしその気持ちを言葉として口にする事は、まだ出来ずにいた。
「ちゃんと、伝えなくちゃ」
好きだという気持ちと同時に、それも何度も思っている事だった。
そう思っていても、今こうして成り立っている関係の中で
改めてそれを伝える事は、決して容易な事ではなかった。


「そういえば」
今日までの二人を思い返しながら、真野は独り言を呟く。
「斉藤さんからも…まだ何も聞いてない」
あまのじゃくな斉藤に、そんな言葉を求める事など
それを伝える事よりずっと難しい事に決まっていた。
―多分、同じ気持ちでいてくれてる
  私の方が、もっといっぱい斉藤さんを好きだろうけど
例え想いの差というものを感じても
一生の片想いで終わると思っていた真野の恋は、叶った。
他の誰にも見せた事ないような、穏やかに笑う瞬間。
優しく髪を撫でる指先と、強く抱きしめる腕。
そして甘い口付け。
それは確かに、真野だけに与えられているものだった。
「これ以上望んだら、バチがあたる…」
今、確かに自分は幸せなのだと真野は自分に言い聞かせた。
例え夜を共にする事はなくても、朝一番に隣りにいるのが彼女でなくても
夢のように幸せな今日までの日々を、きっと続けていこうと
真野は心から思った。
―早く、会いたい
離れている時、何を考えても、結局真野はその気持ちに思い至る。
そんな自分に呆れるようにため息をついて、リビングを後にした。
コートを脱いで、音を立てずにそっと寝室に入る。
ダブルベッドの片側で横になり、布団を頭まで被って目を閉じた。
―斉藤さん
真野はその日も、斉藤を想う幸せに浸りながら、眠りにつくのだった。



それから二日が経ち、真野にとって一番待ち遠しかった月曜日が訪れる。
その午前、二人はジムに来ていた。
「斉藤さんがんばってー」
「はいはい……ふんりゃぁっ」
真野の応援を合図に、斉藤はバーベルを持ち上げる。
持ち上げたまま腕を上下させる斉藤を見て、真野はうっとりとした表情を浮かべた。
「やっぱり斉藤さんはすごいねぇ」
トレーニングが終わり、ベンチで休んでいる斉藤にも
真野はきらきらと輝かせた表情で言葉をかける。
「別に、あれぐらい大した事ないわよ」
タオルで汗を拭きながら、斉藤はぶっきらぼうに答えてみせた。
そんな斉藤を見ても、真野の笑顔は止まなかった。
「私もう少し頑張ってくるね」
ベンチの斉藤に手を振って、真野はエアロバイクの方へ駆けていく。
手を振り返しながら、斉藤は子供でも見るかのような顔をして笑った。
「可愛いわね真野さん」
その声に斉藤は驚いた様子で顔を上げる。
「泉ちゃん」
いつのまに、とでも言いたげな様子の斉藤に
傍らに立っていた泉は不敵に微笑んでみせた。

「可愛いってなにが」
「そりゃもちろん、斉藤さんに一途なところが」
泉の答えに、斉藤の表情が一瞬強張る。
「なに、言ってるのよ」
冗談でも返すかのように、斉藤は流してみせるが
泉の目には、悩ましげな顔をする斉藤が確かに映っていた。

「どーしたのそんな顔して、素敵な事なのに」
どこまでも明るく言ってみせる泉を、斉藤は睨む。
「素敵とか、そんな、おめでたい事じゃないでしょう」
それは確かに、斉藤にとって愛しい事だったが
能天気に喜ぶほど、単純に考える事は出来なかった。
特に、あんな動悸を知ってしまった今となっては。
そんな複雑な斉藤の心情を、泉は読み取る事が出来なかったが
二人がどういう気持ちでいるかについては、彼には容易く理解できる事だった。
「でも、だって斉藤さんも真野さんの事…」
「泉ちゃんッ!」
泉の言葉を遮るように、斉藤は声を上げる。
「それ以上は言わないで」
立ち上がり、少し荒い口調で斉藤は言う。
その瞳は、泉が今まで見た中で一番強いものだった。
「認めたくないの?」
泉の質問に、斉藤は情けない顔をして、少しだけ笑った。
「…そんなんじゃない」
斉藤は自分でもわかっている。
あの日伝えた通り、真野が必要で、真野が特別である事を。
ただ、この特別という気持ちが何を意味するものか
それ以上自分の中で追求しないようにしていた。
それは、明らかに斉藤らしくない、何かからの逃れとも取れる思考だった。
そんな、まだ真野にも伝えていない事で、自分の中でも出せていない答えを
誰かの口から耳にする事だけは避けたかった。


「ねぇ斉藤さん」
泉には斉藤の葛藤を、全て把握する事など出来なかったが
それでも彼女を諭すかのように、言葉を続けた。
「私はね、斉藤さんみたいに男らしい人の気持ち
 わかってあげられないかもしれないけど」
「どういう意味よ」
睨み付ける斉藤を、泉はこれ以上ないほど女らしく微笑んで流す。
「でも、真野さんの気持ちなら、少しはわかるかもしれない」
泉の言葉に、斉藤は更に複雑そうな顔をした。
そんな斉藤の肩に、泉がそっと手を置く。
「難しく考えすぎなのよ」
斉藤には、そう言って笑う泉が、憎らしくて羨ましかった。
「簡単な事ではないでしょ」
どこまでも楽観的に考える泉に、斉藤は力ない言葉で反駁する。
だが、そんな斉藤の深刻さも、泉は笑い飛ばしてしまう。
「状況は難しいかもしれないけど、でも気持ちは単純なものよ」
そう言い残して去っていった泉の背中を見つめながら
斉藤の頭には、疑問や葛藤が渦巻くばかりだった。
そして、その傍らに戻ってきた真野の笑顔を見て
暗いのは自分だけかと、ため息のつく思いだった。


「今日、なんかずっと楽しそうね」
あれから斉藤宅に帰ってきた二人は、昼食後のひと時を過ごしていた。
斉藤の為に笑顔でみかんの皮を向く真野に、斉藤は横から声をかける。
「だってすごく嬉しいんだもん!」
言いながら真野は、更に嬉しそうな顔で微笑んでみせた。
「土日なんかいい事あったの?」
「もーそういう事じゃなくて」
見当違いな事を言う斉藤に、真野は呆れた顔で否定する。
「斉藤さんといられる事が嬉しいの!」
顔を近づけて、言い聞かせるように真野は言ってみせた。
「なに、言ってんの」
近づけられた顔と、その言葉に、斉藤は一瞬視線を泳がせる。
数日前の動悸を、思い出す。
「……あれ、もしかして照れてる?」
「そんなわけないでしょ」
斉藤は冷たく否定するが、逸らした視線がそれを肯定していた。
「あーーー斉藤さんが照れてるーーー」
「まーのっ!」
大袈裟に言う真野を、斉藤はむきになって呼び留める。
「はいあーん」
何か言おうとした斉藤の口を塞ぐように、真野はみかんを一房食べさせた。
「美味しいね」
そう言って、傍らで微笑んでいる真野に、斉藤は戸惑いを自覚していた。
秘められた衝動が、斉藤の中で猛りを増していく。


「…真野」
「ん?」
斉藤は、何か伝えようと、落ち着いた声で真野を呼び止めるが
伝える為の言葉を、見つけられずにいた。
「どーしたの」
何も言えずに息を飲む斉藤を、真野は不思議そうに見つめる。
「何でもない」
「うそ」
即答する真野に、斉藤は所在ない顔を見せた。
「ほんとに何でもないから」
そんな説得力のない言葉を並べながら
ちゃんと言う事考えてからにしよう、と斉藤が心に決めた時
真野の手が斉藤の隙を襲った。
「ぎゃっわっ」
くすぐってきた真野の手に、斉藤は声を上げ、思わず身体を浮かせる。
「この前のお返し!」
「ちょ、やめ、あはははは」
「ね!なんの話か教えて!」
真野は、斉藤が何か面白い事を隠してるかのように、その真意を問いただす。
真野の楽観さに斉藤は呆れる思いだった。
「こら!」
「きゃっ」
斉藤はくすぐられる感覚に耐えながら、力ずくでその身体を押し倒した。
両手で真野の両腕を押さえつけ、勝ち誇ったような顔を見せる。

しかし、そんな斉藤の表情も一瞬で、緊張の眼差しへと変わった。
押し倒した拍子に、真野の着ていたブラウスがはだけ
露わになった胸元が斉藤の目に留まったのだった。

「あ…」
それに気付いた真野が、恥ずかしさに顔を上気させる。
隠そうと思っても、その両手は斉藤の手によって拘束されていた。
真野の羞恥心を逆撫でるように、斉藤の視線は、真野の素肌に注がれていた。
「斉藤さん…?」
そんな斉藤に一層赤面し、真野は戸惑いを隠せずにいた。
だが何より彼女を驚かせたのは、斉藤の瞳が今まで見た事ないほど熱く強かだった事だ。
「真野…」
彼女を呼ぶ、斉藤の熱っぽい声。
斉藤のそんな声を、真野は初めて聞いた。

それが真野の耳に届く頃、その唇は塞がれていた。
「んっ…」
今まで繰り返した、触れるだけの口付けの記憶が忘れ去られるほど
それは、熱く激しいものだった。
斉藤は真野の唇を啄ばむように深く攻め立て
こじ開けた唇に自らの舌を進入させていく。
二人にとって初めての、ディープキスだった。
真野の中に入っていった舌は、その全てを舐め回していく。
口内を攻め立てられる感覚と斉藤の舌の初めての感触に
真野は何も考えられなくなって、その鼓動を高まらせるだけだった。
斉藤は何度も、なすがままの舌に自らを絡ませる。
真野は自分の身体が火照っていくのがわかった。
こうなる事を、考えた事もなかったはずが
まるで最初から待ち望んでいた事のようにも思えるのだった。


―斉藤さん…
ぎこちなくも、真野は自分から斉藤の舌に応えてみせる。
その様子に気付くと、斉藤は更に大胆になってその唇を求めていった。
真野の腕を押さえていた手を離し、斉藤はその身体を抱きしめる。
真野はそれを受け入れるように、斉藤の背中に両手を回す。
やがて斉藤の片手が真野の胸へあてがわれると
そこから真野の忙しない鼓動を、直接感じ取る事が出来た。
撫でるように斉藤が手を動かすと、真野は一瞬その身体を強張らせる。
一旦唇を開放し、斉藤は確認するように真野と視線を交わした。
斉藤の目に映った真野の瞳は、確かに戸惑いに揺れていたが
真野が受け入れるように目を閉じると、斉藤はそれを合図に、その首筋に口付けた。
真野の自由になった唇からは、ため息のような吐息が少しずつ漏れていく。
その吐息に合わせるように、斉藤の唇は段々と降りていき
はだけたシャツが露出させている胸元まで至る。
降りてくる唇を感じた時、真野は自分が溺れていくような感覚に陥った。
目が覚めたように、その瞳は開かれる。
その視界には熱い眼差しで、真野の素肌に口付けをする斉藤が映し出された。
それは、真野がずっと求めていたもの、全てだった。
―この人が欲しい
真野は心からそう願い、そしてそれは叶えられると確信した。
―ずっと、この人と…
だが、心がそこまでの想いに至った時
それを叶えられるものは何もない事に気付かされる。
「真野…?」
斉藤が顔を上げると、その瞳からは涙が溢れ返っていた。
驚いて真野に被さっていた身体を起こすと
真野は自由になった両手でその顔を覆い隠す。
「さいと…さん……ぅっ…」
その名を呼びながら、真野は声を上げて泣き出した。
「真野…」
斉藤は我に返ったように、口に手を当てる。
顔を覆って号泣する真野を目の前に、その動揺ぶりは明らかだった。

「ごめんなさいっ…」
真野は、涙を浮かべたままそう言って立ち上がる。
そして傍らにあった上着を持って、逃げるように斉藤の家を後にした。
玄関のドアの閉まる音が耳に届いても、斉藤はその場を動く事が出来なかった。
そこに残されたのは斉藤と、これ以上ないほどの自責の念。
縮まるはずだった二人の距離は、お互いの想いと願いの強さに
今、無常にも遠く離れていった。

斉藤の家を飛び出した真野は、自宅までの道を駆けて行く。
見慣れたはずの景色は、涙でにじみ
溢れた涙は拭われる事もなくこぼれ落ちていった。
数百メートルもない距離を駆けながら
真野の脳裏には今までの斉藤の記憶の全てが蘇った。
出逢った時から、その言葉、行動の全てが眩しかった事
いつかそんなふうになりたいと憧れ、友達になってくれた事
時には鈍感な自分を叱りつけ、助けてくれた事
そして、必要としてくれた事
全てが愛しかった。
全てが真野にとっての宝物だった。
―あの人と、ずっと一緒にいたい
  誰よりも同じ時間を過ごしたい
  永遠を、誓いたい
願いはいつしか膨らんで、真野の意思ではどうする事も出来なくなっていた。
「うっ…っ…」
辿り着いた自宅の前で、真野は泣き崩れるようにしゃがみ込む。
願いの強さに、叶えられない悲しみに、胸が張り裂けそうな痛みを必死で堪えていた。 
「真野さん?」
思いもしない声に呼ばれ、真野は一瞬身体を硬直させる。
涙を拭いながら顔を上げると、そこには偶然通りかかった人影が
心配したように真野を覗き込んでいた。
「三上さん…」
「どうしたの」
泣き腫らして尚、瞳を潤ます真野の顔を見て、三上は驚いたような声を上げる。
真野はすぐに顔を伏せたが、三上は動揺しながらも、その手にハンカチを差し出した。
「何かあったの?」
止まらない涙を拭う真野を見ながら、三上は落ち着いた口調で尋ねる。
真野は、その涙が止まるまで何も答える事が出来ず
三上もそんな真野の隣りで、ただ黙って背中をさするだけだった。


「紅茶を二つ、ミルクで」
三上と真野は、いつも皆で集まっている喫茶店にいた。
まだ涙声でうまく喋れずにいる真野の代わりに、三上が注文を頼む。
「すみません…」
真野の無意味な謝罪に、三上はいいのよ、と微笑んで返した。
あれから、辛うじて泣き止んだ真野は、三上を家に案内しようとしたが
三上はそれを断り、真野を外へと連れ出したのだった。
真野はその時、三上が断る理由を把握出来なかったが
今こうして、外に居る空気が自分を落ち着かせているという事も感じていた。
「斉藤さんと、何かあったのね」
頼まれたミルクティーを口にしながら、三上はわかりきった事を尋ねる。
真野は下を向いたまま、何も答える事が出来なかった。
しかし、その様子が肯定を意味するものだと、三上には容易に察する事が出来た。
「話したくないのなら、いいんだけど…」
ティーカップを置きながら、三上は一つ間を置いて言葉を続ける。
「でも真野さん、誰にも言えないで悩んでるんじゃないかって」
続けられた言葉に、真野はハッとしたように顔を上げる。
「もし、私でいいのなら話して、私はあなたを否定するつもりはないから」
三上のその言い方は、真野の悩みを的確に捉えているように取れた。
「わたし…」
三上に促されるようにして、真野は声を搾り出す。
「斉藤さんの…事……その…」
それ以上言い澱む真野に、三上は穏やかな声でその先を告げた。
「好きなのね」
静かに頷いた真野は、そのまま下を向いて瞳を閉じた。
その言葉を聞いただけで溢れてしまいそうになる涙を、必死で堪えていた。
「斉藤さんに、伝えたの?」
そんな真野に合わせるように、三上はゆっくりとした口調で質す。
「まだ……ちゃんと伝えてないんです…でも」
「斉藤さんも、あなたの事が好きよね」
三上の言葉に、真野は顔を上気させる。
誰かの目から見て、斉藤が自分を想っていると断言出来る事に、喜ばしくさも感じた。
もちろんそれがわかるのは、鋭い洞察力を持った三上ぐらいでしかないのだが。


「斉藤さんには、何も聞いてないの?」
三上の問いは、核心を突いていた。
真野の抱えている事全てを、三上が把握出来ているわけはなかったが
真野がずっと、誰にも打ち明けられなかった事を口にしてもいいのだと
そう思わせる安心感が、確かにあった。
「聞けないです、だって私…」
真剣に聞き入る三上の前で、真野は本音を吐き出す。
「同じ、好きじゃないかもしれないんです…
 例えば、同じように、だ…抱き合うとか…そういう好きでも
 私は、今だけとか、そういうんじゃないんです
 私には、斉藤さんだけなんです
 斉藤さんだけ特別で…斉藤さんと、ずっと一緒にいたいんです」
口にしながら、胸は痛み、言葉が詰まりそうになる。
それでも真野は、初めての気持ちを言い切った。
三上は、遠くから見て察していたよりずっと
真野が強かな気持ちを抱えていた事に、内心で驚いていた。
心から想いを注ぐ真野の恋に、他に相応しい言葉を見つけられなかった。
「運命の人、なのね」
三上の言葉に、真野は静かに頷く。
「私…ずっと、幸せになれるようにって生きてきました
 この学校に入ればとか、この会社に入ればとか
 結婚する時も、この人となら幸せになれるってそう思って…
 尊も生まれて、3人で暮らして、本当に私、幸せになれたんです」
幸せを口にする真野は、相反するように顔を歪ませた。
その幸せこそが、真野を今苛んでいたのだ。
「でも…」
言葉を続ける真野の視線を、三上はしっかりと捉える。
胸の痛みが、伝わってくるようだった。
「初めてなんです
 幸せになんかなれなくていいって思ったの
 斉藤さんといられるなら、私、もうそれだけでいいんです」
それが真野の、心からの本心だった。


二人はほんの少しの間、窓の景色を見たりして、沈黙を守っていた。
真野は真野の想いを、三上はその想いに自分の記憶を
それぞれ思い巡らせていたのだった。
そして、三上は自らの中で何かに至ったように、その沈黙を破る。
「私も」
「え?」
聞き返す真野に、三上はゆっくりと言葉にした。
「一度だけ、今の真野さんみたいに思った事がある
 あなたとは逆に、ずっと昔、ずっと若かった頃に…」
三上はその頃を懐かしむように、遠く、それでいて寂しげな目をして語った。
「幸せになれなくてもよかったのに、結局、叶えられなかった」
三上の言葉と、力ない語尾に、真野は胸が締め付けられるような思いがした。
思わず視線を逸らそうとした真野を、三上は諭すように続けた。
「でも真野さんは、これから、叶えるんでしょう?」
その問いに、真野は返答を詰まらせる。
いくら叶えたいと、心から望んでも
自分一人ではどうする事もできない事を、真野は痛いほどわかっていた。
もう何度も、胸の内で思い知っている事だった。
「でも……私の望みは、ずっと一緒にいたいって事なんです
 叶えちゃいけない事なんです、だって、これは本当はいけない事で…」
「いけない事よ」
三上は、はっきりと告げた。
「主婦が、母親が、決してしてはいけない事をしてると、私も思う」
その口調は強く、鮮明に真野の耳に響いた。
「でも、あなたの決める事よ
 あなたが何を選ぶか、全部あなたが決めていいの」
真野は、三上の言葉の一つ一つに、胸を打つ思いだった。
理性と常識を踏まえた上でも尚
真野の恋を思い遣る三上の寛大さが、今の真野を救っていた。
「決めて…いいんでしょうか」
真野は息を飲み、改まったような顔をして口にする。
尋ねながら、既に胸に芽生えている何かを真野は感じていた。
そしてそれを、三上もわかっていた。
「もう、決まっているじゃない」
真野は顔を上げて、三上と視線を交わす。
三上の穏やかな眼差しを見て
何かを許されたような、心が解かれる感覚を感じていた。
自分で、自分を許したいと、その時真野は心から思った。


ようやく緊張が和らいできた真野の表情を見て
三上は少しだけ、話を逸らす。
「本当はね…少しだけ、二人が羨ましく見えるの」
えっ、と真野の表情は一瞬固まる。
羨ましいなんて言葉を三上の口から聞くなど、意外としか思えなかった。
そんな真野に、三上は笑顔を見せ、微笑んだまま言葉を続ける。
「私がね、あの人みたいだった頃
 真野さんみたいに、慕ってくれて、支えようとしてくれる人はいなかったし
 私自身も、そんな人いらないって思ってた」
真野には三上が斉藤のようだった頃など想像もつかなかった。
きっと昔から、今のように大人びた人だったのだろうと
真野は彼女を見た時から、そう思い込んでいた。
「斉藤さんと出会った時、きっと同じように思ってるんだろうなって感じたの
 それは良くないなぁって、私も勝手に思ってたりしたんだけど」
自分でも意外な事を言ってると自覚しているように、三上の表情は苦笑していた。
「でも、斉藤さんは、あなたと出会って
 たった一人だけのあなたを、確かに必要としているわ」
だから見捨てないであげてね、と三上は過去の自分を託すように笑って助言した。
「三上さん…」
真野は、三上が思っていたよりずっと
斉藤と自分の事を見ていた事に驚き、何よりそれを感謝した。
理解をしてくれたとも違う、だが確かに受け止めてくれた
そんな三上の優しさに、自然と微笑みが蘇ってくる。
「言っておくけど、斉藤さんを応援してるわけじゃないからね」
真野の笑顔に、三上は釘を刺すように言い捨てる。
だが三上の言葉は、更に真野の笑顔を綻ばせるのだった。


「明後日のお泊り保育が終わったら、もう、卒園ね」
陽が傾き始めた夕時の中、三上と真野は、我が子の待つ幼稚園へと向かう。
話題は、自然と数日後に控えた卒園式の事に及んだ。
「緊張します…」
「子供を大事に想ってる証拠ね」
微笑んで言った三上の言葉に、真野は褒められたように胸が温かくなるのを感じた。
斉藤と三上が対立していた事を思い返しながら
人にはそれぞれの優しさがあるのだという事を知るようだった。

「お母様!」
園の門に辿り着くと、娘のかおりが待ちきれなかったように
母親の姿を目指して駆けてくる。
その姿に微笑む三上は、真野が見た中で一番優しい表情をしていた。
真野の視線に気付いたように、三上は向き直る。
「それじゃあね、こんなところで言うのも何だけど、小学校でも、よろしくね」
三上は真野に右手を差し出す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
真野ははっきりとした口調で言って、その右手をしっかりと握った。
また明日、と頭を下げ、三上は子供の手を取って歩き出す。
「三上さん!」
真野は、振り返って三上の背中を呼び止めた。
「今日は本当に…ありがとうございましたっ!」
振り返った三上は、何も答えず、ただ優しく微笑み返すだけだった。
そんな三上に真野も、これ以上ないくらいの笑顔で応える。
再び歩き出した三上の背中を見つめながら、真野は本当に救われた思いだった。
「ママー!」
後方から響く息子の声に、今度は真野が呼び止められる。
「尊!」
子供に負けないぐらいの元気な声を上げ、真野は駆けてきた我が子を抱きしめた。
だが、その隣りにいつもある姿がない事に、気付く。
「潤一君は?」
「もう帰ったよ」
「そっかぁ…」
あんなふうに別れてしまった斉藤と、今ここで顔を合わせるのは気まずい事とも思ったが
真野は早く彼女に会って、弁解をしなければとも考えていた。
「尊、明日はちょっと、早起きしようね」
母親の言葉に、尊は不思議そうな顔をして首を傾げる。
―ちゃんと、言おう
  だって、もうこの気持ちは決まってるんだから
大切な子供の手を引きながら、真野はもっと強くなろうと、決意を胸にした。



翌朝、子供と共に早起きした真野は
いつも自分の家で待ち合わせている時間より30分も早く斉藤の家を訪れた。
まだ仕度の途中で迷惑かもしれない、とも考えたが
すれ違いになる事だけは避けなければと思っていた。
「斉藤さん、まだ家にいるよね」
祈るような気持ちで真野はインターフォンを鳴らす。
家の中は忙しかった様子で、玄関の扉が開かれるまで少しの時間を要した。
「真野!?」
玄関から出てきた斉藤は、驚いた様子でその名を呼ぶ。
既に着替えていた斉藤だったが、その髪はまだ寝起きのままだった。
「斉藤さん!」
真野は、門まで入って斉藤に歩み寄る。
ようやく見れた顔に、安堵の表情を浮かべる真野だった。
「な、ど、どうしたの!こんな早く!」
そんな真野とは反対に、斉藤は慌てふためいたように声を上げる。
「あ…ごめん、その…迎えに来たんだけど…」
狼狽える斉藤に圧倒され、真野は思わず肩を窄ませてしまう。
「あ、上がってもいい…?」
真野を目の前にした斉藤の動揺はあきらかだったが
子供達の前で、これ以上の醜態を見せるわけにもいかず
真野の言う通り、二人を家に通すしかなくなった。
「も、もう朝ごはんは終わったから、えと、もう出れるから」
玄関に座らせた真野と尊を前に、斉藤は急いで上着を着る。
「斉藤さん!」
「へ?」
「寝癖…」
斉藤は真野が一瞬何を言ったか理解出来なかったように固まったが
気付いたように頭に手を当てて、その髪を確かめる。
「あ…あぁっ!そうだった!そうだったね!」
大袈裟に相槌を打ちながら、斉藤は洗面所へと向かった。
いつもと様子の違う母親に、潤一も首を傾げながら鞄に弁当を詰めるのだった。
「さ、行こう」
洗面所から出てきた斉藤は仕切るように玄関へと向かい、真野達も家を出た。
四人は並んで幼稚園への道を歩いていくが
斉藤はただの一瞬も、真野と目を合わせようとはしなかった。
真野が何を話しかけても、頷いたり空返事をするだけだった。
もしここで、タバコのポイ捨てや自転車の二人乗りなどが横行されても
多分斉藤は気付かないまま、目の前を通り過ぎていた事だろう。
―こんなふうになっちゃうなんて
真野は、そんな斉藤を横で見つめながら、自分の責任を感じた。


いつもより長く感じる道のりの中、ようやく四人は幼稚園へ辿り着く。
門を抜けるなり、潤一と尊は振り返らずに駆けて行ってしまった。
そんな息子を見送って、真野は斉藤に向き直ると共に門へと向かう。
来た道を引き返しながら、斉藤にはこれからが長い時間となるように思えた。
隣りを歩く真野の顔もまともに見れないまま、斉藤は昨日一晩思い悩んだ事を反芻する。
泣き出してしまった真野の真意も、あんな事をしてしまった自分の本心も
把握できずにいる斉藤に、一晩で考えをまとめる事など出来やしなかった。
だがただ一つ確かだと思えたのは、潔く、謝らなければならないという事だった。
斉藤はそれを思い出したように、横を歩く真野に、やっと視線を向ける。
「真野、あのさ…」
自分から切り出しながら、何でも言えたはずの唇の重たさを、斉藤は初めて実感した。
「昨日の事だけど…その…ご…ご…」
ごめん、と言おうとした斉藤を遮るようにその唇は塞がれる。
背伸びをした真野が、ふいに口付けたのだ。
「な!」
唇が離れると、斉藤は驚いたように口を手で押さえ、辺りをきょろきょろと見渡す。
「大丈夫、誰もいなかった」
真野が安心させるように言うと、斉藤は無意味に頷くが、そういう問題でもないと思った。
「昨日、ほんとにごめんね」
斉藤が慌てているうちに、その言葉は真野の口から出てしまう。
「いや、それは」
「斉藤さん!」
私の台詞だと続けようとした斉藤を、また遮って呼び留める。
斉藤の謝罪を妨害するように、真野は無理やりに話題を変えるのだった。
「明日一日、空いてる?」
「へ…?」
「泊まりに行ってもいい?」
「え…泊まり…泊まりって…えぇぇぇ?!!」
真野が聞いた事ないような声を出して、斉藤は驚く。
「明日から一泊、尊達も幼稚園でお泊りだし、うちも出張で誰もいないの
だから斉藤さん家、行ってもいい?」
「いや…でも…」
「予定あるの…?」
「そうじゃないけど…」
「じゃあ、決まり!」
強引な真野に、斉藤はたじろぎながらも、頷くしかなかった。
昨日の出来事について、真意と謝罪を伝えなければと思ったが
明るく話を逸らす彼女に、斉藤はこれ以上何も語れずにいた。
「早く明日にならないかな!」
そう、心から楽しそうに笑う真野を見て
斉藤の昨晩までの苦悩が和らいだのも確かだった。



真野の願った通り、あっというまに翌日の朝は訪れる。
真野が突然泊まりに来るという事で、斉藤は昨夜
大急ぎで風呂場や寝室を片さなければいけなかった。
もちろん普段から綺麗にしている斉藤だったが
客人が泊まるとなれば、より清潔にするのが一応の礼節だと斉藤は考えていた。
そしてその客人が、誰より特別な人だから、という意味も
確かに込められているのだった。
「おはよー!」
斉藤が息子を連れて、真野の家まで迎えに行くと
子供と一緒になって、元気よく挨拶する真野が出てきた。
「忘れ物ない?」
「なーい!」
目の覚めるような斉藤の問いに、真野と尊は声を重ねて返答した。
「幼稚園にお泊りなんて、すっごく楽しみだね!」
「うん!」
「うふふ」
真野は尊と潤一に声をかけながら、まるで自分の事のように微笑んで歩く。
だがその笑顔の理由は、この後に控えた自分の予定を
心待ちにしているからに違いなかった。
そんな真野を見て、斉藤は一人照れるような気持ちになる。
「子供みたい…」
ぽつりと、そう言ってみる。
「ん?何か言った?」
「いいや、なんでもなーい」
真野の問いかけに、しらばくれながら
斉藤は自身の心も確かに弾んでいくのを感じていた。


「じゃあね、ちゃんと寝る前にトイレ行くんだよ」
「怖くなっても泣かないように、男らしくね」
幼稚園に着くと、そんな母親らしい言葉をかけながら、二人は息子の背中を見送る。
「大丈夫かなー…不安」
「ま、いい経験になるでしょ」
頼もしく答える斉藤を横に、真野はきっと斉藤がいなかったら
一晩中子供の事が心配で、たまらずにいたであろう自分を想像する事が出来た。
そして、今隣りにいる存在に、心から感謝するのだった。
「斉藤さんは小さい頃、こういうのあった?」
「んー?あったと思うけど、覚えてない」
「そういうものかー」
「そういうものよ」
子供の事を改めて担任に頼むと、二人は同時に門まで引き返した。
この門を出たら、二人きりの時間の始まりだった。
「先、荷物取りに行く?」
「…うん」
先ほどまではしゃいでいたのとは、うって変わって、真野は控えめに頷いた。
「なに、どしたの」
「え、や、ちょっと緊張して」
「なっ、なに、緊張って、自分から言ったのに…」
真野の様子に、斉藤は自分まで赤面してしまいそうな思いだった。
「な、なんでもないの!もー行こー!」
そう言って、真野は斉藤の手を取り歩き出す。
空いたもう片方の手で、恥ずかしげな顔を覆い隠すようにしていた。
―なんなんだ
斉藤は、二日前から真野の言動に振り回されっぱなしのように感じた。
だが、決してそれを嫌な気持ちで受け止めないのは
間違いなく斉藤が真野を大事に思っているからという事でもあった。


その日の午前と午後を、二人はいつもと変わりなく過ごした。
午前はジムへ行き、その帰りに買い物をして、斉藤の家で昼食を摂る。
昼食後のひと時に話す話題も、子供の話や、日常のたわいない話ばかりだった。
違うのは、いつもの子供を迎えに行く時間になっても
二人の距離が離れる事はないという事だ。
そして窓の向こうの景色が暗くなった頃
真野は突然閃いたかのように、斉藤を家から引っ張り出した。
「飲みに行こう!」
真野の提案に、斉藤は無意味に戸惑ったが
手を引かれたまま夕闇に染まる街を歩いていくと
二人の間を吹く春の夜風に、なんともいえない心地よさを感じた。
三月の、まだ肌寒く感じる空気の中、共にいる温もりを斉藤はかけがえなく想った。

そうしているうちに、商店街の中でいつもは目にも留めない居酒屋へと辿り着く。
入り口の扉を前に、横目で真野の顔を見ると
これ以上楽しそうな事はないような笑みを見せていて
斉藤はとても引き止める気にはなれなかった。
「いらっしゃいませー」
店に入ると、そこは仕事帰りのサラリーマンやOLなどで溢れ返っていて
ごく普通の、居酒屋の風景といえるものだった。
席に着いた斉藤は観念したように、メニューを手にする。
何年ぶりかに吸う、賑わったこの空気に、胸が高鳴っていたのも確かだった。
そんな斉藤の様子を察して、真野は満足げに微笑む。
「私はね、カルーアミルク」
「やっぱそういうの飲むんだ」
「やっぱ、って?」
「なんかイメージ通りっていうか」
「私ね、コップ1杯でだめなんだぁ」
「…よく誘ったわね」
真野の言葉に、斉藤は我に返ったようにメニューを置く。
「斉藤さんの飲んでるとこ、見てみたくって」
「じゃあビール、大ジョッキで」
「うわ、斉藤さんぽい」
からかうように笑う真野を睨みながら、斉藤は店員にオーダーを告げた。

その日二人は初めて、共に飲む酒の味を知る事となる。
一緒に頼んだ食事も進み、話題は若い頃から幼い頃の話にまで上った。
いつもよりずっと口数は多くなり、斉藤も真野に負けないぐらい明るく振舞った。
「今日は母親らしくない事をするの!」
話の中、真野は酔った口調でそう言ったが
普段の斉藤なら注意するところを、からかうように笑うだけだった。
そんな尊い時間はあっという間に過ぎ、時計は夜更けが近づいている事を指していた。
なかなか帰りたがらない真野は、宣言した通り、母親らしくない様相を見せていた。


それからまた暫くして、ようやく店を出た二人は
少しだけ足が浮いたような感覚で家までの道のりを歩く。
斉藤の方が飲んだ量は遥かに上だったが
やはり酒に弱い真野の方が足をふらつかせていた。
そんな真野を支えるように、二人の手は自然と繋がれる。
「こんなふうに、一緒にお酒飲みに行くのが夢だったんだ」
「夢って何よ」
真野は子供のような眼差しをして、夜空を見上げる。
「主婦とか、母親とか、そういうの関係なく、斉藤さんと過ごしてみたかったの」
アルコールが視界にまで回ってしまったのだろうか
真野は、こんなに綺麗な夜空を見た事がないと思った。
「…そっか」
夢を語る真野の言葉に、斉藤は小さく微笑んだ。
「もっと早く…会ってたら」
斉藤は、ふいに口にした言葉を飲み込む。
それはいつも、心の中で思っていた事だった。
「…会ってたら?」
「いや、なんでもない」
斉藤は、酔いの回った頭が口にしかけた言葉を、やはり胸にしまう事にした。
出逢うのが遅すぎた事を嘆くより
どんなに遅くても出逢えた事を感謝しなければと、そう思っていたのだ。
同じ気持ちでいた真野も、それ以上問い詰める事はなかった。
そして吹っ切れたような笑顔を見せて、言葉を紡ぐ。
「また、行けるかな?」
「行けるわよ」
ぶっきらぼうに、でも真っ直ぐに答えた斉藤に、真野の心は満たされる思いだった。
「…じゃあ、指切り!」
車の通らない車道の真ん中で、真野は小指を差し出した。
斉藤は呆れた顔をしながら、自分の小指をその指に絡ませる。
「約束」
街頭がうっすらと照らす夜の闇の中、真野は斉藤の表情をしっかりと捉える事が出来た。
今この瞬間を、何よりかけがえなく思い
また、斉藤も同じように思ってくれていると、真野は確信した。
例えそれが自惚れでも、心を重ねている幸せに今は浸っていたかった。


二人が斉藤の家に帰り着く頃には、時計はもう夜の十時に指しかかっていた。
こんな時間に、誰もいない家で二人きりでいる事は初めての事だった。
「お風呂にする…?」
「え?」
斉藤はまだ酒が残っているせいか、部屋に入ると唐突にそんな言葉を切り出した。
真野は少し驚いたように、反応する。
「先、入ってきなよ」
「あ!うん、うん!行ってきます!」
斉藤にバスタオルを渡されて、脱衣所へ駆ける真野は、顔一面真っ赤だった。
それを横目に見た斉藤も、目が覚めたように顔を上気させる。
再び訪れた動悸を前に、斉藤の中で酔いと理性が同居していた。
やがて浴室から響いてきた流水の音が、耳に残って離れない。
そんなつもりじゃない、といくら自分に言い聞かせようと
強い意思に反して高まっていく鼓動は、抑えようがなかった。
そんな、自分との葛藤で斉藤が悶々としている間に
数十分が経ち、真野は風呂から上がってきてしまう。
「あ…」
真野の姿を見た途端、斉藤はあからさまに視線を逸らせる。
濡れた髪と、無防備な寝衣姿に、真野を直視する事が出来なかったのだ。
そうした斉藤の動揺が伝わったように、真野は言葉を迷う。
「えと、いいお湯でした」
「そ、そう…」
斉藤は顔を上げずに小さく頷くだけだった。
「風呂、交代ね」
そう言って、斉藤は居たたまれなくなったように、その場を後にした。
―また、押さえ切れなくなるわけにはいかない
斉藤は、真野を泣かせてしまったその時から誓っていた。
こんな自分勝手な衝動は、胸にしまい込んでみせると。
だが、こんなふうに一日を二人きりで過ごして、衝動は胸が痛むほどに増していた。
―真野を絶対傷つけたくない
流水を浴び、アルコールを頭から追い出しながら
斉藤はその誓いを胸に、必死で衝動を抑えつけていた。


風呂から上がった斉藤は、灯りのついた部屋へと向かう。
廊下を歩くその足はまるで忍ばすように恐る恐るとしていて
斉藤は自宅にいる事をすっかり忘れているようだった。
寝室に入ると、一人分だけ敷いた布団の上に、真野は座って待っていた。
「おかえりなさい」
出てきた斉藤に向かって、真野はそうやわらかく言ったが
斉藤はとても落ち着いていられる状態ではなかった。
「えっと…もう一枚布団、今出すからっ…」
斉藤はあからさまに慌てた様子で、押入れの戸に向かう。
「いいのっ!」
「へ?」
「一枚でいい」
引き止める声に振り向くと、顔を赤くしている真野が斉藤の目に映った。
斉藤の中で、動揺が広がる。
「それって…一人は、どこで寝るの…?」
「二人で、寝るのっ」
「あぁなるほど」
神妙に頷きながら、その内心では錯乱状態だった。
斉藤の心拍数は戸惑いに高なっていく。
「や、でも、寒くない?」
「くっつけば大丈夫」
「せ、狭くないかなぁ」
「平気」
真野は他を認めない様子だったが、斉藤も素直に折れるわけにはいかなかった。
うーん、と唸りながら、悩ましげに頭を抱えると、ひとまず真野の横に座る事にした。
―さて、どうしよう
このまま眠らずに一晩話し続ける手もあるかと、斉藤が考えた時
真野は傍らに座る斉藤に、抱きついてきた。
「なっ…」
密着してきた身体に、斉藤は硬直する。
その身体の温かく柔らかい感触に、いくら斉藤でもとても平然となどしていられなかった。
「真野っ!」
このままではいけないと、斉藤は真野の肩を掴み、その身体を自分から引き離す。
斉藤は、観念したように、その瞳に語りかけた。
「あのね、真野、この間の事だけど…」

斉藤は引き離そうと掴んだ真野の肩から、遠慮がちに手を離した。

「私、真野に…あんな事しちゃって」
斉藤は額に手を当てながら言う。
思い出すだけで、気恥ずかしいような情けないような
そんな気持ちを表す表情を、隠しながら続けた。
「あの時、私…止められなくて…本当に悪かったと思ってる
 でも、あれでわかったでしょう?私が何考えてるか…
 こんなふうに同じ布団で、一緒に寝る事なんて出来ないんだよ」
言い終えて、斉藤は真野の顔に視線をやる。
驚くほど強い眼差しが、自分を見つめていた。
「わからない」
「え?」
「わからないよ、斉藤さんの考えてる事
 ちゃんと言ってくれなきゃ、わからない」
真野の言葉に斉藤は狼狽えを見せる。
こんなふうに問い詰められる事など考えてもいなかった。
「そんな事…」
「そんなの言わなくてもわかる事だって、私も思ったよ
 私達は大人で、確かめ合わなくても大丈夫って…
 でも、大人になんかなれない
 私はちゃんと、斉藤さんの気持ち知りたい」
それは、斉藤が本当の気持ちを言葉にするしかないのだという事を伝えていた。
斉藤の逃げていた答えにこそ、真野の望むもの全てが存在した。
それはもうとっくに、出ている答えでもあった。
「真野が…」
一呼吸ついて、その名を口にする。
その先を、真野に伝えらなければならなかった。
もうこれ以上逃げる事など、許されなかった。
真野は、斉藤の手を握って、その先の言葉を待っている。
その重たさを恨むように、唇を何度も噛み締める斉藤。
人生でこんなに勇気を必要とする事を知らなかった。
後にも先にもない緊張の中、ようやく斉藤の想いは解き放たれる。


「好きだよ」
途切れてしまいそうな精神を辛うじて繋いで、想いを舌に乗せた。
その視線で、しっかりと真野を捉える。
涙を堪えるように、顔を歪ませる真野が斉藤の目に入った。
「愛してる…?」
問いかけた真野の言葉に、斉藤は胸は揺さぶられる。
だが真野の目はとても真剣で、恥ずかしがる斉藤をからかうつもりなどなかった。
斉藤は観念したように、赤らむ頬に耐える。
そして、真野の目を見て、生まれて初めての言葉を口にした。
「…あいしてる」
言い終えて、斉藤はグッと強く瞳を閉じる。
自分が口にした言葉が、目頭を熱くさせているのを感じていた。
そんな斉藤に腕を伸ばし、真野は何も答えないまま抱きしめた。
斉藤は何かを堪えるように、その身体を力一杯抱きしめ返すだけだった。


「私ね…」
ふいに口を開いた真野を覗き込むように、斉藤は少しだけ身体を離す。
真野はこれ以上ないほど顔を近く寄せて、言葉を続けた。
「あの時…本当は嬉しかったの
 斉藤さんが、私の事、求めてくれて…」
恥ずかしそうに、だが嬉しそうに言う真野を見て、斉藤は胸が熱くなるのを感じた。
胸が熱いのは真野も同じで、それは斉藤と出逢った日から褪める事などなかった。
「でも、怖くなった…もっと一緒になれるって思った時、いつか」
そこまで言うと、真野の声は涙で掠れていった。
「いつか何もかも失くしてしまうんじゃないかって…」
「そんなのっ…」
斉藤はむきになったような顔をして、否定する。
二人の間にそれを誓えるものが何もないのだという事も確かだった。
そんなふうに不安にさせていた自分が、不甲斐なくて、斉藤はたまらなかった。
「私は真野と…」
続けようとした斉藤の唇に真野は人差し指を添えて止める。
今度は真野が斉藤に想いを伝える番だった。


「私は、母親だし、それは変えられない…
 斉藤さんも同じだって事もわかってる」
少し俯いて言うのは真野の罪悪感からであった。
だがそんな罪悪感や躊躇いを凌ぐ気持ちが確かに存在していた。
「だけど、斉藤さんを好きだって気持ちも変えられないの
 …きっと一生、変えられない」
真野の左手の薬指から、指輪を見なくなったのは、もうずっと前からの事だった。
そして斉藤も、いつからか外すようにしていた。
「勝手だってわかってる…でもっ
 ずっと斉藤さんに……そばにいて、ほしいの…」
真野は涙声で、斉藤にしがみついて言った。
斉藤は真野を受け入れるように抱きしめ、その髪を撫でた。
涙を流したままの顔で、真野は顔を上げる。
指でそっと雫をぬぐいながら、その額に口付けた。
「ずっと、黙っててごめん…」
斉藤は、自分の中の答えからずっと逃げていた。
それでも真野はずっと、その答えの向こう側まで考えていてくれたのだと
そんな真野の愛情が、痛いくらい愛おしく思えた。
斉藤は真野の左手を手に取る。
「一生、そばにいる」
その薬指に口付けて、斉藤は永遠を誓った。
斉藤の言葉に、真野の涙は止まらなくなり、流れては落ちていく。

それから長い時間、二人は抱きしめ合うだけだった。
お互いが愛しくて愛しくて、たまらなかった。
その想いが、今までで一番高鳴った瞬間、真野から斉藤に顔を寄せた。
「キス、して…」
真野の言葉に、斉藤の胸には動悸が広がる。
戸惑いながら、触れるだけの甘い口付けで、真野の唇を塞いだ。
程なくして唇を離すと、斉藤と真野の視線は重なる。
その瞳は、情熱に揺れていた。
「こないだみたいに…してほしい」
懇願するように言う真野を見て、斉藤は拳を握る。
斉藤の鼓動は、引き返せないところまで高鳴っていた。
それは真野も、同じ事だった。
「いいの?」
斉藤の問いかけに、真野は静かに頷く。
斉藤は真野の髪を耳にかき上げながら
その唇に、ゆっくりと自らの唇を重ねた。

斉藤は、真野の顔にかかった髪をゆっくりとかき上げる。
確かめ合うように視線を交わし、その唇を自らの唇で塞いだ。
最初は、先ほどと同じように、そっと触れるだけの口付け。
それが少しずつ熱を帯び、斉藤は真野の唇をついばんでいく。
真野もそれに応えるように、斉藤の唇を求めていった。
「はぁっ…」
酸素を求めて、真野が唇を開いた一瞬を、斉藤は逃さなかった。
待ち尽くした舌は真野の口内へと侵入していく。
真野もそれを待ち望んでいたように、その舌を迎え入れた。
自由にならない呼吸の中、二人の舌は絡み合う。
斉藤は以前そうしたより更に深く、執拗に真野の口内を舐め回した。
真野は奥深くまで舐られる感触に、段々と力が抜けていくのがわかる。
そんな感覚から耐えるように、腕を伸ばし斉藤の身体にしがみつく。
絡め取られた舌を必死に捩じらせ、一旦引き離すと
再び自分から、斉藤の舌に纏いつくのだった。
そんな一騎打ちを幾度も繰り返していったが
やがて真野は防戦一方となって、攻め立ててくる斉藤の唇に全てを委ねる。
しがみつく事しか出来なくなった真野に応えるように、斉藤はその身体を強く抱きしめ
二人の間を隔てるものは、柔らかな布地だけとなった。
斉藤は耐え切れなくなったように、唇を重ねたままその身体を押し倒す。
「真野…」
一旦唇を離した斉藤は、確かめるように視線を交わし、その名を呼んだ。
布団に沈んだ拍子に乱れてしまった真野の髪を、指先で弄びながら梳いていく。
髪を撫でられる感覚に、真野の緊張は解け、力が抜けていくのがわかった。
二人は見つめ合いながら、とても大切な瞬間を迎えているのだという事を自覚していた。


斉藤は自らの衝動に追い立てられたように、真野のパジャマのボタンに手をかける。
それを一つ、外しただけで、鼓動が早鐘のように高まっていくのを感じていた。
二つ目のボタンを外そうとした時、たまらずにその唇を塞ぐ。
「んっ」
咥え込まれるように密着された唇に、真野は戸惑いつつも応えていく。
その中で更に激しく蠢いていく斉藤の舌と防戦しているうちに
上着のボタンは全て外されてしまっていた。
露わになった肌が、直接外気に触れている感覚に
真野は口付けながら恥ずかしさを覚える。
斉藤は唇を離して、その素肌を覗き見ようとしたが
それを妨害するように、今度は真野の方から斉藤の唇を求めていく。
しかしいくら真野が斉藤の視線を阻もうとしても
斉藤は口付けたまま、その手の平で貪欲に真野の身体を求めていくだけだった。
「っ…」
斉藤の指先が素肌をなぞっていく感覚に、真野は敏感に反応する。
恥ずかしさに、顔を熱くしているのが口付けているそこから伝わってきた。
同時に絡ませてくる斉藤の舌に、真野は応える事すら出来なくなっていた。
やがて柔らかな膨らみに辿り着いた斉藤の手の平は
その膨らみに沿ってゆっくりと撫で回していく。
それは斉藤が初めて知る、真野の胸の温かな感触だった。
これ以上に愛しい感触を、斉藤は後にも先にも見つけられるわけはなかった。
そんな愛しさに任せて、斉藤は触れている指先を、その場所で大胆に滑らせていく。
塞がれた唇の隙間から、真野の吐息が少しずつ漏れていくのが聞こえた。
それは何より、斉藤を甘い情欲へ駆り立てるものに変わるのだった。
「見せて…」
斉藤は唇を離し、真野の瞳を覗き込む。
真野の腕は斉藤の首筋に縺れていて
真野は恥ずかしさにその腕を解く事が出来ずにいた。


「真野の身体が、見たいの」
その言葉だけで、耳まで上気してしまうのがわかる。
それは斉藤も同じで、赤らむ頬に耐えながらも、真野を求めていた。
真野にとって、確かにそれは悦びと言える事だった。
真野は観念したように、その腕を解く。
斉藤は、真野の身体に覆い被さっていた上体を起こすと
真野の素肌をじっくりと見下ろした。
押し寄せてくる羞恥心を堪えるように、真野は目を瞑った。
「きれい…」
斉藤は、その白い肌に魅入られ、自然と言葉が漏れてしまう。
その言葉に真野が恐る恐る瞳を開くと
気恥ずかしさを隠せないでいる斉藤と目が合った。
「お、お世辞じゃないから」
焦って、付け加えるように言った斉藤に、真野の恥ずかしさは更に増した。
だが、わざわざそんなふうに言ってしまうところが
とても斉藤らしく、愛おしく想えるのも確かだった。
「ふふ」
「なに、笑ってんのよ」
「だって斉藤さん…」
―すごく私の事すごく好きみたいなんだもん
その身体を引き寄せ、斉藤の耳元に真野は小さく呟いた。
再び顔が熱くなるのを斉藤は感じたが、気恥ずかしさより愛しさの方が勝っていた。
「好きだよ」
斉藤は真剣な眼差しでそう応える。
これほど口の重たい台詞はないと、先刻まで思っていたが
斉藤は何度でも、それを伝えたい気持ちになっていた。


合図を交わすように、再び唇は触れ合う。
そして斉藤の唇は降りていき、真野の首筋に口付けていく。
跡がつかないように、ゆっくりと白い首筋を唇でなぞっていった。
そんな小さな刺激でも、真野を高ぶらせるには十分だった。
斉藤の手は断続して真野の柔らかな膨らみを弄んでいる。
手の平に当たる先端の鋭くなった感触はもうずっと前から感じているものだった。
斉藤は指先を使って、それを捉える。
「んっ」
斉藤が、その突起をゆっくりと指で転がしただけで
真野には全身を揺さぶられたような感覚が走った。
構わずに突起への愛撫を繰り返す斉藤の唇は
真野の鎖骨をなぞり、その吸い付きは跡をも残すようになっていた。
それを拒む力も理性も、真野には既に残されていない。
斉藤の耳に届く吐息は、確実に忙しくなくなっている。
それに合わせて、自分の呼吸も荒くなっている事を斉藤は感じていた。
不思議と、そんな自分に嫌悪感も羞恥心も感じる事はなかった。
この欲情は、真野の愛しさから溢れ出るものだと、確信する事が出来たからだ。
「斉藤さん…」
艶めいた声で名前を呼ばれ、斉藤も応えるように呼び返す。
愛撫は続き、時には舐め上げるように、素肌への奉仕を繰り返した。
降りてくる唇を胸元に感じた時
真野はそれを受け入れるように斉藤の頭を抱きかかえる。
「あっ…」
胸へ何度か口付けた斉藤は、そっとその先端を口に含む。
その時、真野の口から初めてはっきりとした喘ぎ声を漏れた。
耳元に届いたその声に、斉藤はこれ以上ないほどの疼きを覚える。
その疼きに委ね、まるで深い口付けをするように
咥え込んだ固い頂を舌先で擦り、味わい尽くした。


「んっ…んぅっ…」
真野は口元に手を当て、斉藤の愛撫に耐えるように声を抑える。
しかしそれが意味を成さなくなるほど、斉藤は愛撫から愛撫を繰り返した。
真野の二つの膨らみを、交互に弄び
そのどちらもふやけてしまうほどに、何度も何度も舐り尽くした。
空いた手の平は、真野の身体をまさぐり、翻弄し続けている。
脇腹を通り、腰を擦る。
パジャマの上から太ももをなぞると、再び下腹部に戻ってくる。
そして避けて通っていたその場所に、ゆっくりと手の平が押し当てられた。
「やっ!」
真野は声を上げると同時に、一際鋭いひくつきを見せた。
その反応は自然と言えるもので、一番敏感な場所を
一番大切な人が触れる感覚に、恐れを感じていたのだった。
「いや?」
斉藤が覗き込むように尋ねると、真野は顔を真っ赤にして黙り込むだけ。
恥らう真野が、斉藤には愛しくて愛しくてたまらなかった。
真野の恐れを解くように、斉藤は更に甘い口付けを贈る。
口付けに没頭している内に、再び右手で真野の秘所を探し当てるのだった。
布地越しでも、その場所で疼き切っている熱を感じ取る事が出来る。
その熱をくべるように、斉藤は押し当てた手の平をゆっくりと動かしていった。
「ふぁっ…んっ、んっ…」
重ね合わせた唇から、真野のくぐもった喘ぎが響く。
斉藤はそれを更に耳にしたいと望み、その唇を開放した。
だが斉藤の望みに相反するように、真野は唇を指で押さえる。
「だめ、聞かせて」
真野は斉藤の言葉に逆らえなくなったように、すんなりと口元から手を離した。
斉藤は、征服感に似た悦びに駆り立てられていた。


「あ…」
斉藤は真野の下腹部から足元を覆っていたズボンを
煩わしく思ったように、強引に引き下ろす。
まだ腕に通されたままとなっていた上着すらも取り去り
真野の身体に纏わるのは下着一枚だけとなってしまった。
息を飲んで、その両端に手をかけると、真野はその手を押さえつけた。
拒んだのとも違う、恥らいに自然と動いてしまった手を、斉藤は優しく退ける。
そして真野の秘所を纏っていた薄い布地は、簡単に足から引き抜かれていった。
何一つ覆い隠すもののない真野の裸体全てを、斉藤は舐めるように見入る。
「そんなに、見ないで」
真野はそう言いながらも、斉藤に全てを見られているという事で
更に高ぶってくる興奮を、確かに感じ取っていた。
そんな興奮の波の中で、もがくように、斉藤の着ていた寝衣の裾を握る。
「斉藤さんも…」
真野の訴えかけるような視線の意味を、斉藤は一瞬で感じ取る事が出来た。
斉藤は黙って自らの服に手をかけ、それを脱ぎ捨てる。
あっという間に、真野と同じ、生まれたままの姿になった。
真野がその身体を見入る隙はなく、斉藤は自らの身体を真野に密着させた。
直接伝わってくる斉藤の肌の温もりに、真野はそれだけで果ててしまいそうだった。
それは斉藤も同じで、真野に触れている素肌全てで
真野を支配し、快楽に溺れさせたいと思っていた。
そうした欲情のままに、斉藤は改めて真野の全身に愛撫を加える。
素肌を執拗に舐め回しながら、斉藤の右手はゆっくりと足元を彷徨っていく。
少しずつ近づいてくる手指に、耐え切れなくなったように
真野は身を捩るようにして太ももの内側を擦らせる。
そこは確実に斉藤の指先を待ちわびていた。
斉藤も自然に真野の望みを感じ取り、自らの欲望と共にそれを叶えるのだった。


「あぁっ…!」
斉藤の手指が、真野の一番敏感な場所へようやく辿り着く。
真野は一際甲高い声を上げて、身体を仰け反らせた。
その指は、まだ秘所の表面を押さえつけただけだったが
真野の身体にはそれだけで凄まじい快感が走っていた。
その証拠に、既に潤い満ちていたその場所からは
快楽の証が更なる勢いで溢れ出してくる。
斉藤は指先を水底の奥深くへと忍ばせ、纏わりつく粘液の感触を愉しんだ。
「あっ…あっ…」
敏感な粘膜で蠢く指先に、真野の喘ぎは確実に増していた。
斉藤は欲情のままに花弁を押し開き、何度もその場所で指を行き来させる。
その間にも、唇は真野の素肌への口付けを繰り返していた。
真野の秘所に触れている指先から、更なる欲情が斉藤に押し寄せてくる。
唇は何度目かの胸への愛撫に移り、更に固く尖っていく先端に舌を這わせた。
「あんっ…はぁっ…」
唇と同じように指先も、秘唇で一番敏感な突起へと辿り着く。
斉藤は行き来させていた指を止め、断続的にその頂を指の腹で撫で回す。
「やっ…あっ…あぁっ…」
真野の中で耐え切れないほどの快楽が押し寄せ
その波に堪えるように、斉藤の背中へ手を回す。
撫で回された突起は更に猛りを増して、斉藤の指に応えていた。
確かめるように斉藤は泉の中心へ指を這わせる。
そこはもう溢れ返った愛液が大腿を伝って、布団まで流れ落ちていた。
斉藤はそれを掬って、再び真野の頂をこね回す。
「んっ…んぅっ…あんっ…」
先ほどより滑らかに蠢く指先は、更に動きを速め
真野は頭を振って、斉藤の与える快楽に耐えていた。
淫らな水温がひっきりなしに二人の耳に響く。


「さい…と…さっ…」
真野は胸から腹部まで降りてきている唇を感じていた。
その心は、期待と不安におおいに乱れる。
「だめっ…」
真野の反応に構わず、斉藤はその場所に唇を寄せた。
「あぁん…!」
唇を這わせ、その花弁に沿うように、じっくりと舐め上げる。
斉藤が初めて味わう、秘所の味だった。
愛しい人の、一番深い場所から溢れ出るその雫に、斉藤は眩暈がするほど夢中になる。
真野も、初めてその場所に感じる舌の感触に
羞恥心すら忘れ飛ぶほどの性感が背筋まで駆け巡っていた。
足の間から響いてくる水音すらも、悦楽を増大させるものへと変わった。
斉藤はその雫を舐め取るように、舌を上下させては、飲み干していく。
斉藤にはそれがいやらしい事とは思えなかった。
いやらしさなど、愛しさを越えられない言い訳にすぎないと思えた。
もっと感じさせたい、もっと感じたいという渇望を満たすのに
これ以上に自然な行為はないとすら感じられた。
真野は何かに縋るように、足の間に顔を埋める斉藤の頭に手を伸ばす。
それは斉藤を抑制しているのか、逆に押し付けて、更なる性感を求めているのか
津波のような快楽に身を委ねた真野にはどちらなのかわからなかった。
「あっ…あぁぁっ…!」
真野の喘ぎは悲鳴に近いものへと変わり
いくら飲み干しても更なる勢いを増して溢れ出る証が、その限界の近さを告げていた。
「真野、気持ちいい…?」
斉藤はこのタイミングで、わかり切ってるだろう事を尋ねる。
理性も何もかも快楽に委ねた真野は、ただ素直に答えるしかなかった。
「きッ…あっ……きもちいぃッ…さいとぉさんッ…」
真野は顔中を赤らませ、瞳は潤んでしまっている。
何度も身悶えて、自分の愛撫に応える真野を、斉藤は目に焼き付けた。
―きっと一生、忘れない
この先何度でも、その身体を愛したいと、愛すだろうと、斉藤は未来を望み描いたが
今訪れている初めての瞬間が、人生で一番記憶に刻まれるだろうと、確信した。


「私…こんなに誰かを可愛いと思った事ないよ…」
斉藤は、上体を再び真野の高さまで起こし、その身体をきつく抱きしめる。
「さいとっ…さん…」
真野は斉藤の言葉に何か答えようと、その名を呼ぶが
唇の代わりに続けられていた指での愛撫に、うまく言葉を紡ぐ事が出来ない。
もどかしいように、口付けを求める。
その唇を塞いだ斉藤には、真野の気持ちが十分伝わってきていた。
そして情熱を込めて、真野を快楽の最たる境地まで誘っていく。
「あぁっ…もぉッ…わたしっ…」
指先がこれ以上ないほどの速さで、一番敏感な頂を擦っていくと
斉藤の身体を抱きしめ返す腕の力が、痛いほどに強くなる。
斉藤にはその痛みすら、愛おしかった。
「真野…」
荒い吐息を込めながら耳元で何度もその名を囁いて
一際高ぶり押し寄せてきた情欲のままに、斉藤は指先を猛々しく掻き回した。
「あっ…あんッ…はぁぁッ……あぁぁぁっッ…!」
真野は甲高い声を上げ、背筋まで昇る快楽に身体を仰け反らせる。
全身が痙攣したように小刻みに震え
抱きしめられた斉藤の背中にも、それは伝わってきた。
「斉藤…さん…」
余韻の冷め遣らない荒い呼吸で、真野はその名を呼ぶ。
「愛してる…」
瞳から涙を湛えてそう呟く真野に、斉藤は情欲以上に胸を熱くするものを感じた。
それは目頭すらも熱くし、斉藤は堪えるように、ただ黙って頷く。
そうして互いを求めるままに重ねた口付けは、今までで一番甘美なものとなった。
真野は生まれて初めて得る、一番大切な人の腕の中でまどろむ幸せを噛み締めると
やがてその温もりに意識は遠のいていった。
眠りに落ちる寸前に、無意識に呟いた「幸せ」という言葉を、真野は覚えてはいない。



それから二日後、二人は子供達の卒園式を無事に迎えていた。
式は終わり、緊張の解けた空気の中
真野は先生方や他の保護者達との挨拶を済ませ、教室の外へ出る。
「斉藤さん、写真とろー!」
早咲きの桜が舞う中、校庭で息子達を見守っていた斉藤に声をかけた。
「写真キライなんだよ」
期待の眼差しでカメラを持つ真野に、斉藤は顔をしかめて拒絶する。
なによっ、と真野は斉藤以上に顔をしかめ、拗ねてみせた。
「しょうがないなぁ…」
頭をかきながら、斉藤は渋々、と言った感じに真野の要求を受け入れる。
見せていた真野の仏頂面は一瞬で満面の笑みへと変わった。
「ここを少し長押ししてね」
真野は近くにいた小倉に撮影を頼み、再び斉藤の傍らへ駆けていく。
宣言した通り、うまく笑う事も出来ずにピースサインを作る斉藤。
そんな斉藤に腕を絡ませながら、真野は確かな幸せを感じていた。
―絶対に、離さない
真野はこれから、小学生、中学生、いずれは成人を迎える子供の親になっていく。
恐ろしく長く、そしてあっという間に過ぎてしまう時間を、親として歩んでいく。
だが、その隣りにはずっと斉藤がいるのだ。
出逢った時から真野を魅了し、その全てを受け止めてくれた人。
図り知れない苦悩にぶち当たった時も、今まで得た以上の幸せと巡り会う時も
必ずその隣りには斉藤がいる。
記念すべき日を祝うように眩しく晴れた青空は
この先数十年続いていく二人の人生をも祝福してくれているようだった。
「さいとーさん!」
撮り終えた小倉からカメラを受け取り、真野は斉藤へ呼びかける。
斉藤は微笑んで振り返ると、真野の元へ歩み寄った。
「行こう、真野」
そう言って歩き出す斉藤を、真野は追いかける。
目の前を歩く子供達と共に、最後の帰路となる園の門へ向かった。
人目に目もくれず、真野がそっとその手を取ると
少しだけ気恥ずかしそうな表情をする斉藤が目に映る。
握り返されたその手の感触を愛しみながら
永遠に続いていく二人の未来に、真野は期待を胸一杯躍らせた。