―春、三月
まだ冬の名残が残る夜更けの事
都心の居酒屋で、すっかり飲み潰れてしまっているめぐみの姿があった。
突っ伏しためぐみの正面には料理をつまむ翔子の姿。
二人は出会って間もなかったが
尊敬し合える仕事仲間であり、心許せる友人でもあった。


「めぐさん、もう飲みすぎですよ~」
テーブルに伏せたままグラスを探るめぐみが危なっかしくて、翔子は飽きれた声を出す。
酒を共にしたのはこれで数度目の事だったが
こんなに泥酔しためぐみを見たのは初めてだ。
「いいんだよ、どぅでも」
翔子が伸ばそうとした手を力なく突っ返しながら、めぐみは投げやりに答える。
仕事以外で二人が、こんな時間まで一緒にいるのも珍しい事だった。
何故ならめぐみには、帰りを待っている“最愛のパートナー”がいるからで
仕事で帰れない日も、そればかりが気がかりで手につかないほどの“愛妻家ぶり”だった。
それだけに今日のめぐみの様子は翔子から見ても解せない。
翔子は顔色を窺うように、そっと律子の名を口にしてみた。
「りっちゃんさん、家で待ってるんでしょう?」
その名を耳にした瞬間、めぐみの表情が固まる。
確かにこんな遅くに飲んだくれて帰ったら律子は心配するに決まっていた。
「何かあったんですか?りっちゃんさんと…」
心配そうに翔子が尋ねると、めぐみの表情も少しずつ曇っていく。
「別になんもないよ…」
「ですよね!翔子の知ってる限りで
 お二人ほどラブラブなカポーはいませんよ!」
大袈裟にはしゃいで言ってみせる。
翔子にとって、二人は憧れの恋人同士そのものだった。
「ラブラブなんかじゃないよ」
「やっぱりなんかあるんじゃないですか」
翔子の問答にじれったくなって、めぐみは思わず声を上げた。
「ないってば、ほんとに…
 本当に何事もないんだよ!」
「それって…」
翔子が何か気付いたように目を丸くする。
めぐみはその視線から逃れるように、あからさまに目を逸らした。
「まだ…って事ですか?」
翔子の問いかけにただ黙り込むめぐみ。
それが肯定の意を表している事だと翔子にもすぐに察する事が出来た。
「え…でも、一緒に暮らして確かもう…」
「三ヶ月」
「ええええええええぇ」
驚きの事実に、翔子は思わず間の抜けた声を出してしまう。
「な…でもっ、キスは?」
核心に触れるような翔子の質問に
めぐみは一瞬たじろいだが、拗ねた声を出しながらも答える。
「してるよ、普通に」
「普通の?」
「そぅ、普通の…」
翔子は目を見開かせたまま、何度も頷いた。
「一緒のベッドで寝てるんですよね?」
「うん、まぁ…」
「夜、そういう雰囲気になったりしないんですか?」
「……なってるような、気がしなくもないけど
 よくわかんない…りっちゃんすぐ寝ちゃうし」
「そんなヘタレな」
翔子は、先に寝てしまう律子を隣りに
毎晩悶々としているめぐみを想像して、思わず笑ってしまった。
めぐみはこういう事では翔子よりずっと上手だと思っていたのだ。
「いいですね、純情」
「ちっともよくない」
「じゃあやっぱりそういう事したいと思うんですか」
「思っちゃ悪い!?」
「いやいや」
顔を赤くして反論してきためぐみを、翔子は慌てて宥める。
どうやらめぐみは真剣に悩んでいるようだった。
今日真っ直ぐに帰らずに翔子を誘ったのもきっと
そういう蟠りを打ち明けたい気持ちがあったからなのではないかと、翔子は察した。


「とにかく、ちゃんと気持ち伝えるべきですよ
 せっかく両想いなのにもったいない」
真剣な悩みを打ち明けてくれためぐみに応えて
翔子は自分なりのアドバイスを口にしてみる。
「でもりっちゃん…そういうの、ヤかも」
「りっちゃんさんは…私の勝手なイメージですけど
 ただウブなだけじゃないですか?」
「それは…そぅかもしれないけど」
頷きながら、口ごもるめぐみ。
いつもより小さく見えるめぐみが可愛くて、翔子は笑った。
「めぐさんいつも言ってるじゃないですか
 ガンガンに攻めまくれ!って、その意気でいくんですよ!」
翔子は大袈裟に言ってみせた。
やはりめぐみには強気でいてほしいと、それがめぐみらしいと、翔子は思っていた。
「攻め、まくる…?」
「貪欲に攻めまくるんです」
「貪欲に…」
アルコールが完全に回ってしまっためぐみは
翔子が言い聞かせてくれた言葉を呪文のように頭の中で唱えていた。


「さぁ、帰りましょう!」
一息ついて、翔子はめぐみの身体を引っ張り起こしたが
めぐみはもう一人で歩けないほど泥酔してしまっていた。
「めぐさーーーん」
二人が店を出る頃、駅の時計はちょうど0時を回ったところだった。



「めぐさん、着きましたよ」
泥酔状態のめぐみを置いていくわけにもいかず
翔子は仕方なくタクシーで帰る事にした。
翔子の自宅の通り道にある律子のマンションは
店からタクシーで10分ほどの近い場所にあった。
運転手に待っててもらうよう頼み
翔子はめぐみの身体を肩で支え、三階の部屋の前まで送り届けた。
とりあえず重いので、扉の前の廊下にめぐみを座らせる。
「いいですか?ちゃんと自分で鍵開けて入ってくださいね?」
本当はここでインターフォンを鳴らして、きちんと律子の元へ送り届けたかったが
要らぬ誤解や気遣いを与えてしまうかと考え、翔子はそのまま帰る事にした。
泥酔状態のめぐみを背に、後ろ髪を引かれる思いがしたが
後は本人と彼女に任せれば大丈夫だろうという気持ちもした。


めぐみの方は、翔子が待たせていたタクシーに乗り込み、走り去った頃になって
やっと扉の前で立ち上がった。
そばにあった鞄を手に、鍵を探してみたが
虚ろな思考の中なかなか見つけ出す事が出来ない。
じれったくなったように、自宅のインターフォンを鳴らす。
扉は数十秒も経たないうちに開き、そこには最愛の人が待っていた。
「めぐちゃん!どうしたのこんな遅くまで…」
呆けたように扉の前で突っ立っているめぐみに、律子は声をかけ玄関へ引き入れる。
「ただぁーまー」
めぐみの上気した頬と、呂律の回っていない声を聞いて
酔っ払っているのだと律子はすぐに理解出来た。
「誰かと、飲んできたの?」
めぐみから、遅くなるというたった一言のメールを受け取っていた律子は
何故だかとても心配で、いつもなら床についている23時を回っても
パジャマに着替える事なく、ただめぐみの帰りを待ち続けていた。
その間めぐみが誰かと過ごしていたという事実に無性に寂しさを感じてしまう。
「誰かと…誰と…えぇっと…?」
めぐみは律子の問いに答えようと、懸命に頭を巡らせてみたが
先ほど別れたばかりの翔子の事をすっかり忘れてしまっていた。
だが、思い出せない代わりに一言
呪文のように呟いたあの言葉が頭の中に浮かぶ。
「どんよくに…せめる…」
「え?」
律子が聞き返した時、その身体は既に抱きすくめられていた。


「め…めぐちゃん?」
呼びかけてもめぐみの口から返事はない。
この沈黙に、律子は言いようのない恐怖感を覚えた。
「…ッ!」
めぐみが一瞬身体を離し、律子がその顔を覗き込もうとした時
律子の唇は、めぐみのそれで塞がれてしまっていた。
「んっ」
それは二人の間に一度も交わされた事のない、焼けるほどの熱い口付けだった。
唇を無理やりこじ開けられ、めぐみの舌が律子の口内に入ってくる。
アルコールで満たされためぐみの吐息が唇から直接伝わり
律子の身体まで、酔ったように熱を帯びてきた。
「んぅ…」
律子は初めての感触を味わう間もなく
奥へ奥へと侵入し口内の全てを舐っては掻き回してくるめぐみの舌に
ただひたすら翻弄された。
「ん…んんっ…」
唇を啄ばまれる度、力が抜けていくのがわかる。
めぐみに与えられる刺激に、律子はもう立っているのもままならない状態だった。
「ぁっ…」
めぐみは口付けたまま、抱きすくめた律子の身体を撫で回し、慈しんだ。
右手はいつの間にか律子の胸にあてがわれ
左手で腰からその下にかけて焦らすように行き来する。
「やっ…」
めぐみの手に敵わなくなったように律子はその場でひざをついてしまった。
顔を伏せ、ただひたすら乱れた呼吸を正す。
そんな律子を覗き込むように、めぐみもひざをついた。
律子が顔を上げると、二人は視線を交わす。
律子の見ためぐみの瞳の奥には、熱い炎が灯されていて
初めて目の当たりにしためぐみが、怖ろしくもあり、愛おしくもあった。
めぐみは何も言わずに再び律子の唇を塞ぐ。
その手は再び律子の身体を求めていった。
「だ…め…」
めぐみに触れられる感覚に耐えながら、律子は無意味な言葉で抗ってみせる。
そんな律子にめぐみは構わない。
寄せてくるめぐみの肩を押さえようと伸ばした律子の両手は
めぐみの両手によって拘束されてしまった。
「きゃっ!」
めぐみはその手を押さえつけたまま、力ずくで律子の身体を押し倒す。
律子の背中まで伸びた髪が床に広がる。
その身体に覆い被さっためぐみの髪は律子より長く
仰向けになった律子の身体に降りかかってきた。
めぐみの口付けで灯された律子の中の炎が
呼吸と共に広がっていくのがわかる。
目の前のめぐみと、それを求めてしまっている自分が怖かった。
「りっちゃん…」
初めて耳にする、めぐみの熱っぽい声。
そんな声で名前を呼ばれただけで、律子の鼓動は勢いを増して高鳴った。


めぐみは律子の手を押さえつけたまま、口付けを繰り返す。
何度も何度も舌を絡ませる内、律子からもめぐみの唇を求めるようになっていた。
それがわかると、めぐみは手を離し、再び律子の身体を服の上から撫で回す。
「ぁっ…」
めぐみの唇は律子の首筋へと移っていき
開放された唇からは淡い吐息が幾度となく漏れていった。
白い首筋にいくつも赤い痕を印しながら、ブラウスのボタンを外していく。
空いた左手は律子の胸を揉みしだいた。
「めぐちゃんっ…」
わずかに残された理性で抗おうとする律子を、めぐみは再び力ずくで抑えつける。
唇は露わになった胸元まで移っていた。
「だめっ…やめて…!」
降りてくるめぐみの唇に耐えるように、律子は声を上げた。
その瞬間、律子の素肌からめぐみが唇を離した。
立ち込める安堵と不安。
めぐみは顔を上げ、律子の瞳に語りかけた。
「ほんとうはずっと、こぅしたかった…
 ずっとりっちゃんに触りたかったッ…」
めぐみの声と、言葉と、瞳から、息が止まるほどの熱情が伝わる。
「めぐちゃん…」
律子にはもう、抗う術は残されていなかった。


再び交わされる口付け。
律子はなすがままになりながらも、めぐみの背中へ手を回した。
めぐみは更に大胆になって、手を進める。
ボタンをほとんど外されたブラウスは律子の肩まで露わにしていた。
胸を覆い包む下着の紐を、めぐみは肩から外していく。
律子は恥じらいから耐えるようにめぐみにしがみついた。
心から身体から、めぐみの全てを求めているのだという本当の想いを
隠し通す事など出来やしなかった。
肩から胸元に口付けながら、めぐみは律子の足の間に手を伸ばす。
「あっ…そこは」
その場所がどうなっているか、律子は自分でもわかっていた。
めぐみの指先がそこへ辿り着くのを本当は待ちわびてしまっていた事も。
自らの情欲に抗う事も出来ず、律子はそれを受け入れた。
「あッ…」
右手を律子のスカートの中に差し込み、めぐみは下着越しからそこに指先を押し付ける。
触れたそこから律子の蜜が沁み出し、めぐみの指先を濡らした。
「あっ…ぁっ…」
その場所で執拗に行き来を繰り返すめぐみに、律子の喘ぎは増す。
素肌に埋めていた顔を上げると、めぐみは律子の顔を覗き込んで来た。
「めぐちゃん…っ…」
触れられながら、悶える素顔をめぐみに見つめられ
律子は恥ずかしさに顔が熱くなるのを耐えていた。
そんな律子の顔に、めぐみは更に顔を寄せて言う。
「愛してる…」
囁かれ、唇を塞がれる律子。
零れた涙が心をも濡らし、このまま一つになりたいと、ただ願った。


確かめるように、めぐみは再び律子の身体を両手で包み込む。
何も言えない代わりに、律子もその背中をただひたすら抱きしめ返した。
律子が抱きしめる腕に力を込めると、反比例して、めぐみの力が少しずつ抜けていく。
そうしていつの間にか、ぴくりとも動かなくなってしまった。
まさかと思いながら律子は、めぐみの顔を覗き込む。
「めぐちゃん…?」
律子の呼びかけに、めぐみは規則正しい寝息を立てるだけだった。
ぐったりとした身体の重みが律子の全身に伝わってくる。
めぐみの身体を傍らに置きながら、上体を起こすと
律子は高鳴る呼吸を押さえ、乱れた着衣を時間を戻すかのように正していく。
目の前で熟睡している彼女を眺めていると、全てが無かった事のように思えた。
だが素肌に明らかに残るのは、めぐみの唇と指先の感触。
そして身体の火照りは鼓動と共に押さえようのないものだった。



「んっしょ…」
自分より背丈の高いめぐみの身体を、肩で支え寝室まで運ぶ律子。
力の抜けためぐみを運ぶのは華奢な律子には大した重労働だった。
「んー!」
めぐみの身体と共に律子はベッドに倒れ込む。
熟睡しためぐみは正体なくシーツに沈むだけだった。
横になったまま、めぐみの方へ顔を向ける律子。
あどけない寝顔が、律子に向かって寝息を吐いている。
「…っ」
再び胸に蘇ってきた熱を遮るように、律子は上体を起こすと
二人の足元にある毛布を捲り上げ、めぐみの身体に被せた。
毛布に入っためぐみは、温もりに眠り落ちたまま、気持ちよさそうに笑った。
律子にとって、可愛く、愛おしかった。
―めぐちゃん
再び身体を横たえ、律子はめぐみの顔を覗き込む。
先ほどまでの行動が嘘のように、子供のような寝顔を見せるめぐみ。
それでも律子は、あの全てを無かった事になど出来やしなかった。
あの瞬間に灯されてしまった炎は、まだ律子の中で確かに燻っていたのだ。
―ずっと、りっちゃんに触りたかった
律子はめぐみのあの言葉を思い返していた。
あの時、そう囁かれた時、律子は初めてめぐみの抱えていた気持ちを知る事が出来た。
―あんなふうに、求めてくれていたなんて…
今までずっと気付かずにいた自分が情けなく、恥ずかしくもあった。
何より、自分自身の気持ちにまで気付かずに、律子は今日まで過ごしてきたのだ。
「めぐちゃん…」
囁くように、そっとめぐみの名を呼びかける。
めぐみの寝息がかかるほど近く、律子は顔を寄せていた。
頭の中で“こんな事をしてはいけない”という理性が確かに働いていた。
だがそれを遥か凌ぐほどの情熱が、そこにはあった。


目を覚まさないめぐみの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
そして唇を離した律子は、自らの下腹部に手を伸ばし
下着の中に指を忍ばせていく。
指を伸ばしたそこも、布地も、ぐっしょりと濡れてしまっていた。
高まる鼓動に身を委ね、一気に下着を脱ぎ捨てる。
再びスカートの中に左手を差し込むと、露わになった陰唇に手を伸ばした。
「んっ…」
指先が触れた瞬間、全身が震える。
声を出さないように、空いた右手で唇を押さえた。
愛撫を待ちわびて充血した蕾に、人差し指を這わせると
程なくして呼吸が荒くなってしまう。
「はぁ…はぁ…ぁっ…」
自分でも抑えようもないほど高まる興奮に、律子は翻弄されていた。
指先の反復は意識を通り越して、段々と速くなって来る。
「あっ…めぐちゃんっ…!」
思わずめぐみの名を呼んでしまった。
律子がその顔を覗き込んでも、めぐみは深い眠りの中から覚める様子を見せなかった。
愛おしげに、右手をめぐみの左手に伸ばしていく。
―もし、あのまま…
律子の秘所にめぐみの熱い指先の感触が思い出される。
“あのまま抱かれてしまいたかった”という自分の本心に、律子は気付いていた。
めぐみに触れられる事を、心の底から求めていた。
「あっ…あぁっ…」
右手でめぐみの手を握りしめながら左手は指淫を続けていた。
めぐみに触れられているつもりで、律子は指先を動かしていた。
自由になった唇からは嬌声が幾度となく零れていく。
めぐみを起こさないように、と声を抑えようにも
その内で迸る興奮は、理性など微塵も残さずに律子を乱していた。
耳に響く、淫猥な水音も、律子の快楽を増長させるものへと変わっていく。
「めぐちゃん…めぐちゃんっ…」
忙しなくなる呼吸と共に、やがて限界は近づいてくる。
身体の全てで、心の全てで、めぐみを求めていた。
「…りっちゃん」
めぐみのその声に驚いて目を見開く律子。
それはただの寝言で口にした言葉だったが、律子を絶頂へと導くには十分なものだった。
「あっ…あぁッ……めぐちゃんッ…!」
指先で蕾を押し当てたまま、めぐみの手にしがみつくようにして律子は果てた。
全身から足先まで痙攣のように震え、律子の頭は真っ白になりながらも
目の前のめぐみの事だけが胸を満たして溢れていった。
「はぁ…はぁ…」
呼吸を整える律子の瞳から、涙が溢れて零れ落ちた。
再びめぐみの顔を覗き込む。
恥ずかしさや罪悪感、自分自身への戸惑いが立ち込めて胸に詰まり
その全てはめぐみへのどうしようもない愛しさに押し流された。
心から、めぐみを愛している事
わかるのはそれだけで、そのたった一つの答えに、律子は縋るしかなかった。
「めぐちゃん…」
涙を拭いながら、めぐみと同じように自分も毛布に入ると
律子は夢も見ずに眠りに落ちた。
起きている現実にこそ、夢のような愛が存在していたのだ。

―私はきっと、寂しかったんだ
  私より先を行く背中にずっと、振り向いてほしかったんだ


この気持ちに気付くまで、遠かった。とても長い時間が、かかった。


下駄箱の前で小百合を待ちながら、私は情けなくひざを抱いていた。
校門の前の時計は四時半を指そうとしている。
いつもなら二人で駅へ向かっているはずの時間だ。
「美月先輩に用があるから、今日は先に帰っていて」
授業が終わって、小百合に帰ろうと声をかけた瞬間、返された言葉。
美月先輩とは、小百合がお気に入りにしている三年生の事だ。
私にはわからないが、周りのクラスメイトには皆それぞれ“お気に入り”と呼べる先輩がいた。
短い高校生活の貴重な二年間を、擬似的な色事で潰してしまうのは勿体無いと思わないのか
彼女達の気持ちが理解出来ない私は、冷淡にもそんな事を考えていた。
その素気なさは、美月という上級生への無自覚な嫉妬から生じたのかもしれない。
小百合が先輩の事ばかり話すようになったのはいつからだったろう。
その度に私は心の中で剥れて、拗ねた気持ちを胸に隠してきた。
小百合が何を口にしても、いつもと変わらない笑顔で通してみせた。
楽しげに先輩の話をする小百合の笑顔を、壊したくなかったからだ。
友達が楽しそうにしていると自分も嬉しい、私の思考は友情に忠実であったと言える。
それは、誰かには誉めてもらえる事なのだろうか?
けれど私は素晴らしい友人だと称えられる為に、自分の気持ちを抑えてきたわけじゃない。
この気持ちが何によって生まれるものなのか、わからないほど幼くて
それを打ち明けた後に訪れる未来が、想像も出来ないほど恐ろしくて
本当にただ、幼稚なだけだった。


そういう自分に気付いたのは、今日の放課後。ついさっきの出来事。
小百合の顔を見て、わかった。
“先輩に用があるから”と言ったその表情は、凛とした強い眼差しで
でもどこか頼りなげに頬は赤らんで、この先に待ち受ける運命に挑むような
私にはそんなふうに見えた。
そして実際、その通りに違いなかった。


―告白する気だ


小百合のその瞳を見るまで、私は小百合が本気で先輩に恋しているなんて思いもしなかった。
それに気付かないほど、私は幼かった。
そんな私の幼さを知っているからこそ小百合は、先輩を想ってどんなに切ないかも
今日の決意についても“親友”である私に打ち明けたりしなかったのだ。


自分自身の頼りなさにまた、寂しさを覚えた。苛立ちも、少し。
今、無断で小百合を待ち続けているのは“鈍感な親友”の汚名を返上する為だろうか?
わからない、ただ小百合がどんな未来を歩むとしても
それを一番に見送るのは自分でありたいと望んでいた。
私にはそう望む事しか、術が残されていなかった。
三年生の階へ向かう小百合の背中を見上げながら
“行かないで”と心の内で何度も呼びかけた。
“私以外のものにならないで”そう何度も。
けれどだめだった。声にならない想いが伝わる事はない。
それがわかっているからこそ小百合は、先輩に想いを告げる決意を固めたのだろう。
私のずっと先を行く小百合を、引き止める術はもうない。
後は私の手の届かないゴールを行く小百合を、後ろから見届けるだけだ。
この時既に、私の頭の中では“小百合と先輩は恋人同士になるもの”だと思い込んでいた。
私は本当に、幼稚だ。



「藍、どうしたの?」
小百合の声が、私の背中に向かって呼びかける。
ここでこうしていたのは十分やそこら。こんなに早く小百合が降りて来るとは思っていなかった。
本当はもう少し経ってから他の学年の下駄箱に身を潜めて
小百合と先輩が帰っていくところを、こっそり覗き見ようと考えていたのだ。
けれど小百合は今、一人で私の目の前に立っている。
「さ、小百合…あれ、先輩は?」
私の問いに、小百合の視線が少し泳いでいた。
「あぁうん、用事は終わったよ」
語尾が力ない。私は何故小百合がこんなにも寂しそうな顔をしているのか、理解できなかった。
「どうしてそんな顔してるの?」
直接尋ねるしか、この疑問を解く方法はなかった。
小百合は私の無神経さに怒りもせず、ただ一筋、涙をこぼした。
「フラれ、ちゃった…から…」
私が尋ねなければきっと、小百合は笑い顔だけ見せて

私と家路までの道のりを共にしてくれただろう。
そんな小百合の強情さが悲しくて、気付けば小百合の事を抱きしめていた。



「小百合がフラれるなんて信じられない」
カウンターの窓越しに流れる人々を眺めながら、私は語気を強めて言い放った。
「どうしてそんな事、言えるのよ」
完全に乾いた瞳で、飽きれながら小百合は言葉を返す。その声はまだ湿っぽい。
下駄箱で散々に泣きはらした小百合は、私の手を引いて駅前のこの場所まで目指した。
入学してから二人が通っている古びた喫茶店だ。
少し暗めの店内に、テーブルが五つと、賑やかな交差点に面したカウンターが七席。
外を行く人々と視線が重ならない右端の二席が、私達の指定席で
学校や家では上がらない話題も、この場所だと深く話し込む事がよくあった。
「だって小百合みたいな人に好きになってもらえたら、誰でも嬉しいと思う」
小百合は笑った。
笑ってから、母親みたいな顔をして、私に語りかけてくれた。
「あのねぇ、好きって気持ちは一つしかないんだよ
 好きになってもらえて嬉しい人も、本当の意味では一人しかいないの」
言い終えて、小百合は瞳を伏せる。
その一つを失った心の傷は、今はまだ生々しい。
「じゃあ小百合には先輩一人だけなの?」
もしそうなら、それはとても寂しい事だった。
小百合の中の、たった一人を謳われる先輩が、妬ましかった。
「そうだね、今日まではそうかな
 でももうフラれちゃったから、今日でおしまい
 明日からは好きな人、じゃなくて普通の先輩後輩に戻らなきゃ」
例えすぐに気持ちを打ち消す事が出来なくても
“戻らなきゃ”と言い切る事の出来る小百合を、私はすごいと思った。
「焦りすぎ、ちゃったかなぁ」
落ち着いた声で、小百合は振り返る。
「こうしてフラれてみると、先輩の事考えたり、遠くから見つめたりして
 きゃーってなってるだけで幸せだったかもしれない
 特別にしてほしい、なんて欲を張るからこういう事になるんだよね」
「それは欲張りなこと、なの?」
好きな人に自分を好きになってもらいたいと願う事は、きっと自然な事だ。
昨日まではわからなくても、今日の私にはそれが理解出来る。
「だって本当は、楽しい事いっぱいあるんだよ
 クラスで騒いだり、友達と…藍とこんなふうに喋ったりね
 好きな人を恋人にするだけが、幸福じゃないんだから」
失敗したなぁ、と小百合は頭を掻いた。
失恋という深刻な悩みなのに、乗り換えに失敗したみたいに
あっさりと愚痴に零す小百合が可笑しくて、私は笑った。
「でもきっと、今日の事も楽しくなるよ」
笑ってそう口にした私は、やはり無神経だったかもしれない。
告白や失恋の経験もない私が言うべき事ではなかったかもしれない。
でも小百合に楽しくなってもらいたいという気持ちは、誰よりも本物だ。
きっと先輩にも、負けやしない。
「そうだね」
告白という一大事があった今日は小百合にとって朝から緊張したものだったんだろう。
小百合は私の言葉に頷くと、今日一番の笑顔を私に見せてくれた。


その日は、小百合が生まれて初めて失恋を経験した日となった。
きっとしばらくは忘れ難い日となって、小百合の胸を痛ませるのだと思う。
けれどもし、今日という日が小百合にとって大人への階段の一つに過ぎないのだとしたら
いつか想い出だけ残って、日にちなんて過去の暦だけを頼りに思い返すものへと変わる。


だけど私は一生忘れないだろう。
この世で一番大切な親友に、想いを抱いたこの日を。
いつかこの気持ちを、素直に伝えられる日が来るのだろうか?
わかるのは、二人が友情で結ばれている間にも
見つけ出せる幸せが、この先も数多く介在しているだろうって事くらいだ。
それらの多くを手にするまで、小百合と想いを通わせる事は、きっとない。
けれど年甲斐もなく未だ幼稚でいる私は
小百合の隣りに寄り添える今を、今生の幸せのように感じているのだった。

特別な月が来た。
ふたりにとって、特別の。


12月―冬至迫る夜のはじまり
行き交う人々で賑わう交差点の隙間、一人帰り道を急ぐ律子の姿があった。
華やぎ始めた街明かりの下、スタジオから駅へ向かうのは今月で数度目。
その全てが、律子にとっての憂鬱な時間となっていた。
半月前まで傍らにいた、めぐみの姿がなかったからだ。


―せっかくの12月なのに


律子の口から溜息が零れる。
そんなふうに思っていても仕方がない
一緒にいられる仕事もあれば、そうでない仕事の時もある
たまたま今月がそういう予定になってしまっただけの事だった。
だが、どんな予定になったとしても、ふたりにとって特別な暦である事は変わりない。
ふたりが出逢う前から、それぞれにとって特別であった月だが
出逢ってから一層、その大切さが増す事となった。
互いを求め合う気持ちも、それだけ増してしまうものである。


交差点の人波を抜け、また別の人波に流されながら地下へと足を運ぶ。
辿りついた改札の前で足を止めると
滞りなく改札機へ財布をかざす人々を横目に
空いた切符売り場で律儀に小銭を一枚ずつ入れていくのだった。
辿り着いたホーム。切符を買っている間に逃した電車の一本は気に留めない。
律子の頭はただ、一人の人物の事でいっぱいになっていた。


電車が去ったばかりのホームに、急ぎ足の人々がすぐにも集まっていく。
ラッシュアワーの時間帯で、数分も立っていればすぐにも次の電車はやってきた。
流されるように乗り込み、ドア側に立った律子は
ガラス越しに流れていく暗い壁をぼんやりと眺めている。
乗り換えなしで辿り着ける律子の最寄り駅より手前に、めぐみの最寄り駅があった。
「次は市ヶ谷ー市ヶ谷ー」
アナウンスの声に敏感に反応してしまう律子。
けれど手摺りに捕まった手を、自宅の最寄り駅まで離すつもりはない。
連絡もせずにいきなり逢いに行く、なんて考えは律子の頭になかった。
お互いに忙しい時期を越えて、そうしたら自然に逢えるだろうと考えていた。
それでも、ずっと期待していた。
めぐみが突然、逢いに来てくれるのをずっと。


―勝手だな私


作曲の締切に追われ、律子よりずっと忙しい時期を迎えてるめぐみが
そんな期待に応える余裕などありはしなかった。
わかっていても、めぐみの最寄り駅を素通りするのさえ律子には辛い。
扉が開き、何人かの人々がホームへ降りていく。
その時だった。
コートのポケットで振動音を響かせる携帯電話。
手に取らなくてもそれがめぐみからの着信だと律子はすぐにわかった。
扉が閉まる寸前でホームに駆け下りる。
「めぐちゃんっ…」
電話に出た律子の鼓動は、限界まで高鳴っていた。



「りっちゃんっ!」
待ち合わせた歩道橋の上に立つ律子。
めぐみは階段を駆け上がりながら見慣れた人影へ声をかける。
「めぐちゃん!」
二人の影が近づく。
めぐみは息を上がらせたまま律子の腕を掴んだ。
「はぁ…はぁ…よかった、電話、出てくれて…」
電話をかけた時、めぐみは丁度今日のノルマを終えて、夕飯の買出しに出たところだった。
しかし商店街を練り歩きながら、頭に浮かぶのは夕食のメニューより律子の事ばかり。
一目でも会えないかという淡い期待から、律子の携帯へ発信をかけた。
「呼び出してくれたら、ってずっと思ってたから」
嬉しかったと、律子は頬を染めながら続けた。
そんな律子を見て、めぐみの胸が熱くなる。
会えずにいた時より一層、会いたかった気持ちが増したように感じた。
「めぐちゃ…」
人目もくれず、めぐみは想いに任せて律子の体に腕を伸ばす。
そして強く、抱きしめた。
「逢いたかった…すごく」
めぐみの鼓動が直接伝わり、律子の胸が温かくなる。
その熱に任せて、身体をめぐみの胸に委ねると、そっと背中に腕を回した。


抱きしめ合う二人の影を何人かが通り過ぎた頃、二人は身体を離した。
名残惜しむように、互いの腕だけはしっかりと掴んだままでいた。
やがてそれも離れて、歩道橋の手摺りにもたれながら
めぐみは律子に、今日までの事を少しずつ話し始めた。
真下を走る車の数々、それを眺めながら、時折瞳を交わし
会えずにいた時間を埋めていくのだった。
「りっちゃんがいないと、だめだ」
話の中でめぐみが眉を下げながら呟く。
自分を求めてくれるめぐみの言葉が嬉しくて、愛しくて、律子は柔らかく微笑んだ。
「私だって、こんな寂しい12月は初めてだよ」
「本当に?」
律子の言葉に、子供のような瞳をして聞き返すめぐみ。
「うん…」
律子が頷くと、めぐみはくしゃくしゃに笑った。
求め合う心を確かに感じ取れる事が、二人にとって嬉しかった。



人影がまばらに通り過ぎていく中、二人の会話は続く。
互いの白い息がかかるほど近く、触れていなくても心は重なっていた。
それでも触れたいと思う衝動は、本能のように胸を燻るのだ。


―だめだ


律子は、めぐみの唇ばかり追ってしまう視線を無理やりに伏せる。
めぐみはそんな律子に構わず、気丈にも好機を窺っていた。
やがて歩道橋に立つ人影が二人だけのものになったその時
眼下に広がる交差点でクラクションが鳴り響く。
ハッと律子が顔を上げた瞬間、めぐみは強引に顔を寄せ、その唇を奪った。
「…っ!」
たった一瞬の出来事であったが、律子の心臓は早鐘のように高鳴って留まる事を知らない。
唇を離した二人は暗闇に紛れながらも、赤らんだ互いの頬を確かに見て取る事が出来た。
「めぐちゃん…」
名を呼ばれると、めぐみは照れ臭そうに笑うだけだった。
そんなめぐみに釣られて、律子の口からも笑い声がこぼれる。
自然に繋がれた手の平から、確かな温もりが伝わってきた。
こうして更に離れがたくなっていく時間を、二人は噛み締めていた。



律子とめぐみの足元を絶えず走っていく車の数々。
滞りなく流れるその光景を、時計の針のように感じる二人。
顔を合わせてから数十分が経過していた。
少しずつ夜が深っていくのを、確かに見て取れる。
「夕ご飯はもう食べた?」
別れの時間に繋がらない事を祈りながら、律子が尋ねる。
その問いに、めぐみの言葉より早く身体から鳴り響いたにぶい音。
「ふふっ」
微笑む律子の横で、めぐみは恥ずかしそうに頬を染める。
「朝から食べてないから…」
言い訳のように口にしためぐみの言葉に、律子は真顔になって声を高めた。
「もうっめぐちゃんてば…
 ちゃんと食べないとだめっていつも言ってるのに」
めぐみは肩を落とし、ごめんと小さく呟く。
続けた言葉は言い訳などではなかった。
「だって、りっちゃんのご飯じゃないと、食欲わかないよ」
めぐみの言葉は嬉しくもあり、照れ臭くさせるものでもあった。
「なにが、食べたい?」
愛しい頬へ指を伸ばし、律子は母親のように問う。
「スープが飲みたいなぁ」
子供のように答えるめぐみ。
その鼻先は寒さに赤くなり、更に幼く見える。
そんなめぐみを見て、律子は穏やかに微笑んだ。
「いいよ、作ってあげる」
律子の言葉に、めぐみの表情が一瞬にして煌く。
だがすぐにも寂しげな顔をして、遠慮がちに聞き返した。
「来て、くれる…?朝には出かけなくちゃならないけど…」
ふたりの脳裏に、翌朝の別れの光景が浮かぶ。
早朝の凍るような冷たさまでも鮮明に。
もしかしたら、今別れるよりも一層寂しさを募らせる事になるかもしれなかった。
だけど今、この手を離す事など、ふたりに出来るはずもない。
「今夜、一緒に眠れたらそれでいい…」
「…えっ」
律子が顔を赤らめて言った言葉にめぐみも頬を染め、声を細めて聞き返す。
「それって…」
目を丸くしためぐみに、律子は自分の発した言葉の率直さに気付く。
「あのっ変な意味じゃなくてっ」
「変な意味の方が嬉しい」
慌てふためく律子を他所に、めぐみは真面目な声で遮った。
律子は何と答えればいいのかわからずに
ただ頬を上気させたまま、小さく頷くだけであった。
「あははっ」
めぐみはこれ以上嬉しい事がないかのように笑って律子の手を引いた。
前を行くめぐみを見つめながら、律子の視界がかすかに滲む。
今この瞬間を何より尊いものだと、感じていた。
それは笑ってしまうほど幸せな、嬉し涙だった。


冬の夜は長い。だが、二人がふたりでいる間の時間は本当に束の間だ。
別れは寂しい。愛しいから寂しい。
けれど寂しいからこそきっと何度でも求め合える。
またこうして、引き寄せられる。


―私を呼んで
 そこにいてと言って


引かれる律子の手に、力がこもる。
振り返っためぐみは、ただ穏やかな笑みを浮かべた。
二人はただ一緒に、笑った。
「そういえば今日のレコーディングはどんなだったの?」
「そうだ、あのね」
一人なら何気なく過ぎていた一日も、かけがえのない欠片の側で思い返せば
嬉しかった事、温かかった事が自然と浮かび上がってくる。
手を繋いだ二人は弾んだ足取りで、ふたりだけの場所へと歩み出した。

「めぐちゃん…?」
その声に、めぐみが目を覚ますと
まるで当たり前な日常のように、律子は傍らにいた。


「りっちゃん…」
二人が暮らす部屋に、二人の寝室。
二人一緒に眠るベッド。二人で愛紡ぐ空間。
めぐみが着ていたのは、二人お揃いで買ったパジャマで
律子のものは側のイスに、きちんとたたまれてあった。
先に着替えた律子は、お気に入りのエプロンをして
扉の向こうから、食欲くすぐる香りを漂わせていた。


これがめぐみと律子、二人の当たり前の日常。


「めぐちゃん、どうしたの?」
律子に言われて初めて
めぐみは、自分の頬を涙が伝っていたコトに気付いた。
「あれ…」
不思議そうに涙を拭うめぐみ。
だが、その手を反駁するかのように
拭っても拭っても、涙は洪水のように溢れ出た。


「あははッどうしたんだろぅ…」
意識を無視して、止まってはくれない涙に
めぐみは笑ってごまかそうとする。
そんなめぐみを見て、律子は笑わなかった。


「どうしたの?」
その身体を抱きすくめ、律子は母親のように優しく囁く。
律子の愛おしい声と腕に抱かれて
すぐにも、めぐみの脳裏に鮮明な記憶が蘇ってきた。
「…ッ…ぅ」
凍っていた激情は、律子の温もりですぐにも溶かされてしまう。
そうしてもう、めぐみに止める術はなかった。
「うああぁんッ!」
律子の身体にしがみつき、めぐみは泣き崩れる。


「めぐちゃん…」
そんなめぐみに、律子は戸惑ったりなどしなかった。
何も云わずに、ただ抱きしめて、包み込み
めぐみの言葉を待った。


「りっちゃんの夢、見たの…とても長くて…すごく悲しい夢…」




ひたすらに泣きじゃくっためぐみを、律子は一瞬も離さなかった。
どんな涙も、傷も、見逃さないように
全て受け止められるように、めぐみの心を慈しんだ。
都合よく、今日は二人を遮る事情は何もない。
用意した朝食を、遅い昼ご飯に代えて
めぐみと律子はベッドの上で、いつまでも縺れ合っていた。


「大丈夫?」
そう何度か、律子がめぐみの顔を覗き込んで問いてみる。
「…大丈夫って言ったら、りっちゃんが離れちゃう」
幼い子供のような答えを、めぐみは返した。
その声には未だ涙が混じる。
「めぐちゃんたら…」
困ったように律子は言うが、抱きしめた腕はほどかない。
めぐみも、律子の胸に頭をうずめたまま離れなかった。


「りっちゃんきもちいい」
そう言って夢中で頬擦りをするめぐみに
律子の身体は敏感に反応した。
「あははッりっちゃん可愛い!」
からかうめぐみに、律子は顔を真っ赤にして「もう…」と小さく呟く。
けれど、やっと笑顔を見せためぐみに
律子の胸には心からの安堵が過ぎった。


―やっぱり、めぐちゃんには笑い顔が一番似合う…


目元の涙後を指でなぞって、律子はそう想った。
そしてほんの少し、罪悪感がその心に沁みた。
「……めぐちゃん、ごめんね」
唐突に、律子が謝る。
「どぅして謝るの?」
「夢の中で…めぐちゃんのこと、その…傷付けちゃったから…」
律子の言葉に、顔を上げためぐみの瞳には
本当に申し訳なさそうに顔を曇らせる律子が映った。
「りっちゃんは何にも悪くないよ、何も悪くないけど…」


律子の罪悪感を取り除こうと、口にしたつもりだったが
めぐみは、自分の気持ちに嘘は付けなかった。
「夢の中であたし、どこかでりっちゃんを責めてたかもしれない…」
「めぐちゃん…」
めぐみの方こそ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それを察した律子の胸は軋む。


「でもねりっちゃん、あたし超頑張ったんだよ?
 りっちゃんは、きっと側に居るって信じて
 すごく強くなって、いっぱい歌って、いっぱい突っ走って
 あー、あのあたし見たらきっとりっちゃん惚れ直すだろうなぁ…」
無邪気な笑顔で、少し冗談ぽくめぐみは言ってみせた。
「うん、惚れ直すね」
ふふ、と律子も笑みを湛えながら答える。


「ごめん、嘘」
「え?」
律子がめぐみを見ると、もうその顔は笑っていなかった。
「全然強くなかったよ…あたし…
 りっちゃんを信じようとして…信じ切れなくて…
 いつも迷ってた…全然ダメだった…一人で…
 一人じゃ、やれるコトは出来ても
 したいコトは、なにひとつも出来なかったッ…
 りっちゃんとじゃなきゃッ…!」
それ以上は言葉にならなくて
めぐみは再び、ただ泣くことしか出来なくなった。




「ねぇ、めぐちゃん」
めぐみが泣き止むのを待たずに
律子はその胸に抱いたまま、囁くように言葉を口にする。
「私ね、今…しあわせなの」
そう、顔を赤らめて言う律子は、本当に幸せそうだった。


「すごく…本当にしあわせ、怖いくらいに
 こんな誰かを愛したことない
 こんな素直に、真っ直ぐに、愛されたことない
 こんなにも必要とされたこと、なかった」
めぐみは神妙な顔を上げて、律子の言葉に聞き入る。
そして、濡れた頬で愛する人の涙を受けた。


「寂しかった…
 したいことしてるつもりでも
 不安で、さらけ出せなくて、本当は全部抱きしめて欲しくて…
 ずっとずっと、寂しかったの、一人で…」
いつの間にか、立場は逆転していた。
泣きながら言葉を紡ぐ律子を、めぐみは全身で抱きしめる。
たったそれだけで、律子の想いの全てを感じ取ることが出来た。


「それでも、この声がいつかきっと届くと想ってた」
「うん…届いたよ」
見上げる律子の視界には、さっきまでとは別人のように
穏やかに微笑むめぐみが居た。


「私、めぐちゃんに出逢うために、ここまで生きてきたのね」
涙声で、けれど真っ直ぐに律子は口にした。
律子の言葉に、めぐみの胸はいっぱいになる。
全てが、満たされていく。
「じゃあ、あたしはりっちゃんに逢うために生まれてきたんだ!」
めぐみは、これ以上嬉しい事はないかのように、はしゃぎながら言う。
律子は満面の笑みで腕を伸ばすと、めぐみの指とを絡めた。


「しあわせ…」
囁くめぐみに、律子がうなずく。
「やっと逢えたの、もう離れてるのはいや」
言い聞かせるように、律子はめぐみに言った。
「だからね、信じて、私は必ず応えてみせる」
繋ぐ指先に力がこもる。
めぐみはまた泣き出しそうになった。
「…わかった」
それが、二人を約束の場所へと導く、光だった。






「ねぇ!あたし達、一生一緒だよね!」
律子の身体を愛おしく抱きしめながら、めぐみは笑った。
「うふふ、二人で一つだもの、ずっとずっとね」
律子も笑って、めぐみに応えるように細い腕をその首へと絡める。
そして瞳を閉じ、それを合図にめぐみを求めると
二人は本当に、一つのかけらになっていった。

「今日はありがとう」
そう言って、玄関のドアノブに手をかけるめぐみ。
そこは律子の部屋だった。
背中を向けようとするめぐみを、名残惜しむように
律子はただ黙ってその動作を見つめている。
―帰らないで
伝えたくて、口にしかけたその一言を、言葉にする事は出来なかった。


その日、昼間から約束をしていた二人は
曲を作ったり、歌い合わせたりなどして、一日を過ごしていた。
やがて陽が落ちる頃には、歌声とピアノの音色の代わりに
他愛のない話をして笑い合う二人の声が、部屋中に響き渡る。
夕方に帰るはずだっためぐみの予定は
律子と過ごす楽しい時間に押し流され
夕食を共にし、気付けば夜の九時をも過ぎていた。
「夕飯ごちそうさまでした、ほんと美味しかったよ」
律子が用意したのは特製のカルボナーラで、それを口にしためぐみは
毎日食べたいぐらいだ、とまるで子供のようにはしゃいでみせた。
そんなめぐみに、律子はただ照れたように微笑むだけだった。
毎日一緒に食卓を囲みたい、なんて本音を
めぐみに告げる勇気が、律子にはなかった。


「気をつけてね」
今日もまた、何も言えないまま律子はめぐみの背中に別れを告げる。
扉を開けためぐみは、引き留める間もなく玄関を後にした。
振りかざすめぐみの右手が、玄関と扉の間に一瞬だけ映った。
ガチャンッ
二人を隔てる扉が、愛想ない音を立てて閉じられる。
本当は駅まで送っていくと言い出したかったが
なんとなく断られてしまう気がした。
一人きりになった玄関には、怖いほどの孤独が立ち込める。
まるでさっきまでの二人の時間が嘘だったかのように。
寂しい、と律子は心から思った。
たった今別れためぐみに、逢いたくて逢いたくて仕方ないなんて。
それが愛の魔法だという事を、律子はわかっていた。
めぐみに恋して、めぐみを愛して、起きてしまった愛の魔法だと。
鍵を閉めようとした手が、ドアノブに移る。
次の瞬間律子は、鍵を持って玄関から飛び出していた。


「めぐちゃん!」
律子はマンションの廊下を駆け抜け
たった今エレベーターに乗ろうとしていためぐみを、呼び止めた。
駆けてきた律子にめぐみは驚いて振り返る。
「りっ…ちゃん?」
不思議そうにその名を口にするが、めぐみの唇は綻んでいるようにも見えた。
「あの、やっぱり…駅まで、送ってく!」
乱れた呼吸を整えながら、口にする律子。
「だめだよ」
めぐみの答えは、律子の予感通りのものだった。
「そしたらりっちゃんの帰り道が心配だもん」
駅まで十分もかからない道のりでも
夜道に律子一人で歩かせるのをめぐみは嫌がった。
だがそのたった十分こそが、律子にはかけがえのないものだった。
「でも…」
本当はもう少し、一緒にいたいだけなのだと
いくら想っても、律子はそれを言葉に換える事が出来ない。
素直になれない自分を、心から恨めしく思う。
言葉を詰まらせ、ただ見つめ返す事しか出来なくなった律子に
めぐみは観念したように笑った。
「じゃあ、途中までね」


「涼しい…」
夏の終わりの風が、二人の間を吹き抜ける。
風で乱れる髪を整えながら、律子はめぐみと慣れ親しんだ道を歩いていた。
夜空の星も、見渡す景色も、一人で歩く時より何倍も美しく律子の目に映った。
―ずっとこのまま、隣りにいたい
短すぎる帰り道に、自然と歩くペースが遅くなってしまう。
めぐみはそれほど歩くのが遅い方ではなかったが
何も言わずに、律子の歩調に合わせてくれているようだった。
そんなめぐみの思いやりが伝わってきて
律子は嬉しさに、今過ぎていく時間を、更に名残惜しく思った。
ふと隣りの横顔を見つめてみる。
律子には、目に映るどんな景色よりも、めぐみが眩しく見えた。
出逢った時からずっと、律子にとってめぐみは太陽のような存在だった。
側にいるだけで心温められたのは、数え切れないほどだ。
律子の心に潜む、どんな影も闇も、めぐみが明るく照らしてくれた。
そしていつしか律子には、自分だけの太陽でいてほしいという望みが芽生える。
―多くを望んでるわけじゃないのに
律子が求めていたのは、たった一人の存在だった。
けれどそれは、この世でたった一人しかいない
めぐみでなくては駄目だという事でもあった。
―神様、私は勝手でしょうか?
律子の中に、その答えはない。
神様の声も、律子には聞こえない。
それを答えられるのは、今目の前にいる彼女だけだった。


律子の視線に気付いためぐみは
自分より少し背の低い彼女に、小さく笑いかけてみせる。
律子はぎこちなくも笑い返し、戸惑いを胸底に沈めた。
それでも高鳴っていく鼓動を止める事は出来ない。
すぐ側にある、その手を引き寄せたかった。
めぐみの熱い指先に触れて、今確かに繋がっている事を感じたかった。
だが、何度も伸ばそうとした右手は硬直して、指先すら動かせない。
手を伸ばせば届く距離が、律子は遠く、切なかった。
そんな律子の想いを、めぐみは敏感に感じ取る。
「っ!」
そっと、めぐみから律子の手に触れてきた。
律子の細い右手を、めぐみの暖かな左手が包み込む。
―めぐちゃん…
震えた指先で、律子は精一杯その手を握り返した。
やがて力が抜けていくと、自然と指が絡まるように繋ぎ直す。
めぐみの温もりが、全身に伝わってくるようだった。
確かに今、二人一つになれているような気がした。


「明日は、何時に起きるの?」
手を繋いだ二人は、照れたように目を合わせないまま言葉を交わしていた。
「ん…いつもと同じ、7時くらいかなぁ」
「そっか」
「めぐちゃんは?」
「多分、夜更かししちゃうかな、昼までに起きたいけど」
めぐちゃんらしい、と律子は笑った。
「ちゃんと寝なくちゃだめだよ」
まるで母親のような顔をして言う律子に
めぐみは、子供のようにはにかんだ笑顔を見せる。
視界に入ったその笑い顔に、律子の願いは膨らんでいくばかりだった。
―目が覚めた時も、隣りにいてくれたら
朝が苦手なめぐみは、律子が起こしてもきっと眠り続けるに違いない。
そんなめぐみを隣りに、毎朝目を覚ます事が出来たら
そうすれば律子にはもう、望むものなど何もなかった。


心からの願いを、繋いだ指先から胸の内で唱えても
星の帰り道は、やがて終わりを迎える。
「ありがとう、ここでいいから」
信号のない横断歩道の前で、めぐみは律子に向かって言った。
「じゃあね、りっちゃん」
めぐみの左手が、律子の右手を離す。
駆け足で先を行くと、振り返っためぐみは大きく手を振った。
遠くに見える笑い顔が、律子の胸を痛ませる。
何も言い返せないまま、ただ小さく手を振り返す事しか出来ない。
次に逢う約束は、交わされなかった。
すぐに逢える事を、二人はわかっていたからだ。
どんなに離れていても、きっと引き寄せられること
どんな距離にだって、この愛が果てることはないこと
律子はわかっていた。
それでも寂しさに、負けそうになることも。


「めぐちゃんッ!!」
遠くなっていく背中を、律子は声を振り絞って呼び止めた。
初めて聞く律子の声に、めぐみは驚いて足を止める。
ゆっくりと振り返ると、ただ立ち尽くしてるだけの律子の姿がそこにはあった。
声と共に溢れてしまいそうになった涙を必死に堪え
律子はただひたすらめぐみを求めた。
「りっちゃん…」
めぐみは一歩ずつ今来た道を辿り、律子に歩み寄った。
近くなるにつれ、律子の表情がより鮮明にめぐみの視界に映る。
頼りなげに揺れる瞳が、懸命にめぐみを見つめていた。
再び、手の届く距離に引き寄せられた二人。
何も言わずに、ただお互い見つめ合っていた。
めぐみの腕に、律子はそっと触れる。
夏の素肌から、律子の震える指先が直接伝わってきた。


「めぐちゃん…わたし」
好きだと、言ってしまいたかった。
誰より大好きなこと、変わらないこと、律子はもう心に決めていた。
けれどそれが言葉になる事はない。
涙を堪え噛み締めた唇で、言葉を発する事は出来なかった。
めぐみはそっと律子の頬を両手で包み込む。
律子は思わず瞳を伏せた。
こんな自分が、めぐみにはどう映っているのだろうかと考えると
律子はめぐみの顔をまともに見る事が出来なかった。
少しずつ、縮まっていく二人の距離。
「めぐちゃ…」
律子が瞳を上げると、目の前の唇が
そっと、律子の額に触れた。
律子が初めて感じる、めぐみの唇の感触だった。
「おやすみ」
そう言って、小さく微笑むと、めぐみは再び背中を向け歩き出す。
律子は今度こそ、その背中を追う事も、呼び止める事も出来なかった。
触れた唇の感触が、消えずにいつまでも胸を高鳴らせる。
口付けられたあの瞬間、確かに律子の耳には
好きだというめぐみの声が聞こえた気がした。


―明日などいらない
今、時を止めてほしい、と律子は心から願う。
そうしたらきっと、その背中に身体を寄せて
ありのままの気持ちを伝える事が出来るのに、と。
小さくなっていくだけの背中を見つめながら
律子はロマンスに想いを馳せた。
やがて帰り着いた部屋で、一人きりになっても
すぐ側にめぐみはいる気がして、律子の心は解かれる。
―おやすみなさい、めぐちゃん
寝室の窓から覗く星空を眺めながら
いつかふたりで、このロマンスに飛び込めるだろうかと
律子はめぐみと紡ぐ未来を祈った。

ある四月の夜更けのこと
めぐみは一人、ベランダのベンチに腰掛けていた。
浮かんだ月は地平へと向かい、更に深くなる夜の闇が
やがて朝が来るのだという事を告げていた。
「ふー…」
頬を撫でる夜の風が涼しく、心地よかった。
めぐみは瞬き続ける星空を見上げながら
先刻までこの腕にあった温もりを思い返し、噛み締めていた。
―夢みたい
めぐみが律子の部屋に移り住んでから一ヶ月。
めぐみにとって、その日々の全てが夢のようだった。
朝は律子の声と口付けで目覚められること
毎日、律子の美味しい手料理が食べられること
誰よりも律子と時間を共有し、分け合えること
そして夜には、律子を胸の中に抱いて眠りにつけること
その何もかもが、奇跡のように幸せなことだった。
― 一生このまま…
めぐみは、自らの願いを心の内で唱える。
誰よりも今近くにいる存在に感謝したい
一生大切にしたい、と心に強く決めていた。
その為に何を懸けてもいい、彼女さえ側にいるなら何でも出来る
それほどの想いを、誇りにさえ思っていた。
「りっちゃん…」
小さく、その名を呟いてみる。
めぐみは、名前を口にするだけで込み上げてくる愛しさを
夜風に抱かれながら、感じていた。


「めぐちゃん?」
応えるように響いてきた声に、めぐみは驚いて振り返る。
パジャマの上にバスローブを羽織った律子が
開いた窓から、めぐみを覗き込んでいた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
律子のまだ眠たげな瞳を見て、めぐみは尋ねる。
「ううん、めぐちゃんは?」
「ちょっと、目が覚めちゃって」
律子はベランダに降りると、歩み寄り、めぐみの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
心配そうに尋ねてくる律子の顔に、めぐみはそっと手を伸ばす。
「大丈夫だよ」
そう、穏やかに答えるめぐみを見て、律子はほっとした。
「これ着て」
律子は腕にめぐみのバスローブを抱えていて
パジャマ一枚でいるめぐみの前にそっと差し出した。
「寒くないよ?」
「だめ、風吹いてるし」
強引に言ってみせた律子に、めぐみは小さく笑って受け取る。
「ありがとう」
柔らかな布地に腕を通すと、まるで律子の温もりが
そこから直接伝わってくるようだった。
そんなめぐみを見て、律子は微笑みながらどういたしまして、と言う。


「隣り…座ってもいい?」
少しだけ遠慮がちに尋ねてみる律子。
「もちろん」
めぐみは楽しそうに笑って、二人掛けのベンチの左端に腰をずらした。
「もしかして、一人になりたかった?」
腰掛けてみて、律子はハッとしたように、めぐみに尋ねる。
不安げに瞳を揺らす律子がめぐみの視線に映った。
「ううん、ただ、ちょっと考えてみたくなったの」
不思議そうに首を傾げる律子を見て、めぐみは小さく笑った。
「目が覚めたら、すごくいい気分で
 すごく嬉しかったの
 りっちゃんが、あたしの腕の中で眠ってて
 すごく幸せそうな顔をしてて」
めぐみの言葉に、律子は頬をわずかに赤らめる。
「本当に、なんて幸せなんだろうって思った」
めぐみは律子の左手を取って、言い聞かせるように続けた。
「自分が自分であるコトが
 りっちゃんにそばにいてもらえるコトが
 すごく嬉しくて…
 なんでこんな、なにもかも素敵なのか
 考えてみたくなったの」
言い終えためぐみの手を、律子は強く握り返す。
波のように寄せてくる愛しさが、律子の胸を満たしていた。
「…なんでか、わかった?」
少しの沈黙の後、律子はめぐみに問いかける。
めぐみは一瞬視線を逸らし考えたが、やがて首を小さく横に振った。


「わかったのは、もぅこの先りっちゃんなしでは
 あたしの幸せは成り立たないってコト」
今度はめぐみからその手を強く握り返す。
その温もりを一瞬も逃さないように、失くさないように
律子の存在を手の平から心の全てに伝えていた。
「だから素敵なことをね、星空に感謝したくなった
 りっちゃんが存在してくれたコトを
 りっちゃんが生まれてきてくれたコトを」
更に闇が深くなる夜空を見上げながら、めぐみの唇は少しだけ震えていた。
律子は空いた右手をめぐみの右腕に添えながら
支えるように、その横顔をじっと見つめていた。
「りっちゃん」
めぐみは再び律子の方に顔を向けると
左手でその右手を取り、自らの頬へ寄せた。
「…いてくれて、ありがとう」
瞳を閉じて、噛み締めるようにめぐみは言った。
これほど胸を満たせてくれるのは、この世で律子しかいない事をわかっていた。
律子以上に優しい温もりを持った存在を、この先見つけられるはずはなかった。
この想いは永遠なるもので、決してこの手を離したりはしないと
めぐみは自分と、そして律子に誓っていた。


「りっちゃんてば」
めぐみが瞳を上げると、そこには涙をいっぱいに浮かべた律子がいた。
少しだけ困ったような顔をしためぐみに気付き、律子は焦る。
「違うの、これはね…」
「わかってるよ」
慌てて取り繕おうとした律子を諭すように
めぐみは額を寄せ、穏やかに笑った。
それがまた嬉しくて、律子の涙は頬を伝い、こぼれ落ちていった。
何も云わずに、伸ばした右手で律子の髪を撫で梳くと
少しずつ律子の力が抜けていくのをめぐみは感じた。
再びその顔を覗き込むと、未だ目尻を潤ませる律子の瞳に
そっと唇を寄せ、涙の雫を舐め取ってみせる。
「ふふ…くすぐったい」
めぐみの舌が触れた感触に、顔を震わせ、律子はくしゃくしゃに笑った。
律子の涙の味と、その笑い顔が、めぐみの胸をいっぱいにさせる。
「可愛い」
愛しげに頬を撫で、めぐみは言う。
めぐみの言葉に、律子は恥ずかしげに顔を赤らめていた。
「もぉ…」
「ほんとだよ、本当に可愛いと思ってる」
真顔で言うめぐみに、律子は何も言い返せなくなって
ただうつむきがちに、はにかむだけだった。
そんな律子の頬を、めぐみの両手が包み込む。
律子の顔を覗き込みながら、めぐみは静かに微笑むだけだった。
めぐみの笑顔に応え、再び微笑み返す律子。
最愛の人の言葉が、心の琴線に触れ、嬉し涙を連れてくる事がある。
だけどその笑顔を可愛いと言って、幸せそうに微笑む彼女に
律子は心から、笑い顔だけを見せたいと願うのだった。


そっとめぐみの身体に寄りかかり、律子はその右肩に顔を埋める。
「眠らなくて平気?」
律子の頭に頬を預けながら、めぐみは尋ねた。
「朝までずっと、こうしていたい」
「…うん」
めぐみは小さく頷いて、律子の肩を抱いた。
右半身にかかる律子の重みと温もりに、目頭が熱くなるほどの幸福を感じた。
眠りに落ちるよりずっと、確かな安らぎがそこには存在していた。
しばらくして、めぐみから唇を寄せると、律子は瞳を閉じてそれを受け入れる。
それはわずかに触れただけのものであったが
甘い感触が、それぞれの唇にいつまでも残った。


それから夜が明けるまで二人、朝焼けにやがて消えていく星を数えていた。
今確かに、瞳に映る距離に存在しているお互いが
永遠のものになるよう、めぐみと律子は心から星空に祈った。
そしてそれは確かな誓いとなり、二人の胸に消えない光を宿す。

「めぐちゃん?」
律子が明かりのついた寝室へ入ると
そこには、毛布もかぶらずに仰向けでベッドに横たわるめぐみの姿があった。
その瞳は閉じられていて、規則正しい寝息が律子の耳に響く。
「めぐちゃんたら…」
つい先ほど、風呂上りに律子が覗いた時には起きていて
「待ってるー」
そう、笑いながらめぐみはベッドで寝転がっていた。
どうやら律子が髪を乾かしている間、ドライヤーの音を子守唄に
うたた寝を始めてしまったらしい。
「…めぐちゃん」
律子はそっと屈んで、めぐみの顔を覗き込んでみる。
その寝顔はとてもあどけなくて、律子の心に朧げなときめきが浸った。
普段は無邪気な一面を見ながら、何事にも常に強気で
時に周りが驚くほど大胆な言動で、律子を魅了してみせるめぐみ。
そんなお互いの多々ある面を知り、やがて触れ合い
二人は恋に落ちた。


「りっちゃん…」
しばらく魅入るようにめぐみの寝顔を覗き込んでいると
その唇から名を呼ばれて、律子はハッと我に返る。
(寝言…)
再び覗き込むと、律子はその指先でめぐみの頬に触れてみた。
「……ふ…」
くすぐったそうに笑うめぐみが愛おしかった。
(夢の中でも、めぐちゃんの中に私はいるんだ…)
その手はとても嬉しそうに、めぐみの頭を撫でていく。
(世界中の誰よりも、あなたを知ってる…)
律子の心はただただ幸せに満ち溢れていた。
「んー…」
律子に愛される喜びに満たされて
めぐみも本当に幸せそうな表情を見せていた。
そうして、胸を浸る穏やかな想いに任せ
律子はそっと唇でめぐみの唇に触れる。
そこで魔法は解けた。


「んあ…」
「あ…起こしちゃった?」
薄く瞳を見開き、めぐみはあくびをする。
そして、目が覚めたのか律子に穏やかな眼差しで笑いかけた。
「きゃっ」
そっと律子の手を取ると、めぐみはそのまま強引に
愛しい身体をベッドまで引きずりこんだ。
「うん、お姫様のキスで、起きちゃった」
めぐみは律子の身体を後ろから抱きかかえると、笑いながら言う。
「…もう、めぐちゃん」
律子の声も笑っていた。
「りっちゃーん」
気持ちよさそうに律子の髪に顔をうずめるめぐみ。
その手はパジャマ越しに、律子の身体をなぞり
やがて、添えるように胸へと至った。
「めぐちゃん、いつもソコ触って…」
呆れるように言う律子だが、めぐみを拒む事はない。


「だってりっちゃんのここ触ってると安心するんだもん…」
言いながら、律子の前に回りこむと
律子の胸に顔をうずめて、めぐみはその感触を愉しんだ。
「うふふ…」
めぐみの顔に擦り寄られて、律子はくすぐったそうに笑う。
そして甘えるめぐみを受け入れるように
指先で、めぐみの髪を梳いていった。
「めぐちゃん、赤ちゃんみたい」
それとなく言った律子の言葉に、めぐみが反撃する。
「そんなコト言うと、吸っちゃうよ?」
(言わなくても、いつもしてるクセに…)
めぐみの言葉に律子は心の中で言い返した。
「あいにく、ミルクは出せませんが」
そう、冗談ぽく切り返してみる。


「それなら大丈夫」
珍しく、めぐみのテンションにノった律子の言葉に嬉しくなり
めぐみは笑いながら続けた。
「代わりにココで」
「ぁっ…」
めぐみが律子の足の間に手を忍ばせると
律子は思わず、声をあげてしまった。
「もう!めぐちゃんのえっち!」
「あははッ…」
顔を真っ赤にして、少し怒ったような顔を見せる律子にも
めぐみは満面の笑顔で返す。
「もう…」
(その笑顔にはかなわない…)
気付くと、律子も笑っていた。
そんなふうに、たわいない言葉を交わしながら
二人寄り添い、春の夜を過ごしていった。

不機嫌な三日間がようやく終わろうとしている。


会議室の窓から夜の景色を覗くめぐみの顔は
とても疲れていて、何か物足りなさを訴えるような眼差しをしていた。
「りっちゃん、なにしてるかな…」
周りには聞こえない程度の小声で、ぽつりと呟く。
本当なら三日前から二日間、律子と二人で旅行に行くはずが
突然仕事が早回りし、急遽予定はキャンセルとなってしまったのだった。
(せっかく休みを合わせてたのにな…)
そう思い返しながら吐く、めぐみのため息はどこまでも重たい。


ずっと前から楽しみにしていた約束を破った上、二晩帰れない事を告げても
律子は咎める事なく、笑顔でめぐみの背中を送り出してくれた。
そして「夜は電話するから」と自分から言った言葉に反して
めぐみは一昨日の晩からまだ一度も連絡を入れていない。
最初の夜にあの声を耳にして、居てもたってもいられなくなったからだ。
少しでも早く終わらせる為に今は集中しなければ、と
めぐみは受話器を持つ手をぐっと堪えていた。
それが家で一人めぐみを待つ律子を
余計寂しくさせるのだと、わかっていながらも。


「怒ってるかな…」
怒っていてもいい、めぐみは今すぐ律子に逢いたかった。
逢って、あの細い身体を抱きしめたかった。
「大丈夫?寒い?」
めぐみが思わず肩を抱いていると、背中から的外れな声をかけられる。
「まだ寒い時期だから風邪ひかないようにね」
そう言われて、今日は何日だっだか、と思考をめぐらせていると
一つの場所に居た数人が、それぞれ部屋から退室しようとしていた。
もう、自分を拘束するものはないのだと気付くと
めぐみはカバンを手にその場を飛び出した。
エレベーターの前に並ぶ数人を無視して、スタジオの階段を駆け下りる。
待てばきっとすぐに下れただろうが、今のめぐみにじっと待つ事など出来なかった。


(りっちゃん!)
そう心の中で何度も呼びながら、出口へと駆ける。
それをすり抜けると、勢い良く飛び出しためぐみに小さな人影が反応した。
気付いためぐみが足を止めながら振り返ると
そこにはかけがえのない人が立っていた。
「りっちゃんっ?!」
その名を呼ぶと、律子は三日前と変わらない微笑みを見せた。
「めぐちゃん…良かった、ちょうど終わる頃だと思ったの…」
まさか迎えに来てもらえるとは思いもせず
めぐみは、走った事と出逢えた事とで胸痛むほど鼓動が高鳴った。


「お疲れさま」
そう、やわらかく口にする律子。
乱れた呼吸を抑えながら、めぐみは力強くその身体を抱きしめた。
「苦しいよ…めぐちゃん」
言葉とは裏腹に、律子の声と顔は笑っている。
それが愛しく、何より嬉しくて、めぐみは思わず泣きそうになったが
熱くなる目頭を堪え、瞳を交わすと満面の笑みを返してみせた。
「ふふ…めぐちゃんたら目の下にクマつくってる」
「えっ」
思わず目元にあてようとした左手を
律子は両手を伸ばして優しく包み込んでくれた。


「頑張るのもいいけど、無理しちゃったらダメだよ」
握り締めたその手を、自分の頬に寄せると
律子はまるで母親のような眼差しでめぐみを優しく諭す。
「…うん」
そんな律子を見て素直に返事をするめぐみだったが
“りっちゃんさえ居てくれるのなら、いくらでも頑張れる”
心の中でそう呟いていた。
「それから…」
「え?」
めぐみのふいをついて、律子は口付けるほど近く顔を寄せた。


「いくら忙しくても、私の事忘れないように」
「えっあっ…」
上目遣いで悪戯っぽく微笑む律子に、めぐみは頬を赤らめる。
そしてその言葉が、電話しなかった事を指しているのだと気が付いた。
「…ごめん、でも忘れてたわけじゃ」
「うん…大丈夫、めぐちゃんの事ちゃんとわかってる」
そう言い切る律子の瞳は“母親”でも“パートナー”でもなくて
“めぐみの恋人”のものに違いなかった。
「ありがとう…」
穏やかに微笑んで答えためぐみの心と身体から
三日間の疲れは既に吹き飛んでいた。


めぐみが律子の手を取ると、二人は正面玄関から引き返し
人気のない裏手へと向かう。
誰かに見られる事がどうとか、そういう意味ではなく
めぐみは少しでも早く、律子と二人きりになりたかった。
二人が路地裏へ辿り着くと、狭く覗いた夜空と光る街路樹が見えて
律子はきれいだと小さく呟く。
そんな律子を抱きしめていると、めぐみは彼女がカバンから
何かを出そうとしているのに気がついた。
「はい、めぐちゃん」
赤く包装された包みが、めぐみの前に差し出される。
「…これ」
めぐみはその包みの意味を、すぐに理解出来なかった。


「めぐちゃんってば、今日は好きな人にチョコを渡す日でしょう?」
「あっそっか!バレンタイン!」
忙しさから今日が何日か、そして何の日かを
すっかり忘れていためぐみだった。
「…あけてみてもいい?」
「うふふっどうぞ」
少し恥ずかしそうに頬を染めて微笑む律子に可愛い、とめぐみは思った。
包装を丁寧に解いて、箱を開けてみると、そこには
律子の手作りのハート型のチョコレートケーキがあった。


「わぁ…」
ケーキの上には『happy Valentine to meg』と書かれていて
めぐみは思わず「i'm so HAPPY....」と呟いた。
それに律子はうなずき、満面の笑みを返すのだった。
家に帰ってからの楽しみに取って置きたかったが
めぐみは我慢しきれずに指でケーキの端をすくってなめてみる。
「美味しい!」
甘く、ほんのり舌に溶けていく感触に
めぐみは子供のような声をしてはしゃいだ。
そんなめぐみを見て律子は胸いっぱいの気持ちになった。


丁寧に箱を閉じながら、めぐみは律子の方へ視線をやる。
穏やかな眼差しを送る律子のふいをついて、その唇を奪った。
「んっ」
律子は突然のキスに驚き、瞳を見開くが
やがて口付けている心地良さに身を任せると、めぐみの頬へと手を伸ばす。
それを合図に、めぐみはその唇を割って自身の舌を差し込んだ。
「んぁ…ふ…」
絡まろうとするめぐみの舌に律子も応えると
二人の間に甘味が広がり、めぐみと律子は心まで酔いしれた。


めぐみから唇を離すと、頬を赤らめている律子の顔を覗き込む。
「りっちゃんの唇、甘いね…」
恋人の濡れた唇を指でなぞりながら、めぐみが呟くと
「めぐちゃんだって…」と律子は小さく反駁した。
めぐみは愛する人から貰った最高のプレゼントを左手に抱え
右手で律子の左手を握ると、瞬く街路樹へ踏み出す。
「続きは帰ってからね」
そう耳元で囁くと、極端なほど顔を上気させた律子に構わず
かけがえのない左手を引いて、めぐみは舗道を駆け出した。
そして二人を待つ家路へ向かうのだった。

「あたし、りっちゃんが好き」


突然めぐみが口にした言葉に、律子は一瞬ここが何処なのか
相手が誰なのか、自分が誰なのかさえ、わからなくなった。
振り返ると、そこにはいつもの笑顔が取り除かれた
強くて真っ直ぐな瞳が、ただ律子を見つめている。


そこはめぐみの部屋だった。
休みが取れれば常にお互いの家へ行き、二人きりで過ごす。
それがいつしか当たり前になる程
めぐみと律子は親密な関係になっていた。
それは、仕事のパートナーとしての延長とは
明らかに違うはずだったが、きっとそうなのだと
律子は思い込むつもりでいた。
例え、自分自身の想いに気付いていながらも。
お互いを大切に想い、共に過ごし、時には抱きしめ合う。
めぐみの瞳に映る“それ以上”を求める想いに
敏感な律子は察する事が出来たが、それすらも知らぬふりをした。
そんな偽りで塗り固められた平穏を、めぐみはついに崩そうとする。


めぐみもわかっているはずだった。
互いの為に、自らの想いを抑えてきたという事を。
それでも、秘められた想いは限界というほどに強くて
それは律子も同じに違いなかった。
ほんの一瞬、側を離れためぐみを追いかけるように
その背中に抱きついたのは、他でもない律子だったのだから。
律子はふいにとったしまった自らの行動に戸惑い
うろたえながらも取り繕って、誤魔化した。
けれどめぐみはその時、心に固く誓っていたモノを自身の手で取り壊してしまう。
そしてそれは一つの言葉となった。


「りっちゃんが好き」
振り返った律子の瞳を見つめながら、めぐみはもう一度繰り返す。
「めぐちゃん…」
戸惑う表情でただ見つめ返すだけの律子が憎らしくて
めぐみは腕を取り、その身体を強引に寄せると、きつく抱きしめた。
「このままでいられないの…
 りっちゃんだって、本当はわかってるんでしょう?」
その顔を覗き込むと、頬を染め瞳を潤ます律子がそこにはあった。
それが愛おしくて、めぐみは赤らんだ頬へと手を伸ばす。
「好きなの…」
そう囁いためぐみの手は熱く、律子の全身に伝わってくるようだった。


「りっちゃんの目が好き…りっちゃんの髪が好き…」
言いながら、めぐみは律子の首元にかかる髪に唇を落とした。
律子はそれに反応して、思わず身体を震わてしまう。
続けるように律子の左手を握り、自らの口元へと寄せた。
「りっちゃんの手が好き、指先が好き」
そう囁いて、優しく唇でなぞった。
「…ぁっ…」
ふいに声が漏れてしまい、律子は右手で口元を塞ごうとするが
めぐみがそれを許さない。


「りっちゃんの声が好き
 …りっちゃんの唇が知りたい」
そう言って、めぐみは律子の唇を自らのそれで塞いだ。
ずっと触れたいと願っていた唇。
互いに初めての感触が伝わる。
めぐみにはもう、止める術は無かった。
そして同じ想いを抱えていた律子も、それを拒む事は出来ず
程なくして唇を割り入ってきためぐみの舌を受け入れていく。
堕ちてしまいそうな感覚に怯え、律子はただ必死で
めぐみの身体へしがみつく事しか出来なかった。
ほんの数十秒の間だったが、このまま時が止まればいいと律子は願う。
だが唇を離しためぐみは、再びその揺れる瞳を覗き見て
確かに刻まれている時を感じていた。
例え時を止められなくても、この唇を離しても
めぐみは、この一瞬を永遠のものにしようとするのだった。


「りっちゃんに触れたい…りっちゃんをあたしだけのものにしたいっ…」
困窮した眼差しで想いの丈をぶつけるめぐみに、律子の胸は軋んだ。
「りっちゃんが欲しいの」
その真っ直ぐな瞳に見つめられて、震える声を聞いて
律子は動けなくなるのがわかった。
「私…」
なんて答えたらいいのか、どうするべきか自分の気持ちさえ、把握出来ない。
ただ律子の胸には自由にならない想いだけが溢れて、自身を苛んでいた。
「こんな事思うあたしは、嫌?」
めぐみが問うと、律子は大袈裟なくらいに首を振って否定する。
「そんなわけない…どんなめぐちゃんだって、私は…」
そこまで言って、律子は顔を伏せる。
この先を伝えなければならない事をわかっていた。
「私は…」
律子は耐えるように顔を上げ、もう一度口を開く。
めぐみは律子の言葉を待っていた。
それに応えるように律子は声を搾り出すが、それが言葉になる事はなかった。
律子の想いは、言葉にならないほど胸を痛ませるもので
言葉にしようとするほどに、それは募りを増した。


「りっちゃん…」
こぼれたしずくが、めぐみの胸元を濡らす。
律子は涙を流していた。
「…っ」
めぐみが反応するよりも先に、律子の腕が愛しい背中へ伸びる。
これ以上ないほどきつく抱きしめられた腕に
めぐみは律子の想いを痛いほど感じ取る事が出来た。
「怖いの…私、めぐちゃんの事ばかり…
 他のことがなにも、見えなくなるくらい…こんな気持ち、初めてで…
 わたし、どうすればいいのか…わからないの…」
律子の消え入るような声。
だがめぐみの耳には、律子の不安と恐れがはっきりと響いた。
それはめぐみが抱えているものと同じだった。
めぐみの心にも律子への純粋な想いだけでない、かすかな影もあった。
こんなにも誰かを強く求めた事のないめぐみは
強すぎる想いが、律子の心を押し潰してしまうのではないかと恐れた。
それでも出逢った日から募らせてきた想いを止める事など
めぐみには出来やしなかった。
律子を愛せる事がめぐみの幸せだと、心はもう決まっていたのだから。


「この気持ちは間違っているのかな…」
めぐみが呟くと、律子は身体を離し涙で歪めた顔を上げる。
めぐみは自らが映る律子の瞳を見つめると、声を震わせながらも続けた。
「間違っててもいいよ…過ちでも…
 だって私はもう、りっちゃんが好きだから…それはもう、変わらないから…」
律子の涙を拭い、めぐみは言葉を紡ぐ。
「このまま自分の気持ちに嘘ついて、りっちゃんを失う方が怖いよ」
そう言って律子の手を強く握るめぐみ。
律子にはめぐみの側を離れる事など考えられもしなかった。
「私はめぐちゃんと…」
律子が言い終わるより先に、唇は再びふさがれる。
たった一瞬押し付けられるように触れられた二度目の口付けは、涙の味がした。
唇を離しためぐみは、必死に律子へ訴えかけた。
「私は、今だけじゃないの
 この先の人生をずっとりっちゃんといたい
 毎日、りっちゃんにこの気持ちを伝えていきたい」
律子の両手を取っためぐみは、更に強く握り返す。
「もしそれが、りっちゃんの幸せになるなら」
めぐみの想いが、繋がれた指先から、めぐみの言葉から
律子の全てに伝わってきた。
「もしそうなら…」
熱くなる目頭に耐え、めぐみは唇を噛み締める。
自分が言っている事は自惚れだろうか
何を誓っても、思い上がりに過ぎないだろうか、と
まだ耳にしていない律子の答えに恐れを抱く。
それでも律子への誓いこそが、めぐみの望みだった。
「一生この手を離さない」
律子は最後まで黙って、めぐみの言葉に聞き入った。
自分に伝えてくれた言葉を、何度も頭の中で繰り返して、胸打たれていた。
真っ直ぐにぶつけてくるめぐみの愛情が苦しくて嬉しくて
それに応える言葉は、他に見つけられなかった。
「めぐちゃん」
律子はめぐみに繋がれていた右手だけを離して涙を拭い
改まったようにその名を呼んだ。
めぐみは、右手で繋ぐ律子の左手をただ必死になって握るだけだった。
そうして、ただ一つの答えを待った。


「それが、私の幸せよ」
右手を、めぐみの頬へ寄せる律子。
律子の言葉に、耐えていためぐみの涙がこぼれ、その右手を伝う。
守りたい、と律子は心から思った。
「毎日、一番近くで、めぐちゃんの笑った顔を見てられるなら
 私はもう何も要らない
 めぐちゃん以外、何も…」
めぐみはただうつむいて目を瞑る。
閉じられた瞳から、涙が止め処なく溢れた。
「めぐちゃん…」
律子の声に、めぐみはかろうじて顔を上げるが
片手を口に当て、声も出せずに、しゃくり泣いていた。
涙で曇っためぐみの視界には、再び涙を浮かべた律子が映る。
「…愛してる」
涙で唇を震わせながら、だが確かに微笑んで、律子は告げた。
めぐみはたまらずに声を上げ、涙を流す。
律子は泣きじゃくるめぐみを抱きしめ
まるで子供をあやすかのようにその頭を撫でた。
律子は指を通る柔らかな髪の感触に、めぐみは優しく反復する指先の感触に
これ以上に愛しい宝物をみつけられないだろうと思った。


それからめぐみが泣き止むまで、律子はずっとそうしていた。
めぐみの涙を拭いながら、今過ぎているこの瞬間を、確かな幸せと感じていた。
微笑む律子に釣られて、めぐみも瞳を潤ませたまま微笑んでみせる。
頬に寄せられた律子の手に自らの手を重ね、めぐみは噛み締めるように言った。
「私も、愛してる」
めぐみが言い終えると、律子は静かにうなずいた。
そして誓うように、瞳を閉じる。
めぐみがそれに応えて唇を寄せると、お互いの身体をしっかりと抱きしめ合い
初めて想いを通わせた証しを愛しい人の唇に記した。