―その日をずっと、覚えている
  心はずっと、忘れずにいる


その日の雨は、昼前から降り続いていた。
弱まる事も、強まる事もない雨脚に、永遠に降り続くような錯覚を覚えながら
律子は水温の奏でる旋律に耳を傾けていた。
「りっちゃん!」
大きな赤い傘を手にしためぐみが、律子の立つコンビニの前まで駆けてくる。
「めぐちゃん…ゆっくりで良かったのに」
目の前で息を切らすめぐみの腕を、律子は支えるように手に取った。
「だってりっちゃん、外で待ってると思ったから」
普段出掛ける前にきちんと天気を確認している律子だが、今日の雨は予報を外したものだった。
出先で降り始めた雨を眺めながら、梅雨時は毎日折り畳み傘を持っていくべきだと律子は省みる。
そんな中、すぐにもめぐみから「迎えに行く」という連絡が入り
それは雨の日を嬉しいものに変えてくれる、ふたりだけの魔法だった。
「ありがとう」
律子は一言告げて、めぐみの脇に入り込む。
めぐみは何も言わずに満足げな顔をして微笑むのだった。


駅から二人のマンションまで、普段は十分足らずで辿り着く事が出来る。
雨によって足を取られるせいなのか、今この時を尊く感じているせいか、二人の歩調は遅かった。
いつもなら夕飯の買出しへ向かう人々で賑やかなこの時間帯も
降り続く雨の為に、ほとんどすれ違う人の影がない。
二人は、ふたりだけの道を歩いていた。
雨と、傘に距離を縮められて、本当にふたりきりだった。


律子は手を繋いでいるめぐみに身体を預けるようにして、少しだけ瞳を閉じる。
雨音と、空気の温度と、匂い、それはこの季節にのみ感じられるものだと知っていた。
律子の記憶から、とても古い情景が自然と心に浮かび上がってくる。
それはとても、温かなものだった。


〝6月は、雨続きで、あなたが恋しくなる〟


その歌声が止んでから、律子はハッとした。
自分が知らぬ間に口ずさんでいたと思えば
それはめぐみの声によって奏でられていたものだったのだ。
「めぐちゃん…」
「なんか今ぴったりだなぁって思って
 …この曲、大好き」
めぐみは呟くような小さな声で語った。
頷く代わりに、重ねられていた手をそっと握り返す律子。
「私もね、今同じこと考えてた」
言いながら、律子が一瞬だけ遠くを見るように視線を外したのを、めぐみは見逃さなかった。
「この、歌の人のこと?」
「えっ」
「誰かのこと想い出してる…そんな顔してるよ」
めぐみには、律子の事が何でもお見通しだった。
愛する人の隣りで、過去の人を思い浮かべてしまった罪悪感さえも掬うように
めぐみは優しい視線で律子の心を包み込んでいた。
その優しさに負かされてしまったように、律子は長いこと閉じていた箱を開いていく。
「その人ね、今日が誕生日なの」
それは、律子が初めて打ち明けた事だった。
他の誰にも見せない心を、めぐみにだけは明け渡す事が出来た。
「…そっかぁ」
神妙に頷きながら、めぐみは率直な疑問を投げかける。
その問いに、律子はどこかで救われる思いがした。
「電話、しないの?」
「…うん」
そんな小さな頷きの中に、めぐみは律子の矜持を見出せた気がした。
律子はこうして何年も、自分の中の固い決意を抱えて生きてきたのかと
そう思える姿が儚げでもあり、そして何より、美しかった。


「私が…いるから?」
その問いかけが自惚れになると、めぐみは自分でもわかっていた。
律子の心は、めぐみと出逢うよりずっと以前から固められていたものだと知っていた。
知った上で、どうしても律子に訊ねてみたくなってしまったのだ。
「そうね…」
律子は驚くほど嬉しげな笑顔で、その疑問に答えてくれた。
「めぐちゃんがいるから、わたしは今とても幸せだから
 その人も、幸せであってほしい
 私と別の場所で、その人だけの幸せを見つけていてほしいと思うの」
それは律子の、心からの言葉だった。
例えば偶然に街ですれ違う事があったとしたら、幸せな横顔を垣間見る事が出来たら
それはきっと歓びと代わるに違いない。
あり得はしなくとも、そこで呼び止められて言葉を交わす事が出来たとしたら
律子は嬉しさを隠す事が出来ないだろう。
けれど、そんな出来事があるかどうか、そういう事は何も問題ではなかった。
そんな事がなくても嬉しい、その人が今も同じ空の下で生きているという事が嬉しい
律子は、想い出が浅かった頃よりも研ぎ澄まされた気持ちで、空が繋ぐ想いを信じていた。


「いいなぁ」
雨空を見ていた瞳を移すと、めぐみは羨ましげに声を漏らした。
遠い場所をも越える気持ちで、律子に想われる人物に対し、妬ける気持ちは確かにあった。
けれど今めぐみが律子に伝えたいと思うのは
子供っぽい嫉妬心などではなく、その心だけにわかる確信だった。
「りっちゃんにそんなふうに願ってもらえたら、もうそれだけで幸せだよ
 きっと今、幸せに暮らしているよ」
律子は何も言わずに頷いた。
めぐみがそう言うのなら、きっとそうなのだろうと信じる事が出来た。


「でも…」
傘を持つ手を一瞬だけ揺らして、めぐみは律子の立場に想いを馳せた。
「もし私だったら、電話する
 もう逢えない人なんて関係ない
 おめでとう!って、絶対直接伝えたいと思う」
強い調子を持って語るめぐみを、律子はじっと見ていた。
「なんてね、私はりっちゃんしか知らないから
 こんな向こうみずなこと言えるんだろうけど…」
「私しか、って?」
「りっちゃんが初恋だから」
「えっ」
めぐみの口から出た思わぬ事実に、律子は声を上げながら足を止める。
半歩先を歩いためぐみは振り返って頭を傾げた。
「あれ、言ってなかった?」
「は…初耳だよ」
律子は目を丸くしたままで、頬を染めていた。
めぐみはそんな律子の様子を見つめながら、小さく微笑んで語った。
「ふふ…私ねぇ、幸せ者なんだ」
初めての恋を律子に捧げた事、その恋が実り得た事、心から永遠を誓えた事
それは決して当たり前な事ではなくて、奇跡のような出来事だとめぐみは知っていた。
知っているからこそ、それを与えてくれた律子に対し、誇らしく幸せを語れるのだった。
「めぐちゃんっ」
律子は呼びかけると同時に、飛びつくようにしてその腕にしがみついた。
揺れる傘の中、二人はお互いの視線をしっかりと重ね合わせる。
二人が立つ道に、雨音以外何も響くものはなかった。
傘で隠す事もせずに、そっとふたりの唇は重ねられた。
触れ合った時、二人の耳には雨音すらも消えて、互いの吐息だけが確かなものとして胸に募った。



その夜、夕食を終えた二人は、風呂の時間を交代に済ませていた。
先に上がっためぐみはベランダの手すりにもたれながら、律子の帰りを待ち侘びる。
雨はとうに止んでいて、風が雲を除けて晴れ間を呼び寄せていた。
やがて頭上の全ては、澄みきった夜空によって包み込まれていく。


「りっちゃん、星が出てるよ」
めぐみの後を追って、ベランダに降りてきた律子。
はしゃぐように指を差しながら、めぐみは律子を傍らへと誘った。
「ほんとう…もうすぐ夏の大三角形が見えるね」
「なんだっけ…わし座、こと座?」
「はくちょう座!」
東京の街に降る数少ない星の光を数えながら、二人は語り合い、笑い合った。
夜の風がとても心地よい中で、美しい空の下、愛する者と寄り添い合う事が出来る
それが今のふたりにとっての最上の幸福とかわった。


「知ってる?しし座流星群、今年すごいんだって
 11年振りの流星雨になるって!」
めぐみは、はしゃぎながら律子の手を取った。
ずっと以前に同じ話をした時も、次は二人で見れたら、とそれぞれ心に願っていた。
「楽しみ…ほんとうに」
約束を言葉として交わす事がなくても、ふたりは心に決めていた。
そして願っていた。
五ヶ月後のその日、晴れ渡る空に幾つもの流星が描かれる事を。
二人で同じ星を数える事が出来るようにと。
それを叶える力は、二人の手の内にあると信じる事が出来た。


「Happy Birthday to You....」
夜空へ向かって、めぐみがふいに口にした言葉を聞いた時、律子は驚かされた。
「ほら、りっちゃんも」
真顔で急かすその様子を見て、律子は笑わずにはいられなかった。
めぐみの素直さ、直向さが何よりも嬉しかったのだ。
笑い終えてから、そっと小さく声にする。
「誕生日、おめでとう」
めぐみの傍らで、夜空に向けたその言葉は、きっと届くようなそんな気持ちがした。
やはりそれも、ふたりだけに適う魔法なのだと、律子は今日も思い知っていくのだった。


泣きたい夜にも、心奮い立たせて歩き続けたその先に、めぐみとの出逢いがあった。
思いもしない幸福が律子を待ち受けていた。
だからこそ、律子は自分の中に置いた約束を今も忘れずにいる。


今日という日を忘れないように、その約束はずっと律子の胸に刻まれているのだった。
愛する人と重ねられていく、新たな約束と共にずっと。

―君が望むなら、ヒーローにだって何だってなる
  だけど私が本当に与えたいのは、多分そんな力じゃなくて


「…どっちが悲しいかな」
「へ?」
ニュースを垂れ流しているテレビの前で、美幸はぽつりと呟いた。
「ふっといなくなってそのまま永久に戻らないのと、死体になって会えるのと」
私は一瞬、美幸が何を言っているのかと思ったが
それが数分前に流れていた「行方不明の報道」について語っているのだと見当がついた。
「そりゃあ…」
考える振りで、少しの沈黙を置く。答えなんて決まっていた。
「どっちも悲しいんじゃないの」
私の答えを聞いて、美幸はつまならなそうに頷く。
それは美幸の中でもわかり切ってる答えだった。
「だから聞いてるの
 どっちの方がより悲しいかって」
「またどうしたの突然…」
真面目な顔をして聞いてくる美幸に、私は困り果てた表情で応えた。
そういう難しい話は苦手だ。
自分自身の中で芽生えた疑問にすら知らぬ振りをする私に、美幸の疑問は手に余る。
そういう面倒くさがりな私と共にいて、美幸の方こそ面倒じゃないのかといつも思う。
それでもどうして私といてくれるのだろう、というのが
私の中で知らぬ振りをしている疑問の一つでもあった。


「どうでもいい事聞いてるって思ってるでしょ」
こたつに入ったまま寝転んでいる私に顔を近付けて、美幸は問い詰めてくる。
「別にそんな事っ…」
口調が突っ返すように荒くなったのは、吐息がかかるほど顔を近付けられたせいだと思う。
家が近くて同じ学校で、いつも一緒にいるだけの彼女の顔が近くなっただけで
何故焦らなければならないのか。
美幸といると私の中で生まれる疑問に際限がない。
そんなもの、いちいち考え込むよりも知らぬ振りをする方が一番に決まっているのだ。
「ただ、考えても仕方ない事じゃないの?」
私は起き上がると、こたつ一つ分の距離に戻った彼女の瞳に向かって問いかけた。
「仕方ないかもしれないけど…でも大事なことだと思うの」
「どういうふうに大事なの?」
一旦伏せていた瞳がもう一度私を見つめ返した時
それは今まで見た事ないほど真剣で真っ直ぐなものだった。


「私は今、冬子と一緒にいられる事をすごく大事に想ってる
 誰かと一緒にいる、って事はすごく重大な事で
 その誰かがいなくなってしまう、って事も同じだけ重大な事なんじゃないかなって
 一緒にいる事と、そうでなくなる事は表裏一体のように思うから…だから
 今一緒にいるなら、いなくなる事も考えなきゃいけないんじゃないかな」
難しい事を並べていた。言葉ではなく、難しい事柄だ。
例えば今、共に暮らしている両親が死ぬ事なんて私は考えたくない。
いつか訪れるに違いない事。
でもまだ中学生の私は、それを遠い国の話のように思っていたかった。
少なくとも、今だけは。


「表裏一体なんかじゃない」
美幸の中で浮かび上がる疑問や考えに敵う言葉なんて私に思いつくはずもない。
だけど美幸がさっき述べた言葉の中で一つだけ、私が否定しなければならない事があった。
「私は行方不明になったりしないし、死んだりなんかしない」
「無敵のヒーローみたいな事言う…」
半ば飽きれたような笑いを浮かべる美幸が勘に障った。
例え明日、自分自身が行方を彷徨う事になっても、命を落としたとしても
私は今、紛れもなく心からの言葉を並べていたのだ。
「それが無敵のヒーローなら、私は無敵のヒーローだっ」
そこまで言うと、私は先程までと同じようにコタツの中に入ったまま寝転んだ。


背中を向けた私に、美幸は肩に手を置けるほどそばまで寄ってきた。
「冬子?怒ったの?」
決まり切っている問いを尋ねてくる美幸がわざとらしくて、私は黙り込む。
「ごめんね、別にいじわるでこういう話をしたわけじゃなくて…
 私は冬子にちゃんと確認しておきたかっただけなの」
「…何」
私が半分だけ振り返ると、美幸は母親みたいな顔をして笑い掛けて来た。
「私が…私が冬子より先にこの世からいなくなる時は
 ちゃんと冬子に、私の死に顔を看取ってほしいの」
「なに、それ」
「今すぐの話じゃないと思うけどね
 だけど一応希望は早めに伝えて置いた方がいいかなって」
笑った顔のまま美幸は淡々と言う。
まるでそれが何も悲しい事ではないかのように。
「いやだ、私は美幸が死ぬところなんて見たくない」
考えただけで涙が溢れてきてしまいそうな話に、頷いたりなど出来やしなかった。
そんな話を、何故美幸は笑って口にする事が出来るのだろうか。
「…そう言うと思った
 じゃあ冬子は私が行方不明のまま帰って来ない方がいい?」
「なんでそう…そんなのいやに決まってるじゃん、私は…私は、どっちも絶対認めない」
美幸はまた飽きれたような笑いを見せた。見せながら、私の頭を撫でた。
「しょうがないなぁ冬子は…」
呟いた言葉は弱弱しく、どこかいじらしかった。
まるで明日にもこの指先を失ってしまうのではないかという儚さがあった。
私はたまらなくなって、起き上がりその指を強く掴んだ。
「私の事、子供だと思ってるでしょうっ!」
美幸は驚いた様子で目を丸くする。
私の中には先程から怒りが渦巻いていて、それは今まで感じた事ないような類の高ぶりだった。


「怒るに決まってる…さっきから何、なんで私が美幸の前からいなくなる事になってんの
 いなくなるわけないじゃん!私はずっと…ずっとそばにいるのに
 美幸のそばにいられるなら、美幸が生きてそばにいてくれるなら
 無敵の…不死身のヒーローだって何だって、私はなるのに!」
子供じみた事を言ってると自分でもわかっていた。
けれど自分の気持ちを伝える為に、それ以外の言葉は思いつかなかった。
「…やだもう、泣かないで」
美幸は私が掴んでいない方の手で、私の頬に触れてきた。
「泣かしたのは美幸じゃん!」
私は突き放すように美幸の手を離し、両手で自分の頬を拭った。
止め処なく溢れてくる涙を必死に隠していると、美幸はまた私の頭を撫でた。
やっぱり子供だと思ってる、と涙の裏で思った。


「こんなふうに泣くんだってわかってても、でも私はやっぱり冬子に看取られたい」
美幸は私の頭を撫でながら続けた。
「私が生きてる時間も、死ぬその瞬間も、全部冬子のものにしたいから…」
その言葉を聞いた時、私の涙は引っ込んだ。泣いてる場合ではなかった。
「なんだそれ、美幸の時間は…全部美幸のもの、じゃないの」
涙の後だったせいか、私はもごもごと言葉を並べていた。何故だか顔が熱くて仕方なかった。
「私のものである時間を、全部冬子にあげたいと思ってる」
「そ、それって…」
まるでプロポーズじゃないか、と私は続けようとした言葉を仕舞い込んだ。
また笑われるような気がしたからだ。
けれど私が言葉を閉まったまま黙っている間、美幸はただ真剣に私を見つめていた。
思えば私が先程並べた言葉だってプロポーズと何ら変わるところがない。
私は真剣で、美幸も真剣だった。
私は私なりに返事を返さなければならなかった。


「おばあちゃんになるまで一緒にいてくれるなら、いいよ…看取っても」
美幸はホッとしたように表情を和らげて、それから少し意地悪そうな目をして尋ねてきた。
「ほんとに一緒にいてくれる?婚姻届も何もなくても」
「なっ…」
ただでさえ熱い顔が、まるで火を噴くようだった。胸はそれ以上に熱かった。
美幸の言っている言葉がもし冗談だったとしても、私は自分自身を留める術を知らなかった。
もしも笑われたら、この胸の熱さが勝手に並べた言葉という事にしよう。
それは限りなく真実に近い言い訳だった。
「婚姻届なんて、そんなのただの紙切れじゃん
 そんなもの…そんなものよりもっとすごいの、私は持ってる」
「すごいのって?」
聞き返されて戸惑った。それは、この心だとしか言いようがなかった。
その真意をどう表したら正確に伝わるかがわからなくて、私は私の心に問いかけた。
この心は、言葉ではなく一つの現象へと私を導いた。


「…!」
その瞬間、私の思考は停止していた。
味わった事ないほどの柔らかな感触だけが、私と美幸の唇が重なっている事を証明していた。
唇を離した時、ようやく過ぎってきた思考で馳せていたのは体中が熱いという事だった。
そしてそれは、唇を通して美幸から伝わってきたもののように思えた。
人前で取り乱した事のない美幸が、私以上に顔を赤らめてそこにいたからだ。
今にも泣きそうで、でもそれを堪えているような、そんな必死な顔をしていた。
私の知らない美幸の表情をもっと知りたいと、その時私ははっきりと望んだ。
「…確かに…すごいね」
美幸はようやく唇を開くと、上擦った声で感想を述べていた。
そしてそれ以上言葉を続ける事なく、私自身も言葉を必要としなかった。
唇一つで、お互いの全てを知り得る事が出来たのだ。
何故美幸はこんな私と共にいてくれるのか
ついさっきまで謎のままだった疑問も、今なら解く事が出来る。
ずっと一緒にいたいと、お互いの願いが一つに重ねられているから
いつまでも離れずにいられるのだ。


照れ臭そうにお互いの視線を避けてしばらく
美幸が吹っ切れたような満面の笑みを見せながら、私に向かって小指を差し出してきた。
「約束ね」
私は引き寄せられるように同じ小指を差し出し、美幸のものと絡める。
その約束は、間違いなく私の方こそ望んだものだった。
「早死にしたら、許さないからね」
指を絡ませたまま私は、半分脅すような口調で美幸に呟いた。
「うん!」
明日どうなるかも知れない事、永遠がない事、私達は知っていた。
それでも心は繋がっていく。約束は交わされていく。
永遠を信じた時間にこそ永遠は存在したと
後になって思う事が出来るのではないかとその時過ぎった。
そしてその永遠を想う時、私の心には美幸がいてほしい。


たった一人の誰かを想い続ける事は
ヒーローみたいな超人の力をも凌ぐものだと今、信じられるから。

もう半年、顔を合わせていない。
私の想い人、大山美代子は何にも捉まらない人だった。
大学院に通い、何だかよくわからない研究に没頭し、日々を忙殺されている。
外で会えば白衣姿なんて想像もつかないほど穏やかな微笑みをくれる人なのに
きっと私の知らない場所で、知らない顔をしているのだろうと思うと
何だか無性に寂しさが込み上げた。
それは逢えない事よりも一層に、胸を焦がすものがあった。


最後に会ったのは去年の十二月。
雪でも降り出しそうな午後から夜までの時間、私は彼女の隣りを独占した。
遅い昼ごはんを食べて、歩き回って、映画を見たりして、夕ごはんを食べて
白い雪が舞い落ちる事もなければ、私達の距離が縮まる事もなかった。
あの夜、最終電車が私達を引き裂いてから、六度の月が替わり
新年の挨拶も、彼女の誕生祝いも、通信機器でしか伝えられていない。
頼りの機械も、最近は彼女の音信不通を示すだけのものになっている。
そんな中で私は、二十三度目の誕生日を迎えようとしていた。


夜も深まった前日の二十三時。何の予定もない当日が迫ってくる。
何故こんな時に仕事を入れなかったのだろうと、私は自分の浅はかさに嫌気がさしていた。
そんなの、好きな人と過ごせたらという、無駄な期待を捨て切れなかったからに決まっている。
私は彼女に逢いたくて、ただ逢いたくて、仕方が無かった。
誕生日であろうと、なかろうと、関係ない。


知らぬうちに時計の針は重なり、友人達からの祝福の声が歳を重ねた事を知らせてくる。
「マナ、おめでとう」と共に画面で並ぶいくつかの言葉達。
「元気でいる?」「近いうち会いたいね」「今度飲みに行こう!」
それら全てが私の心を嬉しくさせ、そして寂しくさせるものでもあった。
今確かに一人でいるのだという事を思い知らせるような、言葉の数々だった。
この瞬間、一番好きな人に隣りにいてもらえない自分を情けないとさえ思えてくる。
私の好きな人は、ただ私が好きなだけであって、決して私の所有物でありはしないのに。


だけど誰よりも一番、私が彼女を想っているという気負いがあった。
私だけにわかる、彼女の魅力があると感じていた。
笑う時に瞳を伏せる仕草も、食べ終わって唇をなぞる仕草も
私だけに感じ取れる愛らしさだと信じていた。
信じて、いたかった。


けれどどんな思い上がりも、逢いたいと思った時に逢いに行く勇気すら連れてこない。
彼女が誘ってくれるのを待つか、暇そうに見えたら誘うか
そのどちらかしか私には手段がなかった。
音信不通の今、そのどちらも選ぶ事が出来ない。
この状況で私に選択を迫るのは、耐えて待ち続けるか、忘れて歩き始めるか。
それでも好きなら耐えるしかない、そうは思ってみても
今日までどれほど耐えてきたと思うのか。
毎日彼女を思い返し、毎日彼女を恋しがり、最後に逢った記憶を宝石のように磨いて
今日までそうやって生き伸びてきた。
この恋心を持つ自分を、必死に生かし続けた。
これ以上どう耐えていけば、明るい未来がやって来るというのか。


「幕引きは、きっと今日だ」
独り言を呟いてから、私は外へ飛び出した。手にしたのは家の鍵だけ。
この後に来るかもしれない連絡なんて、どうでもいい事にした。
今この瞬間、音信不通だという事、寂しい事、報われない事
それだけが確かな事実だと思う事にした。
それでもこの足が向かっていたのは、彼女と初めて逢った場所だった。


真夜中の閑散とした、と呼ぶよりずっと静寂な道を歩いた。
正直、こんな暗闇は決して得意ではない。
けれどこの恋を捨てるにはきっと、荒療治が必要なのだ。
自分の誕生日に、こんな怖い思いをしなきゃならないのも
全ては彼女を好きなせいなのだと、罪を擦りつけながら私は足を進めた。


三十分ほど歩き続けて、辿り着いたその場所は家の側より更に深い闇だった。
開けた場所なだけ外灯も少ない。そこは河川を隔てている土手の真下だった。
辺りを見回しながら、階段を登っていく。昼間の喧騒など微塵も感じられない。
土手の真上に立つと、街の全貌が視界の全てを覆っていった。
下の道路を歩いていた時は、あんなにも深い闇を感じていたのに
こうして見下ろしてみると、街並み全てから柔らかな光が放たれている。
私の立っているそこは外灯も何も無かったけれど、目の前の景色が私を暗闇から救ってくれた。
全てを見渡せるこの場所で、私は美代子さんと出逢ったのだ。



眩暈がするほど陽射しの強かったあの日から、気付けば四年の月日が経とうとしている。
今日までの半年顔を合わせていないように
長い四年間の中で、顔を合わせた日数を正確に数え切る事が出来た。
決してマメじゃない彼女でも、私の心を離す事はなかった。
初めて逢った時の、焦げるようなあの衝動を、今でも鮮明に心に置く事が出来たからだ。


あの頃はまだ学生で、大嫌いな講義を抜け出した私は、バスに乗るのも煩わしくて
家まで続くこの道を、照りつける陽射しの中、馬鹿みたいに歩き続けていた。
いくら日中でも、真夏の太陽が一番眩しい時間帯に
影のないこの場所へ来る人はほとんどいない。
そう、あの日は本当に誰もいなかった。彼女以外は誰も。


背高く、太陽に向かって咲く向日葵畑の後姿を見届けながら歩いていた。
その姿は、逃げ出した私を情けなくさせるほど直向で、そしてとても一途だった。
私はどうして、この向日葵のように真っ直ぐ生きられないのか。
どうして逃げ道を探さずにいられないのか。
その日までの自分全てが誤っているとさえ思えてきて
これまでに感じた事ないほどの寂しさが喉に込み上げて溢れた。
「うああああああああ!!!!」
泣き出したいような、駆け出したいような、何とも言えない孤独感を
奇声をあげる事で発散させるしかなかった。
誰も見ていなければ、聞いてもいない。
世界一情けない今の私は、向日葵と太陽だけが知っている。
そう思ったのに。


「わあっ!!」
目の前の向日葵畑から、茎と茎の隙間を縫って、彼女が現れたのだ。
「あ、すみません、何の声だろうと思って…」
格好悪く思わず腰を抜かした私に向かって、彼女はお辞儀をする。
へたり込む私と、頭を下げる彼女の姿はいつ思い返しても滑稽だ。
私はお辞儀をされた後も、しばらく驚いた表情のままで
叫んでいた時に潤みかけていた瞳も、すっかり乾き切ってしまっていた。
「大丈夫ですか?」
呆然としたままでいる私に手を差し伸べる彼女。
その言葉は私が彼女に投げかけてやりたいものだった。
肩や頭に葉っぱを乗せて、一体向日葵畑の中で何をしていたというのか。
私は問い詰めたい衝動を抑えながら、彼女の手を握った。
「…どうも」
立ち上がり、地面に触れた衣服をはたきながら
私はふてぶてしく礼を言った。
同世代を見分ける勘によって、彼女が私と同い年だという事はすぐにわかったが
背や体つきは私よりとても小柄で、子供のような丸い瞳の持ち主だった。
こんな人物に驚かされて、尻餅をついた事が恥ずかしくてたまらない思いがした。


「なんですか?」
私が彼女を一瞬だけ目配せしたのに対して、彼女は私のことをじろじろと見続けている。
「あのぉ…いまって暇ですか?」
上目遣いで遠慮がちに尋ねてくるその仕草はとても憎めないもので
私は笑いを堪えながら無愛想な返事をした。
「暇そうに見えますか」
「はい、とっても」
彼女も愛想のいい笑顔で、失礼な返事を返してくるのだった。


向日葵畑から出て来た彼女を、つい先刻まで意味不明に思っていたのに
今の私は彼女に連れられて、同じ向日葵畑の中にいる。
歩いているその空間は、蒸し風呂のような暑さだった。
大輪や葉が日陰になると思えばとんでもない。
太陽の熱を吸った向日葵達は、自分達の身体で
もう一つ太陽を作り出そうとしてるのではないかという位、熱を蓄えていた。
「ここです」
彼女に連れてこられた場所は、一番背の高い向日葵の前だった。
「貴女の背なら届くと思って
 茎の先の太さとか固さとか、教えてもらえますか?」
ここまでついてきておいて今更思うものでもないとわかってはいても
やはりこの人は意味がわからなかった。
「なんでそんな事、知りたいの?」
「知りたいからです」
その返答を聞いて、私は観念したように腕を伸ばした。
背伸びをして、ようやく首根っこが掴めるほどの高さにある向日葵。
ぎゅっと握る事が出来ないほどの熱さがそこにはあった。
「めちゃめちゃ熱い…」
既に全身は汗をかききっていた。
輪郭に沿って、頬を流れていく水滴が気持ち悪い。
「硬さはどうですか?」
尋ねながら、彼女はいつのまにか手にしていたハンカチで私の顔を拭ってくれた。
「めちゃめちゃ堅い…」
「あの、もっと具体的に」
要望に応えるように、私は暑さと熱さに耐えながらその茎を強く握りしめた。
「茹でる前のブロッコリーみたいな…」
「なるほど」
私が嫌いな食べ物の名を口にして最悪な気分でいるとも知らずに
彼女は呑気に頷きながら、走り書きでメモを取っていた。
それから太さや色などを自分なりの表現で彼女に伝えていき
役目を終えた私達は向日葵畑を後にした。


外の空間は相変わらずの陽射しで、確かに暑かったけれど、畑の中よりずっと心地よく感じられた。
ひと休みするように、何も生えていない草っ原で腰掛ける彼女と私。
「ありがとうございました、えーと…」
「…水木真那」
今更名乗るのも照れ臭くて、私はふてぶてしく口にした。
「ありがとうございます、マナさん」
礼を言いながら、彼女はまた私の汗を拭ってくれた。
時折二人の間を吹きぬける風と並んで、頬に触れてくる布地があまりに心地よくて
私はほんの少しの間、瞳を閉じた。
瞳を上げると、最初と同じように彼女の肩や頭に乗るいくつかの葉が目に留まった。
「ついてるよ…えーと、そっちは?」
小さな肩をはたきながら尋ねると、彼女は信じられないほど穏やかな微笑みで
その名を答えたのだ。
「大山美代子です」



その時聞いた名を、今日までの四年間、胸の内で唱え続けてきた。
こんな微笑み方をする人と、私は後にも先にも出逢う事はないだろうと、その時私は悟った。


その確信は、四年経った今も私の胸の中にある。
だけれど、それが何になるというのか。
真夜中の土手沿いを行くと、彼女と出逢った向日葵畑に辿り着く。
六月の、まだ背が低く花の開いていない向日葵達。
夏が終わる度に萎れ、種を残し、そしてまた夏に咲き続ける向日葵。
私の四年間もそれと同じだった。
何度報われない思いを味わっても、心にある彼女の微笑みが
会う度に見せてくれる微笑みが、私の恋を咲かせ続けた。
「美代子さん…」
想い出の場所を行く内に、暗闇の中にいる恐怖は消え失せていた。
あんなにも怖かったのに、辛かったのに、いつのまにどうして。


真夏の太陽の下で、二人ここにいた時の事をもう一度思い返す。
照りつける陽射しの暑さも、講義を抜け出した罪悪感や情けなさも
あの日彼女が隣りにいた事で、全ては吹き飛んでしまったのだった。
「…そうか」
全ては納得がいった。
今私が暗闇の中、一人立つ事が出来るのは、一人に見えて一人じゃないからだ。
心に彼女がいるから、こうして恐れを乗り越える事が出来る。
この四年間の辛い事、苦しかった事も全部
一人じゃなかったから打ち勝ってこれたのだという事に気付いた。
「もうだめだ」
彼女を断ち切ろうとして、ここまで歩いてきたけれど
そんなのは無駄な足掻きでしかなかった。
彼女と出逢ってから今日まで積み上げられてきたものは、報われない孤独なんかではない。
本当に彼女の事が好きだという心。
心から好きで、心からの幸せをもたらしてくれる相手が彼女だということ。
それを重ねてきたから、今の自分がいる。
彼女を愛せた自分を、嫌いだなんて思えるはずがなかった。
むしろ好きだ。
誰かを愛せる自分を好きだという気持ちを教えてくれたのが
この世にたった一人しかいない大山美代子という人物だったのだ。
そんな彼女と出逢えた自分が、どれほど果報者か思い知らされると
私は観念したように土手を降りていき、足早に家路を目指すのだった。


帰ったら布団に入って、そして朝を迎えよう。
朝になったら、自分から彼女に電話を入れてみようか。
繋がらなくても気には留めない。
おめでとうの言葉を貰う為にわざわざ自分から掛けたと思われても、それがどうしたというのだ。
誕生日を迎えた本人が、周りからおめでとうと言われるまで
じっと待っていなきゃいけない決まりなんてあるはずがない。
自分が楽しむ為の日なのだ。
自分で自分が生まれてきて良かったと噛み締める日なのだ。
そんな日に好きな事をして、誰に咎める権利があるというのか。
好きな人の声を聞きたいと望むくらい、ささやかなものではないか。


往路とは違って、足取り弾む帰り道だった。
彼女を想って、ああしようこうしようと考えていると、寂しさなんて微塵も感じられなかった。
「一人でも楽しいのは、寂しくないから」
彼女がそう言っていた事がある。
それはやはり、一人に見えて一人じゃないからだと思う。
彼女の心には、たくさんの疑問や熱意があって、それらが彼女自身を支え、道標となる。
研究材料にさえ嫉妬を覚える事もあったけれど
彼女が私以外の何かに夢中であるからって、私が彼女を忘れる必要はどこにもないのだ。


辿り着いたアパートの階段を軋ませながら登る。
真夜中の冷たいこの音が、私は好きだった。
楽しい事や嬉しい事なんて、いくらでもあると思った。
今を楽しいと思えばきっと、思いもよらない幸福を呼び込む事だって出来ると
そう信じた時、それは起きた。


「わぁっ!!」
あの時と同じだ。向日葵畑の前で尻餅をついた時と同じ。
「あぁ真那さん…良かったぁ、もうどうなる事かと思ったよ」
私の部屋の前で座り込んでいる美代子さんの姿がそこにはあった。
今度は尻餅をつかなかったけれど
驚きのまま丸い目で立ち尽くしている私の元へ、彼女は駆け寄ってきた。
「最終の電車に間に合ったは良かったけど
 まさか真那さんが家にいないとは考えなくって
 携帯も出ないし、絶体絶命だったよ
 …あぁほんと逢えて良かった」
美代子さんはここにいるのが当たり前のような顔をして言葉を並べる。
けれど私はわからなかった。
美代子さんが今目の前にいる理由が。
こんなにも逢いたかった人が、今目の前にいてくれるという幸福のわけが。
「真那さん?」
美代子さんは黙ったままの私の腕を握って、揺さぶるように名前を呼ぶ。
だめだ、と思ってもそれは止まらなかった。
「うっ…う…」
「ど、どしたの?」
私は泣きながら、自分より小さなその身体へ覆いかぶさるように抱きしめた。
本当の寂しさは、報われた時に初めて量り知る事が出来るのだとわかった。
私は自分で思うよりずっと、彼女に逢いたくて逢いたくて、仕方なかったのだ。



ひとしきり泣いてから、彼女はハンカチで私の顔を拭ってくれた。
そして涙のわけも聞かずに、ただ穏やかに「おめでとう」という一言をくれた。
その瞬間の私の表情は涙で歪められたものではなく
彼女と同じ、確かな笑顔だった。

一度部屋に財布を取りに戻ってから、私たちはコンビニまで買い出しに向かった。
「誕生日なのに、家に何にもないなんて」
「一人の予定だったから、特に何も必要ないじゃん」
「私は誕生日に、カシスオレンジ飲みながら研究してたよ」
「…それって意味あるの?」
「大ありだよ!」
小さな身体で白衣を身に纏いながら、顕微鏡を覗いている片手に
カシスオレンジを持つ彼女の姿を想像すると笑わずにいられなかった。
知らぬ間に繋がれていた手はとても温かい。
見上げる空には夏の星座が広がって、隣りには微笑む彼女がいて
心と指先が確かに重なっている。
私はもう何も要らないと思った。
この先のどんな未来にも、苦しみにも、今の幸せを塗り替える事は出来ないと強く思った。


家に帰り着いてから、買ってきたケーキとお酒で、乾杯をする。
まさか彼女が来るとは思っていなかったので、部屋の中は散らかり放題だ。
「真那さんも腐海の森で生活したりするんだね」
「腐ってて悪かったね…たまたまだよ!」
「悪くないよぉ、むしろ落ち着きます」
この人はもう、本当にどうしようもない人だと思った。
向日葵畑から現れた変な人。
どうしたら背の高い向日葵を自宅で育てられるか調べに来ていた変な人。
外との交流を絶って、廃人になってでも研究に没頭する変な人。
それなのに今、私の目の前に座って私の誕生日を祝ってくれる
ただ一人の、最愛の人。


本当に、なんだって夜中に突然押しかけるなんて事を思いついたのだろうか。
二本目のビールを口にしながら、私は今更な疑問を投げかけた。
「私が…家で一人でいるって、確信があったの?」
「え、なにが?」
「だって、アポなしで終電に乗って来るとかさ」
「あー…」
そういえば、とでも続きそうな口元で、カクテルに口付ける。
「よく考えてなかった…」
「なんだそれ」
「真那さんに逢う、って事が何よりだったから
 逢えたらもうそれでいいと思って」
「それでいいって…」
私は口づけていた缶を、離す事が出来なくなった。
こんな赤面を見せられるわけがない、そう思ったのに。


「それに真那さん、私と逢った時はいつも笑ってくれるから
 だから誕生日の今日も、笑った顔が見たいって思ったんだぁ
 …なんか泣いちゃってたけど」
「そんなの…
 泣くに決まってんじゃん!!」
張り上げた私の声に、美代子さんはきょとんとした顔で振り返る。
自分だけ必死で、そんなの馬鹿みたいだといくら思っても、もうこの気持ちは隠せなかった。
「美代子さんだけ勝手でずるいよ…だって…だって、私だって
 美代子さんの誕生日に逢いたかった、直接おめでとうって言いたかった!
 今日までずっと、ずっと…美代子さんに逢いたかったんだよ!」
想いをぶつけた後に残るものが何かわからなかった。
訪れた怖ろしいほどの沈黙に、私は頭を抱える思いがした。
その頭を、彼女の指先が優しく撫でてくれる。
向日葵畑で私の頬を拭ってくれた時と同じ、彼女の指先はいつだって優しい。
「ふふ…」
「な、何笑ってんの」
私が情けない顔を上げると、美代子さんはとても嬉しそうな顔で微笑んでいた。
取り乱した私を見て楽しげに笑う彼女が、憎らしくもあり、そして愛おしかった。
「真那さんは変な人だなぁ」
「なにっ」
これ以上を知らないほど変な人から、まさかそんな事を言われるとは思わずに
私は憤慨するより驚いた。
「だって、初めて逢った時からずっと優しくて
 私の事一番嬉しくさせてくれる…
 こんな変な人、他にいないよ」
彼女の口調は、まるでもっともな事を語っているかのようだった。
そしてそれは確かに、もっともな事だった。
とても変な人である彼女を愛する自分も、きっと変だ。
だけどこんな変な自分を、私は嫌いになる事が出来ない。
彼女のことを今日まで好きで好きでたまらなかったように、きっと明日からも変わらない。


「ふん…」
私は座りなおして、再びビールを呷った。
拗ねた声を上げても、本当は笑い出してしまいたかった。
私が、美代子さんを一番嬉しくさせるなんて、嘘に決まっていても
今はその言葉をもらった幸福に浸っていたかった。
私の三本目のビールと彼女の二本目のカクテルで、もう一度乾杯が交わされる。
最初の乾杯よりも、更に心からの微笑みを交わしながら。



その夜は、未来なんて見えなかった。
このまま時が止まればいいと願うほどの幸福が、胸の内に募っては幾重にも積まれていった。
この先の未来に、私と彼女がどうなるかなんて、一つも見えてきやしない。
それでも彼女を、愛したい。この先も、愛していきたい。
こんな人をこんなにも愛せるのは、私だけだという自負を、誇りのように思っていたから。
心から愛たくて、逢いたい人に、いつかたった一言伝える事が出来るなら。
「君を愛したくて生まれてきたんだ」と、伝える事が出来るなら。
それが欲張りな願いだとわかっているからこそ、今が全てだと噛み締めた。


「ありがとう…来てくれて」
今更のように告げる私に、美代子さんは噴き出しながら笑う。
「ふふっ…どういたしまして」
その笑顔を見た時、一瞬だけ信じた。
「一番嬉しくさせる」と言った、夢みたいな彼女の言葉を。

その日律子を目覚めさせたのは、目覚まし時計でも体内時計でもなく
いつもならまだ傍らで、律子より深い眠りの中にいるはずの、めぐみの声によってであった。
「おはよう、りっちゃん!」
「ん…」
まだ重たい律子の瞼が視界を半分ほど遮る。
こじ開けるように何度も瞬きをしていると、じれったくなっためぐみが律子の瞼にそっと口付けた。
ようやく開かれた視界には、息がかかるほど近く満面に笑うめぐみの姿があった。
「めぐ、ちゃん…?」
いつもはずっと朝の遅いめぐみが今日は律子より早く起きて
着替えも済ませて、しかもエプロンまでしている。
時計を見ると、時刻は七時半。律子が目覚ましを掛けた時間より三十分も早い。
不思議そうにめぐみを見つめたまま、律子はようやく身体を起こした。
その様子を確認してから、めぐみは翻って寝室のカーテンを開ける。
きらきらした陽射しと雲ひとつない青空を見て
今日ほど相応しい日はないと、めぐみはにやりと頷いた。
「ピクニックに行こう!」
振り返って律子にそう告げためぐみは、窓の向こうの景色よりずっと、眩しいものだった。



めぐみの作ったオニオンスープとトーストの朝食を終えてから、二人が玄関を出たのは九時過ぎ。
マンションの下で自転車のサドルに腰掛けてから、めぐみは律子が後ろの荷台に座るのを待った。
前かごには、お弁当を入れたバスケットとリュックサック。
出来立てのその香りが、めぐみの眼前をかすかに漂ってくる。
座り終えた律子の腕が背中から腰に回された。
触れているのはわずかでも、その体温を全身で感じ取る事が出来た。
叫び出したいほどの興奮を噛み締めながら、めぐみはペダルを漕ぎ始める。


「もぉ、びっくりしたよ」
揺れ続ける自転車に身を任せてしばらく、律子は口を開いた。
その声は言葉とは裏腹に笑っている。
「突然ピクニックに行く、なんて言い出すから」
「ふふっ、だってびっくりさせたかったんだもん」
めぐみは一瞬だけ振り向いて答える。その顔は不敵に笑っていた。
「もぉ…」
「やだ?」
「そんなわけない…けど
 めぐちゃん昨日の夜一人でわくわくしてたなんて、ずるい…」
「あはははっ」
律子が拗ねたようにその背中に顔を埋めると、めぐみは可笑しさと嬉しさに耐え切れず噴き出した。
「ふふっ…本当に、わくわくした
 でも緊張もしたよ、雨になったらどうしようどうしようって…」
今日という日は、めぐみの頭の中でずっと以前から企まれていたものだった。
急遽二人に予定が入ってしまわないように、天気が味方してくれるように
めぐみは昨晩まで一人二人分の幸運を願っていた。
「でも私にはラッキーの女神がついてるから、期待通りの快晴!」
ハンドルから離した片手で青空を仰ぐめぐみ。
「えぇ、なぁに女神って」
「えへへ、あのね、ないしょ!」
悪戯っぽくはにかんで答えためぐみに、律子は唇尖らせて拗ねた表情を見せる。
けれどその瞳は笑っていて、片手で宙を掴もうとするめぐみを見つめながら
律子はいつかこの眼で見た“自由の女神”の姿を思い出した。


二十分ほど揺れ続けた二人は土手沿いに辿り着く。
本来ならとうに辿り着いているはずだが、自転車は徒歩より少し早いくらいの速度で走っていた。
めぐみは律子を乗せる時、絶対にスピードを出したりしなかった。
一人で駆ける時はバスにも追いつくスピードで走らせているなんて
その姿からは決して想像もつかない。
そんなふうに自分を大切にしてくれるめぐみを、律子はこそばゆいほど愛しく感じていた。
「よいしょ」
二人は一旦地面に降りると、土手の上まで荷物と自転車と共に登っていく。
めぐみより先に土手の頂上へ辿り着いた律子は、思わず息を飲んだ。
「きれい…」
五月の太陽に照らされて、川の水面がきらきらと輝いてる。
青空すらも反射して、陽に照らされている部分以外は蒼かった。
時折柔らかに吹く風が水面を靡かせて、煌きは続く。
「ピクニック日和でしょ」
後から続いためぐみは、景色に見惚れる律子の顔を見てから呟いた。
「うん!」
笑顔で振り向いてから、律子は頷く。
その笑顔を見た時、後ろに続くどんな景色も
全ては律子の引き立て役に過ぎないようにめぐみは思う。
けれどきっと、これ以上の引き立て役は見つけられないだろうと
再び漕ぎ始めた自転車に揺られながら悟った。
背中を包む体温も、律子を愛する心も
全てはこうした自然から生まれてきたものだと信じられたからだ。



「着いたぁ」
二時間近く川に沿って辿り着いたその先には、土手の下に公園が広がっていた。
こどもの日の祝日という事もあって、そこには家族連れの姿が多く目立つ。
公園の入り口に自転車を停めて、めぐみはリュックを背負い律子はバスケットを手に持った。
手を繋いで木々に囲まれた舗道を歩く。
周りで響く子供達のはしゃぐ声や大人たちの話し声も
風に揺れる木々の音が遠い喧騒へと変えていった。
一瞬、傍らにいる律子さえも遠くなる気がして、めぐみはその手を強く握り返す。
「めぐちゃん…?」
めぐみの方を振り返った律子は、微笑んだまま首を傾げる。
「ううん、なんでもない…」
同じように強く握り返してくれた律子の手に安心して、めぐみは首を振った。
時折、めぐみの心を吹き込む孤独がある。
側にいればいるほど、律子を離したくない気持ちは強まり
いつか訪れるかもしれない別れが頭を過ぎっては、身を切る思いに打ちのめされる。
それは律子を信じていないとか、そういう事ではなくて、ただめぐみの中に弱さがあるだけなのだ。
けれどどんな心細い時にも、きっと律子は側に居て「ここにいるよ」と言ってくれる。
めぐみにはそれがわかる。
だからこそ、どんな寂しさに打ちのめされたとしても、自分を続ける事が出来るのだ。
律子はそんなめぐみの弱さや逞しさを、いつも一番近くで見守りたいと願っていた。
めぐみと律子、ふたりにとって“ふたりであること”が何よりかけがえのない真実だった。


しばらく歩いていると、川に面して広がった草原に辿り着く。
そこで二人は、少し早いお昼ご飯をとる事にした。
「ふふっ」
めぐみは楽しげに笑いながら、無造作に詰め込まれたリュックサックから
水筒やおしぼり、レジャーシートを取り出す。
ちょうど木陰になる草原の端で二人は腰掛けてお弁当を広げた。
「開けていい?」
律子は心が弾んだ表情で、弁当箱の一つを手に取る。
めぐみは律子より更に楽しそうな笑顔を見せて、いいよーと答えた。
「わぁ」
そこにはたまごやベーコン、レタストマトなどのサンドウィッチが規則正しく詰められていた。
たった三時間前に朝食を摂ったところなので、まだそれほど空腹とは言えなかったが
お弁当の中身を見た途端、律子のお腹がぐぅ、と音を立てた。
それを聞いためぐみは笑い出しながら、もう一つの弁当箱を開けた。
「あっ」
「へへへ~」
コロッケの入った弁当箱を律子が見た瞬間、めぐみはにやりと微笑んだ。
「昨日のやつ…いつのまに」
それは律子が昨晩作ったもので、二人分の夕飯には余る程の量に
明日また食べようと二人で話していたのだった。
「すっごい美味しかったから、外で食べたら絶対もっと美味しいと思って」
「冷めてても?」
「うん!」
めぐみは頷いて、冷めたコロッケを手に取り口にした。
「やっぱり美味しい!」
めぐみがはしゃぐのを見ながら、律子はサンドウィッチを口にした。
「うん、すっごい美味しい…」
「ほんとに?」
作る時に味見はしていたが、律子のその言葉を聞くまで落ち着く事が出来なかった。
望み通りの答えを聞いて、めぐみは満足げに再びコロッケを頬張る。
いつも料理は律子に任せきりだったので、今日のように誰かの為を想って作る事にめぐみは慣れていなかった。
けれどまだ夢の中にいる律子を想いながら
どんな顔で食べてくれるだろうか、美味しいと言ってくれるだろうか
そういう期待と不安の中で物を作るというのは新鮮で、とても楽しい時間でもあった。
律子もこんな気持ちで作ってくれていたのだろうかという疑問が過ぎって
ほんの少し共通する想いを味わえたようで、めぐみにはそれも嬉しかった。
「たまごも美味しい」
二つ目のサンドウィッチを口にすると、律子は微笑んで言葉にする。
めぐみは顔をくしゃくしゃにして笑って、心の底から湧き上がる歓びを感じていた。


コロッケとサンドウィッチを両手に抱えて、傍らには最愛の人。
めぐみは今、確かに最上の安らぎの中にいた。
五月の陽射しは、木の葉の間からでも眩しいほど強くて
けれど二人の間を吹き抜ける風がそれを和らげる。
自然の中での最良な昼食時間はあっというまに終わりを迎えた。
「ごちそうさまでした」
本当に美味しかった、と律子はめぐみに向かって礼儀正しく頭を下げた。
満足げに笑ってくれるその表情が、めぐみには愛しくて愛しくて仕方が無い。
けれどリュックの中には律子の為に用意したものがまだ残されていた。
「甘いものはまた後でいいかな?」
めぐみが少し意地悪な視線で尋ねてみると、律子ははっきりした声で断言した。
「それはもちろん、別腹だよ」


予想通りの答えにめぐみは少し間を置いて
思いついたように靴を履き、包みを持ったまま歩き出した。
行儀が悪いとわかっていても、なんだか無性に歩きたくなったのだ。
律子は何も言わずにそれについてきた。
「はい、どうぞ」
川縁まで辿り着いてから、待ちきれない様子でいる律子に向かって
手の平に収まるほどの包みを手渡す。
「わぁ…」
中を開くと、紅茶の香りをいっぱいに閉じ込めたパウンドケーキが顔を出した。
これも律子に内緒でめぐみが朝から丹精込めて作ったものだ。
「うふふ…美味しい」
かぶりつくように頬張ると、その日一番の笑顔がめぐみに向かって注がれた。
甘いものを食べている時の律子が一番幸せそうだ、とめぐみは改めて実感する。
「めぐちゃんが作ってくれたから、だよ」
「え?」
まるで心の中を読み取られたみたいに、律子が答えた言葉にめぐみは目を丸くする。
「こんな素敵な今日にしてくれてありがとう」
照れ臭いような、泣いてしまいたいような
熱くなる頬を片手で隠しながら、そのまま風に舞う髪をかき上げた。
律子のその言葉が、その微笑みが、側にいられる事がただ嬉しくて
その胸はいっぱいに締め付けられた。



二人してケーキを食べ終えた後も、しばらく川縁を歩き続けたり、その流れを見つめたりしていた。
律子がふいに小さく口ずさみ始めた歌を、めぐみは風の音に浚われないように
ただじっと聴き入っていた。


―お願いはひとつ 力になりたい
  みつけて 今は 私についてきて


その曲をめぐみは知っていた。
それは、そのアルバムの中でもめぐみが特に大好きだと話していた曲だった。
今目の前に広がるこの光景、この気持ちにぴったりの曲だと、めぐみは思った。


―その笑顔 なによりのウレシイGift
  I don’t ask for any rewards
  Because of only love


川に向けていた律子の視線が、そっと振り返ってめぐみのものと重なる。
その瞳は、尊かった。
歌声も、輪郭も、存在全てが、尊かった。
込み上げる涙をこらえながら、真っ直ぐに見つめ返す。
何度目かの英詞の時、めぐみは自分でも気付かないうちに、その声を重ねていた。
これ以上嬉しいことはないかのような微笑みで、律子の声も続く。
今確かに、指先を繋ぐより抱き合うより近くに、心が重なっていると二人は深く実感した。


―青空よ!ほら、見て 素敵なGift
  求めない なにひとつも
  Only love


歌い終えたふたりは、不思議なほどこみ上げてきた笑いに、ただただ吹き流された。
めぐみと律子にとって、これ以上楽しい事は無かったのだ。
それはふたりだけに出来る、ふたりだから感じられる、小さな奇跡だった。



それからしばらくして、二人は再び木陰の中へ舞い戻る。
全てが満たされた幸福感の中、木を背もたれにして、ただ黙って彼方の河流を眺めていた。
「眠い?」
めぐみが何度目かのあくびをしたところで、律子が心配そうにその顔を覗き込む。
「ううん大丈夫だよぅ」
「うそ、めぐちゃん昨日あんまり寝てないでしょう?」
「うーん…」
律子には何でもお見通しのようだった。
元々不規則な生活を送っているめぐみは、寝不足でも平気で過ごせる体質をしていたが
満腹感と、自然の中にいる安らぎが、律子の傍らにいる幸せが
めぐみを確かな眠気へと誘っていた。
「お昼寝する?」
律子はそう言って、ひざに置いていたナフキンを退けて、めぐみを誘った。
穏やかな風が律子の柔らかな髪を揺らす。律子は目を細めながら笑い、ただめぐみを待った。
めぐみは吸い込まれるように律子の前に乗り出し、横になると頭をそのひざに預けた。
そこは次の瞬間にも眠りに落ちてしまいそうなほど、心地よい安らぎの場所だった。
最初は照れ臭くて、律子の顔を見ないように正面を向いていたが
律子がその髪を撫でていくのに誘われるように、少しずつ律子の方を向いていった。
目が合って、小さく笑いながらも律子の指はめぐみの髪を撫で梳き続ける。
「どうしよぅ…」
「ん?」
首を傾げた律子に向かって、思ったまま口にしようか一瞬迷う。
けれどこの世で一番素直になれる相手を前に、声は意識を通り越して言葉になってしまった。


「りっちゃんさえいれば、明日だってもっともっとしあわせになれるってわかってるのに
 今、このまま死んでもいいかもなんて、思っちゃった…」
素直な気持ちを白状しためぐみは、律子の視線から逃れるように瞳を逸らした。
こんな事を思ったりして、叱られても仕方ないと思ったのだ。
けれどもう一度めぐみが視線を上げた時、律子はただ優しく微笑み返してくれた。
「めぐちゃんといると、このまま時が止まってしまえばいいなんて思うことばかりだよ」
律子の口から零れる、意外な答えにめぐみは目を丸くする。
「今も、そう思う?」
めぐみは手を伸ばして尋ねた。律子はその手をそっと握り返す。
「…思うよ」
律子の手の温もりと、同じ気持ちでいてくれた事に、めぐみの心は安らぐ。
そしてそれを気付かせてくれた時の流れに、感謝さえも覚えていた。
「…ふたりとも同じこと願ってても、時間は止まらないでいてくれるんだね」
その言葉に、今度は律子の方が気付かされる。その通りだと、同じ気持ちを込めて頷いた。


「りっちゃんといられるなら、次の瞬間が何十年後でも構わない」
時の流れが二人を引き裂く事さえしなければ、めぐみはその流れを尊く思う事が出来ると信じた。
「よぼよぼのおばあちゃんになってても、いい?」
律子が悪戯っぽい視線で、数十年先の未来を語る。
「いいに決まってる、ていうか見たい
 おばあちゃんになったりっちゃんが見たい!ぜったいぜったいかわいいよ」
「なにそれぇ、あはははっ」
めぐみは真剣だったが、律子はこれ以上面白い事はないように笑い転げた。
「え、なんかおかしなこと言った?」
「おかしいよ、ふふ、うふふふ」
めぐみの言葉が可笑しくて、けれど心から嬉しくて、律子の視界はほんの少しだけ、潤んだ。
「もぅ…そんなに笑ってると、いつか自分で食べられなくなった時
 おやつの時間に、はいあーんってしてあげないよ?」
「えっそれは困るよ」
「あはは」
途端に真剣な表情を見せて言う律子に、今度はめぐみが笑った。
「りっちゃんが呆けちゃったら、甘いものに釣られてどこにでも行っちゃいそうだよね」
「あ、それひどい」
「今だってどこにでも行っちゃいそうだし」
顔を膨らませて抗議する律子の頬を、めぐみは笑いながら突っつく。
「めぐちゃん知らないでしょ
 私が世界で一番好きな甘いもの」
「えっなに?教えて?」
律子は甘いものと見ると、何でも分け隔てなく好いていたが
思い廻らせてみれば、これが一番好き、というのを聞いた事がないとめぐみは思った。
「さて何でしょう」
「え、アイス?」
「はずれ~」
「じゃああれだ、バナナシューだ」
「全然違う~、もぉ、めぐちゃんはまだまだだなぁ」
「なにぃ」
律子の言葉に悔しくなって、めぐみは顔を顰めて考え込んだ。
「うーんうーん…」
必死で答えを探すその様を、律子は宝物のように慈しみながら、見守っていた。
この世で一番尊い相手が、自分の事で、こんなにも懸命になってくれる事
ずっと傍らにいてくれる事、それが奇跡みたいに凄い事なのだと、律子は知っていた。
「時間切れ~」
しばらく、そんなめぐみを眺めながら律子は楽しんでいたが
出題者が我慢しきれず答えを言いたくなるのはどんな場合でも同じ事だ。
「えっちょっとまっ…」
その声を遮って、ひざの上にいためぐみを律子は抱きすくめた。
「答えはね、めぐちゃん」
「…へ!!??」
予想を遥かに超えた答えに、めぐみは驚いて声を上げた。
「え、あたし甘い?」
「うふふふ、すっごく甘いよ」
「え、えー…」
目を丸くしたままのめぐみを見つめながら、律子は笑った。
「甘いものを食べるとね、胸がふわってなって、とろけるような気持ちになるの
 めぐちゃんといる時、それとおんなじ気持ちになるよ
 めぐちゃんが世界で一番、そういう気持ちにさせるの」
恥ずかしげに少しだけ視線を外して、律子は語った。
「そっか…そうなんだ…」
しばらく目を丸くしたまま頷いていたが、やがてめぐみは嬉しそうに微笑み出した。
「やった…ケーキに勝った…」
「ケーキに嫉妬してたの?」
「だって…世界で一番りっちゃんを歓ばすのは、いつだって自分でありたいんだもん」
それは、単なる独占欲と思われるのが嫌で、いつもは飲み込んでいる言葉でもあった。
「じゃあ、安心した?」
めぐみの頭を撫でながら、律子が尋ねる。
「うん!」
律子がそう尋ねてきた事によって、自分が口にした言葉を肯定してもらえたような気持ちになり
めぐみはそれにこそ心からの安堵を覚えて、満面の笑みと共に頷いた。
その通りに安らいだ表情を見せるめぐみの髪を、律子は黙ったまま指先で慈しみ続ける。
愛しい指先の感触に浸るように、その瞳を閉じると
めぐみはゆっくりと深い眠りの中へ落ち込んでいった。
愛する者の寝息と体温、それだけが確かなものとして律子に伝わってくる。
はしゃぐような家族連れの声が、遠い景色から聴こえてきては、風の音に掻き消されて
めぐみと律子をふたりだけの世界へと閉じ込めた。
再び訪れる“今このまま時を止めてしまえばいい”ほどの瞬間。
いまこの時、その腕の中にあるものが、律子の幸福、望みの全てだった。


自分の創り出す音楽によって、誰かに安らぎを与える事が出来たらいいと願い続けて
今日まで流れた日々は、とうに十年を越している。
人に与える事を望みながら、律子は自分自身でもその安らぎを求めてやまなかった。
その安らぎを、数え切れないほどの笑顔と共に連れてきてくれたのがめぐみであり
こんなにも甘美なしあわせを連れてくる存在を、律子は他に知らなかった。
そんな存在に、自分自身も安らぎを与える事が叶うならそれは
“もう死んでもいいくらい”の幸福と成り得るはずだ。
けれど二人の時間は、これからも絶えず続いていく。
死んでもいい程のしあわせを知っているからこそきっと、生きていけるのだ。


「全部全部、めぐちゃんのおかげだよ」
眠りに落ちたままのめぐみに向かって、律子は呟いた。
めぐみにもらった返し切れないほどの歓びが、律子の手に溢れている。
一生かけてもきっと返し切れないほどのしあわせが。
だからこそ、一生を誓うと決めていた。


老いて呆けたその時も、傍らにめぐみが在ることを
今と同じように、共に安らげることを、尊い今を噛み締めながら、律子は願っていた。

まとめて読む場合はこちら


それは英雄よりも…  new!

死に顔を愛する人に見せるかどうか…

そんな話でプロポーズに至る女子中学生の話。

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愛たくて逢いたくて  new!

滅多に逢えない変人に四年間片想いを続ける大人女?の話。

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廻る約束

渋谷駅で、記憶に無い親友との再会、一日デートする話。

十年近い前に交わした約束が蘇るまで。

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別れ、そして始まり

南へ目指す寝台に乗り込む幼馴染を見送る札幌駅での話。

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夕星の時に焦がれて-1-

放課後の部室で身体を重ねる少女二人の光景を

見てしまった色事大嫌いな女子高生の話。

長いです。すみません。

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夕星の時に焦がれて-2-

続きです。

堅物少女とすけこましが結ばれるまで。

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天つ空を追って

親友に恋をする幼気な女子高生の話。

「千夏!?ねぇっ千夏でしょ!?」
やかましい渋谷の街を一人歩いていると、更にやかましい声で呼び止められた。
振り返ってみると、その声の主は私と同年代位の面立ちをしていた。
服の系統も私の見知った友人達と大差ない。私より少し、派手めではあるけれど。
「……あの、どちらさまで」
「あたしだよ、福本早苗、小学校一緒だった」
そう名乗った彼女は、どこか誇らしげに胸を張っていた。
「さなえ…」
名前を口にしてから懸命に記憶を巡らせる。
その名前を口にした事が、初めてではないような気もどこかで過ぎったけれど
それはとても曖昧な感覚だった。
ランドセルを背負っていた頃なんて十年も大昔の事だ。
今突然目の前に現れた見知らぬ女性と、その時代とを結びつけるには無理があった。
私は降参したように首を傾げる。
「やっだ、覚えてないの?相変わらず物覚えわるーー」
見覚えのないこの女性は、私が物覚えの悪い子供だったという事を知っている。
という事は、間違いなく私の小学生時代を知っている人物なのだ。
私は、私の知らない人間が私の内情を知っている事実に、違和感を覚えた。
「ま、いいやそんな事は」
私が感じてる事など思いもしない彼女は、あけらかんと言い放つ。
彼女にとって私が彼女を思い出さないのは大した問題でもないらしい。
「ね、今暇?」
「え」
「何か予定あるの?」
「…ないけど」
「じゃあちょっと付き合ってよ!」
その女性は馴れ馴れしくも私の手を引いて、人混の中を突き進んだ。
「え、えぇ?」
私が引き止める間もなく、その時間は始まった。
今この瞬間から、彼女の渋谷観光に付き合わされる事となった。


「今ねぇ、友達と旅行でこっちに来てるんだ」
交差点に面したビルの三階に来ていた。窓越しのカウンターに腰掛ける。
初めて入るカフェだった。そもそも渋谷にはたまに一人で買物に来る程の用しかない。
一人でこういう賑わった店に入る勇気のない私は、いつも用を終えたらすぐに帰る事が多かった。
今日もそのはずだった。
先程まで歩いていた道を、眼下から見下ろしている事に奇妙な新鮮さを覚える。
「旅行って?」
しばらく窓の景色に見惚れ、彼女の話を聞き流していた。
聞き流してから、旅行という言葉が耳に掛かった。
「あ、今ねアメリカに住んでるの、カリフォルニアに大学に通ってて」
「へぇ」
淡白に頷きながら、内心では呆気に取られていた。
向こうの大学に進むような秀才が私の過去の友人の中でいただろうかと、思い巡らせて
やはり隣りでグレープフルーツジュースを飲んでいる彼女は見知らぬ他人なのだと一人頷いた。
「その友達は?」
「今別行動なの、浅草観光がしたいんだって」
「え、外国人?」
「そうなの、お寺が見たい~なんて、ベタベタよねぇ」
友人について飽きれるように笑う彼女に合わせて、私も笑った。
けれど外国人と対等に並んで、英語で会話している彼女を想像して、やはり彼女を遠く感じた。
最初は特に感じなかったけれど、こうして見ると顔立ちも
周りで談笑している女性達より秀でて整っているように思えてくる。
この女性は一体、誰なのだろうか。
こんなにも自分とかけ離れた人物が、私と友人であった事が本当にあるのだろうか。


「お、やっときたきた」
トレイにケーキを二皿抱えてやってきた店員に、彼女は瞳を輝かせる。
彼女はフルーツミックスタルトに、私はチーズケーキタルトを注文した。
「あれ?イチゴ好きだったよね?」
「え、あ、うん…でもショートケーキは」
「そうだ、生クリームは嫌いなんだよね」
本当に私の事を熟知していた。言い当てられる度に、頭を鷲捕まれる思いがする。
「はい、じゃあこれあげる」
ケーキの上にこんもり乗ったフルーツの中から、苺を選ぶと
それを刺したフォークを、私の口元へ翳してきた。
私は一瞬躊躇って、彼女の邪気のない瞳を盗み見る。
逆らう事の出来ない瞳の色が、そこにはあった。
勇気を出して飛び込むように、私は彼女のフォークを口に含んだ。
嬉しそうに私を見る彼女の視線が痛くて、口の中で砕かれた苺の味は胸の詰まるものだった。


それでも小さなケーキを時間かけて平らげた頃には、私達は幾らか打ち解けていた。
いや、彼女は元より砕けている。私の方が、彼女に対して自然体を覚え始めていた。
昔馴染みの友人としてではなく、今出逢ったばかりの同世代の他人同士として。
「へーぇ、じゃあ卒業したら医療関係に進むんだぁ」
「まだ完全に決めてないけどね、でもこのまま行けば…多分」
二年先の将来について話したのは、進路相談の担当者以外で初めてだった。
他人だから打ち明けられた事なのか、それとも彼女は特別なのか。
どちらにしても、自分にとってすら大した価値を持たない将来の話だった。


「ちーちゃんが病院で働くなんて、なんか変なの」
再び頭を鷲捕まれた。私をその名で呼ぶ人物を、私は知っているはずだった。
くすくすと笑いながらそう呼びかけられる感覚が、何故か懐かしい。
「?どうしたの」
「…いや、変ってなによ」
「えぇ、だってちーちゃん、お店屋さんになるって言ってたじゃない
 今も雑貨とか好きでしょ?」
今度は頭ではなかった。心臓を、鷲捕まれたような思いがした。
私がほとんど忘れかけていた事も、彼女は全て覚えているのだ。
「そうだった…」
「なぁに?もう好きじゃないの」
隣りに座っている彼女が、瞳を近づけながら尋ねてくる。知らぬうちに鼓動は高鳴っている。
「いや…」
その瞳から逃れるように、視線を伏せた。
テーブルに置いてあった彼女の携帯が目に入る。携帯の、ストラップに。
猫の形をしたビーズストラップだ。赤い色のそれを、とても可愛いと思った。
何かを可愛いと思うなんて、とても久しぶりの感情だ。一瞬だけ、何かを取り戻せたような気持ちになった。
「今もすごい、好き…」
瞳を上げて呟く。もう一度彼女と視線を交わした。
何故彼女は、そんなにも嬉しそうな顔で笑っているのだろう。
高鳴った鼓動は留まる事を知らない。この高鳴りを、私は知っているはずだった。


「ね、雑貨屋さん見に行こう」
邪気のない声と、表情で立ち上がる。
追いかけるように腰を上げた私の手は、彼女の手の中にあった。
彼女は本当に、何者なのだろうか。
カフェから再び人波の行き交う舗道へ繰り出していた。
他の波に飲まれてしまわないように、互いの手を指を絡ませるほどしっかり繋いでいた。
この手の感触を知っている。
離したくなくなるこの尊さを知っている。
なのにどうしても彼女自身の記憶を私の中から見つけ出す事が出来ない。
雑貨屋に入り、商品を見つめながら、店から店を歩きながら、私達の会話は続いていた。
「ね、これちーちゃんが前に持ってたクマに似てない?」
「あぁ…あれね、今どこにいるんだろう…」
「失くしたの?うっわ、あんなに大事にしてたのに
 あたしはちーちゃんがくれたぬいぐるみ、今も大事に持ってるよ
 耳が赤いうさぎ」
「…アカマル?」
「そう!」
会話に上る全ての記憶が共通していた。
アカマルと名付けたうさぎがいた事を知っている。それを誰かにプレゼントした事も。
けれどそれを受け取った人物についてだけ何故か思い出す事が出来ない。
いや、思い出すまでもなく、目の前にいる彼女がその人なのだ。
けれどやはり彼女という人物だけが私の記憶の中から抜け落ちていた。
あけらかんとした喋り方も、甲高い声も、聞き覚えがあるような気がしているのに。
知っている事を、思い出せなくなるなんて、そんな事があるのだろうか。


記憶にない彼女でも、共に過ごす時間は楽しく、あっという間に過ぎていった。
私は彼女が自分から話す事以外、彼女について尋ねる事が出来なかった。
誕生日や血液型、どんな子供であったかなど。
それらを知る事が出来れば探していた記憶に辿り着けるような気もしたけれど
それを聞いても尚、記憶から彼女を見つけ出せなかったら、と思うと尋ねる事が出来なかった。
それに彼女自身、私が彼女についてとっくに思い出してると思い込んでるのではないかと思った。
ならば知ったか振りを続けよう。
ただ私が思い出せないだけで、彼女は確かに私の友人なのだ。
思い出せない事よりも、今彼女が隣りにいる事の方を尊く思っていた。
失った時間を取り戻しているような気がする。
本来ならば、いる資格のない彼女の隣りに、私は立っているのではないか。
それでも、今はそこに立ちたい。
彼女の隣りにいたい。
繋いでいる手を、出来る限り長く、離さずにいたい。
どんなにそう願っても、別れの時間は必ず来るんだと思い至った時
私の胸は酷く軋んだ。


「もう、七時かぁ」
賑わった繁華街と、反対側に面している公園に来ていた。
途中で一つだけ買ったカフェラテを、ベンチに座って交互に飲み合った。
買ったばかりのそれは熱くて、僅かずつしか口に含めない。
それでも初春の夜は風がまだ冷たくて、唇以外の全てが寒かった。
「近くに、ホテル取ってるの?」
「ううん、友達の家に居候させてもらってる
 学校すぐに始まるから、明後日には帰らなきゃなんだ」
「そっかぁ…」
彼女と居られるのは今日だけだという事をわかっていても
明後日には同じ日本の何処にもいないという事実が、無性に寂しかった。
やがて二人を繋ぐそれも熱を失い、知らぬ間に飲み終えていた。
私達はどちらともなく立ち上がり、公園の中を歩き出した。
その足は駅へ向かっているとも、背を向けてるとも言えず、いいかげんな足取りだった。
「前も、こんなふうに夜の公園で遊んだよね」
「え…」
「ちーちゃん、帰りたくないって言ってさ」
覚えている。今と全く同じ気持ちだった夜が、遠い昔に存在した。
「心配した親が先生にまで連絡して、帰ったら一晩中怒られるは、次の日学校でも怒られるは」
散々だったよね、と彼女は笑った。私は、笑う事が出来なかった。
「だって……」
「だって?」
言い澱んだ私を、少し意地悪そうな視線が覗き込んでくる。
夜の闇の中でも、その真っ直ぐな瞳を確かに見て取る事が出来た。
こんなふうに誰かと見つめ合った遠い夜がある。
あの夜を思い返しても、彼女が隣りにいた事を記憶から探せない。
それでも今の気持ちと重ねて、私はあの心細さを口にした。
「寂しかったんだよ」
ずっと一緒にいたかった。どんな色をした空の下でも、手を繋いで歩いていたかった。


「ごめんね…寂しがらせて」
彼女の手が彼女より少し高い私の頭まで伸びてきた。ぎこちなく撫でられる。指先が髪を梳き通る。
今のこの瞬間を、私はずっと待ち望んでいた気がした。
けれど記憶の欠片は、やはり隙間に届かない。
届かないまま、別れの時間はやってきてしまった。
手を繋いで、駅までの道を辿った。
気を抜くと押し潰されてしまいそうな人波の中、嫌でも足早に歩かなくてはならなかった。
やがて辿り着いた改札の前で、私達は手を繋いだまま再び向かい合う。
「地下鉄?」
「どうかなぁ、とりあえず友達に連絡取って、合流してから帰ると思う」
「そっか」
「うん」
甲高く喋っていた彼女の声も、今は語尾が力ない。名残惜しい、と感じてくれているのだろうか。
私は確かに、今を離れ難く感じている。
なのに連絡先の一つも聞けないなんて。
思い出す事の出来ない彼女と、今後も繋がる事は出来ない気がした。そんな資格などないのだと。
多分今日という日は、奇跡のように舞い降りた運命だったんだ。たった一日だけの奇跡。
宝物のような今日も、いつか忘れてしまう事があるのだろうか。
怖いと思った。忘れるなんて。思い出せなくなるなんて。
「元気で、嬉しかったよ」
その言葉と同時に、彼女は私の手を離した。別れの合図だった。
「ありがとう」
彼女から一歩下がって、離れた手を振りかざす。
その時、耳の奥でカンカンという音が僅かに響いてきた。踏切の音だ。
渋谷駅の改札の前で、踏切の音なんて、幻聴にも程がある。
身体を翻し、彼女に背を向けるとその音は一際大きくなっていった。
足を一歩進める毎にまた大きくなる。改札の中に入った瞬間、それはもう犇きと化していた。
耐え切れなくなって、彼女がいた方角を振り返る。
踏切が見えた。遮断機の下りた踏切の向こうに、彼女の小さな背中があった。
今日のものではなくて、遠い昔の後姿。
それは八年前と同じ景色だ。もうすぐ列車が駆けてくる。駆けてきて、私の前から彼女の姿を奪い去ってしまう。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけなかった。


「さーちゃんっ!さーちゃん!!」
叫んだのと同時に、私は駆け出した。改札の扉なんて私を踏み止まらせるものになり得ない。
あの時二人を隔てた列車に比べたら、こんなものに私達を引き裂く事なんて出来やしない。
私が彼女の前まで辿り着いた時、彼女は待っていたように振り返って私を見つめていた。
「さーちゃん…」
ようやく、彼女の名を呼ぶ事が出来た。その名を口にした瞬間、彼女の全てが、私の中で蘇った。
「やっと、思い出した?」
引き寄せられるように自然に、再び私達の手は繋がれた。
あの時、繋ぐ事の出来なかった時間だった。



八年前、今と同じ季節に、彼女は私の前から姿を消した。
「春休み、一緒に遊園地に行こうね」
叶える事の出来なかった約束だけを残して。


親友同士だった私達は、学校でも、帰ってからも、いつも一緒だったけれど
誰よりも大好きな彼女と、休みの日に二人きりで過ごす時間が、私は一番好きだった。
彼女と初めて行く遊園地を、心から楽しみにしていた。
不安があっても、彼女が隣りにいる中学生活ならきっと楽しいだろうと
春休みを迎えた後の全ての日々を、私は楽しみにしていた。


心の底から、甘え切っていたのだ。
まさか彼女が私の知らない遠い中学へ通う事も知らずに。


それを知ったのは、卒業式の日だった。
慣れ親しんだ二人きりの帰り道で、絶望は訪れた。
「一緒に遊園地に行くって言ったじゃん!!」
自分でも幼すぎるとわかっていた。わかっていても叫ばずにはいられなかった。
遊園地なんてどうでもいい。
小学校も、中学校も、全てが消えて無くなったって、ただ彼女の隣りに居られればそれで良かったのに。
私を置いて行ってしまう彼女を非難する事でしか、自分を保てなかった。
二人のすぐ側で踏切の警報機が鳴り響いている。
遮断機が下り切る寸前に、私はそれを潜り彼女の前を逃げ出した。
「出来ない約束ならすんな!!!」
それが私の最後の言葉だった。彼女の言葉を聞いてやる事が出来なかった。
踏切に背を向けた時、苛むほどの罪悪感が私を襲ったけれど、振り返っても私達の間は既に列車で遮られていた。
列車の一、二本なんてすぐに駆け抜ける。
わかっていても、そこで踏み留まり、もう一度彼女の顔を見る勇気なんて、私には持てやしなかった。


ただ幼かったのだ。
幼い心には大きすぎるほどの愛情を、彼女に対し持っていた。
そんな彼女を失う痛みに耐えられるほど、強くもなれなかった。
本当にただ、幼かっただけなのだ。
だから自分の中にある彼女の全てを消した。忘れてしまえばもう二度と失う事はない。
あまりに卑怯な方法で、私は自分自身を守った。
そんな卑怯で、臆病者である私の前に、もう一度彼女は現れた。
私を呼び止めてくれた。私を、覚えていてくれた。友達として。
私にそんな資格、あるはずがなかったのに。



「ごめん…ごめん…」
強く握った彼女の手で、私は泣いた顔を覆った。
いくら謝っても足りない。泣き喚いたって許されない。
そんな私を、彼女は無条件で許してくれる事を解っていたからこそ一層、自分で自分を許せなかった。
「もうちーちゃんてば、泣いて謝らなきゃならないのは、あたしの方だよ」
困ったように笑って、再び私の頭を撫でてくれる。
「あたしがずるかったんだ
 出来ないのわかってて、約束して
 少しでも長く、ちーちゃんの楽しそうな顔が見たくて
 ぎりぎりまで引っ越すこと内緒にして」
私の頬を両手で包み込んで、彼女は口にした。
おそらく彼女は、その言葉を八年間温め続けてきたんだろう。
「本当にごめんね」
首を振った。彼女に非があったなんて、少しも思えなかった。
恨みも悲しみも全て無かった事にして、ただもう一度友達に戻れるならば、他に何も要らなかった。
私にとっての一番は、忘れていた間でもずっと、彼女であり続けていたのだ。


「今度は絶対、約束守らせてね」
「…なに」
「遊園地、卒業したら日本帰るから、そうしたら行けるよ」
「二年後…」
「そう、二年後」
心細さは確かにあった。本当は明日も明後日も彼女の隣りにいたい。
彼女を取り戻した今の私の、素直な願いだった。
けれど八年前の約束を、今度は私が守らなければならない。
「今度は、待てるよ」
涙を拭いて、顔を上げる。強がりだけど笑顔を見せて、彼女に応えた。
「ふふっ…ちーちゃんだいすき!」
「!」
全てが叶ったかのような微笑みの後で、彼女は私に抱きついてきた。
これ以上ないほど近い彼女に、私は心臓の高鳴りを覚えたけれど
再び思い出したのは、彼女の腕の中が何より安心出来る場所だったという事だ。
ぎこちない手つきで、背中へと手を回す。
彼女の肩に顔を埋めながら、返せない言葉を胸の中で唱え続けた。
私も大好き、という言葉を。


身体を離すと同時に、私を包んでいた甘い香りも薄らいだ。名残惜しかった。
私達の脇を抜ける人の波が、時折好奇な視線をこちらに注いでいる。
私は構わなかったけれど、目の前の彼女は更に構うところがない。
「またね」
その言葉と同時に、私の頬を彼女の唇が掠めた。
ほんの一瞬の出来事だ。
私がその柔らかな感触に呆気に取られている間、彼女は人波の中に飲み込まれていってしまった。
残されたのは八年前と同じ約束と、高鳴ったままの鼓動。
それから、コートのポケットの中で知らぬ間に忍ばされていた彼女の連絡先。
小さな紙には走り書きのローマ字が並んでいた。
名前の下の文字列が、住所にあたるのだろう。
帰ったらすぐに手紙を書こう。彼女が家へ帰り着くより早く届ける事は出来ないだろうか。
出来なくても、少しでも早く届けられたらそれでいい。そして少しでも早く彼女からの返事を受け取る事が出来るなら。
例えそれが数週間後でも、数ヵ月後だとしても
今度は待てる。
毎日彼女を想い出したとしても、彼女を恋しがったとしても、待ってみせる。
「さーちゃん…」
二人でいた柱にもたれながら、彼女を攫った人波に向かって小さく呟いた。
半日前にやかましい声で私を呼び止めた彼女の姿は、もうどこにもいない。
ふいに降りてきた心細さから耐えるように、私は唇が触れた左頬へ、手を伸ばした。
指先でなぞるように、触れてみる。途端に顔が熱くなった。


胸の内で唱えるしか出来なかった“大好き”だという言葉も、いつか口に出来たらいい。
家路へと向かうラッシュアワーの列車の中で、私はそう願った。
車内を軋ませる不規則な揺れに右手の吊革で耐えながら
空いた左手は、やはり頬へと伸びていた。
顔の熱さは、そのままだ。
柔らかなあの感触に、私はすっかり絆されてしまっていた。
彼女の心を絆す何かが、私にもあればいいのに。
―今も大事に持ってるよ
明るい声で言ってくれた、今日の彼女の言葉が再生されたその時
確かに感じた。
それはほんの一瞬だけれど、どんな遠い距離も長い年月にも別つ事の出来ない
私達だけの絆だった。

三月の終わり、数週間ぶりに大雪が降った。
夜の札幌駅のホームは、屋根のある部分にラッシュアワーの人々が押し寄せ、犇めき合っている。
私達を通り過ぎていく、家路を目指す人達の横顔。
仕事場から一人家へ帰る人も、親しげな誰かと今から繰り出していく人達も
きっとこれからが一番楽しい時間なのだと思う。
そのどれもが、羨ましく目に映った。


今から一番大切な人との、長い別れを迎える私にとっては。


人波をよけ、寂びれたベンチへ腰掛けた。
私の隣りにボストンバックを置いた順子は、さっと駆け出して自販機の方を行く。
「はい、美咲」
「ありがとう」
程なくして駆け戻ってきた彼女の手から、ホットコーヒーを受け取る。
小銭は出さない。餞別の意味が込められているという事がわかっていたから。
普通は送り出す方が贈るものだけど、二人にとってそんな事は関係ない。
甘味を少しも感じさせないコーヒー缶へ口付けながら
ミルクティーを手に白い息を吐く、この世で最も尊い横顔を見つめていた。
「こんな天気で、止まっちゃわないかな」
「真冬はこんなの日常茶飯事だから大丈夫だよ」
心からの願いを、心配事のように口にしてみる。
私を置いていく彼女は、私の願いに気付かないふりをして、気丈にも南を目指すのだった。



発車時刻より一時間も早くこの場所に着ていた。
遠い土地を目指す寝台車は直前までホームには入って来ない。
三番線のホームの端には、気の早い旅行者の姿がいくつか覗かせていた。
四年前に二人同じ場所へ立っていた時の事を思い出す。
今とは正反対の気持ちだった。
同じ寝台車へ二人一緒に乗り込んで、高校の卒業旅行にと南へ向かった。
けれどそれが別れの始まりだった。
あの旅から四年経った今、彼女はあの土地で一人暮らしていく事を決めたのだ。
北に残る私を置いて。
二十二年間ずっと、同じ時を過ごした私を置いて。


私達の育った家は、二人が生を受ける前から隣り同士に建っていた。
誕生日が二ヶ月違いの私達は、お隣同士である両親達が仲良かった理由から
生まれた時からほとんどの時を一緒に過ごした。
毎日同じ通学路を歩き、同じ校内で過ごし、家族旅行でも一緒だった。
家族と変わらない存在。
私にとって、いやきっとお互いにとって家族以上の存在だった。
この世でたった一人の、半身だって言える。
嬉しい事があればそれを一番に伝えるのは彼女であったし
悲しい時には、彼女だけがその悲しみを取り祓う事が出来た。
胸にあるものは何でも言い合える、互いにとっての一番の理解者。
けれど、そんな彼女に私は一つだけ口にしていない事がある。



「美咲の方こそ、帰り気をつけてね
 私が行っちゃうからって吹雪と心中なんて事ないように」
「そこまでするほど、私の世界はじゅんで回ってるわけじゃないから」
笑って嘘をつく。
順子の笑顔を見ていたかったから。
本当は誰よりもずっと一緒にいたいという願いを、私は順子に伝える事が出来なかった。
順子がいなくても日常を過ごしていける、そんな強い自分を見せたかった。
それが強がりだと悟られていても、そんな強がりを見せられる自分でいたかった。


涙ながらの別れなんて、私達には似合わない。
順子と生きてきた時間が、何より幸せだったという想いを、今笑って送り出す事で伝えたかった。


それが、今日まで順子に守られて生きたきた私が
彼女の為に出来る、唯一の事だ。



ベンチに座る私達の目の前を、小学生ぐらいの子供達が
屋根のついていないホームまで目掛けて駆けていく。
頭上から降りかかってくる雪をものともせずに、小さな雪山を登って遊んでいた。
自然と、幼い頃の記憶が蘇ってくる。


私は、どこか間の抜けた子供だった。
宿題を誰より早く片付ける事は出来ても、翌日それを鞄に入れるのを忘れたり
テスト勉強を難なくこなす事が出来ても、テスト範囲を間違えたりする事が幾度もあった。
おまけに、この土地で生まれ育った割にはひどい寒がりで、雪道を滑らない日はなかった。


二十年以上生きて、ようやくそれらを克服してきているが
その全てが、隣りに順子がいたからこそ乗り越えて来れたものだった。


雪の休日には一歩も外へ出ようとしない私の家のベランダで、順子は大きな雪だるまを作り始め
顔の材料となるものを、窓の向こうで眺めているだけの私に求めてきた事があった。
まだ幼かった彼女の顔が、私に語りかけてきたのを覚えてる。
「雪だるま作らせたらクラスでも私の右に出るやつはいないけどさ
 顔はみーちゃんが作った方がうまくいくと思うんだー」
鼻を赤く染めながら、縁側に手をついて私の事を待っている順子。
「しょうがないなーじゅんちゃんはー」
渋々、といったふうに私は真っ白なベランダへ足を踏み入れていった。
本当は、窓に遮られていた二人の世界が寂しかった
本当は、寒さに臆する事なく外へ飛び出して一緒に遊びたかった
そんな私の気持ちを、いつでも彼女は気付いてくれていた。
素直になれない私の為に、彼女はいつも言い訳を用意して、私に寄り添ってくれた。

寒がりで、まだ小さかった身体には、雪を踏みしめる音すら耳に突き刺さるようで痛い。
それでも、あのひと時は本当に楽しかった。
凍てついた空気の中にも、温もりがある事を教えてくれたのは
他の誰でもない“じゅんちゃん”だった。



「また、遊びたいなぁ…」
その声に振り返ると、順子の視線も遊んでいる子供達に向かって注がれていた。
「美咲と遊ぶのが、何より楽しかったよ」
照れ臭いのか、私に視線を背けたまま、順子は口にした。
胸から込み上げてきた熱いものが、喉に詰まっているのを感じる。
それは私の方だと、言葉を返したかった。
幸せにしてもらっていたのは、いつも私の方だったと。
「本当に、楽しかったね」
「うん」
私がかろうじて笑って答えると、順子も笑って頷いてくれる。
その笑顔が、私と同じ強がりなんだって事を知っていた。
私が知っているように、順子も私の想いをきっと察してくれている。
今、この北の街に一人残されていく私でも
“今までいてくれてありがとう”と伝えたい気持ちが心にはあった。
けれど、それを口にしてしまえば、本当にさよならになってしまう事を知っている。
もう二度と、彼女の人生に参加出来なくなってしまう事を解っている。
寂しさを口にしない事で、彼女とずっと、繋がっていたかった。
私のそうした想いの全てを、順子は汲んでくれていた。
「ねぇ」
「うん」
「寂しいなんて言ったら、何処にも行けなくなってしまうから」
「…うん」
「だから言わずにおくけど、薄情なんて思わないでね」
こみ上げる涙を飲み込みながら、私は何も言わずに頷いた。
何処にも行かないで、という自分勝手な願いを沈めて、聞き分けのいい振りをする。
でも、嘘じゃない。
彼女の旅立ちを祝う気持ちも。この先の運命へ挑む彼女の背中を応援したい気持ちも。
この世で最も尊い人。
その本人が選んだ生き方だから、私にとってだって、尊い決断。



『三番線に、列車が参ります』
先程まで、私達と無関係な列車の案内ばかりを繰り返していたアナウンス。
それがとうとう、彼女を奪っていく列車がやって来る事を知らせてきた。
乗車ラインに立つ順子と、そして私。
列車が入る直前に、彼女の横顔に向かって語りかけた。
「たまには、私のこと思い出してね」
本当は毎日思い出してほしい、毎日私の事を望んでほしい
そういった願いを百万分の一まで小さく纏めて、口にした。
「美咲」
警笛の音に紛れながら、順子は私の名を呼ぶ。
同時に、すぐ横にあった彼女の手が私の手を包み込んできた。
並んで手を繋ぐなんて、何年ぶりの事だろうか。
「きっと、毎日会いたくなる」
「うん」
私の百万分の百万、という願いを彼女は察していた。
嬉しさと恋しさが募って、眼前を駆けてきた列車に視線を向けたまま
小さな声で頷く事しか出来ない。
「だから離れていても何も変わらないよ」
順子がそう言い終えた時、六号車のドアが私達の目の前に揺れながら止まった。
音を立ててその扉が開かれる。
二人を別つ、その扉の蒼さを私は一生忘れないだろうと思った。



「それじゃあね」
その言葉と同時に、彼女の体温が私の手の平から離れる。
列車に乗り込んでから、私の方へ向き直った時
順子は少しだけ泣き出しそうな顔を見せた。
それは私が、今日まで耐えて見せずにいた表情だった。
伝染しないように、今度は私の方から微笑みかけてみせる。
「またね、じゅんちゃん」
彼女の強がりを守りたかった。
今日まで彼女に守られてきたように、せめて最後だけは私が彼女を守ってみせたかった。
そんな私に応えて、順子はもう一度気丈な笑顔を見せてくれる。


『まもなく発車します、ご乗車の方はお急ぎ下さい』
アナウンスと共に、発車メロディーが鳴り響いたその時
順子は私の腕を掴み、ホームの端ぎりぎりまで引っ張って身体を寄せてきた。
呆気に取られている私の耳元へ唇を寄せ、硬い声でそっと呟く。
囁かれた瞬間、それが“二度と忘れられない声になるだろう”という確信だけが胸に過ぎった。


順子の手は、すぐにも私の身体を白線の内側まで押し返し
やがて閉まる扉が、二人の世界を隔てていった。
最後の一瞬まで、絶えず笑顔で送り出そうという誓い。
そう胸に決めていたはずの私は、ただ瞳を丸くさせたまま
ゆっくりと横へ流れていく彼女に、視線を傾ける事しか出来なかった。
その時私の目に映っていた彼女も、口角を下げ
扉の窓に手をついて静謐な眼差しを私に向けるだけだった。
間もなくそれも見えなくなり、加速する藍色の車体だけが私の視界を奪っていく。


〝歳取ったら、必ずあの家に帰るから
 そうしたら死ぬまで、一緒に暮らそう〟


目の前で響く列車が駆ける音よりずっと、胸に轟いた最後の言葉だった。



「歳取ったらって、いつよ…」
列車の姿が夜の闇に見えなくなってから、私は呟いた。
順子のあの言葉は、プロポーズだったのだろうか?
わからない。
いつでも私の理解の範疇にいた彼女は
別れ際になって、解けない疑問を残して行ってしまった。

次に会った時に必ず、問い質してみなければ。
いつ会えるかも約束なんて何もない。
けれど、彼女が自分の人生を自分の為に選び、歩み出したように
私も、そんなふうにありたい。
何より自分の為に生きてみて、その上で彼女を好きなのだと、彼女に伝えたい。
幼馴染だとか、いつも一緒にいたからとか、そんなものを通り越して
その時に初めて、彼女に想いを伝える資格が持てるのだと思う。
次に会えるまでにその資格を得る為、私は立ち尽くしていたホームをようやく後にした。


「もう、会いたくてたまらないよ」
改札へ向かう階段を下りる途中、溢れ出しそうな涙を堪える代わりに
自分にしか聞こえない声で寂しさを口にする。
同じ孤独を順子も今、揺れる車内で耐えているのだと思えば、ほんの少し救われる。
二人にだけ分かち合えるこの孤独が、新たな絆として二人を繋ぐ事が出来れば。
今のこの別れが、二人の人生にとっての新たな始まりだと、信じたい。


駅前の人混みを抜け、吹雪に塗れる道を確かな足取りで踏みしめながら
距離が離れていく今も、彼女に守られている事を感じていた。
雪道を滑らない歩き方も、強風に撒かれない傘の差し方も、全部順子が教えてくれたもの。
何も変わらずに明日からも私を守り続けていくもの。
一人になった今、彼女の愛に包まれているような、そんな気持ちが
心を掠めて離れなかった。

「なっ…」
夕陽の射し込むドアの前に立った瞬間、私の呼吸は止まる。
「あぁ、水谷さん」
穏やかな声に呼びかけられた時、私はもうその人物に背を向けて駆け出していた。
―なにしてんのこいつら!
私が見たのは部室の机で仰向けに横たわっている名前も知らない後輩と
その身体に覆いかぶさる五十嵐さんの姿。
視界に入ったのは数秒足らずで、うろ覚えだけれど
五十嵐さんの手が後輩の制服の下にもぐり込んでいたような気がする。
―意味が解らない
いくら校舎の隅の、一番閑散とした場所だからって、ドアも閉めずにあんな事しているなんて。
いいや、そんな事よりあんな行為をしている事自体が非常識だ。
身体を重ねているのが何才の女だとか、男だとか、そんな事は関係ない。
私の視界で、あんな目の前で、他人の情事を目撃してしまった事が耐えられない。
さっきまで皆が呼吸をしていた空間で、あんな行為に及んでいた事が信じられない。
求め合う二人だけに耐えられる空気を、一緒に吸い込んでしまったようで
私の胸は、全速力で駆けて高鳴る鼓動の痛みとは別に、吐き気のようなものを感じていた。
―それもよりによって、五十嵐さんだなんて
誰かが問題ではないといっても
一番見てはいけない人物の、その現場を見てしまった気がした。
あの場から離れるほどに、見たくなんてなかったという思いが胸に込み上げた。


長い廊下を駆け終わり、校舎から駅までの道のりを駆ける間
どうして忘れ物なんか取りに行ったんだろう、と何度も自問した。
部室のロッカーに置いてきた水筒なんて、一日そのままにしておいても
中の飲み物が傷むだけで、次の日家から注いで来れないだけの話だ。
私はわざわざ門の外から取りに戻った自分自身を呪った。


結局、電車に揺られて家に帰り着いてからも
放課後に目撃してしまった光景は瞼の裏に貼り付いたまま消えず
夜ベッドにもぐり込んでからも、私の安眠をかき乱し続けた。
そして瞼に再現される衝撃の現場よりも、更に強烈だったのは
あぁ水谷さん、という不自然なほど落ち着いた彼女の声。
この一晩で私は何度五十嵐さんの声を再生したかわからない。
あの現場に不釣合いな彼女の柔らかな声に、私はやたら苛立ちを覚えていた。



ほとんど熟睡する事が出来ずに目覚める朝ほど辛いものはない。
何より辛いのは、一晩悩ませた煩いが次の日も悩ませ続けるという事だ。
―どんな顔で会えばいいやら
重い身体を引きずって登校した私は、いつもなら顔を合わせる事のない
校門や下駄箱、階段、廊下の数ある箇所を、注意を払いながら歩いていた。
五十嵐さんとも、他の誰とも目を合わせないように顔を伏せながら
知らずに目の前や横に近付いている事がないよう、神経を尖らせていた。


私と五十嵐さんは、同じ学年でも、ほとんど口を利いた事がなかった。
クラスが離れていたので、部活以外で見かける事もほとんどなかったし
部室で顔を合わせても話す理由はない。
私達の間には同じ文芸部の、部員同士だという以外、何も接点はなかった。


文芸部は、私が人生で初めて入った部活だ。
中学までは帰宅部だったけれど、私の入った高校は全員入部が校則として義務付けられていた。
入学式でそれを知らされた時、私はしくじったように舌を打ち付けた。
と言っても、生徒全員が部活動に精励すべしなんていう校則があるはずもなく
やる気のない生徒は文芸部やイラスト部に所属だけして幽霊部員となるのが常だった。
私も同様の理由で文芸部に入ったくちだ。
けれど高校に入ってから、クラスメイトとの会話を億劫に感じ始めるようになった私は
休み時間が至極退屈なものへと変わってしまった。
そんな理由から、常に本を傍らに置くようになる。
本を読んでいれば、話しかけられる事もないし
もし話しかけられたとしても、その会話が長く続く事もない。
本が好きというより、外界から自分自身を断絶してくれる便利な道具として私は利用していた。
そしてどうせ利用するなら面白味のあるものがいいだろうと自然に考えた。
そんな訳で幽霊部員になるつもりで入った文芸部に
頻繁に顔を出すようになったのは今からちょうど一年ぐらい前の事だ。
ここには興味深い本が多く積まれてある。
三年生の先輩や、ほとんど顔を出さない顧問が時々本を入れ替えているようだが
私が手に取った限り、ほとんど外れがなかった。
部員どころか部活動それ自体がやる気のないように見られがちの文芸部だが
文芸、と名乗るだけあって、自分で話を書いている部員も何人か所属している。
そういう人達で作った小冊子を読むのも、ここへ顔を出す一つの理由になっていた。
稚拙な書き出しに失笑する事もあったが、私の求めている面白味は確かに健在していた。


幽霊部員でなくなったと言っても、私は熱心に活動している部員とは明らかに違った。
放課後に顔を出しても、部員の誰とも口を利かずに私は一人本を選び読み耽っている。
次の日の休み時間に読む分の本を選び終えると
それを鞄に入れて、さっさと部室を後にする、それが私の日課だった。


私が、部員の誰一人に関心を示さない中で、クラスも違う彼女の名前だけ知っていたのは
彼女の書いた作品を読んだ事があったからだ。
部員の人達が書いた物を読む時、私は一々誰が書いたかなんて意識したりはしない。
別に彼女の書いた作品だけ、ずば抜けて特別に感じられたからでも何でもない。
私が部室で小冊子に目を落としていると、開いたページを後ろから覗き見た彼女が
私の背中に語りかけてきたのだ。
「それ、私が書いたんだぁ」
振り返った時に見た彼女の顔は、今でもはっきりと思い出せる。
既成の言葉では言い表せない、誇らしさと恥じらいを持ち合わせたような表情。
こんなふうに笑う事の出来る人を、私はいいなと思った。
羨むような、憧れるような、ほんの少し温かさを持った、そういう気持ちだ。
この学校に入って初めて出逢った、そんなふうに思える人
それが五十嵐さんだった。
あの時読んだ“子供達が動物園を占拠して戦争を始める”という話は
しばらく私の夢に出て来ては、私の安眠を妨害してくれた。


そんなふうに彼女は、私の意識の隅に住みついて離れないままの存在であったが
それ以降、彼女と親しくなる機会も、親しくなろうという気概も
私の持ち合わせているものでは決してなかった。
彼女と口を利いたのはその時一回きりで、ただの部員同士である関係に何も変化は起きなかった。


そんな中で、私の日課は続いていた。
昨日の放課後も、そんな毎日の一つに過ぎなかった。何ら変わるところはないはずだった。
違ったのは、本を読んだり選んだりしている内に
いつもより帰る時間が遅くなってしまった事と、いつもならするはずのない忘れ物をしてしまった事だ。
いつも忘れるような性格をしていたら、きっと取りに戻る事もなかったんだろう。
帰る時間がもう少し早ければ、あんな場面に居合わせる事もきっとなかった。
でもまさか私が帰る時、最後に残っていた二人があんな事になっているなんて
想像出来るはずがない。最初から想像出来るような思考を持ちたくもない。



憂鬱な朝の幕がチャイムごとに開いて
あっというまに午前は午後と入れ替わり、昼休みの時間となった。
午前中、一番安全な教室から一歩も出ずにトイレを我慢してきたがそうもいかない。
祈るように顔を伏せたまま女子トイレに向かい、そして出てくると
待ち構えていたかのように五十嵐さんが、私の前を歩いてきた。
思わず足がすくんでしまった。
トイレの入り口で呆然と突っ立っている事しか出来なくなった私に向かって
彼女は肩を揺らした。
「こんにちは、水谷さん」
今まで部室で顔を合わせても、挨拶などして来なかったはずの人が
今日は私に気付いた途端、柔らかく声をかけて、目の前を通り過ぎていく。
昨日の事なんて意に介さないその微笑みに
私は一晩煮えたぐらせた苛立ちに再び火をかける思いがした。
あの微笑みだ、と確信した。
昨日、私の名前を呼びかけてきた時の彼女の顔が、この視界に入る事はなかったけれど
今見た微笑みがそれと同じものである事に確信が持てた。
その事がまた燃料となって、苛立ちは火を噴くかの如く募り出す。
さすがに同じ事で繰り返し怒りを保てるほど、私は熱い人間なんかじゃない。
放課後にもなると、昨日の事はもういいかと、不思議なほど寛大な気分となって
昨日までと変わりなく、部室へと足を運ぼうとしている自分がいた。


昨日のあの時間より、まだ少し夕陽が高い位置にある頃
私は旧校舎の一番隅にある部室の前まで辿り着いた。
廊下を歩いている時から響いていた、何人かのはしゃぐ声に安心した。
もしも昨日と同じ静かな雰囲気の部室だったら
私は中に入る事も出来ずに引き返していたかもしれない。
そして永遠に水筒を取りに行けなくなるのか、と
例え話の簡潔なバッドエンドに、一人笑いを堪えながら室内に足を踏み入れた。


私が来た事に誰も気付かないほど賑やかな室内で
私に向けて来る二人分の視線を、私は皮膚で感じていた。
五十嵐さんのものと、そのお相手である後輩の女の子のものだ。
無視すれば良かったはずなのに、私は後輩の方へじっと視線を重ねてしまっていた。
足先から頭の天辺まで食い入るように眺めていると、彼女の方から視線を外してきた。
そして居た堪れなくなったのか、鞄を抱えるとそそくさと部室から出て行ってしまう。
背中まで伸びた後ろ髪を見つめながら
私は自分が彼女を追い出したような気になって、罪の意識を僅かに感じていた。
しかしそんな罪悪感より胸に蟠ったのは
この場を後にする彼女に対して、五十嵐さんが目もくれていなかった事だ。
「高橋さんもう帰るの?」
廊下ですれ違った部員に、そう話しかけられている声が室内まで届いて
昨日五十嵐さんの下で仰向けになっていた後輩の名が知れる。
人の名前を覚えるのが苦手な私は、すぐにだって忘れる事が出来るはずだった。
なのに頭の中では「五十嵐さんと高橋さん、五十嵐さんと高橋さん…」と
何度も繰り返し、二人の名前が読み上げられてしまっていた。


やがて室内の賑わいは一層増していく。
人が増えたのではなく、部員達で何か計画を立てているようだった。
「よーし!今日は月一のお茶会の日に決定だー!」
まるで大人のする飲み会のように、その場にいるほとんどが拳を掲げていた。
あのハイテンションについていけない私は
きっと大人になっても同じように遠巻きで眺める事になるんだろう。
私以外の席についていた全員が、次々に立ち上がり鞄を肩にかけていく。
そんな光景の中、一人だけ帰り支度始めない人影があった。
「五十嵐も来るでしょー」
鞄を置いたままの彼女に、気の強そうな先輩が声をかける。
「先輩、私今日中に読みたい本があるんで、残ります」
「なんだよつれないなー」
そう言って先輩の一人が五十嵐さんの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫で回す。
はしゃいだように笑っている彼女。
彼女の部室での過ごし方は、熱心に読書や執筆をする時もあれば
部員達とだらだら喋り明ける時もあった。
誰にも囚われず、その日自分の好きな事をして、笑いたい時に笑う彼女は
誰の目から見ても皆に愛されている人そのものだった。
先輩達に名残惜しまれる彼女を見つめながら
囚われていなくても人と打ち解ける事の出来る彼女へ、羨望の思いを募らせていた。
この学校で、友達を作れない事を寂しいと思った事はないのに、不自然な望みだ。
はしゃぎ合う部員達の姿をぼんやり眺めていると
程なくして室内に流れ込んだ静寂の重さに私はようやく気付いた。
その場は思いもかけない事態となっていた。
先輩達のお茶会を断ったのは五十嵐さん一人で
それに参加しないのが当然となっているのも私一人。
という事は、私達が二人きりになるのは必然に違いなかった。
廊下まで先輩を見送った彼女が部室に戻る前にこの場を出なければと思ったが
私が立ち上がる前に、この部室の空気は私達二人の物になってしまっていた。
こんなところで呆然と腰かけていないで
部室を出ていく人々の群れに紛れて、私も帰ってしまえば良かったんだ
そう思っても後の祭りだった。


「今日も何か読んで帰るの?」
腰かけたまま動けずにいる私に向かって、五十嵐さんは親しげに声をかけてきた。
「えーっと」
正直、今すぐに帰りたかった。
昨日の、あの現場であるこの場所で、二人で空気を共有し合う自信がなかった。
「とりあえず…これを返そうかな」
「見せて」
鞄から取り出した地味な表紙の書籍を、私の手から取り上げると
彼女は隣りの席に腰掛けて、その本をぺらぺらとめくり始めた。
私が何も口に出来ずにいるように、彼女も無言で本に目を通していた。
耳に響いて来るのは、この窓際とは反対側に面しているグラウンドからの
あまりに遠い掛け声と、ページをめくる紙の摩擦音。
時折私達の座っている古い木製の椅子が、きしきしと微かな悲鳴を上げている。
やがてそれらより音量を上げてきたのは私自身の心臓の音だった。
何か口にしなければならない、そう急き立てられていた。
「ご…ご…」
「ん?」
彼女が瞳を上げた時、私はようやく言葉を並べられた。
「ごめん…私のせいで“彼女”帰っちゃったみたいで」
「彼女?」
「た、高橋さん」
「あぁ」
そういえば、といった態度で五十嵐さんは頷いていた。
「別に水谷さんが気にする事じゃないと思うよ」
一番気にすべき本人が、いかにも気にしてなさそうな口調で語りかけてきた。
視線は本に落としたままで“どうでもよく思っているの”を
身体のライン一つ一つから表現しているように感じられた。
昨日目撃された事は五十嵐さんにとって、本気で大した事ではなかったのだ。
そういう神経に、疑念を抱かずにはいられなかったが
目の前の彼女が頬を染めて狼狽えている姿を見たかったかと問われれば、そうじゃないと思う。
あんなに苛立ちを感じていた昨日の声も、昼間の態度も
今私の目の前で平気そうに座っている彼女の姿も
一番しっくり来るというか、他の人とは違う自然な態度というものがこの人にはあるように感じた。
さっきまで逆立っていた自分があまりに間抜けに思えて、私は肩を落とした。


この時、自分から持ち出した話題を、すぐに逸らしていれば良かった。
目の前にいる彼女が本を閉じ、次の言葉を口にした瞬間、私は語気を強めて遮った。
「昨日はさ」
「あの!高橋さんと付き合ってることは誰にも言わないから!」
五十嵐さんの口から、昨日の事について触れられるのがなんだかとても怖くなって
自分から宣言して、この件を終了させようと思った。
けれど五十嵐さんから出てきた返事は、話を落着させるどころか
私の中で渦巻いている雑念を一層かき乱すものだった。
「付き合ってる…?」
思いもよらない言葉をかけられたように、目を見開いていた。
そしてその驚きが収まると静かに、けれど心から可笑しそうに、笑い声をたてた。
「水谷さん、誤解してるよ」
誤解とはどういう事か。あんな真っ最中な現場を見て、そんな言葉を鵜呑みに出来るはずがない。
それとも本当に、何か事情があって、二人あの体勢でいたのか。
制服の下から胸に触れる事情が、卑猥な理由以外に何があるのか、私には思いつかなかった。
「誤解ってなに」
嫌でもまた頭の中で再生されてしまう昨日の二人の光景。
高橋さんの腕は確かに、五十嵐さんの首に絡みついていた。
あれを想いを寄せ合う二人の光景じゃないとしたら、何と説明を付けるつもりか。
「私、誰とも付き合った事ないよ」
―意味が解らない
昨日と全く同じ言葉を胸で唱えていた。
誰とも交際した事がないのは私も同じだから別に不思議とは思わない。
おかしいのは誰とも付き合った事ないという言葉が
高橋さんとも付き合っていないという意味に繋がるからだ。
「付き合ってもないのにあんな事するの?」
驚きを隠せずにいる私の前で、五十嵐さんも少し意外そうな顔をする。
「昨日のあれは、高橋さんが好きだって言ってきたから、触っただけだよ」
「触ったって…五十嵐さんの方は好きじゃないんでしょ?」
「うん、でも嫌いでもないし」
ここまで言い切られてしまえば、驚くのも馬鹿らしくなる。
五十嵐さんとはそういう人なのだ。
そう認識し直してみると、不思議なほど心が落ち着きを取り戻してきた。



部室の両端の机に、山のように積まれた本を二人で物色しながら、会話は続いた。
「高橋さんも、五十嵐さんと同じ考えの人なのね」
想いが叶わない上に押し倒される女の子の心境は、私が考えるところによると絶望そのもので
それを愛しそうに受け入れていた高橋さんも、私にとっては“奇怪な人”に違いなかった。
「さぁね、でも大抵の人はそれで納得してくれるよ
 やる事さえやってしまえば、恋心も熱を失っちゃうもんだよ」
その台詞に似合いの、冷めた笑い浮かべて口にしていた。
大抵の人って、物心ついてから十年ちょっとの間、彼女は一体何人の女に告白されたというんだ。
彼女の顎のラインに沿って揺れている短めの髪は、確かに“格好いい”と表現しても申し分ない。
けれど顔立ちは美麗さと愛らしさを兼ねたような、明らかに“女顔”だ。
女性から黄色い悲鳴を浴びる女性は、決まってボーイッシュな人であると思い込んでいたし
良き後輩、良き先輩として、部員皆の人気者という立場の彼女が
同時に女性から恋愛的な意味で言い寄られてばかりというのは解せなかった。
「そんな単純なものなの」
「十代の恋愛なんて、そこに至るまでのひと悶着が主じゃない?」
この歳になっても恋という気持ちに出会った事のない私には「さぁ」としか答えようがなかった。
わずか十六歳、いや彼女の誕生日を知らないので、もしかしたら十七歳かもしれないが
十代の内に“十代なんて”と言い切れる彼女の気概に、少し感心する。
今日まで一体どういう人生を送ってきたのか、五十嵐さんに対して漠然とした興味が湧いてきた。
そんな思いから、自然と口をついて出た言葉がきっかけとなってしまった。
「五十嵐さんって、この部室そのものみたい」
「え?」
「色んな本を貯め込んで、人に読ませて、また新しい本を取り入れて」
さすがにここに置いてある本の数ほど経験はないんだろうけど、と
彼女に向かって私は笑って付け加えた。
冗談を言ったつもりでいた私は、五十嵐さんも笑っているだろうと勝手に思い込んでいた。
私の身体は机にもたれかけたまま、無防備に背を向け、本の背表紙を眺め続けている。


近い本へ手を伸ばそうと向き直った時、息がかかるほど近くに五十嵐さんの身体があった。
掴まれた腕に呆気にとられ、今度は顔まで寄せてきて、私の顔に直接語りかけてきた。
「19人」
「は?」
「私が今まで女の子に触れてきた数」
その言葉と、寄せられた顔を見て、私はようやく悟った。
この人は“来るもの拒まず”なんじゃない。“先手必勝”の精神を持った人なんだと。
「記念すべき20人目は、水谷さんだったら嬉しいなぁ」
そう言って、彼女は私を机に押し倒してきた。
あの夕暮れに、後輩の女の子の身体へ被さっていたのと全く同じように。
昨日より高く、明るさを持った夕陽に照らされて、彼女の亜麻色に近い髪が金色に染められていた。
私はそれをとても、とても綺麗だと思った。
ずっと見ていたいと思うほどに、とても。
「五十嵐さん…」
自分でも驚くほど落ち着いた声で、私は彼女の名前を呼んだ。
その声に答えるかのように、顔を寄せてくる彼女。


パーン、というには少し鈍い音が響き渡る。
「いたた…」
顔を近付けられた瞬間、私は彼女の頬へ平手を力一杯打ちつけていた。
殴るほど強い平手打ちは、あまり乾いた音を鳴らさない。
じんわりと腫れた頬を左手で押さえながら、彼女の身体はゆっくりと私から離れていった。
そしてさっきまで座っていた場所にもう一度座り直すと、改まった顔で言い放つ。
「拒まれたの、初めてだよ」
この学校の女の子は結構寛大なのになぁ、なんて口にしている。
うちの学校の女どもは全員、色情狂か。
私はまさか毎日顔を並べている同じクラスの女子達も
その19人の中に含まれているのではないかと頭に過ぎって、思わずぞっとした。
けれどそれを確かめる気にもなれない。
19人目である高橋という後輩と抱き合っていた現場を見ただけで私にはお腹一杯だ。
溜息をつきながら、私も五十嵐さんと同じように座り直すと
真隣りの彼女は、傷めた頬をさすりながら、笑いかけてきた。
「水谷さんて、変わってるよね
 この学校で一人だけ違う感じ」
あけらかんとした口調だが、特にばかにされているという気はしなかった。
それでも私はつい、冷たい言葉を放ってしまう。
「しらみつぶしに当たれば私以外にもまだ何人か
 あなたを拒む人がいるはずだよ」
「うーん、そういうところだけじゃなくて」
私の受け答えに噴き出してから、頬へ伸ばした手をあごに当てると、考える仕草を見せていた。
「例えば、迫ってきた私の前に今もこうして座っているところとか」
確かに、と心の中で頷いてしまった。
「陳腐だけど、こういう時女の子って
 『もういや!顔も見たくない!』とか泣いて駆け出していきそうなものなのに」
五十嵐さんは自分の腕を抱いたまま大袈裟に上半身を左右に揺らすと
“襲われかけた少女”の真似をした。
終始笑っているところが人を小ばかにしているように見えるのも確かだ。
もし私が本当にそういう反応を見せていたとしても、同じように笑って済まされるんだろうか。
そう考えると、醜態を見せなくて良かったという安堵感が込み上げてきた。
もちろんそういう態度というのは条件反射に出てしまうもので
私には同い年の女に迫られたぐらいで
泣き出してしまうような神経は洟から持ち合わせていなかった。
迫られる事自体が初めてなので“ぐらいで”と言い切れるかどうかは確信を持てないけれど。
「あんなに強く打った上に逃げ出しでもしたら
 私の方が悪者みたいじゃない」
「ふふ…じゃあこれでおあいこかな?」
喧嘩をしたのとも違ったはずだけれど、私に向かって手を差し出し、握手を求めて来る五十嵐さん。
「私も謝らないから、水谷さんも謝らなくていいよ」
時間が経つほどに腫れていく彼女の左頬を見ながら、私の方こそ謝るべきかとも思ったが
そう言い切る彼女に甘えて、私は黙って頷いてから、握手に応じた。
そんな私を見て、五十嵐さんは満足げな表情を浮かべる。
しばらく沈黙が流れていたが、彼女は笑顔のままだった。
釣られて私まで笑みが込み上げてくる。
引きつったものではなくて、自分でも不思議なほど自然にこぼれてきた笑みだ。
私の隣りにいる事を楽しんでくれているかのような
そんな空気が慣れなくてこそばゆいけれど、私はこの空気を好きだと思ってしまった。



その日私達はもう、本に手を伸ばす事もせずに
お互いに向かい合ったまま、話を続けていた。
高校に入って、この部活に入って、初めてこんなふうに過ごす放課後だった。
教室でクラスメイトとこんなふうに長い時間話した事もない。
慣れなくて、気も張ったが、私の中で蟠っていたものが流れていくような
そんな時間だった。

その次の日からだ、彼女が廊下ですれ違っただけでも私に話しかけてくるようになったのは。
最初、他の人が近くにいる前で彼女と話をする事にたじろいだが
それも少しずつ慣れてくるようになった。
部活の時も、五十嵐さんは先輩や他の部員達と話をする一方で
時々私のいる隅の席にやってきては、声をかけてくるのだった。
事の発端の当事者である高橋さんは、私と視線が合うだけで帰る事はなくなったが
私が五十嵐さんと話をしているのを見て、すごい剣幕で睨んでいる時があった。
気にも留めない五十嵐さんの態度が伝染ったのか、やがて私も気にしなくなっていた。
それでも、例え彼女と話しをする事に慣れてきても
他の人も聞いているようなところで、私は私の核心に近い言葉を発する事が出来なかった。
それは五十嵐さんも同じであるような気がして、近しい人のように感じていた。


私達は偶然すれ違ったり、部室で居合わせた時位しか話す機会がなかった。
わざわざお互いの教室に訪れたり、一緒に下校するという事もなかった。
私が五十嵐さんと二人きりで話をしたのはこの前の一度きりで
偶然に任せるには、次があるのかさえ検討もつかない。
それでもその機会は、意外とあっさり訪れた。



その日もいつもと同じように部室へ足を向けると
閑散とした室内に五十嵐さんの姿だけがあった。
「あ…」
一人座っている背中に声をかけようとすると
その前に彼女は私の姿に気付いて、同時に立ち上がった。
「あぁ良かった、来て」
ドアの前で立ったままでいる私の前までかけてきて、彼女は嬉しそうに笑いかけてくる。
彼女のこんな笑顔を見たのはこの前、話した時以来のような気がした。
「どうしたの一人で…他の人は?」
「うん、今日は部室でぷちお茶会だからって
 ついさっき買出しに出かけたんだ
 私は部室荒らしが来ないようにお留守番犬」
そっか、と頷きながら彼女が座っていた隣りの席に鞄を置いた。
この前と同じように隣り合わせで二人は腰を下ろした。
「珍しいね、五十嵐さんが留守番なんて」
「うん…まぁね」
部員の皆が買い出しに行くのはよくある事で
そこで五十嵐さんが留守番しているところは見た事がない。
いつもは他の部員の人が、遠慮がちに私まで声をかけて頼んでくるか
毎回私に頼むのに申し訳なく感じた時に、大人気ある先輩が代表して残ったりするのだ。
五十嵐さんは、そういう時に一緒になってはしゃいで買物に行くタイプだった。
こないだみたいに読みたい本でもあったのだろうか。
そう思い至ったところで、この前二人で過ごした時間を振り返った。
一緒になって本を物色したりはしたけれど、五十嵐さんはぱらぱらとページをめくるだけで
結局は二人で話をするだけの時間に終わっていた。
―わざと、残ったの?
そんな疑問を持っても、本人に尋ねられるはずもない。


五十嵐さんとの会話を続けたまま、この前と同じように今日読んでいた本を鞄から取り出す。
積まれた場所に戻そうとすると、彼女もまた同じように
私の手からそれを取り上げるのだった。
「水谷さんはさ、本が好きなの?」
ぱらぱらと中身をめくりながら、五十嵐さんは尋ねてくる。
その質問は、不自然なものだった。
文芸部に所属していて毎日、本を読み漁りに来ている私に
そんな事を尋ねてくるのは、きっと五十嵐さんをおいて他にいない。
そしてそれを尋ねてきた彼女は
きっと私が“好きだ”と当たり前みたいに口にしない事を理解している。
たった一言の質問で、五十嵐さんがどこまで私という人間を把握してるか、わかり得た気がした。
「好きとはいえないね
 他にする事がないから、読んでるだけだし」
「そっかぁ」
私の情けない返答に、彼女は表情も変えずに頷いた。
なんだかそれに、とても心が安らいだ。
「よかった」
「なにが?」
「それなら、私が話しかけても読書のじゃまにはならないかなって思って」
意外な事に、五十嵐さんは私に声をかけながら自分が
私のしている事の妨げになっていないか心配しているようだった。
あまりに見当違いな気遣いだ。
「それは…」
「違う?」
「いや、じゃまだなんて思ってないよ」
それは確かだった。
けれど私が本に目を落としている時に、五十嵐さん以外の人に声をかけられたとしたらどうか。
私はそういう人との会話を避ける為に、本を盾に利用しているのだ。
そうした、さっき口にした事より更に情けない話を口にしかけて、慌てて仕舞い込んだ。
聞かされても何にもならない話だし
その上“なぜ彼女だけ特別なのか”という疑問に辿りつくだけだった。
自分でもわからない疑問を、他人にぶつけるわけにはいかなかった。


「ねぇ、水谷さんはなりたいものってないの?」
途端に話題を変えてくる。これはあまりに唐突な質問だった。
「…考えたこともないな」
本当に、考えた事がなかった。
今五十嵐さんが尋ねて来なければ
その疑問を頭に思い浮かべる事なく一生を終えてたかもしれない。
二年生の二学期の今、受験の準備期を迎えようとしている時に言うには大袈裟な表現だけれど。
「水谷さんはね、司書がきっと似合う」
「ししょ?」
「図書館で本の整理をする人」
「…悪くないかも」
でしょー、と言って嬉しそうに笑っている。
釣られるように私も笑いながら、本当に悪くないと思った。
どうやってなれるものなのかは知らないけれど
この先他になりたいものが見つからない場合は、本気で目指すようになるかもしれない。
「でも水谷さんが司書になっても、私の本は置いてもらえないかな」
「五十嵐さんの本?」
聞き返しながら、五十嵐さんが作家を志している事に、その時気が付いた。
文芸部で小説を書いている部員は、皆趣味として書いていると思い込んでいた私は
それを夢に持つ彼女に驚くと同時に、どこか眩しく見えるような気がした。
しかし五十嵐さんの口から返ってきたのは、更に驚くべきものだった。


「私はねぇ、官能作家になりたいんだ」
「かん、のう…?」
「エロ小説家だよ」
そんな下劣な響きに言い換えなくても意味はわかる。
私はそれを夢だと答える五十嵐さんに怯んで、言い返しただけだ。
「この間読んだのは、すごく子供らしい話だったけど」
私は五十嵐さんの書いた話を読んだ日の事を思い出した。
「そりゃあ、部活で出す本にえっちなものは載せられないよ~」
肩を竦めて笑う。私も少し噴き出してしまった。
つまり五十嵐さんは、家で密かにそういったものを執筆しているという事だった。
「水谷さんが読んだ話の通り、私すごく子供なんだよね
 子供心にそういった事を知り尽くしたいって思ってる」
動物園で動物を従えて戦争を始める子供達、という話の過激さと
そういった行為の過激さは、自分にとって同じものだと、五十嵐さんは語った。
もしかしてこの校内を戦場に換えて見ているのか、と私の頭には過ぎった。
「だから…19人と」
「そう」
私の簡潔な一言に、彼女は笑って頷く。
悪びれもしない、その顔を見ていると
本当に悪い事ではないかのように感じられてくるから不思議だ。
五十嵐さんが何をどんなふうに描きたいかは私の理解に及ばないけれど
この歳で、将来を見据えて真剣に勉強している、そういう真面目な面として見る事も出来た。
毎晩塾へ通い、参考書を紐解き続ける受験生とは全く違う勉強だけれど。
「でも普通、それなら男と寝ようとするものじゃないの」
「普通って?」
「いや…ごめん、普通って私にはわかんないけど、なんとなくイメージで」
聞き返されて焦った。“普通”なんて、私が語るにはあまりに遠すぎる言葉だ。
普通の男女の色事なんて、想像にもし難い私は、世間で言う普通からきっとずれている。
自分のそういう部分を鋭く見抜かれた気がして、私は焦っていた。
「私はね、女性の身体を表現したいんだよねぇ
 胸のやわらかさとか、ラインのしなやかさとか」
自分にあるものでも、女性の身体は不思議なことでいっぱいだ
そう、自由研究にでも没頭する小学生のように神妙な顔で述べていた。
「私、女の子が好きなのかな」
今更のように言っている。照れた笑いを見せながら。
私は呆れると同時に、心臓が掴まれたような刺激をわずかに感じていた。


「あのね、そういう夢とか、趣味とか、私は悪い事とは思わないけれど
 学校で手を出すのはもうやめなよ
 もし先生に見つかりでもしたら、退学になってしまうかもしれないじゃない」
「心配してくれるんだ」
五十嵐さんは呑気にからかってくる。
純粋に女性の身体について学びたいだけの彼女が
猿の如く場所も弁えずに発情するだらしのない若者として見られるのは
何だか納得がいかない気もした。
五十嵐さんの欲望と理性の割合は、間違いなく理性が圧倒してるのだと
今までの会話で勝手に解釈していた。
けれどそんな心遣いや理解を本人に伝える理由はない。
「私は平穏に日常を送りたいだけ
 人の、そういうとこ目撃するなんて二度とごめんなの」
私の返した言葉に、首を傾ける。その表情から、がっかりしてしまったように見えた。
「水谷さんは、厳しい事言うなぁ」
「悪い?」
「いいや、処女は好きだよ」
途端にカッとなった。恥ずかしさからではなく、胸をついた怒りが脳に達して顔が熱くなった。
この赤面を“うぶな女の子”と捉えられたらたまらなくて、私は黙ってその場から立ち去ろうとした。
鞄を肩にかけたところで、五十嵐さんは事態に気付いたように顔を上げた。
「間違ったこと言った?」
悪びれもしない声が私の背中に響いてくる。
例え振り返っても、彼女に浴びせる言葉が見つからなかった。
自分でもどうしてこんなに怒りが込み上げてくるのかわからなかった。


私は怒りを表した表情を隠したまま、その場を後にするしかなく
彼女も決して追っては来なかった。



―処女は好きだよ
あの一言が胸から離れない。
ずっと忘れられずに、怒りに火を灯している。


何故こんなにも苛立ちが収まらないのか
自分でもわからないほど、その日一晩、頭は沸騰し切ってしまった。
新しい朝を迎えて、眉を顰める事がなくなっても
不快な気持ちは、いつまでも胸に侵食し続けている。
心から嫌だった事は、きっといつまでも記憶に残り続けるのだと思った。
誰かの言葉で、こんなに嫌な思いをしたのは初めてだった。


言葉なんて、嫌いな響きのものであったとしても
ただ浴びせられただけで、こんなにも不快になる事はない。
“処女”という言葉は、それだけで人を呼びつけでもしたら
きっと失礼に違いないけれど、私は彼女の無礼さに頭に来たわけじゃない。
あけらかんとした彼女の空気を、心地いいとまで思っていた。
どんな言葉も、あの空気の中で言われてしまえば、ただの笑い事に変わったかもしれない。
でもこの言葉は違う。
あの彼女が、私に向かってそう呼んだのは、明らかに私にとっての侮辱だ。
私は五十嵐さんの中で、数ある女性の中の一人として
自分が格付けされてしまったように感じていた。


女性が好きな五十嵐さんにとって、きっと女性は全て道具だ。
官能作家になる為の、道具でしかない。
その中で処女役の一人として、私が彼女の道具の一つに見られるなんて死んでも嫌だった。
死んでも嫌、だなんて本当に死ぬ事がないから言える事だけれど
死ぬほど嫌なこと、以上に嫌だと表現するにはこの言葉しかない。
私はこの先どう惑わされる事があっても“彼女の道具”になる事だけは避けなければと
「死んでも嫌」という言葉を、未来の自分自身にまで、繰り返し言い聞かせていた。



五十嵐さんの声に答えないまま、黙って帰った日から
私の毎日は、彼女を避け続ける日々に変わった。
放課後に部室へ寄る事もなくなり、休み時間に本に目を落とす事もなくなった。
部室でなくとも図書室に行けば休み時間を潰す為の本はいくらでも手にする事が出来たが
ページを開いても物語の世界に入る余地なんかなく、私の頭は既に一杯一杯だった。
私があんなにもたくさんの本を飽きもせず読み続ける事が出来たのは
きっと頭の中がいつも空っぽだったからなのだと、この時初めて気付く事が出来た。


避けている間にも、廊下で五十嵐さんとすれ違う事はあった。
ほとんど話をした事がなかった頃には、クラスの遠い彼女とすれ違ったりなんてなかった。
わざわざ私と会う機会を作る為に、こちら側の水道やトイレを使うようになったのか。
そんな自惚れが正解だったのかはわからない。
怒りに火のついた次の日、廊下で挨拶をされても
私は会釈だけして彼女の前を通り過ぎていた。
その日の放課後、部室へ行かなくなってから、もう彼女と廊下ですれ違う事はなくなった。
彼女の方からも私を避けるようになったのか、そう気にかける余裕もなかった。
このまま会わずにいる事でどうなるのか、それすらもわからずに
ただ一日を過ごすので精一杯だった。



そんな毎日が続いた、ある日の放課後。
帰りのホームルームが終わり、真っ先に下駄箱に向かうという
新たな日課に勤しむ中、展開は訪れる。
「一週間待ったんだけどさ」
下駄箱で革靴に足を収めようとした時、背中から声をかけられた。
振り向かなくてもその声の主が誰かなんてすぐにわかる。
一晩、繰り返し再生し続けた事まであるのだから。
―五十嵐さん
一週間、という言葉を反芻する。
今日で丸一週間だという事はわかっていた。
あの日が忘れられないように、あの日から何日経ったかは一日毎に頭に刻まれている。
彼女も私と同じように、一日一日を数えていたのか。
「そろそろ怒ってる理由教えてよ」
振り向かない私の前方に回り込んで、五十嵐さんは顔を覗き込んで来る。
段差の下の、靴で歩く為の地面に上履きのまま立っているが何も構うところがない。
私より背丈の高い彼女が今は同じぐらいで、視線がごく自然に重なってしまう。
「怒ってないよ」
色のない、どこにもアクセントのつかない声で返す。
そんな声しか出せなかった。
「水谷さんなのに、嘘をつくんだね」
私なのに、という言葉がどういう意味を持つのか理解出来ない。
とりあえず上履きに足を収め直していると、五十嵐さんは段差に足を上げ
私の身体は校舎の玄関とは逆の方向へ押し込まれる。
「来て」
五十嵐さんは少し乱暴に私の手を取ると
そのまま引っ張るようにして校舎の奥へと歩き出した。
繋がれた手がやけに熱くて、私はそればかりに気を取られていた。


旧校舎へ足を向けているので、部室に行くのかと思えば
彼女は一階に留まる事なく、一番上の階まで階段を登り続けた。
息が苦しかった。
四階分の階段なんて、少し草臥れるぐらいで済むはずだが
一週間分の胸の痛みに止めを刺すように、体力と精神力が消耗していくのを感じていた。
「ここなら誰もいない」
辿り着いたのは、今は廃部になった天文部の部室だった教室。
空き教室だけあって、他の部活の人間が荷物を置きに来る可能性があったが
文芸部の部室と同じように、廊下には誰の姿もなく、閑散としていた。


「私しか聞いてなければ、水谷さんは話をしてくれるんだよね?」
話をするようになった日々の中で、彼女が友達と歩いていたところで声をかけてきた時に
私が会釈だけして視線を合わせなかった事を、彼女は自惚れのように捉えていた。
その自惚れが、何ら間違いのないところが癪に障る。
「話すことなんてない」
彼女が握ったままの手をはらうと、私は彼女から離れるように身を引いた。
追いかけては、来ない。
「話せないだけでしょ」
その言葉に顔が熱くなる。何故この人は的を得た事を言うのだろう。
逃げるように離れたのに、遠い視線がやけに痛い。
「何に怒ってるかわかんないけど
 水谷さん私の事で気に病んで、ずっと困ってるんでしょ?」
「自惚れないで!」
自分でも驚くほど張り上げた声を出していた。
「自惚れじゃないもん」
拗ねたような顔をして、五十嵐さんは反論した。
「本当の事じゃん」
その通りだった。その通りすぎて、こちらから出すべき言葉が見つからない。


「あのさ、今私の顔見るのも嫌なのかもしれないけど
 私と会わずに済めば解決する事なの?
 そうじゃないなら、荒療治でも私に解決させてよ」
荒療治ってなによ、と胸の中で呟く。この人は本当に、変な事を言う人だった。
変な言葉ばかりを並べる人。だけれど、その通りの事を言う人。
私の問題を解決出来るのは確かに彼女しかいなかった。
「大体、私が消えて解決する問題でも困る」
切羽詰った声に顔を上げると、本当に困った顔をしている五十嵐さんがいた。
「私は水谷さんと一緒にいたいのに」
「…なんで」
「理由なんて…いないとやだからに決まってるじゃん」
私が知りたかったのは、そういう気持ちが、どういう意味から生まれるものなのかという事だった。
自分でもわからずにいる事を、相手に尋ねるのも無粋なものだ。
私のすべきは、自分の言葉で自分の気持ちを彼女に訴えかけるという事だった。
そう思っても、正確な言葉が出てこない。一週間も考えたのに、わからない。
結局また、尋ねる事しか出来ずにいる。
「他の人と…違うって言えるの?」
「え?」
「その19人と、部員の人達と、クラスの友達と…
 私が違うなんて言えるの?」
言い終えてから再び顔を伏せた。彼女がどんな顔をしているか見る事が出来なかった。
やがて流れてくる沈黙。
今までつらつらと言葉を並べていた五十嵐さんが、今は言葉に詰まっている。
もうこの場から逃げ出してしまいたい気分だった。


「水谷さんは…」
「やめて」
ようやく言葉を続けようとした五十嵐さんに向かって
私はほとんど睨みつけたような眼差しで牽制した。
彼女の言葉を聞きたくなかった。
彼女の口から私について語られるのが恐かった。
自分から尋ねておきながら、彼女に答えを出されてしまうのを絶望と感じていた。


けれど私の睨みっ面ぐらいで言葉を失う五十嵐さんではない。
私とは対称的に落ち着いた視線で語りかけてきた。
「好きなんだ」
「なに…」
あまりに突然投げかけられた言葉に、私は混乱して、色のない言葉を発する。
「水谷さんと話すのが」
続けられた言葉に、思わず肩の力が抜ける。
張り詰めた空気の中、ようやく息が吸えた気がして、救われた。
「い…五十嵐さんが勝手に喋ってるだけじゃない」
「そう、水谷さんだと自然に言葉が出てきちゃう」
自分でも不思議なんだけどさ、と付け加えながら五十嵐さんは首を傾げた。
「それに答えてくれる水谷さんの言葉も好きなんだよ
 思いもかけない言葉が返ってきても
 飾りがないっていうか、嘘がない安心感がある」
全く同じ事を、私は五十嵐さんに対して思っていた。
その言葉が自分に返って来た事に驚いて、目を丸くする事しか出来なくなる。


「だから一緒にいたいんだよ、楽しみが無くなるのは嫌だから」
勝手な言葉を、並べていた。でもそれが五十嵐さんらしかった。
この人の自然体は、他の人とは違っていて、私はそれをとても尊いものだと感じていた。
そう思うのなら、彼女の望む通りに頷くべきなんだ。
けれど彼女自身が勝手なように、私にも勝手な想いがある。
私も彼女と同じように、勝手な望みをぶつけていいのか、わからなかった。


視線を重ねたまま、ただ言い澱めていると
五十嵐さんの指が私の指先に触れてきた。
近付かないようにしていたはずなのに、気付けば私の目の前に五十嵐さんが立っている。


顔を寄せてくる五十嵐さんが怖い。
身体を近付けられる事は何も怖くない。
この前みたいに押し倒してきても、また平手を打てばいいだけの事だ。
五十嵐さんは人を押し倒す腕力はあっても、人を無理やり押さえつける神経はない。
そういう面で、信用していた。
私が恐れていたのは、五十嵐さんが今私に向けて心を近付けているのを感じたからだ。
それが誤解だったとしても怖い。
私の心は既に彼女の中にあったからだ。


「水谷さんだけ違うよ」
顔と顔の距離を十センチまで近付けてから、彼女はようやく私の質問に答えてきた。
「どうしてそう言えるの」
「それなんだよ、水谷さんは説明を求めてくるけどさ
 私はその説明がどうしても苦手なんだよねぇ」
なんていうか、と私の目の前で何度も口にして、顔を両手で隠すように頭を抱えていた。
そんな彼女を見て、悩ませている自分自身に気恥ずかしさを覚えた。
程なくして急に手を下ろすと、たった今覚えたかのように言葉を分け並べていった。
「わたしの…私っていう人生のさ…」
「うん」
「物語があるとして」
「…うん」
「その話の中で、水谷さんが主役なんだよ」
そこまで言われた時、安易に頷く事は出来なかった。
―主役なんて、大役じゃない
出演のオファーを受ける女優の気分ってこんな感じなんだろうかと思い過ぎらせながら
信じられない気持ちを抑えつつ、言葉を舌に乗せる。
「五十嵐さんの人生なんだから、主役は五十嵐さんでしょ」
「うん、私もそう思ってたんだけど
 なんかいつのまにか主役取られてた」
少し困ったように言う彼女の前で、私の方が困り果てる思いだった。
「取った覚えない」
「私も取られるつもりなかったんだけど…
 多分きっと、こういうのを運命って言うんだ」
運命、なんて言葉を使う人と、私は初めて会話をしたような気がする。
ましてやその運命という言葉の意味を、私に向かって投げかけてくる人がいるなんて。
あの現場を見た次の日から、ほんのわずかな期間、言葉を交わしてきただけなのに。
けれどあの少しの会話の中に、重さという質量が被せられていた事は私も感じていた。
そうしてわかったのは、私にとって五十嵐さんは避けがたい人だという事。
彼女と会うのを避けてきた日々も、心の中で彼女を避ける事は出来なかった。


私達はまだ、友達にもなっていない。
それでも私のこの気持ちは、運命と呼べるものなのだろうか。
自問しても答える事なんて出来なかった。
「私達はただの、部員同士じゃない」
「そうだね、二人とも16才を過ぎてるけど
 婚姻届にサインしたって世間ではただの同窓生としてしか見られない」
あまりにも飛躍した言葉に唖然としてしまう。
私の反応に首を傾げながら、五十嵐さんは続けた。
「でも要はお互いがどう思ってるかでしょ
 どういう関係かなんて、後から付け合せただけのものだし」
五十嵐さんには歯の浮く台詞だ。
ついこの間、身体だけの関係を幾人もの女の子と築いていた人の言葉とは思えない。
「五十嵐さんは…具体的にどう思ってるの」
「私はね、水谷さんに触りたい
 溜息のこもった声で私の名前を呼んで、私を望んでほしい」
具体的に、と言ったのは私自身だが
まさかここまで直球に欲望を並べられるとは思わなくてさすがに面食らう。
「あなたに研究材料にされている女の子と、同じ事は出来ないよ」
皮肉を込めて、研究材料だなんて言葉を使ってしまった。
使った後で、五十嵐さんの気に障る言葉だったらという考えが過ぎって、私自身が傷付いた。
この人は私の事なんかお構いなしに何でも口にしているのに。
「同じ事じゃないよ」
心配は外れ、変わらない調子の声が否定してきた。
「全然違う…なんていうか、うーん
 うまく言えないなぁ…
 えっちな事ばかり考えてるから、こういう心理的表現には乏しいんだよね」
そういった本を読んだ事はないけれど
きちんと心理描写も出来なくてはだめなんじゃないかと、悩ましげな顔を見つめながら思った。


「あー…こういう例えしか出来なくてごめんだけど
 水谷さんがそういう事したくないって気持ちは尊重出来る
 出来ないなら用がないってわけじゃなくて
 もっと違うところでもちゃんと繋がりたいって感じがする
 違うところって一体どこなのかわかんないんだけど…」
本当に、稚拙だ。
けれど子供が一生懸命並べてみたような言い方が
やけに清清しく胸に溶け込んで、心に染み渡ってくる。
私は肩を竦めて笑った。
その顔を見て安心したのか、五十嵐さんが改めて問い返してくる。
「じゃあ水谷さんは?水谷さんは私の事、どう思う?」
直接顔を覗きこんで尋ねてきた彼女に、私は視線を重ねる事が出来ない。
「き…嫌いじゃない」
私の方こそ稚拙に違いなかった。
はっきりと答えられるのは本当に、それぐらいの事しかない。
初めて声をかけられた時も、後輩との現場に居合わせた時も
二人きりの放課後で迫られた瞬間も、彼女の頬を打った瞬間も
怒りと動揺に彼女の前から逃げ出した時も、彼女を避け続けた一週間も
彼女の事を、嫌いだなんて思った事は一度だってなかった。
これだけは確信を持って言えた。


「私が、運命だと思う?」
「そんなの…」
答えられるわけなかった。
けれど“全く感じないか”と問われれば、きっと首を振っていたかもしれない。
「答えたくない」
彼女にとっては、どの程度の重さの言葉かは知らないけれど
私はそんな簡単に運命だなんて口にしたくなかった。
この人だ、なんて簡単に宣言出来るほど単純明快に心は作られてない。
それでも、初めて口を利いた時の事を思い返す。
あの時から、あの笑顔を見た時から、今、私の目の前に立っているこの瞬間さえも
私にとって、五十嵐さんだけが違った。
この学校でただ一人、特別な人だった。
この門の外の何処にも、他に特別な人なんていなかった。


「わかった…じゃあもう片想いでもいいや」
片想いという言葉に違和感を覚えながら、その投げやりな語尾が癪に感じる。
けれど彼女が続けた言葉は、幼い子供のように率直なものだった。
「片想いでも、運命の人を失うのはきついからさ、出来るだけ仲良くしてよ
 水谷さんが嫌な思いする事ないように、気をつけるから」
私の肩を掴んで、必死で頼み事をする。
「気をつけるって何…」
「もう『処女』って言わないとか」
「…ばか」
そう口にしながら、私は噴き出すようにして笑っていた。
私が可笑しそうにしているのを見て、五十嵐さんは満足げに笑っていた。
そうして一緒に笑っている内に気が緩んでしまう。
抑えていたものが一緒に込み上げてしまう。
「水谷さん」
頬をつたう涙を、私は隠そうとはしなかった。
隠したって意味がない事を、私はわかっていた。
目の前で流した私の涙に、五十嵐さんが指を伸ばしてそっと触れてくる。
拭うわけでもなく、雫の伝っている頬をゆっくりなぞってきた。
瞳を上げると、見た事ないほど真剣な眼差しが私の事を見つめていた。
その指先と熱い視線が、とても心地よかった。


二人の距離は影が重なるくらい、近い。
心はそれ以上に近かった。
私が、ずっと重かった腕を上げて、五十嵐さんの腕に手を伸ばした時
その距離は縮まった。
彼女の肩が近付いてきた瞬間、私は瞳を閉じる事も出来ずに
その腕へひたすらしがみついていた。
頬にあった彼女の指先が、私の前髪をかきあげると
唇がそっと額に触れてきた。
それは初めて人に触れられた、柔らかな唇の感触だった。


「五十嵐さん」
唇が離れて、再び瞳を重ねると彼女の真剣な眼差しは解けて
いつもの笑い顔に戻っていた。
違うのは、上気させている頬だけ。
それを見て、自分はどれほど赤くなってしまっているんだろうと気恥ずかしさを覚え
目の前の肩に涙で濡れたままの顔を埋めた。
受け入れるみたいに彼女の腕が私を包み込むと
緊張感のない声が身体に直接響いてきた。
「今の、私のファーストキスだ」
「…なにそれ」
「キスなんて、初めてしたって言ってるんだよ」
「ウソだ」
19人もの女に手を出しておいて、そんな言葉が通用すると思っているのか。
他の誰と寝ようと、唇だけは本当に好きな人にしか許さない女の話を
勝手に流れてるテレビから煩わしく耳に入ってきた事があるけれど
それを体現している人なんて、いきなり目の前に連れて来られても信じられるはずがない。
私がそう感じた通り、彼女の言う“ファーストキス”は他の人と意味が違うようだった。
「今まで唇に何が触れてきたのかは、よく意識してなかったけど
 こんなに触れたいものが遠いと思った事はないよ
 こんなに触れたいって願った事もない…
 わたし、今日のこと一生忘れない」
どうしてそんな言葉を口に出せるのか。
私が胸に痞えて言い澱めている間に、自制の煩わしさと葛藤している間に
五十嵐さんは、私よりずっと背の高い言葉を並べてしまう。
私なんかが追いつくはずがない。
なのにこの心は彼女の発する言葉を求め続け、焦がれ続ける。
少しは休ませてほしい。もう何も口にしないでほしい。
黙らせたい、その唇を塞いでしまいたい、そんな気持ちに駆り立てられてしまっていた。


「ファーストキスはね、唇同士じゃないと、そう呼ばないんだよ」
「…してもいいの?」
尋ねられて、耳まで熱くなるのがわかった。
私の返した言葉はそう捉えられても何ら不自然な事はない。
五十嵐さんは、私の返事を待たずに、もう一度私に顔を近付けてきた。
どうしてこんな言葉を口にしてしまったんだろう。どうして望んだりしたのだろう。
心の準備なんて、まだ出来ていないのに。
私は滑稽なほど全身を硬直させて、視界さえも閉ざした。
私の指に触れてくる彼女の指先が優しくて、それだけが救いだった。
「アサコ」
聞き慣れない下の名前で囁かれて、思わず瞳を上げると
彼女のやわらかな唇が、私の唇の端に一瞬だけ触れてきた。
唇が触れ合った場所は、ほんの僅かで、触れ合ったのはほんの一秒にも満たなくて
それなのに私は全身を魔法にかけられたように、絆されてしまった。
「みゆき、さん」
「名前…知ってたんだ」
「こっちの台詞だよ」
私から名前を呼ばれた彼女は驚いて目を丸くするけれど
彼女に名前を囁かれた瞬間の私の衝迫は、きっと分かち合えるものじゃない。
あの一瞬は、私だけが知っている一生の想い出と変わる。
「浅子も、ミユキでいいよ」
「そっちだって言い馴れないくせに」
可愛くない言葉で返す私にも“美雪さん”は楽しそうに笑ってくれる。
どんなに時間がかかっても、いつかそう呼べるようになろうと
直向な想いが心を照らした。



しばらく経って、放課後最後のチャイムの音がスピーカーから響き渡ってくる。
部活動に精励している生徒も、居残りをさせられている生徒も、皆下校しなければならない時間だ。
それが今目の前にいる美雪さんとの別れの時を意味していると
急に実感のようなものが湧いてきて、心細さが胸を襲ってくる。
「これから、どうしよう…」
私は道に迷った子供のように呟いて、彼女の制服の裾を握り締めた。
「とりあえず、駅まで一緒に帰ろうよ
 浅子は何線使ってるの?」
毎日使っている電車も、住んでいる街も家も、お互いに何も知らない。
私達はこれから知っていくべき事が、あまりに多すぎる。
今はどこか畏まって聞こえる“アサコ”と呼ぶ彼女の声も
耳に親しんだ頃には、私達はどれだけの気持ちを重ねられているだろうか。
私が彼女を“ミユキ”と呼びかける頃には
二人はどれほどの言葉を心に刻んでいるのだろうか。
どんなに思い巡らせても、二人の未来なんて、何一つ見えてこない。


けれど今は、恋と断言する事も出来ないこの脆い心を
彼女の言葉と指先に絡めて、支えられながら歩いていきたい。
その代わり私は、永遠に彼女の道具に成り下がったりしない事を誓うから。
彼女のくれた運命という言葉を、永遠に守り続けてみせるから。


「浅子」
その手を強く握り返すと、確かめるように私の名前を呼んで、彼女は歩き始める。
とっくに陽は沈み、夜の闇を取り込んだ校舎を進みながら
あの夕暮れに照らされて、小金色に輝いていた彼女の髪を思い出していた。
いつかもう一度、あの時と同じ距離で、瞳に触れる事が叶うなら。
そう、ぼんやりと輝き始めた一番星に、願いを託していた。