その次の日からだ、彼女が廊下ですれ違っただけでも私に話しかけてくるようになったのは。
最初、他の人が近くにいる前で彼女と話をする事にたじろいだが
それも少しずつ慣れてくるようになった。
部活の時も、五十嵐さんは先輩や他の部員達と話をする一方で
時々私のいる隅の席にやってきては、声をかけてくるのだった。
事の発端の当事者である高橋さんは、私と視線が合うだけで帰る事はなくなったが
私が五十嵐さんと話をしているのを見て、すごい剣幕で睨んでいる時があった。
気にも留めない五十嵐さんの態度が伝染ったのか、やがて私も気にしなくなっていた。
それでも、例え彼女と話しをする事に慣れてきても
他の人も聞いているようなところで、私は私の核心に近い言葉を発する事が出来なかった。
それは五十嵐さんも同じであるような気がして、近しい人のように感じていた。
私達は偶然すれ違ったり、部室で居合わせた時位しか話す機会がなかった。
わざわざお互いの教室に訪れたり、一緒に下校するという事もなかった。
私が五十嵐さんと二人きりで話をしたのはこの前の一度きりで
偶然に任せるには、次があるのかさえ検討もつかない。
それでもその機会は、意外とあっさり訪れた。
その日もいつもと同じように部室へ足を向けると
閑散とした室内に五十嵐さんの姿だけがあった。
「あ…」
一人座っている背中に声をかけようとすると
その前に彼女は私の姿に気付いて、同時に立ち上がった。
「あぁ良かった、来て」
ドアの前で立ったままでいる私の前までかけてきて、彼女は嬉しそうに笑いかけてくる。
彼女のこんな笑顔を見たのはこの前、話した時以来のような気がした。
「どうしたの一人で…他の人は?」
「うん、今日は部室でぷちお茶会だからって
ついさっき買出しに出かけたんだ
私は部室荒らしが来ないようにお留守番犬」
そっか、と頷きながら彼女が座っていた隣りの席に鞄を置いた。
この前と同じように隣り合わせで二人は腰を下ろした。
「珍しいね、五十嵐さんが留守番なんて」
「うん…まぁね」
部員の皆が買い出しに行くのはよくある事で
そこで五十嵐さんが留守番しているところは見た事がない。
いつもは他の部員の人が、遠慮がちに私まで声をかけて頼んでくるか
毎回私に頼むのに申し訳なく感じた時に、大人気ある先輩が代表して残ったりするのだ。
五十嵐さんは、そういう時に一緒になってはしゃいで買物に行くタイプだった。
こないだみたいに読みたい本でもあったのだろうか。
そう思い至ったところで、この前二人で過ごした時間を振り返った。
一緒になって本を物色したりはしたけれど、五十嵐さんはぱらぱらとページをめくるだけで
結局は二人で話をするだけの時間に終わっていた。
―わざと、残ったの?
そんな疑問を持っても、本人に尋ねられるはずもない。
五十嵐さんとの会話を続けたまま、この前と同じように今日読んでいた本を鞄から取り出す。
積まれた場所に戻そうとすると、彼女もまた同じように
私の手からそれを取り上げるのだった。
「水谷さんはさ、本が好きなの?」
ぱらぱらと中身をめくりながら、五十嵐さんは尋ねてくる。
その質問は、不自然なものだった。
文芸部に所属していて毎日、本を読み漁りに来ている私に
そんな事を尋ねてくるのは、きっと五十嵐さんをおいて他にいない。
そしてそれを尋ねてきた彼女は
きっと私が“好きだ”と当たり前みたいに口にしない事を理解している。
たった一言の質問で、五十嵐さんがどこまで私という人間を把握してるか、わかり得た気がした。
「好きとはいえないね
他にする事がないから、読んでるだけだし」
「そっかぁ」
私の情けない返答に、彼女は表情も変えずに頷いた。
なんだかそれに、とても心が安らいだ。
「よかった」
「なにが?」
「それなら、私が話しかけても読書のじゃまにはならないかなって思って」
意外な事に、五十嵐さんは私に声をかけながら自分が
私のしている事の妨げになっていないか心配しているようだった。
あまりに見当違いな気遣いだ。
「それは…」
「違う?」
「いや、じゃまだなんて思ってないよ」
それは確かだった。
けれど私が本に目を落としている時に、五十嵐さん以外の人に声をかけられたとしたらどうか。
私はそういう人との会話を避ける為に、本を盾に利用しているのだ。
そうした、さっき口にした事より更に情けない話を口にしかけて、慌てて仕舞い込んだ。
聞かされても何にもならない話だし
その上“なぜ彼女だけ特別なのか”という疑問に辿りつくだけだった。
自分でもわからない疑問を、他人にぶつけるわけにはいかなかった。
「ねぇ、水谷さんはなりたいものってないの?」
途端に話題を変えてくる。これはあまりに唐突な質問だった。
「…考えたこともないな」
本当に、考えた事がなかった。
今五十嵐さんが尋ねて来なければ
その疑問を頭に思い浮かべる事なく一生を終えてたかもしれない。
二年生の二学期の今、受験の準備期を迎えようとしている時に言うには大袈裟な表現だけれど。
「水谷さんはね、司書がきっと似合う」
「ししょ?」
「図書館で本の整理をする人」
「…悪くないかも」
でしょー、と言って嬉しそうに笑っている。
釣られるように私も笑いながら、本当に悪くないと思った。
どうやってなれるものなのかは知らないけれど
この先他になりたいものが見つからない場合は、本気で目指すようになるかもしれない。
「でも水谷さんが司書になっても、私の本は置いてもらえないかな」
「五十嵐さんの本?」
聞き返しながら、五十嵐さんが作家を志している事に、その時気が付いた。
文芸部で小説を書いている部員は、皆趣味として書いていると思い込んでいた私は
それを夢に持つ彼女に驚くと同時に、どこか眩しく見えるような気がした。
しかし五十嵐さんの口から返ってきたのは、更に驚くべきものだった。
「私はねぇ、官能作家になりたいんだ」
「かん、のう…?」
「エロ小説家だよ」
そんな下劣な響きに言い換えなくても意味はわかる。
私はそれを夢だと答える五十嵐さんに怯んで、言い返しただけだ。
「この間読んだのは、すごく子供らしい話だったけど」
私は五十嵐さんの書いた話を読んだ日の事を思い出した。
「そりゃあ、部活で出す本にえっちなものは載せられないよ~」
肩を竦めて笑う。私も少し噴き出してしまった。
つまり五十嵐さんは、家で密かにそういったものを執筆しているという事だった。
「水谷さんが読んだ話の通り、私すごく子供なんだよね
子供心にそういった事を知り尽くしたいって思ってる」
動物園で動物を従えて戦争を始める子供達、という話の過激さと
そういった行為の過激さは、自分にとって同じものだと、五十嵐さんは語った。
もしかしてこの校内を戦場に換えて見ているのか、と私の頭には過ぎった。
「だから…19人と」
「そう」
私の簡潔な一言に、彼女は笑って頷く。
悪びれもしない、その顔を見ていると
本当に悪い事ではないかのように感じられてくるから不思議だ。
五十嵐さんが何をどんなふうに描きたいかは私の理解に及ばないけれど
この歳で、将来を見据えて真剣に勉強している、そういう真面目な面として見る事も出来た。
毎晩塾へ通い、参考書を紐解き続ける受験生とは全く違う勉強だけれど。
「でも普通、それなら男と寝ようとするものじゃないの」
「普通って?」
「いや…ごめん、普通って私にはわかんないけど、なんとなくイメージで」
聞き返されて焦った。“普通”なんて、私が語るにはあまりに遠すぎる言葉だ。
普通の男女の色事なんて、想像にもし難い私は、世間で言う普通からきっとずれている。
自分のそういう部分を鋭く見抜かれた気がして、私は焦っていた。
「私はね、女性の身体を表現したいんだよねぇ
胸のやわらかさとか、ラインのしなやかさとか」
自分にあるものでも、女性の身体は不思議なことでいっぱいだ
そう、自由研究にでも没頭する小学生のように神妙な顔で述べていた。
「私、女の子が好きなのかな」
今更のように言っている。照れた笑いを見せながら。
私は呆れると同時に、心臓が掴まれたような刺激をわずかに感じていた。
「あのね、そういう夢とか、趣味とか、私は悪い事とは思わないけれど
学校で手を出すのはもうやめなよ
もし先生に見つかりでもしたら、退学になってしまうかもしれないじゃない」
「心配してくれるんだ」
五十嵐さんは呑気にからかってくる。
純粋に女性の身体について学びたいだけの彼女が
猿の如く場所も弁えずに発情するだらしのない若者として見られるのは
何だか納得がいかない気もした。
五十嵐さんの欲望と理性の割合は、間違いなく理性が圧倒してるのだと
今までの会話で勝手に解釈していた。
けれどそんな心遣いや理解を本人に伝える理由はない。
「私は平穏に日常を送りたいだけ
人の、そういうとこ目撃するなんて二度とごめんなの」
私の返した言葉に、首を傾ける。その表情から、がっかりしてしまったように見えた。
「水谷さんは、厳しい事言うなぁ」
「悪い?」
「いいや、処女は好きだよ」
途端にカッとなった。恥ずかしさからではなく、胸をついた怒りが脳に達して顔が熱くなった。
この赤面を“うぶな女の子”と捉えられたらたまらなくて、私は黙ってその場から立ち去ろうとした。
鞄を肩にかけたところで、五十嵐さんは事態に気付いたように顔を上げた。
「間違ったこと言った?」
悪びれもしない声が私の背中に響いてくる。
例え振り返っても、彼女に浴びせる言葉が見つからなかった。
自分でもどうしてこんなに怒りが込み上げてくるのかわからなかった。
私は怒りを表した表情を隠したまま、その場を後にするしかなく
彼女も決して追っては来なかった。
―処女は好きだよ
あの一言が胸から離れない。
ずっと忘れられずに、怒りに火を灯している。
何故こんなにも苛立ちが収まらないのか
自分でもわからないほど、その日一晩、頭は沸騰し切ってしまった。
新しい朝を迎えて、眉を顰める事がなくなっても
不快な気持ちは、いつまでも胸に侵食し続けている。
心から嫌だった事は、きっといつまでも記憶に残り続けるのだと思った。
誰かの言葉で、こんなに嫌な思いをしたのは初めてだった。
言葉なんて、嫌いな響きのものであったとしても
ただ浴びせられただけで、こんなにも不快になる事はない。
“処女”という言葉は、それだけで人を呼びつけでもしたら
きっと失礼に違いないけれど、私は彼女の無礼さに頭に来たわけじゃない。
あけらかんとした彼女の空気を、心地いいとまで思っていた。
どんな言葉も、あの空気の中で言われてしまえば、ただの笑い事に変わったかもしれない。
でもこの言葉は違う。
あの彼女が、私に向かってそう呼んだのは、明らかに私にとっての侮辱だ。
私は五十嵐さんの中で、数ある女性の中の一人として
自分が格付けされてしまったように感じていた。
女性が好きな五十嵐さんにとって、きっと女性は全て道具だ。
官能作家になる為の、道具でしかない。
その中で処女役の一人として、私が彼女の道具の一つに見られるなんて死んでも嫌だった。
死んでも嫌、だなんて本当に死ぬ事がないから言える事だけれど
死ぬほど嫌なこと、以上に嫌だと表現するにはこの言葉しかない。
私はこの先どう惑わされる事があっても“彼女の道具”になる事だけは避けなければと
「死んでも嫌」という言葉を、未来の自分自身にまで、繰り返し言い聞かせていた。
五十嵐さんの声に答えないまま、黙って帰った日から
私の毎日は、彼女を避け続ける日々に変わった。
放課後に部室へ寄る事もなくなり、休み時間に本に目を落とす事もなくなった。
部室でなくとも図書室に行けば休み時間を潰す為の本はいくらでも手にする事が出来たが
ページを開いても物語の世界に入る余地なんかなく、私の頭は既に一杯一杯だった。
私があんなにもたくさんの本を飽きもせず読み続ける事が出来たのは
きっと頭の中がいつも空っぽだったからなのだと、この時初めて気付く事が出来た。
避けている間にも、廊下で五十嵐さんとすれ違う事はあった。
ほとんど話をした事がなかった頃には、クラスの遠い彼女とすれ違ったりなんてなかった。
わざわざ私と会う機会を作る為に、こちら側の水道やトイレを使うようになったのか。
そんな自惚れが正解だったのかはわからない。
怒りに火のついた次の日、廊下で挨拶をされても
私は会釈だけして彼女の前を通り過ぎていた。
その日の放課後、部室へ行かなくなってから、もう彼女と廊下ですれ違う事はなくなった。
彼女の方からも私を避けるようになったのか、そう気にかける余裕もなかった。
このまま会わずにいる事でどうなるのか、それすらもわからずに
ただ一日を過ごすので精一杯だった。
そんな毎日が続いた、ある日の放課後。
帰りのホームルームが終わり、真っ先に下駄箱に向かうという
新たな日課に勤しむ中、展開は訪れる。
「一週間待ったんだけどさ」
下駄箱で革靴に足を収めようとした時、背中から声をかけられた。
振り向かなくてもその声の主が誰かなんてすぐにわかる。
一晩、繰り返し再生し続けた事まであるのだから。
―五十嵐さん
一週間、という言葉を反芻する。
今日で丸一週間だという事はわかっていた。
あの日が忘れられないように、あの日から何日経ったかは一日毎に頭に刻まれている。
彼女も私と同じように、一日一日を数えていたのか。
「そろそろ怒ってる理由教えてよ」
振り向かない私の前方に回り込んで、五十嵐さんは顔を覗き込んで来る。
段差の下の、靴で歩く為の地面に上履きのまま立っているが何も構うところがない。
私より背丈の高い彼女が今は同じぐらいで、視線がごく自然に重なってしまう。
「怒ってないよ」
色のない、どこにもアクセントのつかない声で返す。
そんな声しか出せなかった。
「水谷さんなのに、嘘をつくんだね」
私なのに、という言葉がどういう意味を持つのか理解出来ない。
とりあえず上履きに足を収め直していると、五十嵐さんは段差に足を上げ
私の身体は校舎の玄関とは逆の方向へ押し込まれる。
「来て」
五十嵐さんは少し乱暴に私の手を取ると
そのまま引っ張るようにして校舎の奥へと歩き出した。
繋がれた手がやけに熱くて、私はそればかりに気を取られていた。
旧校舎へ足を向けているので、部室に行くのかと思えば
彼女は一階に留まる事なく、一番上の階まで階段を登り続けた。
息が苦しかった。
四階分の階段なんて、少し草臥れるぐらいで済むはずだが
一週間分の胸の痛みに止めを刺すように、体力と精神力が消耗していくのを感じていた。
「ここなら誰もいない」
辿り着いたのは、今は廃部になった天文部の部室だった教室。
空き教室だけあって、他の部活の人間が荷物を置きに来る可能性があったが
文芸部の部室と同じように、廊下には誰の姿もなく、閑散としていた。
「私しか聞いてなければ、水谷さんは話をしてくれるんだよね?」
話をするようになった日々の中で、彼女が友達と歩いていたところで声をかけてきた時に
私が会釈だけして視線を合わせなかった事を、彼女は自惚れのように捉えていた。
その自惚れが、何ら間違いのないところが癪に障る。
「話すことなんてない」
彼女が握ったままの手をはらうと、私は彼女から離れるように身を引いた。
追いかけては、来ない。
「話せないだけでしょ」
その言葉に顔が熱くなる。何故この人は的を得た事を言うのだろう。
逃げるように離れたのに、遠い視線がやけに痛い。
「何に怒ってるかわかんないけど
水谷さん私の事で気に病んで、ずっと困ってるんでしょ?」
「自惚れないで!」
自分でも驚くほど張り上げた声を出していた。
「自惚れじゃないもん」
拗ねたような顔をして、五十嵐さんは反論した。
「本当の事じゃん」
その通りだった。その通りすぎて、こちらから出すべき言葉が見つからない。
「あのさ、今私の顔見るのも嫌なのかもしれないけど
私と会わずに済めば解決する事なの?
そうじゃないなら、荒療治でも私に解決させてよ」
荒療治ってなによ、と胸の中で呟く。この人は本当に、変な事を言う人だった。
変な言葉ばかりを並べる人。だけれど、その通りの事を言う人。
私の問題を解決出来るのは確かに彼女しかいなかった。
「大体、私が消えて解決する問題でも困る」
切羽詰った声に顔を上げると、本当に困った顔をしている五十嵐さんがいた。
「私は水谷さんと一緒にいたいのに」
「…なんで」
「理由なんて…いないとやだからに決まってるじゃん」
私が知りたかったのは、そういう気持ちが、どういう意味から生まれるものなのかという事だった。
自分でもわからずにいる事を、相手に尋ねるのも無粋なものだ。
私のすべきは、自分の言葉で自分の気持ちを彼女に訴えかけるという事だった。
そう思っても、正確な言葉が出てこない。一週間も考えたのに、わからない。
結局また、尋ねる事しか出来ずにいる。
「他の人と…違うって言えるの?」
「え?」
「その19人と、部員の人達と、クラスの友達と…
私が違うなんて言えるの?」
言い終えてから再び顔を伏せた。彼女がどんな顔をしているか見る事が出来なかった。
やがて流れてくる沈黙。
今までつらつらと言葉を並べていた五十嵐さんが、今は言葉に詰まっている。
もうこの場から逃げ出してしまいたい気分だった。
「水谷さんは…」
「やめて」
ようやく言葉を続けようとした五十嵐さんに向かって
私はほとんど睨みつけたような眼差しで牽制した。
彼女の言葉を聞きたくなかった。
彼女の口から私について語られるのが恐かった。
自分から尋ねておきながら、彼女に答えを出されてしまうのを絶望と感じていた。
けれど私の睨みっ面ぐらいで言葉を失う五十嵐さんではない。
私とは対称的に落ち着いた視線で語りかけてきた。
「好きなんだ」
「なに…」
あまりに突然投げかけられた言葉に、私は混乱して、色のない言葉を発する。
「水谷さんと話すのが」
続けられた言葉に、思わず肩の力が抜ける。
張り詰めた空気の中、ようやく息が吸えた気がして、救われた。
「い…五十嵐さんが勝手に喋ってるだけじゃない」
「そう、水谷さんだと自然に言葉が出てきちゃう」
自分でも不思議なんだけどさ、と付け加えながら五十嵐さんは首を傾げた。
「それに答えてくれる水谷さんの言葉も好きなんだよ
思いもかけない言葉が返ってきても
飾りがないっていうか、嘘がない安心感がある」
全く同じ事を、私は五十嵐さんに対して思っていた。
その言葉が自分に返って来た事に驚いて、目を丸くする事しか出来なくなる。
「だから一緒にいたいんだよ、楽しみが無くなるのは嫌だから」
勝手な言葉を、並べていた。でもそれが五十嵐さんらしかった。
この人の自然体は、他の人とは違っていて、私はそれをとても尊いものだと感じていた。
そう思うのなら、彼女の望む通りに頷くべきなんだ。
けれど彼女自身が勝手なように、私にも勝手な想いがある。
私も彼女と同じように、勝手な望みをぶつけていいのか、わからなかった。
視線を重ねたまま、ただ言い澱めていると
五十嵐さんの指が私の指先に触れてきた。
近付かないようにしていたはずなのに、気付けば私の目の前に五十嵐さんが立っている。
顔を寄せてくる五十嵐さんが怖い。
身体を近付けられる事は何も怖くない。
この前みたいに押し倒してきても、また平手を打てばいいだけの事だ。
五十嵐さんは人を押し倒す腕力はあっても、人を無理やり押さえつける神経はない。
そういう面で、信用していた。
私が恐れていたのは、五十嵐さんが今私に向けて心を近付けているのを感じたからだ。
それが誤解だったとしても怖い。
私の心は既に彼女の中にあったからだ。
「水谷さんだけ違うよ」
顔と顔の距離を十センチまで近付けてから、彼女はようやく私の質問に答えてきた。
「どうしてそう言えるの」
「それなんだよ、水谷さんは説明を求めてくるけどさ
私はその説明がどうしても苦手なんだよねぇ」
なんていうか、と私の目の前で何度も口にして、顔を両手で隠すように頭を抱えていた。
そんな彼女を見て、悩ませている自分自身に気恥ずかしさを覚えた。
程なくして急に手を下ろすと、たった今覚えたかのように言葉を分け並べていった。
「わたしの…私っていう人生のさ…」
「うん」
「物語があるとして」
「…うん」
「その話の中で、水谷さんが主役なんだよ」
そこまで言われた時、安易に頷く事は出来なかった。
―主役なんて、大役じゃない
出演のオファーを受ける女優の気分ってこんな感じなんだろうかと思い過ぎらせながら
信じられない気持ちを抑えつつ、言葉を舌に乗せる。
「五十嵐さんの人生なんだから、主役は五十嵐さんでしょ」
「うん、私もそう思ってたんだけど
なんかいつのまにか主役取られてた」
少し困ったように言う彼女の前で、私の方が困り果てる思いだった。
「取った覚えない」
「私も取られるつもりなかったんだけど…
多分きっと、こういうのを運命って言うんだ」
運命、なんて言葉を使う人と、私は初めて会話をしたような気がする。
ましてやその運命という言葉の意味を、私に向かって投げかけてくる人がいるなんて。
あの現場を見た次の日から、ほんのわずかな期間、言葉を交わしてきただけなのに。
けれどあの少しの会話の中に、重さという質量が被せられていた事は私も感じていた。
そうしてわかったのは、私にとって五十嵐さんは避けがたい人だという事。
彼女と会うのを避けてきた日々も、心の中で彼女を避ける事は出来なかった。
私達はまだ、友達にもなっていない。
それでも私のこの気持ちは、運命と呼べるものなのだろうか。
自問しても答える事なんて出来なかった。
「私達はただの、部員同士じゃない」
「そうだね、二人とも16才を過ぎてるけど
婚姻届にサインしたって世間ではただの同窓生としてしか見られない」
あまりにも飛躍した言葉に唖然としてしまう。
私の反応に首を傾げながら、五十嵐さんは続けた。
「でも要はお互いがどう思ってるかでしょ
どういう関係かなんて、後から付け合せただけのものだし」
五十嵐さんには歯の浮く台詞だ。
ついこの間、身体だけの関係を幾人もの女の子と築いていた人の言葉とは思えない。
「五十嵐さんは…具体的にどう思ってるの」
「私はね、水谷さんに触りたい
溜息のこもった声で私の名前を呼んで、私を望んでほしい」
具体的に、と言ったのは私自身だが
まさかここまで直球に欲望を並べられるとは思わなくてさすがに面食らう。
「あなたに研究材料にされている女の子と、同じ事は出来ないよ」
皮肉を込めて、研究材料だなんて言葉を使ってしまった。
使った後で、五十嵐さんの気に障る言葉だったらという考えが過ぎって、私自身が傷付いた。
この人は私の事なんかお構いなしに何でも口にしているのに。
「同じ事じゃないよ」
心配は外れ、変わらない調子の声が否定してきた。
「全然違う…なんていうか、うーん
うまく言えないなぁ…
えっちな事ばかり考えてるから、こういう心理的表現には乏しいんだよね」
そういった本を読んだ事はないけれど
きちんと心理描写も出来なくてはだめなんじゃないかと、悩ましげな顔を見つめながら思った。
「あー…こういう例えしか出来なくてごめんだけど
水谷さんがそういう事したくないって気持ちは尊重出来る
出来ないなら用がないってわけじゃなくて
もっと違うところでもちゃんと繋がりたいって感じがする
違うところって一体どこなのかわかんないんだけど…」
本当に、稚拙だ。
けれど子供が一生懸命並べてみたような言い方が
やけに清清しく胸に溶け込んで、心に染み渡ってくる。
私は肩を竦めて笑った。
その顔を見て安心したのか、五十嵐さんが改めて問い返してくる。
「じゃあ水谷さんは?水谷さんは私の事、どう思う?」
直接顔を覗きこんで尋ねてきた彼女に、私は視線を重ねる事が出来ない。
「き…嫌いじゃない」
私の方こそ稚拙に違いなかった。
はっきりと答えられるのは本当に、それぐらいの事しかない。
初めて声をかけられた時も、後輩との現場に居合わせた時も
二人きりの放課後で迫られた瞬間も、彼女の頬を打った瞬間も
怒りと動揺に彼女の前から逃げ出した時も、彼女を避け続けた一週間も
彼女の事を、嫌いだなんて思った事は一度だってなかった。
これだけは確信を持って言えた。
「私が、運命だと思う?」
「そんなの…」
答えられるわけなかった。
けれど“全く感じないか”と問われれば、きっと首を振っていたかもしれない。
「答えたくない」
彼女にとっては、どの程度の重さの言葉かは知らないけれど
私はそんな簡単に運命だなんて口にしたくなかった。
この人だ、なんて簡単に宣言出来るほど単純明快に心は作られてない。
それでも、初めて口を利いた時の事を思い返す。
あの時から、あの笑顔を見た時から、今、私の目の前に立っているこの瞬間さえも
私にとって、五十嵐さんだけが違った。
この学校でただ一人、特別な人だった。
この門の外の何処にも、他に特別な人なんていなかった。
「わかった…じゃあもう片想いでもいいや」
片想いという言葉に違和感を覚えながら、その投げやりな語尾が癪に感じる。
けれど彼女が続けた言葉は、幼い子供のように率直なものだった。
「片想いでも、運命の人を失うのはきついからさ、出来るだけ仲良くしてよ
水谷さんが嫌な思いする事ないように、気をつけるから」
私の肩を掴んで、必死で頼み事をする。
「気をつけるって何…」
「もう『処女』って言わないとか」
「…ばか」
そう口にしながら、私は噴き出すようにして笑っていた。
私が可笑しそうにしているのを見て、五十嵐さんは満足げに笑っていた。
そうして一緒に笑っている内に気が緩んでしまう。
抑えていたものが一緒に込み上げてしまう。
「水谷さん」
頬をつたう涙を、私は隠そうとはしなかった。
隠したって意味がない事を、私はわかっていた。
目の前で流した私の涙に、五十嵐さんが指を伸ばしてそっと触れてくる。
拭うわけでもなく、雫の伝っている頬をゆっくりなぞってきた。
瞳を上げると、見た事ないほど真剣な眼差しが私の事を見つめていた。
その指先と熱い視線が、とても心地よかった。
二人の距離は影が重なるくらい、近い。
心はそれ以上に近かった。
私が、ずっと重かった腕を上げて、五十嵐さんの腕に手を伸ばした時
その距離は縮まった。
彼女の肩が近付いてきた瞬間、私は瞳を閉じる事も出来ずに
その腕へひたすらしがみついていた。
頬にあった彼女の指先が、私の前髪をかきあげると
唇がそっと額に触れてきた。
それは初めて人に触れられた、柔らかな唇の感触だった。
「五十嵐さん」
唇が離れて、再び瞳を重ねると彼女の真剣な眼差しは解けて
いつもの笑い顔に戻っていた。
違うのは、上気させている頬だけ。
それを見て、自分はどれほど赤くなってしまっているんだろうと気恥ずかしさを覚え
目の前の肩に涙で濡れたままの顔を埋めた。
受け入れるみたいに彼女の腕が私を包み込むと
緊張感のない声が身体に直接響いてきた。
「今の、私のファーストキスだ」
「…なにそれ」
「キスなんて、初めてしたって言ってるんだよ」
「ウソだ」
19人もの女に手を出しておいて、そんな言葉が通用すると思っているのか。
他の誰と寝ようと、唇だけは本当に好きな人にしか許さない女の話を
勝手に流れてるテレビから煩わしく耳に入ってきた事があるけれど
それを体現している人なんて、いきなり目の前に連れて来られても信じられるはずがない。
私がそう感じた通り、彼女の言う“ファーストキス”は他の人と意味が違うようだった。
「今まで唇に何が触れてきたのかは、よく意識してなかったけど
こんなに触れたいものが遠いと思った事はないよ
こんなに触れたいって願った事もない…
わたし、今日のこと一生忘れない」
どうしてそんな言葉を口に出せるのか。
私が胸に痞えて言い澱めている間に、自制の煩わしさと葛藤している間に
五十嵐さんは、私よりずっと背の高い言葉を並べてしまう。
私なんかが追いつくはずがない。
なのにこの心は彼女の発する言葉を求め続け、焦がれ続ける。
少しは休ませてほしい。もう何も口にしないでほしい。
黙らせたい、その唇を塞いでしまいたい、そんな気持ちに駆り立てられてしまっていた。
「ファーストキスはね、唇同士じゃないと、そう呼ばないんだよ」
「…してもいいの?」
尋ねられて、耳まで熱くなるのがわかった。
私の返した言葉はそう捉えられても何ら不自然な事はない。
五十嵐さんは、私の返事を待たずに、もう一度私に顔を近付けてきた。
どうしてこんな言葉を口にしてしまったんだろう。どうして望んだりしたのだろう。
心の準備なんて、まだ出来ていないのに。
私は滑稽なほど全身を硬直させて、視界さえも閉ざした。
私の指に触れてくる彼女の指先が優しくて、それだけが救いだった。
「アサコ」
聞き慣れない下の名前で囁かれて、思わず瞳を上げると
彼女のやわらかな唇が、私の唇の端に一瞬だけ触れてきた。
唇が触れ合った場所は、ほんの僅かで、触れ合ったのはほんの一秒にも満たなくて
それなのに私は全身を魔法にかけられたように、絆されてしまった。
「みゆき、さん」
「名前…知ってたんだ」
「こっちの台詞だよ」
私から名前を呼ばれた彼女は驚いて目を丸くするけれど
彼女に名前を囁かれた瞬間の私の衝迫は、きっと分かち合えるものじゃない。
あの一瞬は、私だけが知っている一生の想い出と変わる。
「浅子も、ミユキでいいよ」
「そっちだって言い馴れないくせに」
可愛くない言葉で返す私にも“美雪さん”は楽しそうに笑ってくれる。
どんなに時間がかかっても、いつかそう呼べるようになろうと
直向な想いが心を照らした。
しばらく経って、放課後最後のチャイムの音がスピーカーから響き渡ってくる。
部活動に精励している生徒も、居残りをさせられている生徒も、皆下校しなければならない時間だ。
それが今目の前にいる美雪さんとの別れの時を意味していると
急に実感のようなものが湧いてきて、心細さが胸を襲ってくる。
「これから、どうしよう…」
私は道に迷った子供のように呟いて、彼女の制服の裾を握り締めた。
「とりあえず、駅まで一緒に帰ろうよ
浅子は何線使ってるの?」
毎日使っている電車も、住んでいる街も家も、お互いに何も知らない。
私達はこれから知っていくべき事が、あまりに多すぎる。
今はどこか畏まって聞こえる“アサコ”と呼ぶ彼女の声も
耳に親しんだ頃には、私達はどれだけの気持ちを重ねられているだろうか。
私が彼女を“ミユキ”と呼びかける頃には
二人はどれほどの言葉を心に刻んでいるのだろうか。
どんなに思い巡らせても、二人の未来なんて、何一つ見えてこない。
けれど今は、恋と断言する事も出来ないこの脆い心を
彼女の言葉と指先に絡めて、支えられながら歩いていきたい。
その代わり私は、永遠に彼女の道具に成り下がったりしない事を誓うから。
彼女のくれた運命という言葉を、永遠に守り続けてみせるから。
「浅子」
その手を強く握り返すと、確かめるように私の名前を呼んで、彼女は歩き始める。
とっくに陽は沈み、夜の闇を取り込んだ校舎を進みながら
あの夕暮れに照らされて、小金色に輝いていた彼女の髪を思い出していた。
いつかもう一度、あの時と同じ距離で、瞳に触れる事が叶うなら。
そう、ぼんやりと輝き始めた一番星に、願いを託していた。