昨日は駐車場から西の民家園の入り口にたどり着くのに、古い木の階段が延々と続き、足を踏み外さないように緊張して降りた。
管理所で入園料を払う時、前回は無料だったのを忘れていた。
(65歳以上は無料・・管理するのも相当なお金がかかるだろうに寄付の箱ぐらい置いておいても良いのじゃない?)
西側の民家園は上り坂がきつい。そりゃそーだ。急な階段を降りて、スタート地点まで来たわけだから。
足がすでにガクガクして、しばしばよろけた。
今朝のゴミ出しでは太ももが痛くて、階段を降りずらかった。
山登りの後みたいだ。
民家園を再訪したのは、梅ぐらい咲いているのじゃないかと思ったのですが、民家園にはなかった。
所々、散りかけの椿があった。
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旧太田家。茨城県笠間市にあった農家で名主だったそう。17世紀後期。
名主は一帯の村の村長兼、警察菅もかねていた?
以下は旧太田家。分棟型というそう。主屋は17世紀後期、土間は18世紀後期とある。100年も経ってから建て増しした?
名主の家だからだろう。太政官による「定」を書いたものが家の入り口の上にある。
私ではとても読めない。
内部のビデオ。擦れた音がするのは私にダウンコートの音です。
ビデオが始まってすぐ、右手が厩だったそうだが、奥行きが狭くて当時の馬は小さかったのだろうかと思った。
時代劇でも見る「蓑」(みの)、これがレインコートであり、冬のコートだった。
重労働の上、これじゃあ長生きしなかったはず。
これは何かというと、丸くなったところについているハンドルを回して内部に風を送る、それで穀物についたゴミなどと吹き飛ばすのだそう。
西の民家は1軒を見るごとに、上に上に登っていく。
左に旧伊藤家住宅は修復中。
蚕を祀ったものだそう。川崎市麻生区にあったもの。建築は文久3年(1863年)とある。
私が子供の頃、当時日本一長生きされた男性が文久年間生まれだった。子供心に、へー江戸時代生まれの人がまだ生きているのねと思った。
最後に旧岩澤家住宅を見て、疲れて中を見る気力もなくなった。
急な階段を上ります。
少なくともこっちの階段は造りがしっかりしていた。
上の階段は途中曲がってまだ続くが、途中あちこちにこの注意書きがあった。
スズメバチに注意!「通行時は刺激をしないようにお願いします」
こんな階段でスズメバチに襲われても、逃げることも出来まい。
この民家園の急傾斜ぶり、隣接した川崎国際ゴルフ場がアップダウンがきついのはむべなるかなと思った。
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ということで、帰路は東急のデパ地下に寄り、地方の名産物店で秋田の食べ物を売っていた。
そこで懐かしいものを見つけた。
(もちろん、プラスチックの箱に入っていた)
「昔、食べたことあります。美味しいですよね」と言うと、男性が「秋田県の鹿角で作っているんです。」
「私、鹿角に住んでいましたよ。」
なんと、私が通った花輪高校に行ったという。
私が入った頃は、当時創立90年、木造校舎も90年で、我々の世代が卒業してどのぐらいだろう、とうとう違う場所に新しく建てて移った。
彼はもちろんその新しい場所の花輪高校に行ったわけだけど、最近小坂高校と十和田高校と併合したそうだ!
人口が減っているのだろう。
小坂や十和田高校から花輪に通学するのは大変だろう。
その男性はうちの子供達よりかなり下の世代に見えるが、私が住んでいた尾去沢町のスーパーに商品を出していたと言っていた。
そこで母が買ったものを私が食べていたのだろう。
毛馬内(鹿角市の一部)にある会社で作っているとは知らなかった。
刈谷食品という会社。ネットで調べると楽天やYahooショップで売っていたからそこそこ規模があるのだろう。
懐かしくて、まるで花輪高校の同級生か下級生に会ったかのような気分になった。
まあ、下級生には違いないが。