今まで、憲法9条について考えてきたことを、時系列に従って投稿してみようと思う。

これは、PCでも、スマホでも、自分が確認できるようにしたいという思いからなされるものである。

 

1.  われわれにとって、自衛隊が一番身近に感じられるのは、その災害派遣活動についてであろう。災害のとき、一生懸命活動している自衛隊員に対し、感謝の念をもつのは私だけではないと思われる。陸上自衛隊のHPをみると、「自衛隊は、天災地変その他災害に対して人命または財産の保護のため必要があると認められる場合は、都道府県知事等の要請(ただし、特に緊急を要する場合は、要請を待たずに)に基づき、防衛大臣またはその指定する者の命令により派遣され、捜索・救助、水防、医療、防疫、給水、人員や物資の輸送など、様々な災害派遣活動を行います。また、自然災害の他、航空機や船舶の事故等の救援、医療施設に恵まれない離島などでは救急患者の輸送などにも当たっています。」と記されている(https://www.mod.go.jp/gsdf/about/dro/)。また、最近では、未曽有のコロナ禍のなか、「防衛省・自衛隊は、3回目接種を目的とした自衛隊大規模接種会場を設置・運営して」くれている。

2.    自衛隊の存在意義を論ずるにあたって、まず、自衛隊が合憲なのか、それとも違憲なのか、についてどのように考えるのかが問題となる。もし自衛隊が違憲だというのであれば、その存在意義を論ずること自体ができないからである。この点に関して、私は、自衛隊は合憲であると考える。清宮・宮沢・芦部等の代表的な学説は自衛隊違憲論をとってきたが、芦部「憲法(第七版)」のはしがきには、「実は芦部先生が最晩年に九条解釈の変更を考えられていたかもしれないことを知ったのである。一九九五年のある講演において、先生は九条と自衛隊の存在という矛盾をどう解釈するかを悩んだすえに、従来九条を法的拘束力のある規定と考えてきたが、むしろ『政治的マニフェスト』と考える説を検討すべきかもしれないと述べられたという(法律時報九〇巻七号七二頁参照)。……九条問題は、自衛隊創設以来、日本における立憲主義の最大のアキレス腱となってきた。芦部先生の世代の憲法学は、圧倒的多数が自衛隊違憲論を唱えていた。しかし、自衛隊合憲論を支持する勢力の政権が常態化する中で、世論も次第に既成事実を受け入れるようになり、今では七割以上の国民が自衛隊の存在を支持すると答えるようになってきている。……立憲主義は政治が憲法に従って行われることを求める。それは憲法という『営為』を基礎づける。憲法学にとっての根本的な原理である。しかし、それは、国民の支持なくしては生気をもちえない営為である。立憲主義を護れという呼びかけは、したがって、憲法と現実の乖離を説明し指針を与える理論なくしては、虚ろにしか響かないだろう。その理論を求めて、憲法学は苦悩してきた。芦部先生もその苦悩を生きられていたのである。いつも温厚であった先生の胸中は、今振り返っても察するに余りある。」と述べられている。

この「第七版はしがき」がきっかけとなり、私は9条変遷説(橋本公亘著「日本国憲法」)を見直すべきだ思うようになっている。

公法学者の多数は、自衛のためにも戦力の保持は許されないとする(解釈に多少のちがいはあるが、結論は右に帰する)。私も従来この見解に従っていた。しかし、この見解には、次のような疑問がある。すなわち、第一に、憲法制定当時と今日とでは、国際情勢も著しく変化し、わが国の国際的地位もまったく違っているのではないか。第二に、非武装ははたして現実に可能な政策であるのか。第三に、実質的に戦力を備えてからすでに約30年を経過し(橋本の前掲書は出版が1980年である)、国民の規範意識にも変化が現れているのではないか、というようなことである。

私は、これについて、憲法制定後の事情の変化により9条の意味も変わったのではないか、いわゆる憲法の変遷があったといえるのではないかと考えるに至った。

(1)  私見を要約すると、次のとおりである。(a)憲法学者の従来の通説は、憲法制定当時における9条の規範的意味を正しくとらえていた。(b)しかし、その後の国際情勢およびわが国の国際的地位は著しく変化し、いまでは9条の解釈の変更を必要とするにいたった。(c)国民の規範意識も、現在では自衛のための戦力保持を認めているように思われる。(d)かくて、右の限りにおいて、9条の意味の変遷を認めざるをえない。

(2)  右の点について、次に多少詳しく述べる。

(a)    憲法制定当時においては、連合国は、わが国を非武装化することを可能と考えて、非武装化を実行した。また、戦争の惨禍を体験したわが国民は、これを喜んで受け入れた。しかし、その後米ソ冷戦の激化、朝鮮戦争の勃発その他により事情が変化し、国際社会はわが国の武装を要求するようになってきた。少なくとも、現在の国際情勢のもとでわが国がまったく防衛の努力をしないことは、許されない状況にある。

(b)    わが国は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して、戦力不保持の理想を実現しようとしたが、遺憾ながら、現代国際社会の現実はその域に達せず、しばしば利己的な武力行使の例が発生している。このことから見ると、非武装ははたして現実に可能な政策であるかどうかについて疑問がある。

(c)    憲法制定当時と今日とでは、わが国の国際的地位は著しく異なっている。わが国は、現在、正義と秩序を基調とする国際平和の確立について応分の責任を負っている。自国領土の防衛をすべて他国まかせにすることは、わが国の国際的地位の向上の点から見て、国際社会の同意を得られないであろう。

(d)    憲法規範もまた人類の社会生活の規範の一つであるから、事実の世界を無視して文字のみを解釈すべきではない。すべて法は、人間の社会生活における規範である。したがって、その社会の政治的・経済的・社会的基盤の変容につれて、法のもつ客観的意味も変容を受ける。憲法は、本来、人間の国家的生活関係の基礎を定めているものであるから、一見すると、憲法は、かかる人間の国家的生活関係の政治的・経済的・社会的基盤を規定するものであって、それからの影響を受けるべきでないように見える。しかしながら、人間の国家的生活関係は、法によって、一方的にのみ、規定しうるものではない。それは、各種の要因の相互作用によって、流動発展しているのである。したがって、右の政治的・経済的・社会的基盤の発展変容が、憲法に対し、影響を与えていることを認めないわけにはいかない。憲法の解釈にあたっても、かかる事実的基盤の上における憲法の客観的意味が考慮されなければならない。

(e)    わが国が実質的に戦力を備えてから約30年を経過しており、世論調査の結果によると、防衛問題に関する国民の規範意識の変化が見られる。

(3)  9条の変遷を認めるには、多くの疑問があることも否定できない。私はとくに次の諸点について思い悩んだから、ついでながらそれらについて記しておく。(a)国際情勢は変化したことは事実であるが、戦争放棄を必要とする事情には変わりはない。むしろ核兵器の異常な発達の結果、戦争放棄の意義、必要性は、ますます増大しているのではないか。(b)防衛力をどれほど整備しても決して安全とはいえず、ことに狭小な国土に稠密な人口をもつわが国は、苛烈な現代戦争に耐えられないのではないか。(c)防衛力の整備は、防衛産業の拡大をもたらすが、それはやがて防衛産業の維持のために武力紛争をひき起すことになりがちである。

これらの疑問があるにもかかわらず、あえて変遷論に踏み切ったのは、非武装が国際および国内政治の現実の上で不可能であり、かつ国民の規範意識に変化が見られると判断したからである。そこで、防衛力の保持を認めるとともに、政府の解釈が暴走することのないようにこれに歯止めをかけることとした。以下において、自衛権、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認の順序で論ずることにする。

3.   自衛権(ここでは個別的自衛権について論じ、集団的自衛権については後述する)

一般に認められている見解によれば、自衛権とは、外国からの急迫または現実の不法な侵害に対し自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利である。自衛権は、国際法上国家の基本権として認められている。自衛権がとくに強調されるようになったのは、第一次世界大戦後戦争ないし武力攻撃を法的に規制しようとしたときからである。すなわち、1928年の不戦条約は、「締約国ハ、国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」(1条)と定めた。そして、この条約で禁止される戦争には、自衛権にもとづく戦争は含まれない。条約の締結にさきだち、アメリカ合衆国が諸国に送った通牒の中で右の趣旨を明らかにし、他の諸国もこれを諒承して条約を締結したのであった。

国際連合憲章も、その51条で、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定めている。このように、国際法上国家が固有の自衛権をもつことは、一般に承認されているといってよい。

さて、憲法9条もまた、自衛権を否認するものではない(通説、判例)。他国の現実の侵略が行われた場合、自衛する権利は、奪うべからざる固有の権利である。個人が急迫不正の侵害に対し、正当防衛をなすことが認められると同じく、国家の自衛もまた当然のことである。

最高裁判所は、いわゆる砂川事件の判決において、次のように述べている。「(9条)によりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない。……わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」(最大判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)。

さて、憲法9条は自衛権を否認していないが、他国から現実に侵害があった場合にいかなる方法で自衛することができるかについては、説が分かれている。一つの考え方によれば、9条は自衛権を否認していないし、また、自衛のための戦力を保持することも、自衛のための武力の行使や自衛戦争をすることも禁じていない、とする。これに対して、他の考え方によれば、9条は自衛戦力の保持をも禁じ自衛戦争を放棄しているから、武力によらない自衛権の行使のみが許されるとする。その方法としては、警察力の使用や民衆が武器をもって抵抗する群民蜂起などがある、とする。

前説には9条の文理解釈上難点がある等の理由により、学説の多くは後説を採っている。しかし、後説にも欠陥はある。すなわち、観念的、非現実的であるばかりか、警察力の使用や群民蜂起のごときは有効な自衛手段となりえず、かえって極めて悲惨な結果を招くことが予想される。私は、従来後説に従っていたが、ここに見解を改めて前説を採ることにする。9条の解釈にかかわることであるから、次項以下問題点ごとに検討する。

4.   「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(9条1項)。

この規定の解釈は、次のように分かれている。

第1説は、「国際紛争を解決する手段としては」という文言を重視する。そして、国際紛争を解決する手段としての戦争とは、侵略戦争をさすとし、9条1項は侵略戦争のみを放棄したとする。この説によれば、自衛戦争と制裁戦争は、9条1項では放棄されていないことになる。これが多数説である。この説が9条1項をこのように解釈するのは、次の理由による。すなわち、不戦条約は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。そして、これにより禁止される戦争には自衛権にもとづく戦争は含まれないとすることが、その解釈として確立していた。さらに、同条約の発効後、諸国の憲法中に同じ趣旨の規定を設けるものが現れている。そこで、9条1項の規定も、同じように自衛戦争を放棄しない趣旨と解するのが当然であるとする。

第2説は、9条1項により自衛戦争を含むいっさいの戦争が放棄されているとする(美濃部、宮沢、清宮、小林(直))。そのように解釈する理由として、(a)国際紛争を解決する手段としての戦争とそうでないものを区別することは実際上難しいこと、(b)ある意味では、戦争はすべて国際紛争解決のためのものであること、(c)第1説を採る者の大多数は9条1項で自衛戦争を放棄せず2項で放棄すると解釈しているが、そのような解釈は不自然で無意味であること、などをあげている。

私は、従来第2説に従っていたが、次の理由により、第1説を採ることに改める。すなわち、(a)現在の国際情勢は、わが国のみが自衛戦争を放棄することを可能とする域に達していないこと、(b)不戦条約も自衛戦争を否認せず、国連憲章51条も個別的または集団的な自衛権の行使を認めていること、(c)武力なき自衛権の行使の主張は観念の遊戯に過ぎないことが、その理由である。

ところで、この説を採る学者も、2項の解釈の違いから、さらに次の二つに分かれる。すなわち、(a)9条1項では侵略戦争のみが放棄されているが、2項で交戦権や戦力の保持を否認しているから、結局、自衛戦争、制裁戦争も放棄されるとする(「注解」、横田、鵜飼、田上、佐藤功、稲田、原、和田、市原、深瀬、当初の政府解釈もこれに属した)。(b)2項によっても、自衛戦争、制裁戦争は放棄されていないとする(芦田、佐々木、大石、伊藤、小林(宏)、西、現在の政府解釈は、これである)。これについては、次項以下で述べる。

5.   戦力の不保持

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(9条2項前段)。

(1)  この規定で解釈上問題となったのは、「前項の目的を達するため」という文言である。自衛のための戦力の保持をも禁じているかどうかについて、学説は二つに分かれている。

第1説(限定放棄説)は、「前項の目的を達するため」というのは、「国際紛争を解決する手段としては戦争を放棄する」ということ、すなわち「侵略戦争を放棄するという目的を達するため」であると解する。したがって、侵略戦争のためには、戦力を保持することは許されないが、自衛のための保持は禁じられていないとする(芦田、佐々木、大石、西、結論同旨、伊藤、小林(宏))。政府の解釈も、前述のとおりこの見解を採っている(しかし、芦部等では、政府見解は次の第2説であるとする)。

第2説(遂行不能説)は、自衛のためにも戦力を保持できないとする(多数説)。「前項の目的を達するため」という文言の解釈については、多少の見解の相違がある。すなわち、(a)1項に掲げられた目的すなわち「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」をさすとし(横田、鵜飼、佐藤功)、あるいは、(b)1項全体のめざす目的をさすとしている(「注解」、宮沢、小林(直))。

さて、右の第1説(限定放棄説)は、文理解釈からすれば明らかに無理があることは否めない。

 

すなわち、佐藤功著「日本国憲法概説(全訂第五版)」82頁では、次のように述べられている。このいわゆる遂行不能説(芦部同旨)が、ほぼ通説となっており、9条の文理解釈としては最も適切であると思われる。

第2説(全面放棄説=遂行不能説) 第1項の規定だけからは、右の第1説(全面放棄説=峻別不能説)の主張するように、自衛の戦争は放棄されているとは解されない。第9条は自衛の戦争をも放棄したものであると解するのは、次の理由による。

①    もしも自衛の戦争を認めるならば、自衛権の行使という美名の下において実際には侵略戦争が行われる可能性がある。第9条が単にそのような程度の規定であるというのでは、特に第9条を規定した意味が失われる。

②    第1項の規定の文字だけからは、自衛の戦争は放棄されていないと解すべきであるが、第9条の特色はむしろ第2項にある。すなわち、第2項において、陸海空軍その他の戦力を保持しないとすることによって、戦争を行う物質的な手段が否定され、また、交戦権を否認することによって、戦争を行う法的な根拠が否定されており、この両者によって、結果として、自衛の戦争をも行うことが不可能となり、事実上において一切の戦争を放棄したことになると解される。

③    日本国憲法は、およそ戦争に関連する諸制度、すなわち、たとえば宣戦や講和の手続などについて何ら規定を設けていない。このことは自衛の戦争をも含めた一切の戦争を予想していないことを示すものといわなければならない。

 

また、第2説(遂行不能説)は、国際政治の現実から見ると実行が不可能と思われ、現実離れのそしりを免れない。私は、従来第2説(遂行不能説)に従っていたが、憲法制定後の事情の変化により9条の意味も変わったのではないか、いわゆる憲法の変遷があったといえるのではないかと考えるに至ったので、第1説(限定放棄説)を採ることに改める。

(2)  9条2項が保持を禁じているのは、自衛のため必要な最小限度を超えた戦力をいい、右の限度内にとどまる戦力は9条2項にいう「戦力」にあたらない(田上教授は、後者を「自衛力」と名付けて、9条2項の「戦力」と区別される。田上「主権の概念と防衛の問題」宮沢還暦体系二巻所収。)。

自衛のため必要な最小限度を超えない戦力(自衛戦力=自衛力=9条2項が保持を禁じている「戦力」にあたらない実力)の要件は次のとおりである。(a)第一に、それは自衛を目的にするものでなければならない。不戦条約の締結に際して、アメリカの国務長官が諸国に送った通牒で示され、諸国が同意した見解によると、自衛とは攻撃または侵入に対して自己の領土を防衛することである。自衛の観念は狭く解すべきである。(b)第二に、人員および装備が自衛に必要な限度内にとどまるものでなければならない。平和主義の原則に照らし、厳密に考える必要がある。すなわち、いわゆる専守防衛の実力にとどまることを要し、他国への侵略を可能とするようなものは許されない。

この点で問題となることを次にあげる。政府の説明によると、憲法は核兵器の保持を禁じていないが政策として保持しない、とある。しかし、核兵器の大量破壊的、攻撃的性格にかんがみ、その保持は絶対的に禁じられていると解すべきである。大陸間弾道弾その他の長距離攻撃兵器についてもまた同様である。

(3)  自衛隊が9条2項にいう「戦力」にあたるか否か、換言すれば、自衛のため必要最小限度を超えているか否かは、裁判所が審査すべき問題ではなく、政治部門たる国会や内閣の判断に委され、終局的には国民の政治判断に委ねられているものと解する。

6.   「国の交戦権は、これを認めない」(9条2項後段)。

ここに国の交戦権の意味については、三つの学説がある。第1説は、国家が交戦権として国際法上有する権利(たとえば、船舶の臨検拿捕の権利、占領地行政の権利)であると解する(宮沢、佐藤功)。第2説は、国の交戦権とは、国家が戦争を行う権利であるとする(美濃部、横田、清宮、小林)。第3説は、双方を含むとする(鵜飼、鈴木、田上)。私は、従来から第1説をとった。戦争をする権利は現在認められていないから、右のように解する方がよいと思う。

さて、交戦権の否認の規定が9条の中でどのような地位を占めているか、この規定の趣旨が何であるかは、案外はっきりしないところがある。(a)9条1項で一切の戦争を放棄していると解する者にとっては、2項後段は不必要な規定である。(b)9条1項で自衛戦争を放棄していないと解する学者は、9条2項後段で交戦権を放棄しているから結局自衛戦争をも放棄しているとする。このように解すれば有意義の規定となる。(c)政府のように自衛権にもとづく自衛行動を認めながら、交戦権の規定を無限定に解釈すると、結論が苦しくなる。すなわち、「自衛権にもとづく自衛行動そのものは交戦権が否認されても行いうる」(憲法調査会報告書(時報36巻9号54頁)とか、「自衛力により、国際法上戦争法規の直接に適用されない自衛行動が許されるに止まる」(田上・前掲論文99頁)というような解釈が現れてくる。

問題は、9条2項前段の「前項の目的を達するため」という文言が、2項後段にもかかると解すべきか否かにある。文理解釈からすれば、9条2項後段は絶対的に交戦権を否認していると読めるが、それでは2項全体の解釈の首尾が一貫しない。「前項の目的を達するため」という文言が戦力不保持の規定を限定していると解するならば、同様に2項後段の交戦権の否認の規定も限定していると解する方が合理的である(同旨、小林(宏))。すなわち、9条2項後段は、侵略戦争のための交戦権は否認するが、自衛のための交戦権は否認していないと解すべきである。なぜなら、自衛戦力の保持を認めたのは侵略軍に対し反撃することを前提としているから、自衛行動に関する限り、国際法上交戦国の有する諸権利を有するとしなければ筋がとおらないからである。

7.   集団的自衛権について

この問題については、憲法変遷説の射程範囲外の問題(橋本の想定外の問題)となるので、どのように考えるべきか、非常に悩ましい。すなわち、憲法9条には憲法変遷現象が生じており、もともとは許される憲法解釈の枠の外にあった自衛隊は、変遷が生じたことによって枠の中に入るようになったために、政府の憲法解釈は正当化しうるようになった、という主張が憲法変遷説であり、このような主張によれば、もともと違憲であった自衛隊は、客観的状況の変化に基づいて合憲化したことになる(山元一著「グローバル化時代の日本国憲法」235頁)。しかし、憲法変遷説には、「政府の解釈が暴走することのないようにこれに歯止めをかける」というねらいがあり、2014年7月1日の安倍内閣の閣議決定が従来の憲法解釈を変更したことを容認できるのかが問題となる。

国連憲章51条で加盟国に認められている集団的自衛権とは、自国に対する武力攻撃は存在していないが、密接に関係のある他国に対する武力攻撃が行われた時に、その国の要請に基づいてそれに対する武力の行使を認める権利である。このような内容の権利の行使は、憲法上許されないとする政府見解が1972年以来40年以上踏襲されてきた。ところが、2014年7月安倍内閣は、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由として、集団的自衛権の一部を認めるための憲法解釈の変更を閣議決定し、新たな憲法解釈を提示した。

それによれば、従来の憲法解釈により個別的自衛権が認められてきたケースに加えて、「①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合(「存立危機事態」と呼ばれる)において、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、③必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容される」とした。政府は、このような憲法解釈に基づいて、「平和安全整備法」を成立させた(2015年9月)。

このプロセスにおいて、①従来確立されていた人事ルールとは異なり、安倍内閣が、憲法解釈変更の準備として、アウトサイダーである外務官僚を政府の憲法解釈を取り仕切る内閣法制局の最高責任者たる長官に任命したこと、②国会での議論を通じて形成され、長年にわたって支配していた集団的自衛権行使違憲論を閣議決定という手法で変更したこと、③「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」や「存立危機事態」に当てはまるとされた実際的状況についての政府の説明に必ずしも説得力がないこと等が激しい批判の対象となり、野党を中心に「平和安全整備法」は「戦争法」にほかならない、と指弾された。そのような主張に共感する数多くの市民たちによって、国会が取り巻かれたことは、なお記憶に新しい。そして、憲法の観点からは、とりわけ②について、「立憲主義の崩壊をもたらした」、「このような憲法解釈の変更は『クーデター』にほかならない」、などの強い非難を招いた。

この点に関しては、大石眞著「憲法講義Ⅰ(第2版)」が参考になるのではないだろうか。

集団的自衛権は、日本も加盟している国際連合憲章第51条において、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」として明記されており、日本国の独立を認めたサンフランシスコ平和条約の第5条(c)も、「日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること」を確認している。したがって、日本国としても、こうした集団的自衛権を認め、これを有するという前提に立たざるを得ないことになろう。

日本政府は、日本国が国際連合に加盟した時点で、集団的自衛権について明確な観念をもっていたとは言えないようである。しかし、後には、主権国家である以上、当然に集団的自衛権を有するものと解した上で、ただ、その行使は、憲法で許容された自衛権の行使の範囲を超えるもので認められないという立場を示している(昭和56年5月29日内閣答弁書、平成11年5月21日参議院防衛指針特別委員会における内閣法制局長官の答弁)。したがって、集団的自衛権の行使は実際上認められないことになるが、学説上も否定的に解するのが通説的な立場ではないかと思われる(大石前掲書の出版は2009年3月30日である)。

しかしながら、そのような集団的自衛権の行使が認められないとする根拠は、必ずしも明らかではない。というのも、そもそも、自衛権の範囲を超えることを根拠とする議論に対しては、結局のところ、個別的自衛権に関する考え方を集団的自衛権の中に持ち込んでいるにすぎないのではないかという疑問を消し去ることができないからである(大石「日本国憲法と集団的自衛権」ジュリスト1343号参照)。

同論考において、大石眞教授は次のように述べられる。私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない。ただ、念のために付言すれば、その意味は、明らかに違憲と断定する根拠は見出しがたいというものである。憲法上認められるからといって集団的自衛権の行使を推奨するものでないのはもちろん、そこには集団的自衛権自体の行使の要件、武力行使に伴う文民統制、対外関係その他を考慮して行われるべき政治的な総合判断と国会両議院の成熟した議論こそが重要である、と言いたいのである。

そして、明らかに違憲と断定する根拠は見出しがたいのはなぜか、について、次のように述べておられる。

日本国憲法で想定されていた自衛権、そして憲法制定時又はサンフランシスコ平和条約締結時に観念されていた自衛権が個別的自衛権であることは、改めて言うまでもない。

これに対し、国連憲章の採択が日本国憲法の制定に先立っていたとはいえ、日本が国連憲章を国内法化して国際連合に加盟するのは、1956年の日ソ共同宣言の直後のことであって(昭和31年12月19日)、国連憲章51条に謳われている「集団的自衛の固有の権利」の意義・内容又はそれと憲法との関係について、憲法制定に関与した政府関係者又は憲法起草者が明確な認識を共有していたとは考えにくいだろう。

そうだとすると、軍国主義を経験した日本国憲法は、第9条によって個別的自衛権の在り方については明確な態度決定を示したと考えることができるが、集団的自衛権の問題については一定の態度決定を示したものとはいえない、と考える余地があろう。

このような場合、いわば憲法の沈黙に伴う観念包摂の問題がつきまとう。つまり、このように憲法制定後に登場してきた事象や活動について、憲法典が直接それを規律する明文規定を設けていないのは言うまでもないが、その意味については、(a)そうした事象や活動をも包摂すべき規範-それに対する態度決定を含むもの-として理解するか、それとも、(b)当初予想されていなかった事象や活動である以上、憲法は未決定の事項-その意味で憲法上の命令にも憲法上の禁止にも当たらない-として理解するかは、実は、憲法解釈あり方にも関わる基本的問題に属する。そうした考え方から、私自身は、PKO協力法について「明らかに憲法に反するとはいえないという意味において、合憲とみるべき」ことを説いている(前掲・大石眞著「憲法講義Ⅰ」(第2版)71頁)。誤解のないように付言しておくと、私は、ここで違憲か合憲かの問題を述べているのであって、政策的に妥当かどうかを判断しようとしているのではない。

 

【参考文献】

①    芦部信喜著「憲法(第七版)」岩波書店刊

②    野中俊彦他著「憲法Ⅰ(第5版)」有斐閣刊

③    橋本公亘著「日本国憲法」有斐閣刊

④    佐藤功著「日本国憲法概説(全訂第五版)」学陽書房刊

⑤    山本一著「グローバル化時代の日本国憲法」放送大学教育振興会

⑥    大石眞著「憲法講義Ⅰ(第2版)」有斐閣刊、ジュリストNo.1343「日本国憲法と集団的自衛権」大石眞執筆