法然は、「往生要集」を著した源信の孫弟子にあたる叡空の弟子であり、その学問の出発点は明らかに源信の浄土念仏の教えにあった。源信も末代凡夫の往生の方法として念仏を勧めるが、その念仏は主として極楽浄土とその主である阿弥陀仏を思い浮かべること、すなわち観想の念仏であった。(注1と2)この極楽浄土および阿弥陀仏を観想する方法を説くのは『観無量寿経』であるが、このような『観無量寿経』中心の浄土教が平安時代の浄土教であったといってよい。


しかし法然は、そのような観想の行はとても凡夫にできることではないと思っていたが、ある日、善導(中国浄土教の高僧)の『観経疏』を読んで、善導が観想の念仏ではなく、口称(くしょう)の念仏を往生の行としていることを発見し、これなら凡夫でも往生することができると確信したという。それから法然は、「偏〔ひとえ〕に善導に依〔よ〕る(偏依善導❲へんいぜんどう❳)」という思想的立場をとった。念仏を観想の念仏と考えるか、口称の念仏と考えるか−そのちがいが、彼の師、叡空と法然との思想のちがいであり、それがまた法然が叡山を去り、新しく浄土宗という仏教の宗派を立てる原因になったのである(注3)。


注1

親鸞が僧になった少年時代は、鴨長明の「方丈記」に描かれた天災地変、飢饉が引き続き起こった時代であり、また「平家物語」に描かれた源平の戦乱の時代であった。

少年の日に親鸞が見たものは、無数の人たちが天災地変や飢饉で死に、また人間が人間を無法に殺す風景であったことは、親鸞の精神形成を考えるうえで無視することができないであろう。

注2

末法:行も証もなく、ただ仏陀の教えのみが説かれる乱れた時代であり、これが1万年つづくとされる。日本では1052年が末法に入る初年とされ、この末世観が浄土教の発達をうながした。

注3

法然は、口称念仏をすれば、いかなる凡夫、いかなる悪人、いかなる女人でも阿弥陀の慈悲によって極楽往生することが可能であるとした。法然においても、この悪人往生ということがその思想の中心であるが、彼自身は固く戒を守る聖僧であった。

【梅原猛著「親鸞の告白」小学館文庫十五頁から十六頁より】


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