【メルロ=ポンティの「世界内存在」という概念(栗本慎一郎著『意味と生命』青土社刊128頁以下)】 
 我々が身体的に参加するところのものはすべて我々自身であるのであって、それらの具体的な行為や思惟や感情のほかに我々自身があるわけではない。また、世界も我々によるそのような参加、認知、働きかけ、あるいは自己投入(マイケル・ポランニー的に言えば潜入)以外によって存在するわけではない。(中略)ただし、ここにおける世界とはメルロ=ポンティが明らかにした世界内存在たる身体によって実現される世界である。従って勿論のことながら、世界という外的実体に身体が投入・融和されていくものではない。 

 ここでいわれているのは、たとえば、膨張する宇宙の外には光が届かないので、それを観測することができないため、その観測対象は「無」であるとされるのと同じような事態である。すなわち、観測者が我々自身であり、観測対象がいわば外的実体であり、両者は観測という点で相対的にその関係性を語りうるだけであり、独立に外的実体が存在するわけではないことになる。それゆえ、ある個人が意識していないことは、その個人にとって、それを独立な外的実体として存在しているとはいえず、それを「無」であるといって差し支えないことになる。 

 たとえば、不倫は悪だという考えがあるけれども、それは正しいのだろうか。 

 快・不快原則、侵害原理からすれば、不倫を悪いことだと断ずることはできない、と私は思う。一方では、不倫が自然の流れの中で、楽しいものであるならば、それは「快」であり、満足であり、幸福だといって差し支えない。その限りでは、善であるとさえいえよう。他方では、「侵害原理を迷惑をかけてはいけないことだ」と考え、不倫は配偶者や恋人などに迷惑をかけているという考えもありえようが、不倫を相手方に意識させないようにすれば、「意識されていないものは存在しない」ものなので、なんら問題ないと考えられる。むしろ不倫していることによって、配偶者や恋人に不満などがあっても、そのイライラやフラストレーションを爆発させずに済むのであれば、むしろ不倫の恩恵に与っているともいえるのではないか、そう私は思う。

 

 なお、この考え方は量子力学に基づいくものではない、ことを付言しておきます。量子力学は、粒子でもあり、波動でもあるという不思議な性質を持つ「光」を観測するために考えられたものである、というところまでで、私の理解は止まっており、いまだ理解の外にある理論だからです。